赤くヒカル夜光虫

ろくろくろく

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「頼むから俺に付き合ってくれ」

………何を言っても雪斗を崩すのは無理っぽい、この際ストレートなお願い作戦が一番いいだろうとわざわざ雪斗が起き出す頃……4時半に目覚ましをセットしていた

「昨日行かないって言った、遊びに使える金はない」

取りつく島もない……
これを言ったら怒るのもわかっていたがどうしようもなかった


「俺が……出すから」

本番が残っているとは言え、数週間掛けて準備してきたプレゼンの打ち上げ的な気持ちもあった

何より外で雪斗が笑うところが見たい



「自分の分は払うからいい」

ハッと顔をあげると、やれやれと聞こえてきそうな顔でパソコンを鞄にしまいチャックを閉めた

「いいのか?一緒に来てくれる?やった!」

「……どこに行くんだ?」

「どこにしよう……行きたい所とかやってみたい事あるか?電車でも飛行機でも車でもいいぞ、温泉?プール?遊園地?夜景?グルメもいいな」

「決めてないなら行かない」


また鞄を開けようとするので慌てて止めた

「海!……海を見に行こう」

多分殆どの人が喜ぶチョイス………の筈だった


「海は砂がジャリジャリするから嫌い」

そうきたか…………ならば

「ジャリジャリしない海ならいいか?」

「何それ」


騙されてるんじゃないかと疑うような目をしている雪斗を部屋に待たせて、会社の地下に置いてある父親、つまり社長の車を取りに行った

ビルのテナントには各階一台分だけ駐車場が割り当てられ、ほぼ乗らない車が其処で埃を被っている

質実剛健、偏向な社長は贅沢だと嫌がり通勤は勿論、外出の際も車を使おうとしない、バッテリーが上がってしまわないよう社員全員に機会があったら勝手に乗れと言い渡されていた

それなら処分してしまえばいいものを事情があると歯切れが悪く、乗らないまま放置している

だからと言って社長の車を借りるなんて誰もしないがそこは息子だから借り易くもあった




駐車禁止はわかっているが車種は黒塗りのレクサスだから多少の猶予はある筈、ハザードランプを灯し、急いで雪斗を迎えに行った

こんな時は携帯電話を持ってくれとお願いしたい


「雪斗早く乗れ、あんまり停めておけないからすぐ出るぞ」

外出に慣れていないのか、嫌なのかノロノロ動く雪斗の背中を押すと後部座席のドアを開けて乗ろうとした

「雪斗……前に乗れよ」

「え?前?」

「二人なんだから普通助手席に乗るだろう」

「俺に普通がわかるかよ」

「何でもいいから早く乗れよ」


ブスッとした雪斗を乗せて高速を南に向かった、手入れはされてないがレクサスは滑るように走る


雪斗は助手席ですぐにうとうとしだした

置いて来ればいいのに雪斗は絶対に大きな荷物を離そうとしない、シートベルト締めた体の上に鞄を乗せて抱きつくように抱えて頭を揺らしている

助手席で眠られるのを嫌う人もいるがむしろ嬉しい、信頼されていると思えるのだ

分厚いバリヤを張ってピリピリしていた雪斗が横で眠っているとそれだけで楽しくて二時間ちょっとの道のりが短く感じた



高速を出てから暫く市街地を走ると海が見えてきた、白波が見えないので海は凪いでいる

朝早く出たのでまだ昼前だった


「雪斗……海が見えるぞ…」

声をかけると雪斗は薄目をあけてもそっと体を起こして外を見回した


「ジャリジャリしそうな普通の海に見えるけど……」

「ジャリジャリしないって……そこは保証する」




「ダイビング?」

車を停めて海岸線に面した二階建てのログハウスに着くと目の前の看板を見上げて雪斗が目を丸くした


「うん、体験だけどな」

「こう……ブクブク水に潜るやつ?」

レギュレーターを口に咥えるポーズを取って泳ぐ形で空気を漕いだ

潜る時の泳ぎ方とはちょっと違うがやっぱり連れ出して正解、妙にかわいい

「そう、ジャリジャリしないし道具は借りられるし意外にお手軽なんだよ」


「冗談じゃない」

「うわ!フェイント……待て待て待て」

くるっと回れ右して車に戻ろうとする雪斗の首に手を回し、ズルズル引っ張ってダイビングショップに引きずり込んだ

絶対に気に入るだろうし、こんな経験はしてこなかった雪斗に海の中を見せてやりたかった



「いらっしゃい」

カウンターで書き物をしていたショップのスタッフが顔をあげて明るい声で出迎えてくれた

「体験ですか?それともライセンス研修の申し込み?」


店長の木嶋ですと言いながらにっこり笑って立ち上がったスタッフの男をジタバタしていた雪斗と二人で見上げた

つまり身長180後半か下手したら190ある

長い髪を後で全部まとめ、入りきらない前髪が計算されたようにキリッと真っ直ぐに伸びた眉に掛かっている、日焼けした顔が男から見てもビックリするくらい格好いい

胸にインストラクターと書かれたバッジをつけていた


「今から体験行けますか?」

「佐鳥!俺はやだって!」

逃げようと抵抗する雪斗の体を押さえ目で助けを求めると、木嶋がひょいと顔を下げて雪斗の顔を覗きこんだ


「怖い?」

絶妙のひと言………あの雪斗をぐっと黙らせた


雪斗が潜るのを怖がっているなんて考えもつかなかった

ただ金持ちの道楽に見える遊びを嫌がっているだけだ、そう思い込んでいた

……よく考えると雪斗が海やプールで遊んだりしている訳がない、泳いだのは学校が最後で、しかも中学の頭で終わってる


「怖い訳じゃない」

「おじさんがちゃんと守るから大丈夫だよ」


ピキッと雪斗から何かが割れる音がした

木嶋はまだおじさんって歳じゃない、若く見えていたとしても絶対10歳も違わない、完全に雪斗の年齢を読み間違えている

ギロっと木嶋を睨みつけポケットから引き摺り出した一万円札をバンッとカウンターに叩きつけた


「ははっ負けず嫌いなんだな」

よしよしと頭に手を置かれて……雪斗がますますムッツリしてしまった

せっかく遊びにきたのに………ここは手続きをしながらマンタがどうの鮫がどうのと海中の魅力を語り期待を膨らませる所、想像の成り行きと随分違う


「じゃあ保険の書類を書いて下さい、ハンコは要らないからサインしといて、二人とも心臓や呼吸器に疾患はないね?」

「あ…………」

思わず声をあげてしまった

もし水中でパニックを起こし過呼吸になったら体験用の浅い海でも命に関わる

「何かあるの?」

木嶋は書類を取り出すためカウンターの向こうでしゃがんでいたが体を延び上がらせるだけで顔がカウンターからひょっこり覗く

「ないよ」

ガンっと向こう脛を蹴飛ばされて、余計な事を言うなと視線で牽制した



体験ダイビングは流れの緩い水深5メートルから10メートルまでの浅いポイントで行われる事が多い

BCに空気を入れると勝手に浮く上、急浮上しても数メートルなら窒素中毒になる心配は無い、インストラクターと二人で目を離さなければ大丈夫かもしれないが……このまま黙っていていいものか迷った


「はい、ボールペンはカウンターにあるからね、ちょっとスタートが遅いし30分後には出たいから急いで書いて」

チラッと視線を寄越した木嶋は何か気づいたのかもしれないが素知らぬ顔で申込用紙を差し出した



書類を見てハタと大事な事を思い出した、住所?電話番号?……雪斗にない項目ばかりじゃないか……

自分の部屋の住所を書かせようかと雪斗の手元を見るともう書き終わりちゃんと項目が埋まってる

「それどこだよ」
「……適当」
「ホントに?」
「一応実在する場所」
「電話は?」
「多分かけたら誰か出るよ、俺とは無関係だけど……」

こそこそ話ながら雪斗がいたずらっぽく笑った
書類を覗くと誕生日は12月26日と書いてあった……これは本当だろう……

頭の中に日付をメモした



「……音羽君?……これ間違えてない?」

書き終えた書類をチェックした木嶋は困惑していた

年齢 満25歳

やっぱりそこに来た……とても25に見えないが15もおかしい……25よりはしっくり来るが意外と綺麗な字で書かれた数字はどう見ても2と5


……せっかく雪斗の機嫌が直ってきたのに余計な事を言う、木嶋は勘のいい奴だと思ったが雪斗が怒ったと気付いてないのか、わざとふざけているのか、誰が保険の書類で嘘をつく(一部除外)

雪斗がぶちギレないかヒヤヒヤしたが心配をよそに、よく見かける企みがあるような笑顔でニヤリと笑った

「歳が何か関係あるのかよ」

「保険の値段が違うんだけど」

「ああそっか……悪いけど25は本当」

「マジ?若く見える以下だな……」

おおらかに白い歯を見せて笑う木嶋に、雪斗は笑いながら次にそれ言ったらブッコロスとふざけて返した



「さて、ウェットスーツに着替えて貰うけどコンタクトは駄目だよ、目が悪いなら度の入ったマスクもあるから言ってね」

「視力には自信があります」

「そんな事聞いてない、佐鳥くんは何?天然?」

「天然じゃないです」

………何だろうこの大雑把な明るさの中に潜むズケズケ感、会って間もないのにプチっと生まれた小さな敵意は多分言いがかりなんだと思うけど……正体はわからなかった



体験ダイビングのコースにはウェットスーツは勿論、エアを入れて浮力を調節するBCと呼ばれるベスト、空気を口に運ぶレギュレーター、オクトパスにゲージ、フィンやマスクなどが全て料金に含まれている

パッと見でサイズの合いそうなウェットスーツを選び雪斗を更衣室に押込んだ木嶋が振り返ると、ずっと満面だった笑顔を消していた


「何かあるの?あの子」

「え?」

「いくら浅瀬でも息を吸う場所間違えると危ないでしょ、海の中ではレギュレーター分しか世界がないんだからさ」

一瞬のやり取りで木嶋に全部読まれてしまっていた

しかしこれは言っておいた方がいい、ダイビングは自然を相手にする遊びだ、雪斗は勿論他人を巻き込む可能性だってある、無理だと言われればそれは仕方がない

「呼吸疾患と言うか、過呼吸を起こした事があって……」

「どんな状況?」

「事故現場を見て……だと思います」

それとセックス中……それは言えないが……


「うーん……そっかー、怖いな」

「駄目なら諦めますけど」
「いや……海の中を見せてあげようよ、俺が絶対に守るから任せてくれる?」

「俺はOW(オープンウォーター)ですが一応ライセンスを持っているんです、今日はライセンスカードもログも持ってきてないからファンダイブでいいですが、俺は大丈夫なんで木嶋さんは雪斗の方をお願いします」

「そうなんだ、じゃあ一緒に補助お願いね」

「はい」

元よりそのつもりだがあまりの木嶋のカッコよさにさっき生まれたミクロの敵意がムクっと成長した



「なあ!何喋ってんの?これ小さい!!」

更衣室から上がった雪斗の悲鳴に近い叫び声に木嶋と顔を見合わせた、ウェットスーツの着用困難は初心者にあるあるのクエストだった

特に夏場は汗のせいで足一本入れるだけでも難儀する

「ウェットスーツはそういうもんなの!根性入れて着ろ!」

「無理!!」

「俺が手伝ってきます」

木嶋からレンタルのウェットスーツを借りて更衣室に入ると太腿で止まったタイトなスーツをどうする事もできずにジタバタしている雪斗に笑えた


雪斗は黒いラインが入ったピンクの長袖スーツで佐鳥は黄色一色のノースリーブだった

「俺もそっちがいい」

「駄目、初心者は体が安定しないから怪我する事があるんだよ、だからなるべく長袖、ね?」

初心者ではなくとも岩や珊瑚に接触するとすぐに切れる、岩に張り付いてパッと見ではわからない海の生物には命に関わる毒を持つものもいる為なるべく肌が出ないようにする方がいい

「じゃあなんでピンクなんだよ」


「……似合うから」

「は?」

「嘘だよ、音羽君のサイズはそれしかないから、反対に佐鳥くんも長袖着て欲しいけどノースリーブしかサイズがなかったんだ」

そう言われればレンタルにノースリーブは珍しい、ハッと気付いてよく見ると胸に小さくKIJIMAと書いてある

意味もなく脱ぎたくなった


「すぐ出るよ、用意出来たね、ポイントまで船でちょっと走るけどいい?」

「え?いいですけど……」

体験ダイビングの料金にボート代は含まれていない、目の前にある海岸線から入水して岩礁の周りを回るだけだと思っていた


もし追加料金があるなら雪斗の前で言わないで欲しい

「スペシャルなポイントに連れて行ってあげるよ、俺が行きたいからボート代はサービスな」

木嶋にはSっ気でもあるのか、ダイビングを楽しむウキウキ感とは程遠い表情を浮かべた二人を、満足そうに眺めてやたらと様になるカッコいいウインクをした


125ccのエンジンを積んだ小さなボートは三人を乗せてゆっくり進んだ、エアタンク3本に大人の男3人、しかも木嶋と佐鳥を合わせると女子3人くらいの質量になる

もっと慎重に重量の配分をしてバランスを考えた方がいいのに雑に積まれた荷物のせいで傾いている、やはり雪斗は水が怖いのかボートのヘリを固く握って手を離さなかった

スクリューが立てる白波は途絶えることなく青い水面に筋を引いていく、潮を含んだ気持ちのいい風が頬をなぶり、雪斗の猫っ毛を巻き上げる

ポイントまではあっという間だったが舳先にくくりつけられたアナログ時計を見ると30分も経っていた

スピードを落としたボートはミニチュアのような小さな入り江に入り、下を覗くと海底が見えるのに深度が分からない程透明だった

ボートからでも魚影が見えて流れは全く無い、わざわざ遠くから来る価値のある思わぬ穴場だった


「良いところですね」

「ここは今の時期スペシャルだよ、普通体験では見れないものが見れる……今の所うちしか来てないしね」

黒いウェットスーツの袖を腰に括り付け上半身裸だった木嶋はショップが勝手に打ち込んだ鉄の杭にボートを繋いで海に入った

その場所はちょうどいい棚が張り出し木嶋が立てば腰くらいまでの深さになっている

「ダイビングシューズを履いてもらってるけど君達はここに足を着いちゃ駄目だよ、佐鳥くんは分かってると思うけど雪斗くんは立てない深さだと思ってね」

ザバっと水を入れ一気にウェットスーツを引き上げた木嶋が注意をすると、深さを確かめるように恐々と海底を見下ろした雪斗はボートに乗ってからひと言も口をきかない

いつもの上から目線は成りを潜め、怯える様子が面白くてからかいたくなったが、こんな所で拗ねたり虚勢を張られても困るし楽しんで欲しい



「まず雪斗君を降ろすから佐鳥君はボートの反対側でバランス取ってくれる?」

「はい」

「え?もう行くの?」

「行くよー、マスク付けてレギュレーターで息をしてね、棚に足を置かいよう深い所に降りて俺に捕まって、心配しないでも沈めたりしないから」

ボートの端でぐうっと後ろに体重を掛けると子供を抱き取るように雪斗の脇に腕を回してそっと海の中に降ろした

ダイビングの装備は重い、いかにも速攻で水中に引きずり込まれそうだがエアで満タンのBCはプカリと身体を浮かせ、浮遊感に雪斗がびっくりした顔をした


「うわ……辛い、塩入れ過ぎ」

「海はどれぐらい振り?怖くない?」

「怖くない………わ………おい……離すなよ?」

「離さないよ、俺はここから絶対にふざけたりしない、もし俺が手を離したらそれはマジでヤバい時だから自分で何とかしてくれ」

「既にフザけてるだろ」


確かにふざけてる……………何だ……そのデート中のような甘い会話………

仕方が無いと言えばそうだがプカプカと海に浮かび抱き合う二人の顔が近くて雪斗のフィンを木嶋に押し付けた



   
木嶋は慎重に雪斗を観察しながら呼吸するコツを掴んだと踏んで「行くぞ」と親指を下に向けた、もうレギュレーターで息をしているから話は全てジェスチャーになる

波のない穏やかな海は太陽に照らされ温かい

口の横から溢れるエアの泡がゴボリと耳を撫で水中に沈むと音が変わる、雪斗の手を引いてゆっくり透明な別世界に引き込んで行った

まだ太陽光が届く浅い深度の海は明るくゆらっと大きく畝る温かい水に、冷たい階層が混ざりきらず時折りヒヤッと体を撫でる

最近は日本の近海でも熱帯魚が見られる
黄色やピンク、鮮やかな配色の魚影が岩礁の周りに群生していた



突っ立つように浮かぶ雪斗は運動センスがいいのだろう中間浮力を上手にとって入江の外に続く深い碧を見つめていた


木嶋がガッチリ雪斗の手を繋いでいる


目論んだ配役を木嶋に掠め取られてしまった


雪斗は岩礁やチマッと生えた珊瑚、クルクル走り回る魚にはあまり興味を示さず、ただフワッと浮いていた


水深計は9メートル、体験にしては深い

水深5メートルを越えると先ずは赤、次に黄の色を消し太陽光が届かない深度になるとブルーだけのモノトーンになる

青に溶けた雪斗のウエットスーツは無重力を漂い、レギュレーターから吐き出される泡が空に昇って消えていくのをずっと眺めていた



入り江の中をグルっと回ったツアーの間雪斗は木嶋に手を引かれ荷物のようにヒラヒラしていたが一度だけ……入り江の外に吸い寄せられる様に足を動かし木嶋に止められた

海の中にいたのは一時間弱

木嶋がくいっと親指を立て浮上の合図をした


雪斗のフィンを水中で外して先に上がり、木嶋から雪斗の装備をボートの上で受け取った

次は本体、雪斗は本当に泳げないらしい

グラつくボートには自分で上がれず腕を掴んで引っ張り上げた

「うわ……ダルい、腕が重くて上がらない」

「重力ってすごいだろ?」

「うん、水の中の方がいい」

崩れるように体を落とした雪斗が座り直す前に木嶋が体を持ち上げたせいでボードはグラリと大きく揺れた


「わあっ」

平行をなくした雪斗の体は丁度いい位置にいた木嶋の胸にコロンと転がりこんでしまった

「まだ腰にウェイトつけてるんだから落ちるなよ」

「沈むかな」

「ウェットスーツの浮力があるからそんな引きずりこまれる程じゃないけどな、水を怖いと思って欲しくないから気を付けて」


「あの……………」


……………話をする前に離せよ……


ダイビングショップに来て間もないうちに生まれた敵対心の正体が今はっきりした

他に誰とも接点が無く知らなかったが、雪斗が愛想よく笑うと別人格になる

出合った頃の雪斗は警戒心に身を固め返事一つ引き出すにも苦労した

どうしてかはわからないし、わかりたくないが木嶋に対しては最初から怒ったり笑ったり感情を見せ、つまらない嫉妬心で片付けるには違和感があった


雪斗の上気した頬はピンクに染まり透明な唇の赤が浮き立っている、気怠そうに笑う姿はまるで………

抱いた後のよう


木嶋が話しかけるだけでもムカムカした



「雪斗どうだった?面白かっただろ?」

さりげなく…いや…どっちかと言うとあからさまに雪斗の腕を引っ張って木嶋から引き離した


「うん……何かあっちの世界に続いているみたいだった」

「あっちの世界?」

普段からよく聞くファンダイブの感想と随分違う風変わりな雪斗の言葉に木嶋が怪訝な顔をした

雪斗は何も答えずただ笑った


「………何だよもっと普通に感激しろよ、目をキラキラさせて結婚してください!とか言うもんなんだよ」

「なんだよ……それ……」

「ダイビング終わりが一番モテる」


タンクとBCを切り離しながらグラグラ舟を揺する木嶋は間違いなく一年中モテる



ほんの少しだけ傾いた太陽はまだ高い所にいるが黄色味を増して来ている

もう帰らないと波が高くなってくる

男が3人もいるのに木嶋一人にやってもらうのは居心地が悪くて、申し出た手伝いは断られた

一人で片付けをするデカイ体は小さなボートをグラグラの揺らし、木嶋が重量のあるタンクを二本いっぺんに持ち上げたせいで大きくバランスを崩した船体に、わっと雪斗がしがみついた


「揺らすなよ!落ちるだろ」

「今なら落ちても大丈夫、ちゃんと守ってやる」

「は?守るって何だよ、女じゃあるまいし……」

タンク、BC、小物を分けて並べながら雪斗の顔をマジマジと見つめた木嶋は感心したように笑った

「雪斗君は顔つるっつるだな十代の女子みた……」

言い終わらないうちに雪斗が座ったままの格好で足を振り上げ、木嶋の膝裏を思いっきり蹴った


「うわ!!」

小さいボートに立っていた重心の高い木嶋はバランスを崩して立て直せずに頭から海にドボンと落ちた 

そんな事までかっこいいのはボートを守って自分で飛び込んだから……無邪気に笑い声を立てる雪斗は気付いてない


「お前なあ!やっていい場所と悪い場所があってここは駄目なやつ!!」

「ブッコロスって宣言してあったろ」

「説教する、待ってろ」

ザバッと大量の海水と一緒に乗り上がってきた木嶋が勢いよく足を下ろすとバタバタと真っ赤な血が飛び散った



「あれ?俺どっか怪我した?」

「足でしょう、岩礁で切れたんじゃないですか?」

白いボートの底は海水に滲んで鮮やかな赤いシミが点々と広がっていく

結構な出血量があり、傷口を探して木嶋の足を持ち上げると踵がパックり割れてドクドクと新しい赤を生み出していた

「大丈夫ですか?」

「たいしたことないよ海で切ると血が出てオーバーに見えるだけだ、岩礁に足を置くな………言った通りだろ?」

「シューズを脱ぐな、が抜けてます」

綺麗なのかどうかわからないがむしろ汚くていい、放り出されていたタオルで傷口を抑えた

「おい!反省しろよ」

木嶋がタオルで足を縛りながら怒鳴ると雪斗は弱々しくははっと笑った

「雪斗?………」

もう2回も見ていた
雪斗の様子がおかしい

木嶋には悟られないように背中に手を置くと雪斗の早い心音は発作を起こしかけている事を伝えてる


「舟を出すぞ、捕まってろよ」

「はい………」

ツーサイクルエンジンが立てる軽い回転音が高くなるとぐんと体を引かれ、強い風が吹き付けて来た

波の山を渡るように進むボートはあっと言う間に入り江から遠ざかり、跳ねる水飛沫がピシピシ体に当たる

蒸れたウエットスーツを風が冷やし体で息をしていた雪斗の呼吸はゆっくり元に戻っていった



ゲストハウスに帰りつくと他のダイビング客やインストラクターで満員になっていた

潜るポイントが同じてもチームに別れてコースを回る為に見るものも違う、知らない者同士でもその日の成果で盛り上がったり出来る所がダイビングの良い所でもある


「店長お帰りなさい」

片足を引きずりながらもBCとレギュレーターを3人分肩に担いだ木嶋がドアを開けるとチリチリの髪を頭の天辺で一つに括った女が腰を上げた

「もう始まってるのか」

「始まってます、魚マサさんから届いてますよ!」

マキ!と大きく書かれたTシャツを着たスタッフらしき女は大きな発泡スチロールの箱を持ち上げた

多分名前がマキ……違ったら何の撹乱かと笑える


「マキ、佐鳥君と雪斗君だ、頼んだぞ」

「わお!イケメン!みんなーイケメンが来たよ」

三十代くらいの女子三人に、品のいい初老の夫婦、立って給仕をしていた若い男が歓声を上げた

時間はまだ3時を回った所なのにもう酔っ払っている

「二人共かわいいわね……座って座って」

「いや、あの俺達は……」

雪斗が調子を崩した事と何でもいいから木嶋と離れたい事、無視できない理由で早くここを出たかったが、雪斗は複数の女に弱いのか成すがままに連れ去られ人質に取られてしまった

「イケメンは私の隣!」

「え?あの……」

「マキ!悪いけど佐鳥くんはこっち、ちょっと手伝って」

マキに背中を押されて宴会に引きずり込まれる所だったが発泡スチロールの箱を持った木嶋がチョイチョイ手招きした

「俺達はもう帰りたいんですけど」

「もうちょっと居なよ、これがうちのメインイベントだからさ、書いてないけど料金にぶっこんでるから食べなきゃ損だよ」

「手伝いも料金にぶっこまれてんるですか?」

勿論とウインクした木嶋は憎らしいほどカッコいい



箱の中身は氷に埋もれた豪華な鮮魚や貝だった、海老やイカはまだモゾモゾと透明な体を揺らしている

「うちは漁師と契約してるから旨いぞ、ダイビング終わりにみんなで酒盛りするのが恒例なんだ」

「すごいですね……でもそれ捌くんですか?」

「ああ、俺の特技だ」

木嶋は職人のように平たい砥石で包丁を研ぎ、まだ動いてる透明なイカの腹を割いた


「血かな?」

木嶋が手を止めないでぼそっと口を開いた

「え?」

「雪斗君の過呼吸」

木嶋は気付いてないと思っていた
態度は普通だったし救護するような気遣いも見せなかった

「血じゃなくて……」



多分………飛び散って滲んだ赤い色

オセロをした日にテレビでやっていたホラー映画のスプラッタにも眉一つ動かさなかった事がある

「頻繁に起こるの?」

「俺は2回見ました」

「ふうん……受診した方がいいと思うんだけどな」

「俺もそう思うんですけど」

雪斗が素直に承服するわけがないし健康保険に入っているとも思えない

「俺が話をしてもいい?」

「え?」

「俺は医師免許持ってんの」

「医者?」

「免許だけね、研修もしてないから今更医者は出来ないけどアドバイスくらいは出来る…かも」

「かもってなんですか」

「大学出ただけで患者診るなんて危なすぎるだろ」

話しをしている間に木嶋の手元で見事にいかそうめんが出来上がり大皿に綺麗に盛られた、次は鯵を三枚におろしている


「多分雪斗は何も言いませんよ」

「プライド高そうだね」


「……はあ………」


…………木嶋に持った敵意は嫉妬心より深い所にある根本は多分これ

観察力が鋭く勘がいい、難易度の高い雪斗との付き合い方すら秒で掴んでいた



鯵とイカ、鯛、後は何の魚か知らない、あっという間に豪華な船盛が出来上がり、コップや取り皿を棚から出して木嶋と分けて運んでいった


「佐鳥くん達は今日は泊まり?」

「いや……まだ決めてない……」

どこかに泊まりたいが雪斗が首を縦に振らないだろう、ただでも今日は余計な金を使ってるし出してやると言っても承知しない

「良かったらここの二階が空いてるよ……しかもただ」

「無料なんですか?」

「その代わりサービスは一切ない、布団はあるけど自分らで勝手にやってもらう」

「………雪斗に聞いてみます」

「じゃあ酒が飲めるな」

まだ泊まるとはいっていないのにコップを渡され日本酒をドボドホ注がれた

もう既にビールの空き缶がコロコロ床を転がり、さきイカを咥えて大盛り上がりになっていた

今日はマキが率いたチームが海中で大きなハンマーヘッドに出会ったらしい

「会えて嬉しいけど怖いのなんのって」

「うっかり猛獣の檻に入った気分になるね」

「そうそう!あの対等な感じね、負けるって……」


大きなテーブルに木嶋が舟盛りを置くとわぁっと歓声が湧いた

雪斗はいつの間にか熟年夫婦の間に小さくなって座り、飲み物をついでもらったり世話を焼かれている

オタオタもじもじ首を引っ込めている様子は借りてきた猫みたいでいつもの態度を思い出すと笑える


「何だよお前ら、俺はまた雪斗くんに無茶に酒を飲ませて食ったりしないか心配してたのに珍しいな」

「だってこの子の隣にいるとお肌の荒れが目立っちゃって嫌なんだもん」

三人組が2000番と150番だよと爆笑した

三人は女だてらに大工だと言う、今笑って言った番号は紙ヤスリの目の荒らさらしい

木嶋は奥の席にいる雪斗の隣に行って座り込んだ

今すぐ雪斗を連れて帰りたかったがもう既に酒を飲んでる、手に持ったコップは飲む側から継ぎ足され満タンから減ることがない

さっきまで縮こまっていたクセに雪斗が笑顔で答えているのが勘に触ったがマキに捕まって動けなかった


「これも食べてみなさいよ」

「え?」

雪斗に気を取られてマキの話を聞いていなかった
目の前に出された皿から酸っぱい何とも言えない香りがした

「匂いますね……なんですか?これ」

「島らっきょうよ」

知ってはいたが食べるのは初めてで怖々口に運ぶと何とも酒によくあう


「どうして島らっきょうがあるんですか?」

「あたしの実家が沖縄なの、木嶋についてこっちに来ちゃったけどね」

「木嶋さんも沖縄なんですか?」

「あいつは内地の真ん中出身、暫く沖縄に住み着いてただけよ」

「ご夫婦なんだ」

ははっとマキが笑った

「木嶋は女にも男にも……人間に興味ないのよ」

おおらかに見えるのは人にも物にも執着しないからと困ったような顔をした

褒めたくはないが木嶋はかっこいい、認めたくもないが懐が大きくて誰にとっても特別な魅力がある
ほろ苦いマキの想いが伝わってちょっと気の毒になった

「嫌な奴ですね」

「最悪の出会いよ………」


マキと木嶋の悪口で盛り上がってる間にはたと気付くと熟年夫婦はすでに帰ってしまい雪斗と………

しまった………

木嶋がいない

三人組の大工娘は酔いつぶれていた


「マキさん……俺ちょっと……」

「ねえ、佐鳥くんとあの子ってカップル?」


マキから見てどう考えても佐鳥と雪斗は人間の種類が違う、友達同士には見えない

「そうだといいんですけどね、どうやらまだ俺の片思い!」

「やっぱり?佐鳥君ゲイなの?」

「違う!」

きっぱり正反対の事を宣言して走り出ていく佐鳥を目で追い笑ってしまった


酔っているとはいえさっくり白状した佐鳥は素直で真っ直ぐで………

ずっと持て余している気持ちを、前にも後ろにも動かせないまま、離れる事も出来ない今を思うと羨ましくて眩しかった




シーズンになると毎年潜りに来てくれる熟年夫婦とはもう10年以上の付き合いがあった

午前中に一本潜り、日が落ちる頃までゆっくりして近くの温泉宿に泊まって帰る、この日も太陽が落ちると席を立った

駐車場まで荷物を運び、見送ってからログハウスに戻ると雪斗がいない、酒は飲んでないし25だと言っているのだから心配は無いが血を見てみるみる顔色を無くしていった過呼吸の前兆を見たせいで気になっていた

悪くなる前に早く帰ろうと、エンジンが焼き付く心配をしながらフルで回し、ボートのスピードを上げたが、それが良かったのか帰り着く頃には治まっていた


外に出て海岸線を見渡すと、低い月に照らされて打ち上げられた流木に一人で座る雪斗を見つけた



「ダイビングは面白かった?」

「ああ……まあな」

こっそり近付いたつもりだったが近くまで行くと、雪斗は気配を察したのか振り返って口元だけで笑った

「横に行ってもいい?」

「好きにしろよ」


無愛想な口調は邪魔だと言われているようだが座っていた流木の横を座り直して開けてくれた

海は凪いで滅多に無いくらい風もなく無風に近い、波打ち際ではプランクトンが放つ青い光がチラチラと灯り一瞬で消えていく



「あっちの世界って?」

雪斗が口にしたダイビングの感想は、濁した言葉よりも深い意味がありそうで気になっていた


「……………別に………どこまでも底がないように見えて別の世界があるように思っただけ」

「感性がアーティスティックだね」

「絵は全く描けないけどな」

雪斗が砂の上に丸を描いて目を2つ……どうやら猫らしいが確かに下手だった

「俺も絵は描けないけど未来もうまく描けないなぁ………何がしたいのかわからなくなってるんだよな」

「ショップの店長はモテていいんじゃないの?」

「そこは否定できない、女子のキラキラ心酔した目が堪らん」

「猛獣注意って料金表の下に書いとけよ」


「……うん……なあ…雪斗君は何か悩んでる?」

几帳面そうに指の先だけで砂を触っていた手がピクリと止まった、見返してくる不安を宿した瞳は月灯りを取り込み揺れていた



「通りすがりの俺に言ってみたくならない?俺の口は固いぞ、佐鳥くんにも言わないと約束出来る」

人に話をさせる時はまず自分の話をする
今の言葉は決め文句のはずだったが雪斗はふっと小さく笑って片口の端をあげた

「隣にいるデカい奴が早くいなくならないかなって悩んでる」


「だと思った」

「なら早くどっか行けよ」

「冷たいこと言うなよ……泣くぞ?」

「何で付き纏うんだよ……」


雪斗は片足を上げて流木に股がり足を開いた


「………俺に興味あんの?」

「は?………」


背中についた腕に凭れ、体を差し出すように胸を空けて………ほらっと誘うように笑った

まるで餌を投げ出し美人局を企んでいるようだった


「うーん……あるっちゃあるけどな」

25歳と言われても経験が告げる感覚は信じていなかった、熟れた表情は経験有り余る手練の女を思い起こさせ、驚いたが正直感心もした

ポーズと言葉は下半身を誘ってるように見えるがこれは意図を試されているだけだ


「雪斗!!」

ゲストハウスの方から佐鳥の声が聞こえて走る砂音が近付いて来た


「お開きだな」

「そうらしいな」

ピンっと張り詰めた糸が緩み、やれやれと身体を起こした雪斗は立ち上がって足についた砂を気持ち悪そうに払った




「雪斗!いないから探したよ」

そんなに走らなくても逃げているわけじゃないのに、汗を滴らせ走り寄ってきた佐鳥は勢いが止まらず急ブレーキに爪先からぶわっと砂を飛ばした

雪斗は払った足にまた砂を飛ばされてムッとしたが何も言わなかった

考えている事を背中に隠していても丸見えな佐鳥と、目の前に突き出しているくせに手の中を見せない雪斗

最初から思っていたが対象的な二人だった


「……俺は眠いからちょっと寝てくる」

雪斗は佐鳥のズボンをゴソゴソ探りポケットから鍵の付いてない車のキーを取り出した

「それならゲストハウスの上で寝ろよ、エアコンも付いてるし無料だから好きに使っていいぞ」


「俺は嫌、「ただ」程怖いもんはないんだよ」

ピシャッっとシャッターを閉じた雪斗はキーホルダーを指に通しクルクルと回しながら舗装してない駐車スペースに止まったレクサスに歩いて行った

高級車に乗って場末感のある台詞はうそ寒い


「おお…コワ………」 

手足が冷えたような気がして腕を体に巻き付けた


「何の話をしてたんですか?」

「佐鳥君はよくあんな奴と一緒にいられるな」

「どういう意味ですか?」

本当に正反対、ギロっと睨みをきかせた佐鳥は可愛らしい対抗心が丸出しで分かりやすい


「俺に関わるなって手酷く殴り倒されたって感じ?」

「え?怪我してませんか?」


思わず佐鳥の顔を見直した
なるほど…………雪斗がこの男と一緒にいるわけだ

「何ですか!」

「飲み直そう」

嫌がる佐鳥の襟首を掴みズルズル引きずってゲストハウスに連れ込んだ
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