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チューしちゃった。
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ダークな紺から浅いグレーのスーツ
役に立つとは思えないが伊達メガネ
………靴は?見えて無かったかもしれないが足跡とかあるかもしれない……スーツに合わないけどいつもの靴以外はこれしかない、仕方なく茶色のストレートティップを履いてきた
雪斗に習ってプチ変装してみたが、会社前の広場に来てみると警察官の姿は見えずいつもの出勤風景と何も変わない
「……よかった…騒ぎになってない…」
ベンチの側には地面に焦げ跡が残っているものの花火の残骸は綺麗に掃除され何も残っていなかった
それでも警官に姿を見られてる、雪斗の言うとおりもし犯人を探しているとなれば身長182ある細長い体が仇になる、なるべく「現場」は見ないように自然な感じで…………端っこを歩いてビルの玄関ホールに飛び込んだ
もし何か聞かれたら多分素直に謝ってしまう
どこかに潜んで見張られていないかロビーの中からこっそり外を伺った
朝一番、取引先の工場から搬送トラックが出てしまう前に届け物をしてから会社に寄った
タイミングが何よりも重要な外回りはひとつ狂うと行ったり来たり効率が悪くなる、一刻も早く外に出たくてうるさい事務を振り切り玄関ホールまで降りてきたが、目に入ってしまった光景が気になって気になって、今かかってきた電話の内容が頭に入ってこない
あいつは何をしている……
物陰から物陰へ斜めに移動して玄関ロビーに飛び込んできたと思ったら、今度はガラスに張り付き隠れるように外を伺っている
同期入社の佐鳥は仕事をさせればそれなりに優秀だが、普段から天然というか、不思議というか…………はっきり言えばちょっと馬鹿
背が高く(…と言ってもこっちが1センチ勝ってるけど)スラリと伸びた長い手足は普通に歩いても目立つのに行動が怪しすぎてみんなに見られているのに気付いてない
そんな潜むように体を斜めにしてもビルのロビーは全面ガラス張りなのだから四方から丸見えなのに何かから隠れているつもりらしい
何を見ているのか………背中から近づいて視線の先を追ったが身を隠さなければならない程怪しい人影は見えなかった
「あれ?………あいつ……今日もいる……」
「誰がいるんだ?」
逃亡ごっこ?終了したのか一瞬で忘れたのか……(たぶん後者)、ペタッとガラスに張り付きブツブツ言ってる肩から覗き込み、声をかけると面白いくらいピョンッと跳ねた
「緑川?!……」
藤棚に近いベンチに寝転ぶ雪斗を見つけ気を取られていると耳元で声がして振り返ると危うくチューしそうになった
「もう……いっつも近いんだよ……」
「何だよ眼鏡なんか掛けて……」
「え?うん……ちょっとな、色々あって……変装」
営業売り上げトップを走る同期の緑川は身長が同じくらいだからなのかなぜかいつも顔が近い、職場で一番仲がいいと言えばそうなのだが、すぐに「馬鹿」と連呼してくるのはこいつだった
「お前………まさか花火の犯人じゃないだろうな……」
「え?何で知ってんの?」
「馬鹿」っと頭に落ちてきたげんこつは結構本気で痛い
「昨日会社に戻ってきたら警察にしつこく質問されたんだよ、今帰ったばかりで知らないって何回言ってもハナから犯人扱いで面倒だったんだからな」
「そうか…俺ら遠目だと背格好似てるもんな、身代わりにしちゃったんだな」
「一体何したんだよ」
押さえつけるようにぐっと肘を肩に乗せられてガラスに張り付いた身体は逃げ場がない
「……何って……ちょっと遊んでただけ…」
「何をした、何があった、ちゃんと言え………」
「何でも無いったら」
「言え」
緑川は敏腕営業なだけあって押しが強く隠すだけ無駄……どうせ聞くまで動いてくれない
言いたくないけど情けない花火事件の動機を話してしまった
「俺を………ハブるから燃やしてやっただけだ」
「別にハブってねえよ……俺も花火なんて知らなかった、お前色々考え過ぎ……他の奴らなんて気にするなよ、俺がいればいいだろう?」
俺がいればいいだろって…、いつも外出していて殆ど会社にいないじゃないか、表情の読めない笑顔でグシャっと髪を混ぜられてブチュっと唇を耳にくっつけて来た
「やめろよ……全く……」
緑川はいつもこうだ、誤解を招くスキンシップや言動が多い、キスされた耳元を手でごしごし擦るとニヤリと笑った緑川は明らかにからかって遊んでる
「拭くなよ」
「拭くよ馬鹿」
スラリと綺麗に伸びた背中にいつも微笑み(半笑いとも言う)を絶やさない緑川は整った顔立ちと柔らかい物腰で社内の女子人気が断トツに高い
入社当初は例の水谷が緑川に食いついき、猛アタックを繰り広げたが全くなびかなかったせいで一時、社内で緑川がゲイだと噂が立ったが同期はみんな緑川に彼女がいる事も知っていたので悔し紛れの嫌がらせだとわかっていた
「緑川…今日は?」
「俺はもう出る…狙ってるとこがあるからな、なんだ一緒にいて欲しいか?」
「アホ、そんな訳ないだろ、まだ売り上げる気なんだなって思っただけ……なんなら浄水器も売って来てくれよ」
「売っていいんなら売るぞ?」
グッと詰まった……
父親が経営するTOWA(トーワ)コーポレーションは製薬会社である
医療薬品ではなく食品添加物などの取り扱いがメインで資本金は2000万だが売り上げは100億が見えてきた
薬品の他に塗料や繊維など、多岐にわたる企業向けの製品を扱う商社で、小さな丸薬から始まり創業100年を越える老舗だ
繊維部門から発展した海水を真水に濾過する自治体向けの浄水施設を任せられたはいいが狙い目の外国にはまだ一台も売れていない
持ちかけた商談は、金額も運用コストも高い大手のメーカーに全て掠め取られていた
緑川ならきっと売る………それならそれで会社の為にもいいが……もうちょっとだけ自分でやってみたい
「まあ、俺はそんな暇はないけどな」
こっちの思いを見透かしたようにニッとカッコよく笑った緑川はもう時間がないと言って外回りに出て行ってしまった
こっちが出勤してくる頃にはもう準備を整えて外出するのだから心構えから違う
テナントを寄せ集めた12階建てのビルには似通った中堅の商社が集まり、5階はTOWAがワンフロア占めている
エレベーターを降りると廊下と実務フロアをパーテーションで分けて奥に社長室と会議室を兼ねた応接室がある
窓は壁全面足元まである嵌め殺しのガラスで室内は明るいが、ロッカーで囲われた営業デスクの塊は窓から離れた隅っこに追いやられうら寂しい………だって殆ど誰もいないから……
何も入ってない鞄を机に放り投げ、窓際まで行って5階から広場を見下ろすとベンチにいるのはやっぱり雪斗だ
昨日の夜いつ帰って、今日の朝はいつ来たのか、着替えや靴まで鞄に入れて持ち歩き、今はベンチで眠っているのか動かない
この会社の周りは駅を取り囲む華やかな繁華街とビジネスビルが立ち並び住宅マンションもチラホラあるがどこも高額で、もし家が近所ならとんだ金持ちのボンボンということになる
「何か楽しそうだな…」
知らない間に窓際に沿って雪斗が見え易い位置に移動していたらしい、コピー機からプリントアウトを取り上げた木下にぶつかってしまった
「……悪い……」
「就業時間は過ぎてるぞ、仕事しろよ」
「ああ………そうだな……資料出すよ」
浄水施設のプロジェクトは専任の佐鳥とその補助に木下と今年入社したばかりの松本の三人でチームを作っていた
木下は浄水の他に営業の仕事もあるが今日は今度来日する中東の視察団へ浄水施設を売り込むプレゼン計画を立てていた
「…………」
木下が口にした事は殆ど心の声レベルだったがしっかり聞こえた
次期しゃちょーは気楽でいいな………
浄水施設のプレゼン企画は殆ど一人で纏め、昨日も1人残って今木下が手にしている資料を作っている、そんな事を言われる筋合いもないがこれ以上齟齬を生みたくない
言い返しはしなかった
職場にいるとつまらない事で神経がすり減る……
その日は席を立つ度に、ベンチから動かない雪斗がまだそこにいるか確かめていた
実はもし次に雪斗と会えたらやってみたい事があって早く帰りたかったが意地でも木下達より早く帰るのは絶対に嫌……ムキになって仕事をしているうちに遅くなってしまった
窓の外はもう暗くなって雪斗がいるかどうかは見えない
「もう帰っちゃったかな……」
昼の間に滾々と太陽熱を貯めた地面は日が落ちて尚むんっと熱気を立ち上げ、風が吹いても重苦しい同じ温度の大気を移動させるだけだった
1日中エアコンが効いた室内に籠もっていると季節を忘れる
薄暗い街灯はあまり仕事をせずよく見えないが昼間からずっと見ていたベンチにふわっと揺れる柔らかそうな髪が見えた
「雪斗……いたんだな」
「……………」
開いていたノートパソコンをパタンと閉じて顔を上げた雪斗は返事の代わりに胡散な目を向けてきた
「あ……名前で呼ばれるのは嫌か?」
「………いや……」
「じゃあ雪斗って呼んでもいい?」
「………音羽って呼ばれるよりはマシかな、何か用?」
…………昨日に引き続きぶっきらぼう……
話口調が静か……いや、言い方を変えればテンションがだだ低いというか、落ち着いていると言うか……独特の気怠そうな雰囲気の持ち主だが、多分こっちで勝手に持ってしまった設定年齢が低いせいか話しかける事に躊躇はなかった
「これ食べるか?」
「………うん」
昼間に差し入れでもらったシュークリームを差し出すと素直に手を出す様子もやっぱり子供を相手にしているような気になる
「なあ……それ食べたらちょっと付き合えよ」
「どこに?」
「競争しないか?」
「………は?」
「短距離走」
昨日の事を反芻すると雪斗は多分かなり速い……
勝ち負けじゃなく足の速さに関しては一種の敬意がある
勿論負けたくないし負ける気も無いがどうしても雪斗のポテンシャルを暴いてみたかった
「やだよ」
「そういうと思ったよ、これでどうだ?俺に勝ったらやるよ」
我ながら下衆だとは思うが一万円札を目の前に翳した
昼間ふらふらしている雪斗には金が必要なのでは無いかと軽く考えていた
「あ……怒った?」
雪斗の瞳が揺れて二重瞼の目がすっと細くなった
意外とプライドが高いのかどうやら誘い方を間違えた
「ごめん………違うんだ……」
「やるよ……どこを走るんだ?」
「言い方が悪かった、そこまでしても付き合って欲しかっただけなんだ」
「だからやるって」
明らかに目に不快を映したくせにやる気になってくれたのは嬉しいが、膝に乗せていたノートパソコンを鞄にしまい込み、くっと伸びをした雪斗が履いているのはクロックス……ちゃんと真っ当な競争がしたい
「お前この前履いてたスニーカーに履き替えろよ、その靴じゃまともに走れないだろ」
「別にいいよこれで……」
「いいんなら……いいけど後で文句を言うなよ?」
ほらっとパンツの裾をめくり上げ、ちゃっかり履き替えたNIKEのランニングシューズを見せると雪斗は伸ばしていた背中を丸めてジロリと睨んだ
「……卑怯だぞお前……」
「だからお前も履き替えろって……」
雪斗の鞄にスニーカーが入っている事は昨日見て知っている、勝手に鞄を開けて中を探ると………見えたのは「Aquascutum」のロゴが入った白いTシャツだった
BurberryやDAKS程ポピュラーじゃないが老舗のトラッドブランドは靴下一つから一々高額で多分シンプルな白いTシャツ一枚でも15000円はする
出店数も少なく、わざわざ選んで買いに行かない限り手に入るものではなく、偽物が出回るほどの需要もない
何でこんな物持っているのか不思議だが、まあ………雪斗は高い物だと知らないのだろう、鞄の中でスニーカートとかパソコンとかのクッションになってる
「ほら、こっちに履き替えろよ」
「……どっちでもいいけど………」
会社前の広場を右に進むとマンションやビジネスビルが建ち並び人通りはまばらだが、左の駅に向かう道はファッションビルや飲食店が建ち並び行き交う人で満杯だった
丁度TOWAの少し手前でぱっくり人並みが途切れている
「で?……どうするんだ?」
「雑踏の中を縫ってこの藤棚まで早く帰って来た方が勝ちでいいか?…」
「雑踏?」
「あっちの人が多い方から50メートルくらい走って帰ってくるんだ」
雪斗は靴を履きかけていた手を止め眉を真ん中にギュッと寄せた
「じゃあやんない、俺は暫くここにいたいから目立ったり騒ぎを起こすのは嫌なんだよ」
「暫くって……お前家に帰ってないのか?」
少なくとも丸2日は広場の公園に居座り多分夜もベンチで寝ていた
「家なんてないよ」
「ない?どういう事?外で暮らしてるのか?」
「…………」
返事をしないでプンっと横を向いた雪斗は態度も雰囲気も野良猫にぴったりだが、服装や身なりがそれなりに綺麗でそこまで本格的なホームレスとは思わなかった
「駅の方に走るならいい…」
「え?」
風呂は?ご飯は?まさかずっと外で寝ているとか?聞きたいことが溢れて足の先から頭の天辺までマジマジ監察していると、雪斗はタッとステップして……
「駅の植え込みがゴールな!」
雑踏に飛び込んでいった
「おい!」
人を避けてトップスピードで走る技術は誰よりも磨いたつもりだ、学生時代は軽トラに手足が生えたような重量級が相手にあっという間に潰されるから捕まるわけにはいかなかった
雪斗からは一瞬遅れたが負けるつもりはない
「きゃあ!何?」
耳の側で驚いた声が一瞬で遠ざかって消えていく
横を見れば雪斗も人通りの多い舗道を難なく駆け抜け追い付きそうで追いつけない
やっぱり速い
駅の植え込みまではおそらく200メートルはある
ラグビーのコート半分が約50メートル……
全部をトップスピードで走るのはお互い無理なのだからペース配分を………と思った瞬間歩道を塞ぐ5,6人のサラリーマン集団の壁が目に入った
「!!わっっ!!」
バッと避けたがまえに進む慣性は少しも避けてくれず幅の広い大男に頭から突っ込んだ
目の横でヒョイッと軽く身を屈めた雪斗は集団の足の間をすり抜けて見えなくなってしまった
「何だよ!危ないな!」
大男はちょっと体が傾いた程度なのにこっちは道路までふっ飛ばされてちょっと既視感《デジャブ》、走れば潰されていた学生時代を思い出した
「すいません……大丈夫ですか?急いでいたもので……」
「あんたこそ大丈夫なのか?今車が来ていたら死んでたぞ」
「はぁ……すいません…」
通り魔に近いタックルはただの迷惑行為で軽く謝って通り過ぎる事は出来ず足を止めるしかなかった
もう追いつけない雪斗を追って駅まで小走りで行くと、もう息も整ってシラッとしている雪斗が植え込みの縁に立って腕組みしていた
「口ほどにもないな」
「うるせえ」
「寄越せよ…」
賭けの商品にした一万円は、元々勝っても雪斗を食事にでも連れ出し全部使ってしまうつもりで惜しくは無いが、負けるつもりは一ミリも無かった
渋々と胸のポケットから出すと雪斗は差し出す前に指の間からスッと抜き取り尻のポケットにクシャっと突っ込んだ
ただの遊びなのに妙に悔しい
「負けたけど……俺の方が速かった……」
「どっちでもいいよそんな事」
「お前フライングだったし……」
「モタモタしてるからだよノロマ」
「お前な!」
頭をふるい、汗を飛ばして笑い声をたてた雪斗はやっぱり25には見えない
いいとこ17だ
「なあ雪斗、汗もかいたし何か飲みに行こ、喉がカラカラ、ビールが飲みたい」
動いている時より立っているだけの今の方が汗が溢れて背中や胸を伝ってシャツを濡らしている、雪斗も頬を滑り落ちた汗が顎の先からボトボト滴っている
「俺はいらない、行きたければお前一人で行ってこい」
「何だよ、ちょっとぐらい付き合えよ、お前も何か飲まなきゃ脱水になるぞ」
水でいいと背中を向けた肩に手をかけると手の甲にボタンッとでっかい水滴が落ちてきた
空を見上げると音は届いて来ないが街の灯りを映した分厚い雲の奥で、意味もなく不安を呼び起こす遠雷が煌めいた
冷えた風が生温かった重い大気を割って雑踏の中を走っていく
「あ………雨……」
「降ってくるな……」
まだまばらだが間髪的に落ちてくる雨粒が大きい、ずっと同じ調子で動いていた街もザワリと沸き立ち巣穴を探してわらわら散っていった
「鞄……」
雪斗が広場に向かって走り出した
「おい…雪斗!家がないって雨の時はどうするんだ?」
「色々!」
「今日は?」
「その辺に避難するよ」
「その辺」って事はどうするか決めてない、近所には身を隠せる公共施設も無く、鳴り響く凶悪な雷と吹き付ける風は、酷く荒れる1歩手前に見え、軒先で凌ぐにはちょっと無理がある
「……俺ん家にくるか?」
「え?」
「ここから近いんだ、雨が降り出す前に帰れるよ」
「お前ん家?」
はたと急ぐ足を止めた雪斗の目は意図を探るように警戒心に溢れてる
「ああ、俺今は独り暮らしだしこの感じヤバイだろ」
警戒するのはむしろこっちだろう、素性もわからないし……だいたいホームレスをやってる人間を部屋に入れるとなると貴重品は隠したくなるくらいだ
ただ何となく雪斗はそんな心配はいらない様な気がした
金を目の前に出した時は明らかに見下された屈辱が目に浮かび、高いプライドの一角が覗いていた
「嫌か?」
「いや……行く……どこ?」
「すぐだよ」
厚い雲を強い風が切り裂いて、漏れ落ちてきた雨粒がバラバラとアスファルトの色を変えていく
本格的になってきた雨は待ってはくれず走って藤棚の下に置きっぱなしにした荷物を取りに行った
会社ビルから右に進み3筋通りから外れた佐鳥のマンションは走って五分程だった
実は………そのマンションは会社の名義で形としては社員寮だが、駅まで歩いて数分の立地なわりに閑静でセキュリティもある、もし個人で借りるならとてもじゃないが払える家賃相場じゃない
管理を兼ねて住んでいるここだけは社長の息子という特権が付いていた
同僚には決して言える事じゃなく緑川にさえ教えていない
「入れよ……」
エレベーターで8階迄上がりドアを開けると、まだ警戒しているのか雪斗はそろそろと中を覗き込んだ
「何だよ……人が親切に泊めてやろうって言ってんのに、俺は悪徳キャッチセールスとかじゃないぞ、怖いお兄さんなんて飼ってないからな」
「あんたみたいな間抜けにキャッチの心配なんかしてない、自分で持ちかけた勝負に負けるなんてホント馬鹿」
「俺だってキャッするならもっともっと金を持ってそうなおっさんとかお姉さん狙うわ」
「人を見た目で判断すると痛い目見るぞ、鞄の中に大金詰め込んでるかもしれないだろ」
「鞄の中身は見たよ、大体外に放置しといてよく言う、早く入れよ、さっさと着替えたい」
夕立ちのように土砂降りになった雨に二人共ドップリ濡れ、水が跳ねてスーツのパンツも泥が飛び散っていた
「とりあえず先にシャワー浴びてこいよ、着替えあるか?」
「うん……」
濡れないように鞄を胸に抱えて玄関に立っていた雪斗は犬のように頭を振るって水を飛ばし、鞄から手を離せばいいのに前髪から垂れてくる水滴を同じく濡れたスーツの背中でゴシゴシ擦った
「わっおい!やめろ」
「どうせもう濡れてるからいいじゃん」
ちょっとでも触ろうと手を出すと毛を逆立てそうな野良っぽい雰囲気が和らぎ笑い声を立てた雪斗は大した遠慮もせずに風呂場に入っていった。
「何か食いもんあったかな…」
タオルで簡単に濡れた髪を拭きシャツを脱ぎ捨ててから冷蔵庫を開けてみたが何かを作るような食材はなかった
時間は9時前だが多分………雪斗は夕食を取ってない、口にした年齢の割に幼く見えるせいか雪斗に食べさせなければと義務感が湧き、カップラーメンとかじゃ無くてもうちょいマシな物は無いか冷凍庫を探ると非常用の冷凍パスタがあった
「…これ解凍したらいけるか……」
男の一人分としては量が少ないけど他の食材をありったけ集めるといけそうだ
「何してんの?」
なすベーコンのトマトソースとアサリとキノコのバター醤油………解凍時間を確かめていると肩の後ろから雪斗が覗き込んできた
「速いな…今入ったばっかりだろ、お湯被っただけじゃないか?」
「それで充分だろ」
「ちゃんと洗ったのか?」
濡れた頭をクンクン嗅いでみるとちゃんとシャンプーの匂いがする
さっき鞄の中にあった白いアクアスキュータムのTシャツを着て肩から掛けているタオルはこの部屋の物、乱雑にひと撫でしただけの髪はあっちこっち跳ねて肌に張り付いている
「お前………まだ濡れてるぞ……ちゃんと拭けよ」
「そのうち乾くだろ」
放置されて伸びっぱなしの前髪から滑り落ちて来た水滴が、毛先からポツリと頬に落ちて首を滑りTシャツの中に消えていった
肌が透き通るように白く透明で皮膚の薄そうな赤い唇が隙間を作ってる
何だかすべすべ………
突然バシンと横っ面を払われ我に返った
「あ……」
何を思ったか……
いや………何も考えていなかった
あんまりにも肌が透明で無意識に口の横に唇をつけていた
頬を打った手を上げたまま慌てもせず怒りもせず半歩下がって見てくる冷ややかな瞳からは表情が消えていた
「ごめん……つい……」
我ながら馬鹿な事をした、ただ綺麗な花の香りを嗅いだり肌触りが良さそうな物に触れたい衝動と同じで相手に意思がある事を忘れてた
ギロリと睨んだ雪斗はクルッと背を向け大股で向かった先は玄関……出て行くつもりだ
「ちょ!ちょっと待って…今のは…」
弾み……無意識……
そりゃビックリもするだろう俺だってビックリした
外はますます雨足が強くなりベランダの窓を打ちつけ強い風にガラスがガタガタ揺れている
「待てよ雪斗!」
放り出していた鞄を鷲掴みにして出て行こうとする前に回り込みドアを抑えた
「ごめんって…ホントごめん!怒るなよ……その……外は酷い天気だし………」
肩に手を伸ばすとバシンッと思いっきり払われ、細めた目には軽蔑が籠もってる
弁解は出来ないが変な誤解も困る
「今出て行っても行く所がないんだろう?……せめて雨がもうちょっと収まるまでいろよ」
当たり前だが返事はしてくれない……触ってみたかったのならせめて指で突くとかしていたら笑い話で済んだのに、近かったから口が出た
じっと目を見て睨んでいた雪斗の体から力が抜け、ふうっと大きく息を吐き出して諦めたように足元に鞄を落とした雪斗は、ポケットに突っ込んでいた手を出したと思ったら……
突然Tシャツを脱いだ
「雪斗?」
鞄の上にパサリとシャツを落とし………何をしてるんだ?……膝まである半パンに手をかけて表情のない顔を上げた
「下も脱ぐ?」
「へ?」
「……脱がせたいって奴もいるから……」
「?……………どういう意味……」
ハッとして雪斗の顔を見直した
「違う!違うから!誤解!!そんなつもりじゃ………」
透明な肌、首や胸も白い……下げ気味に履いた半パンからヘソが顔を覗かせている
艶かしい半裸を見て意味を悟った
ここは8階………ドアを塞いでいる目の前の男は細いがデカい………
抵抗すると怪我をする
それは体験からきた教訓だった
「話を聞くからこっちに来なさい」
まだ何も知らない……性衝動すらあやふやな頃、そう言われて誘い込まれた部屋にはベッドしかなくそこに座った
その男に話しを聞いてもらいたかった
男は隣に座ったと思ったらいきなり服をたくしあげ湿った手の平を脇腹に這わせた
「な……何を……」
「お前白いな……」
噛み千切られたかと思ったほどの激痛が胸に走り、何が何だかわからずその手から逃れようと暴れた
「大人しくしろよ、わかってんだろ?ノコノコこんな所まで入ってきたんだからな」
服を脱がされかけたところで何をしようとしているのか浅い知識の中で悟ったが遅かった
「離せよ!俺は帰る!……離せ!」
「ガタガタうるさいチビだな」
暴れるだけ暴れてみたが相手は大人の男で無駄に大柄……敵うはずもなく、腕一本で釣り上げられ容赦なく殴られ吹っ飛んだ
脳震盪を起こし朦朧とする中両手を背中で拘束されてしまった
懲りもせずどんな奴か知らない男の部屋に上がり込んでしまった自分が悪い……
雪斗の目は落胆と諦めを写していた
そんな風に生きて来たのか……
細い体がなんとも寂しげに見えた
「服を着ろよ…風邪をひくぞ………腹も減ったしあっちで食べよ…冷凍物しかないけどな」
雪斗はジッと探るように見ていたがここは何も気付いていない振りをした方がいいだろう
レンジに冷凍パスタを放り込んで何事もなかったように振る舞うと、怯えた猫のように壁にはりついたままシャツを拾い上げてモゾモゾ手を通した
そんな目的で部屋に連れ込んだと思わせる行動を取ったのはこっちだが何と言っても男同士だ……考えもつかなかった
実際そんな事もあるのかどうかはわからないが冗談には見えない
「……何それ?」
中古屋で買ったレンジは今時なのに回る、低い電子音を聞きながら考え込んでいると事故だとわかってくれたのか雪斗がレンジを覗き込んだ
「冷凍パスタ…二種類あるけどどっちがいい?」
「俺キノコ嫌い」
「じゃお前が茄子ベーコンな……」
「うん」
ほんのちょっとしか量はないくせにお腹を空かせて待つと解凍には時間がかかる
レンジが動いている間にありったけの食パンを焼いてマーガリンを塗りつけリビングのテーブルに並べた
「なあ、パソコン充電してもいいか?」
「いいよ、コンセントわかる?」
「うん…」
2DKのこの部屋はカウンターで仕切られた台所に、リビングともう一部屋あるが、社長(つまり親父)からここは仮使いだから全部を使うなと言われ一部屋は荷物置きになっている
ほぼワンルームにベッドとソファ、小さいテーブルにテレビ台を置いてもまだ充分広く不自由は無かった
「なあ、お前さ……家が無いってどういう事?」
雪斗はソファの下に座り開いたパソコンを膝に置いて足を投げ出していた、表面上はくつろいでいるように見えるが近付くとキーボード打つ手が止まる
解凍出来たパスタをテーブルに置くと顔を上げた
「親は?どこにいるんだ?」
「いないよ…」
「いないって?」
「死んだ」
雪斗の口調には何の感傷も無く学校に行ってないと話した時と同じ調子だった
一々言葉が短いのも同じ
「………まさかそれからずっと?」
「親戚もいないし金もなかったから施設……」
「そっか……ごめん変な事を聞いて」
「別にいいよ随分前の話だし」
親身に話を聞いているように装っていたが、目は雪斗の口元を追ってしまう
10代の女子……おそらくその中に混じっても特別だと思える綺麗で透明な肌に細い腰………淡々と話す雪斗は妙な色気を纏いその毛はないつもりだが……変な事が想像出来てしまう
似合うと言うか汚くないと言うか……あり得ると言うか……無いけどある……
何を妄想してるんだ……俺の馬鹿……
「なあ………お前さ……あの広場で何してるんだ?」
「別に何もしてない、WiFiが届くしあんまり暑くないからいるだけ」
「働いてないのか?」
頭を切り替えたくて話題を変えたつもりなのにまた戻ってきてる、違う言い方、聞き方をしそうになったが返ってくる答えが怖くて自主規制……
雪斗が取った行動のせいで気になって仕方がなくなってるブランド物のTシャツは、変なスポンサーでも付いているのかと疑ってしまう
要らぬ事を聞きそうな口に巻き続けフォークの先で肥大したパスタを無理矢理突っ込んだ
「…………働いてない…かな」
「ほひんは?」
「飲み込んでから喋れよ馬鹿」
「ふぁはっへふうな」
「…馬鹿」
馬鹿馬鹿言ってくる奴の2号誕生……
言葉が短い分雪斗の方がきつい
「馬鹿って言うな、貯金はあるのか?お前ちゃんと食べてないだろ」
「あるって言えばある、そりゃ足りないけど何とかなってる」
「いくらくらいあるんだ?」
そんな事をよく聞けるなと呆れながら今12億とふざけて笑った
雪斗は冗談を言ったつもりなのかもしれないが笑えない、多分口にした数字は嘘じゃない、120万と言う事はないだろう、だとすれば手持ちは12万
「それでいつまでやれるんだ」
「だから毎日メロンパンで我慢してるんじゃん」
「夏にあんなもんよく食べれるな……見てるだけで口の中の水分持って行かれたよ」
「食べ物なんて何でもいい、生きていければそれでいいからな」
「キノコ嫌いって言っただろ」
「キノコは食べ物じゃない」
パスタに入っていた萎びたしめじをフォークに指して雪斗の皿に投げ入れると面白い程必死……そこまで嫌いなのか皿に届く前にペンっと払い飛ばした
「お前どこで寝る?俺がその辺に転がるからベッド使う?」
眠るスピードは短距離走の次に自信がある、誰が隣に居ようと秒で眠れるから、何なら一緒に寝てもいいがそんな事を言うとまた変な誤解をされる
「………俺はここでいい」
やっぱり……また警戒しているのがわかる、ソファの下に寝転んで投げ出していた手足に力が入り非常事態に備えている……
どんな体験をして来たのか……ベッドで眠らせてあげたいが仕方がない
「じゃあ俺はベッドで寝るから、飲むか?」
ビールを渡すとちょっと躊躇ってから受け取った
「俺あんまり飲めないんだよ」
「見た目通りだな、ジュースは無いから買ってきてやろうか?」
「うるさいな」
話しかけなければ必要最低限しか喋らないと思っていた雪斗はテレビをつけて雑談を持ちかけると意外に何の話題にも付いてくる
凡そ縁も興味も無さそうなサッカーや野球のスポーツからレアなモータースポーツ、映画や本の話まで結構詳しく、夕食を食べ終えた後ダラダラ話し続けているとまだ10時を過ぎたばかりなのに雪斗の目がトロンと溶けてきた
「眠いのか?」
「うん……眠い」
チビチビ舐めていたビールは結露の示す場所からみてもまだ半分程残っている
酔っているわけじゃなさそうだがソファに凭れていた体が崩れてもう落ちてしまいそうだった
眠くなり方が子供っぽいんだよ……
「……何?…なんて言った?…」
「何でもない……、もう寝ろよ俺は風呂に入って来る、クローゼットに予備のブランケットと使ってないクッションが入ってるから勝手に出して来い」
「うん」
返事はしたがコロンと横になった雪斗はテレビを消しすともう動こうとはせず、クッションだけでもと出してやると胸に抱きかかえて小さく丸まった
雪斗は若く見えると言っても大人には違いない
それなのに迷子に怯えて、所在なく漂う小さな子供を拾ってしまったように感じて眠りに入ろうとしている雪斗にそっとブランケットをかけて灯りを落とした
役に立つとは思えないが伊達メガネ
………靴は?見えて無かったかもしれないが足跡とかあるかもしれない……スーツに合わないけどいつもの靴以外はこれしかない、仕方なく茶色のストレートティップを履いてきた
雪斗に習ってプチ変装してみたが、会社前の広場に来てみると警察官の姿は見えずいつもの出勤風景と何も変わない
「……よかった…騒ぎになってない…」
ベンチの側には地面に焦げ跡が残っているものの花火の残骸は綺麗に掃除され何も残っていなかった
それでも警官に姿を見られてる、雪斗の言うとおりもし犯人を探しているとなれば身長182ある細長い体が仇になる、なるべく「現場」は見ないように自然な感じで…………端っこを歩いてビルの玄関ホールに飛び込んだ
もし何か聞かれたら多分素直に謝ってしまう
どこかに潜んで見張られていないかロビーの中からこっそり外を伺った
朝一番、取引先の工場から搬送トラックが出てしまう前に届け物をしてから会社に寄った
タイミングが何よりも重要な外回りはひとつ狂うと行ったり来たり効率が悪くなる、一刻も早く外に出たくてうるさい事務を振り切り玄関ホールまで降りてきたが、目に入ってしまった光景が気になって気になって、今かかってきた電話の内容が頭に入ってこない
あいつは何をしている……
物陰から物陰へ斜めに移動して玄関ロビーに飛び込んできたと思ったら、今度はガラスに張り付き隠れるように外を伺っている
同期入社の佐鳥は仕事をさせればそれなりに優秀だが、普段から天然というか、不思議というか…………はっきり言えばちょっと馬鹿
背が高く(…と言ってもこっちが1センチ勝ってるけど)スラリと伸びた長い手足は普通に歩いても目立つのに行動が怪しすぎてみんなに見られているのに気付いてない
そんな潜むように体を斜めにしてもビルのロビーは全面ガラス張りなのだから四方から丸見えなのに何かから隠れているつもりらしい
何を見ているのか………背中から近づいて視線の先を追ったが身を隠さなければならない程怪しい人影は見えなかった
「あれ?………あいつ……今日もいる……」
「誰がいるんだ?」
逃亡ごっこ?終了したのか一瞬で忘れたのか……(たぶん後者)、ペタッとガラスに張り付きブツブツ言ってる肩から覗き込み、声をかけると面白いくらいピョンッと跳ねた
「緑川?!……」
藤棚に近いベンチに寝転ぶ雪斗を見つけ気を取られていると耳元で声がして振り返ると危うくチューしそうになった
「もう……いっつも近いんだよ……」
「何だよ眼鏡なんか掛けて……」
「え?うん……ちょっとな、色々あって……変装」
営業売り上げトップを走る同期の緑川は身長が同じくらいだからなのかなぜかいつも顔が近い、職場で一番仲がいいと言えばそうなのだが、すぐに「馬鹿」と連呼してくるのはこいつだった
「お前………まさか花火の犯人じゃないだろうな……」
「え?何で知ってんの?」
「馬鹿」っと頭に落ちてきたげんこつは結構本気で痛い
「昨日会社に戻ってきたら警察にしつこく質問されたんだよ、今帰ったばかりで知らないって何回言ってもハナから犯人扱いで面倒だったんだからな」
「そうか…俺ら遠目だと背格好似てるもんな、身代わりにしちゃったんだな」
「一体何したんだよ」
押さえつけるようにぐっと肘を肩に乗せられてガラスに張り付いた身体は逃げ場がない
「……何って……ちょっと遊んでただけ…」
「何をした、何があった、ちゃんと言え………」
「何でも無いったら」
「言え」
緑川は敏腕営業なだけあって押しが強く隠すだけ無駄……どうせ聞くまで動いてくれない
言いたくないけど情けない花火事件の動機を話してしまった
「俺を………ハブるから燃やしてやっただけだ」
「別にハブってねえよ……俺も花火なんて知らなかった、お前色々考え過ぎ……他の奴らなんて気にするなよ、俺がいればいいだろう?」
俺がいればいいだろって…、いつも外出していて殆ど会社にいないじゃないか、表情の読めない笑顔でグシャっと髪を混ぜられてブチュっと唇を耳にくっつけて来た
「やめろよ……全く……」
緑川はいつもこうだ、誤解を招くスキンシップや言動が多い、キスされた耳元を手でごしごし擦るとニヤリと笑った緑川は明らかにからかって遊んでる
「拭くなよ」
「拭くよ馬鹿」
スラリと綺麗に伸びた背中にいつも微笑み(半笑いとも言う)を絶やさない緑川は整った顔立ちと柔らかい物腰で社内の女子人気が断トツに高い
入社当初は例の水谷が緑川に食いついき、猛アタックを繰り広げたが全くなびかなかったせいで一時、社内で緑川がゲイだと噂が立ったが同期はみんな緑川に彼女がいる事も知っていたので悔し紛れの嫌がらせだとわかっていた
「緑川…今日は?」
「俺はもう出る…狙ってるとこがあるからな、なんだ一緒にいて欲しいか?」
「アホ、そんな訳ないだろ、まだ売り上げる気なんだなって思っただけ……なんなら浄水器も売って来てくれよ」
「売っていいんなら売るぞ?」
グッと詰まった……
父親が経営するTOWA(トーワ)コーポレーションは製薬会社である
医療薬品ではなく食品添加物などの取り扱いがメインで資本金は2000万だが売り上げは100億が見えてきた
薬品の他に塗料や繊維など、多岐にわたる企業向けの製品を扱う商社で、小さな丸薬から始まり創業100年を越える老舗だ
繊維部門から発展した海水を真水に濾過する自治体向けの浄水施設を任せられたはいいが狙い目の外国にはまだ一台も売れていない
持ちかけた商談は、金額も運用コストも高い大手のメーカーに全て掠め取られていた
緑川ならきっと売る………それならそれで会社の為にもいいが……もうちょっとだけ自分でやってみたい
「まあ、俺はそんな暇はないけどな」
こっちの思いを見透かしたようにニッとカッコよく笑った緑川はもう時間がないと言って外回りに出て行ってしまった
こっちが出勤してくる頃にはもう準備を整えて外出するのだから心構えから違う
テナントを寄せ集めた12階建てのビルには似通った中堅の商社が集まり、5階はTOWAがワンフロア占めている
エレベーターを降りると廊下と実務フロアをパーテーションで分けて奥に社長室と会議室を兼ねた応接室がある
窓は壁全面足元まである嵌め殺しのガラスで室内は明るいが、ロッカーで囲われた営業デスクの塊は窓から離れた隅っこに追いやられうら寂しい………だって殆ど誰もいないから……
何も入ってない鞄を机に放り投げ、窓際まで行って5階から広場を見下ろすとベンチにいるのはやっぱり雪斗だ
昨日の夜いつ帰って、今日の朝はいつ来たのか、着替えや靴まで鞄に入れて持ち歩き、今はベンチで眠っているのか動かない
この会社の周りは駅を取り囲む華やかな繁華街とビジネスビルが立ち並び住宅マンションもチラホラあるがどこも高額で、もし家が近所ならとんだ金持ちのボンボンということになる
「何か楽しそうだな…」
知らない間に窓際に沿って雪斗が見え易い位置に移動していたらしい、コピー機からプリントアウトを取り上げた木下にぶつかってしまった
「……悪い……」
「就業時間は過ぎてるぞ、仕事しろよ」
「ああ………そうだな……資料出すよ」
浄水施設のプロジェクトは専任の佐鳥とその補助に木下と今年入社したばかりの松本の三人でチームを作っていた
木下は浄水の他に営業の仕事もあるが今日は今度来日する中東の視察団へ浄水施設を売り込むプレゼン計画を立てていた
「…………」
木下が口にした事は殆ど心の声レベルだったがしっかり聞こえた
次期しゃちょーは気楽でいいな………
浄水施設のプレゼン企画は殆ど一人で纏め、昨日も1人残って今木下が手にしている資料を作っている、そんな事を言われる筋合いもないがこれ以上齟齬を生みたくない
言い返しはしなかった
職場にいるとつまらない事で神経がすり減る……
その日は席を立つ度に、ベンチから動かない雪斗がまだそこにいるか確かめていた
実はもし次に雪斗と会えたらやってみたい事があって早く帰りたかったが意地でも木下達より早く帰るのは絶対に嫌……ムキになって仕事をしているうちに遅くなってしまった
窓の外はもう暗くなって雪斗がいるかどうかは見えない
「もう帰っちゃったかな……」
昼の間に滾々と太陽熱を貯めた地面は日が落ちて尚むんっと熱気を立ち上げ、風が吹いても重苦しい同じ温度の大気を移動させるだけだった
1日中エアコンが効いた室内に籠もっていると季節を忘れる
薄暗い街灯はあまり仕事をせずよく見えないが昼間からずっと見ていたベンチにふわっと揺れる柔らかそうな髪が見えた
「雪斗……いたんだな」
「……………」
開いていたノートパソコンをパタンと閉じて顔を上げた雪斗は返事の代わりに胡散な目を向けてきた
「あ……名前で呼ばれるのは嫌か?」
「………いや……」
「じゃあ雪斗って呼んでもいい?」
「………音羽って呼ばれるよりはマシかな、何か用?」
…………昨日に引き続きぶっきらぼう……
話口調が静か……いや、言い方を変えればテンションがだだ低いというか、落ち着いていると言うか……独特の気怠そうな雰囲気の持ち主だが、多分こっちで勝手に持ってしまった設定年齢が低いせいか話しかける事に躊躇はなかった
「これ食べるか?」
「………うん」
昼間に差し入れでもらったシュークリームを差し出すと素直に手を出す様子もやっぱり子供を相手にしているような気になる
「なあ……それ食べたらちょっと付き合えよ」
「どこに?」
「競争しないか?」
「………は?」
「短距離走」
昨日の事を反芻すると雪斗は多分かなり速い……
勝ち負けじゃなく足の速さに関しては一種の敬意がある
勿論負けたくないし負ける気も無いがどうしても雪斗のポテンシャルを暴いてみたかった
「やだよ」
「そういうと思ったよ、これでどうだ?俺に勝ったらやるよ」
我ながら下衆だとは思うが一万円札を目の前に翳した
昼間ふらふらしている雪斗には金が必要なのでは無いかと軽く考えていた
「あ……怒った?」
雪斗の瞳が揺れて二重瞼の目がすっと細くなった
意外とプライドが高いのかどうやら誘い方を間違えた
「ごめん………違うんだ……」
「やるよ……どこを走るんだ?」
「言い方が悪かった、そこまでしても付き合って欲しかっただけなんだ」
「だからやるって」
明らかに目に不快を映したくせにやる気になってくれたのは嬉しいが、膝に乗せていたノートパソコンを鞄にしまい込み、くっと伸びをした雪斗が履いているのはクロックス……ちゃんと真っ当な競争がしたい
「お前この前履いてたスニーカーに履き替えろよ、その靴じゃまともに走れないだろ」
「別にいいよこれで……」
「いいんなら……いいけど後で文句を言うなよ?」
ほらっとパンツの裾をめくり上げ、ちゃっかり履き替えたNIKEのランニングシューズを見せると雪斗は伸ばしていた背中を丸めてジロリと睨んだ
「……卑怯だぞお前……」
「だからお前も履き替えろって……」
雪斗の鞄にスニーカーが入っている事は昨日見て知っている、勝手に鞄を開けて中を探ると………見えたのは「Aquascutum」のロゴが入った白いTシャツだった
BurberryやDAKS程ポピュラーじゃないが老舗のトラッドブランドは靴下一つから一々高額で多分シンプルな白いTシャツ一枚でも15000円はする
出店数も少なく、わざわざ選んで買いに行かない限り手に入るものではなく、偽物が出回るほどの需要もない
何でこんな物持っているのか不思議だが、まあ………雪斗は高い物だと知らないのだろう、鞄の中でスニーカートとかパソコンとかのクッションになってる
「ほら、こっちに履き替えろよ」
「……どっちでもいいけど………」
会社前の広場を右に進むとマンションやビジネスビルが建ち並び人通りはまばらだが、左の駅に向かう道はファッションビルや飲食店が建ち並び行き交う人で満杯だった
丁度TOWAの少し手前でぱっくり人並みが途切れている
「で?……どうするんだ?」
「雑踏の中を縫ってこの藤棚まで早く帰って来た方が勝ちでいいか?…」
「雑踏?」
「あっちの人が多い方から50メートルくらい走って帰ってくるんだ」
雪斗は靴を履きかけていた手を止め眉を真ん中にギュッと寄せた
「じゃあやんない、俺は暫くここにいたいから目立ったり騒ぎを起こすのは嫌なんだよ」
「暫くって……お前家に帰ってないのか?」
少なくとも丸2日は広場の公園に居座り多分夜もベンチで寝ていた
「家なんてないよ」
「ない?どういう事?外で暮らしてるのか?」
「…………」
返事をしないでプンっと横を向いた雪斗は態度も雰囲気も野良猫にぴったりだが、服装や身なりがそれなりに綺麗でそこまで本格的なホームレスとは思わなかった
「駅の方に走るならいい…」
「え?」
風呂は?ご飯は?まさかずっと外で寝ているとか?聞きたいことが溢れて足の先から頭の天辺までマジマジ監察していると、雪斗はタッとステップして……
「駅の植え込みがゴールな!」
雑踏に飛び込んでいった
「おい!」
人を避けてトップスピードで走る技術は誰よりも磨いたつもりだ、学生時代は軽トラに手足が生えたような重量級が相手にあっという間に潰されるから捕まるわけにはいかなかった
雪斗からは一瞬遅れたが負けるつもりはない
「きゃあ!何?」
耳の側で驚いた声が一瞬で遠ざかって消えていく
横を見れば雪斗も人通りの多い舗道を難なく駆け抜け追い付きそうで追いつけない
やっぱり速い
駅の植え込みまではおそらく200メートルはある
ラグビーのコート半分が約50メートル……
全部をトップスピードで走るのはお互い無理なのだからペース配分を………と思った瞬間歩道を塞ぐ5,6人のサラリーマン集団の壁が目に入った
「!!わっっ!!」
バッと避けたがまえに進む慣性は少しも避けてくれず幅の広い大男に頭から突っ込んだ
目の横でヒョイッと軽く身を屈めた雪斗は集団の足の間をすり抜けて見えなくなってしまった
「何だよ!危ないな!」
大男はちょっと体が傾いた程度なのにこっちは道路までふっ飛ばされてちょっと既視感《デジャブ》、走れば潰されていた学生時代を思い出した
「すいません……大丈夫ですか?急いでいたもので……」
「あんたこそ大丈夫なのか?今車が来ていたら死んでたぞ」
「はぁ……すいません…」
通り魔に近いタックルはただの迷惑行為で軽く謝って通り過ぎる事は出来ず足を止めるしかなかった
もう追いつけない雪斗を追って駅まで小走りで行くと、もう息も整ってシラッとしている雪斗が植え込みの縁に立って腕組みしていた
「口ほどにもないな」
「うるせえ」
「寄越せよ…」
賭けの商品にした一万円は、元々勝っても雪斗を食事にでも連れ出し全部使ってしまうつもりで惜しくは無いが、負けるつもりは一ミリも無かった
渋々と胸のポケットから出すと雪斗は差し出す前に指の間からスッと抜き取り尻のポケットにクシャっと突っ込んだ
ただの遊びなのに妙に悔しい
「負けたけど……俺の方が速かった……」
「どっちでもいいよそんな事」
「お前フライングだったし……」
「モタモタしてるからだよノロマ」
「お前な!」
頭をふるい、汗を飛ばして笑い声をたてた雪斗はやっぱり25には見えない
いいとこ17だ
「なあ雪斗、汗もかいたし何か飲みに行こ、喉がカラカラ、ビールが飲みたい」
動いている時より立っているだけの今の方が汗が溢れて背中や胸を伝ってシャツを濡らしている、雪斗も頬を滑り落ちた汗が顎の先からボトボト滴っている
「俺はいらない、行きたければお前一人で行ってこい」
「何だよ、ちょっとぐらい付き合えよ、お前も何か飲まなきゃ脱水になるぞ」
水でいいと背中を向けた肩に手をかけると手の甲にボタンッとでっかい水滴が落ちてきた
空を見上げると音は届いて来ないが街の灯りを映した分厚い雲の奥で、意味もなく不安を呼び起こす遠雷が煌めいた
冷えた風が生温かった重い大気を割って雑踏の中を走っていく
「あ………雨……」
「降ってくるな……」
まだまばらだが間髪的に落ちてくる雨粒が大きい、ずっと同じ調子で動いていた街もザワリと沸き立ち巣穴を探してわらわら散っていった
「鞄……」
雪斗が広場に向かって走り出した
「おい…雪斗!家がないって雨の時はどうするんだ?」
「色々!」
「今日は?」
「その辺に避難するよ」
「その辺」って事はどうするか決めてない、近所には身を隠せる公共施設も無く、鳴り響く凶悪な雷と吹き付ける風は、酷く荒れる1歩手前に見え、軒先で凌ぐにはちょっと無理がある
「……俺ん家にくるか?」
「え?」
「ここから近いんだ、雨が降り出す前に帰れるよ」
「お前ん家?」
はたと急ぐ足を止めた雪斗の目は意図を探るように警戒心に溢れてる
「ああ、俺今は独り暮らしだしこの感じヤバイだろ」
警戒するのはむしろこっちだろう、素性もわからないし……だいたいホームレスをやってる人間を部屋に入れるとなると貴重品は隠したくなるくらいだ
ただ何となく雪斗はそんな心配はいらない様な気がした
金を目の前に出した時は明らかに見下された屈辱が目に浮かび、高いプライドの一角が覗いていた
「嫌か?」
「いや……行く……どこ?」
「すぐだよ」
厚い雲を強い風が切り裂いて、漏れ落ちてきた雨粒がバラバラとアスファルトの色を変えていく
本格的になってきた雨は待ってはくれず走って藤棚の下に置きっぱなしにした荷物を取りに行った
会社ビルから右に進み3筋通りから外れた佐鳥のマンションは走って五分程だった
実は………そのマンションは会社の名義で形としては社員寮だが、駅まで歩いて数分の立地なわりに閑静でセキュリティもある、もし個人で借りるならとてもじゃないが払える家賃相場じゃない
管理を兼ねて住んでいるここだけは社長の息子という特権が付いていた
同僚には決して言える事じゃなく緑川にさえ教えていない
「入れよ……」
エレベーターで8階迄上がりドアを開けると、まだ警戒しているのか雪斗はそろそろと中を覗き込んだ
「何だよ……人が親切に泊めてやろうって言ってんのに、俺は悪徳キャッチセールスとかじゃないぞ、怖いお兄さんなんて飼ってないからな」
「あんたみたいな間抜けにキャッチの心配なんかしてない、自分で持ちかけた勝負に負けるなんてホント馬鹿」
「俺だってキャッするならもっともっと金を持ってそうなおっさんとかお姉さん狙うわ」
「人を見た目で判断すると痛い目見るぞ、鞄の中に大金詰め込んでるかもしれないだろ」
「鞄の中身は見たよ、大体外に放置しといてよく言う、早く入れよ、さっさと着替えたい」
夕立ちのように土砂降りになった雨に二人共ドップリ濡れ、水が跳ねてスーツのパンツも泥が飛び散っていた
「とりあえず先にシャワー浴びてこいよ、着替えあるか?」
「うん……」
濡れないように鞄を胸に抱えて玄関に立っていた雪斗は犬のように頭を振るって水を飛ばし、鞄から手を離せばいいのに前髪から垂れてくる水滴を同じく濡れたスーツの背中でゴシゴシ擦った
「わっおい!やめろ」
「どうせもう濡れてるからいいじゃん」
ちょっとでも触ろうと手を出すと毛を逆立てそうな野良っぽい雰囲気が和らぎ笑い声を立てた雪斗は大した遠慮もせずに風呂場に入っていった。
「何か食いもんあったかな…」
タオルで簡単に濡れた髪を拭きシャツを脱ぎ捨ててから冷蔵庫を開けてみたが何かを作るような食材はなかった
時間は9時前だが多分………雪斗は夕食を取ってない、口にした年齢の割に幼く見えるせいか雪斗に食べさせなければと義務感が湧き、カップラーメンとかじゃ無くてもうちょいマシな物は無いか冷凍庫を探ると非常用の冷凍パスタがあった
「…これ解凍したらいけるか……」
男の一人分としては量が少ないけど他の食材をありったけ集めるといけそうだ
「何してんの?」
なすベーコンのトマトソースとアサリとキノコのバター醤油………解凍時間を確かめていると肩の後ろから雪斗が覗き込んできた
「速いな…今入ったばっかりだろ、お湯被っただけじゃないか?」
「それで充分だろ」
「ちゃんと洗ったのか?」
濡れた頭をクンクン嗅いでみるとちゃんとシャンプーの匂いがする
さっき鞄の中にあった白いアクアスキュータムのTシャツを着て肩から掛けているタオルはこの部屋の物、乱雑にひと撫でしただけの髪はあっちこっち跳ねて肌に張り付いている
「お前………まだ濡れてるぞ……ちゃんと拭けよ」
「そのうち乾くだろ」
放置されて伸びっぱなしの前髪から滑り落ちて来た水滴が、毛先からポツリと頬に落ちて首を滑りTシャツの中に消えていった
肌が透き通るように白く透明で皮膚の薄そうな赤い唇が隙間を作ってる
何だかすべすべ………
突然バシンと横っ面を払われ我に返った
「あ……」
何を思ったか……
いや………何も考えていなかった
あんまりにも肌が透明で無意識に口の横に唇をつけていた
頬を打った手を上げたまま慌てもせず怒りもせず半歩下がって見てくる冷ややかな瞳からは表情が消えていた
「ごめん……つい……」
我ながら馬鹿な事をした、ただ綺麗な花の香りを嗅いだり肌触りが良さそうな物に触れたい衝動と同じで相手に意思がある事を忘れてた
ギロリと睨んだ雪斗はクルッと背を向け大股で向かった先は玄関……出て行くつもりだ
「ちょ!ちょっと待って…今のは…」
弾み……無意識……
そりゃビックリもするだろう俺だってビックリした
外はますます雨足が強くなりベランダの窓を打ちつけ強い風にガラスがガタガタ揺れている
「待てよ雪斗!」
放り出していた鞄を鷲掴みにして出て行こうとする前に回り込みドアを抑えた
「ごめんって…ホントごめん!怒るなよ……その……外は酷い天気だし………」
肩に手を伸ばすとバシンッと思いっきり払われ、細めた目には軽蔑が籠もってる
弁解は出来ないが変な誤解も困る
「今出て行っても行く所がないんだろう?……せめて雨がもうちょっと収まるまでいろよ」
当たり前だが返事はしてくれない……触ってみたかったのならせめて指で突くとかしていたら笑い話で済んだのに、近かったから口が出た
じっと目を見て睨んでいた雪斗の体から力が抜け、ふうっと大きく息を吐き出して諦めたように足元に鞄を落とした雪斗は、ポケットに突っ込んでいた手を出したと思ったら……
突然Tシャツを脱いだ
「雪斗?」
鞄の上にパサリとシャツを落とし………何をしてるんだ?……膝まである半パンに手をかけて表情のない顔を上げた
「下も脱ぐ?」
「へ?」
「……脱がせたいって奴もいるから……」
「?……………どういう意味……」
ハッとして雪斗の顔を見直した
「違う!違うから!誤解!!そんなつもりじゃ………」
透明な肌、首や胸も白い……下げ気味に履いた半パンからヘソが顔を覗かせている
艶かしい半裸を見て意味を悟った
ここは8階………ドアを塞いでいる目の前の男は細いがデカい………
抵抗すると怪我をする
それは体験からきた教訓だった
「話を聞くからこっちに来なさい」
まだ何も知らない……性衝動すらあやふやな頃、そう言われて誘い込まれた部屋にはベッドしかなくそこに座った
その男に話しを聞いてもらいたかった
男は隣に座ったと思ったらいきなり服をたくしあげ湿った手の平を脇腹に這わせた
「な……何を……」
「お前白いな……」
噛み千切られたかと思ったほどの激痛が胸に走り、何が何だかわからずその手から逃れようと暴れた
「大人しくしろよ、わかってんだろ?ノコノコこんな所まで入ってきたんだからな」
服を脱がされかけたところで何をしようとしているのか浅い知識の中で悟ったが遅かった
「離せよ!俺は帰る!……離せ!」
「ガタガタうるさいチビだな」
暴れるだけ暴れてみたが相手は大人の男で無駄に大柄……敵うはずもなく、腕一本で釣り上げられ容赦なく殴られ吹っ飛んだ
脳震盪を起こし朦朧とする中両手を背中で拘束されてしまった
懲りもせずどんな奴か知らない男の部屋に上がり込んでしまった自分が悪い……
雪斗の目は落胆と諦めを写していた
そんな風に生きて来たのか……
細い体がなんとも寂しげに見えた
「服を着ろよ…風邪をひくぞ………腹も減ったしあっちで食べよ…冷凍物しかないけどな」
雪斗はジッと探るように見ていたがここは何も気付いていない振りをした方がいいだろう
レンジに冷凍パスタを放り込んで何事もなかったように振る舞うと、怯えた猫のように壁にはりついたままシャツを拾い上げてモゾモゾ手を通した
そんな目的で部屋に連れ込んだと思わせる行動を取ったのはこっちだが何と言っても男同士だ……考えもつかなかった
実際そんな事もあるのかどうかはわからないが冗談には見えない
「……何それ?」
中古屋で買ったレンジは今時なのに回る、低い電子音を聞きながら考え込んでいると事故だとわかってくれたのか雪斗がレンジを覗き込んだ
「冷凍パスタ…二種類あるけどどっちがいい?」
「俺キノコ嫌い」
「じゃお前が茄子ベーコンな……」
「うん」
ほんのちょっとしか量はないくせにお腹を空かせて待つと解凍には時間がかかる
レンジが動いている間にありったけの食パンを焼いてマーガリンを塗りつけリビングのテーブルに並べた
「なあ、パソコン充電してもいいか?」
「いいよ、コンセントわかる?」
「うん…」
2DKのこの部屋はカウンターで仕切られた台所に、リビングともう一部屋あるが、社長(つまり親父)からここは仮使いだから全部を使うなと言われ一部屋は荷物置きになっている
ほぼワンルームにベッドとソファ、小さいテーブルにテレビ台を置いてもまだ充分広く不自由は無かった
「なあ、お前さ……家が無いってどういう事?」
雪斗はソファの下に座り開いたパソコンを膝に置いて足を投げ出していた、表面上はくつろいでいるように見えるが近付くとキーボード打つ手が止まる
解凍出来たパスタをテーブルに置くと顔を上げた
「親は?どこにいるんだ?」
「いないよ…」
「いないって?」
「死んだ」
雪斗の口調には何の感傷も無く学校に行ってないと話した時と同じ調子だった
一々言葉が短いのも同じ
「………まさかそれからずっと?」
「親戚もいないし金もなかったから施設……」
「そっか……ごめん変な事を聞いて」
「別にいいよ随分前の話だし」
親身に話を聞いているように装っていたが、目は雪斗の口元を追ってしまう
10代の女子……おそらくその中に混じっても特別だと思える綺麗で透明な肌に細い腰………淡々と話す雪斗は妙な色気を纏いその毛はないつもりだが……変な事が想像出来てしまう
似合うと言うか汚くないと言うか……あり得ると言うか……無いけどある……
何を妄想してるんだ……俺の馬鹿……
「なあ………お前さ……あの広場で何してるんだ?」
「別に何もしてない、WiFiが届くしあんまり暑くないからいるだけ」
「働いてないのか?」
頭を切り替えたくて話題を変えたつもりなのにまた戻ってきてる、違う言い方、聞き方をしそうになったが返ってくる答えが怖くて自主規制……
雪斗が取った行動のせいで気になって仕方がなくなってるブランド物のTシャツは、変なスポンサーでも付いているのかと疑ってしまう
要らぬ事を聞きそうな口に巻き続けフォークの先で肥大したパスタを無理矢理突っ込んだ
「…………働いてない…かな」
「ほひんは?」
「飲み込んでから喋れよ馬鹿」
「ふぁはっへふうな」
「…馬鹿」
馬鹿馬鹿言ってくる奴の2号誕生……
言葉が短い分雪斗の方がきつい
「馬鹿って言うな、貯金はあるのか?お前ちゃんと食べてないだろ」
「あるって言えばある、そりゃ足りないけど何とかなってる」
「いくらくらいあるんだ?」
そんな事をよく聞けるなと呆れながら今12億とふざけて笑った
雪斗は冗談を言ったつもりなのかもしれないが笑えない、多分口にした数字は嘘じゃない、120万と言う事はないだろう、だとすれば手持ちは12万
「それでいつまでやれるんだ」
「だから毎日メロンパンで我慢してるんじゃん」
「夏にあんなもんよく食べれるな……見てるだけで口の中の水分持って行かれたよ」
「食べ物なんて何でもいい、生きていければそれでいいからな」
「キノコ嫌いって言っただろ」
「キノコは食べ物じゃない」
パスタに入っていた萎びたしめじをフォークに指して雪斗の皿に投げ入れると面白い程必死……そこまで嫌いなのか皿に届く前にペンっと払い飛ばした
「お前どこで寝る?俺がその辺に転がるからベッド使う?」
眠るスピードは短距離走の次に自信がある、誰が隣に居ようと秒で眠れるから、何なら一緒に寝てもいいがそんな事を言うとまた変な誤解をされる
「………俺はここでいい」
やっぱり……また警戒しているのがわかる、ソファの下に寝転んで投げ出していた手足に力が入り非常事態に備えている……
どんな体験をして来たのか……ベッドで眠らせてあげたいが仕方がない
「じゃあ俺はベッドで寝るから、飲むか?」
ビールを渡すとちょっと躊躇ってから受け取った
「俺あんまり飲めないんだよ」
「見た目通りだな、ジュースは無いから買ってきてやろうか?」
「うるさいな」
話しかけなければ必要最低限しか喋らないと思っていた雪斗はテレビをつけて雑談を持ちかけると意外に何の話題にも付いてくる
凡そ縁も興味も無さそうなサッカーや野球のスポーツからレアなモータースポーツ、映画や本の話まで結構詳しく、夕食を食べ終えた後ダラダラ話し続けているとまだ10時を過ぎたばかりなのに雪斗の目がトロンと溶けてきた
「眠いのか?」
「うん……眠い」
チビチビ舐めていたビールは結露の示す場所からみてもまだ半分程残っている
酔っているわけじゃなさそうだがソファに凭れていた体が崩れてもう落ちてしまいそうだった
眠くなり方が子供っぽいんだよ……
「……何?…なんて言った?…」
「何でもない……、もう寝ろよ俺は風呂に入って来る、クローゼットに予備のブランケットと使ってないクッションが入ってるから勝手に出して来い」
「うん」
返事はしたがコロンと横になった雪斗はテレビを消しすともう動こうとはせず、クッションだけでもと出してやると胸に抱きかかえて小さく丸まった
雪斗は若く見えると言っても大人には違いない
それなのに迷子に怯えて、所在なく漂う小さな子供を拾ってしまったように感じて眠りに入ろうとしている雪斗にそっとブランケットをかけて灯りを落とした
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そう思っていたところに、食事を届けにきたデリバリー配達員の男子大学生がピチピチのサイクルウェアを着ていた。イケメンな上に筋肉質でエロかったので、追加料金を払って、メシではなく彼を食べることにした。
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