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忘れ物

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「何だった?」と好奇心を露わに聞いて来た田淵には笑顔を返した。これは氷上の極々プラベートな事なのだ。
目の前で「コソコソ」しなければならないのは非常に気まずいが、瓢真は「絵里子がパニックになっている」と言ったのだ。
それが比喩なのか、それとも深刻なのかはわからないが身内のトラブルを職場で晒す必要は無い。
怪訝な顔をする氷上をデザイン部の外に連れ出し、瓢真からの電話内容を伝えた。

氷上の答えは「わかった」の一言だ。
つまりは瓢真の説明で全てを飲み込んだらしいが、ウスバカゲロウが進化したらしい。
全くの予想外にパッと身をひるがして駆け出した。

「氷上さん?!」

パニックとは何なのかを聞きたいのにそんな猶予は与えてくれない。
勿論付いて行くつもりだが手ぶらでは行けない。財布とコートを取りに戻ったついでに田淵と佐渡に「お先」と伝えてから階段を駆け降りて外に飛び出した。

氷上の姿はもうどこに見えないが、行き先は恐らくは1番手近な駅だ。

「あの人…本気出すと速いんだよな…」

走りたく無いけど走らなければならない。
しこたま飲んだビールが腹の中でチャプンチャプンと跳ね回っている。
クソみたいに重い足を前に運んでいると、何をしているのだろうとムカムカして来る。
絵里子さんって何なのだと思う。
1人で仕事を立ち上げるのは勝手だが、私生活ですら全く自立出来てはいないではないか。

鞄を無くした?
忘れ物か、落とし物か、それとも置き引きでも引ったくりでも何でもいいが、大人だろう。
瓢真が電話をして来たって事は少なくとも旦那さんである氷上のお兄さんは無くした鞄を探しに出ている筈だ。
そこに、氷上と自ら望んで参加している半酔っ払いを加え、4人もの人間を「鞄無くしちゃった~、どうしよう」なんて、そんなつまらない事に巻き込んでいる。

「頭が…クラクラして来たな……」

走ったせいで酔いが回ったのだと思う。
駅の明かりが見えて来る頃には歩く速度になっていた。

本来なら走る必要なんて無いのだ。
駅の落とし物や忘れ物は一括されて忘れ物センターに送られるから急いでも無駄なのだ。
もし、偶然、万が一、目の前にあったとしても絵里子さん本人か、それなりの委任が無ければ返して貰えない。

ハッキリ言って絵里子さんも絵里子さんの鞄もどうでもいいが、少し心配なのは慌てた様子の氷上だった。

あの氷上が……、「あの」氷上がだ。
ふわふわ漂う透明な虫では無く、逃げるカピパラのような身軽さで走ったのだ。
どんな非常事態ならそうなるのか、今度どこかに鞄を置いて来てやろうか……などと考えた。
(酔っているらしい)

「で……どこだ」

駅に着いたはいいが、もしも氷上が警察署に向かっていたら詰んでいる。(だって、もう走れない)それならそれで独立を目論む大人に付き合う事は無いのだから帰ってやろうかなと思った時だ、駅舎の方から氷上の声が聞こえた。

「ピンクのFURLA です!今日の昼から夕方に掛けて!」

氷上の大声を初めて聞いた。
よく見ると改札横の窓口に被りつくようにブルーのトレーナーが身を乗り出し「早く!」と駅員に詰め寄っている。

「氷上さん?」

呼び掛けると跳ねたように振り返る。

「遅いぞ姫!お前は警察に届いて無いか聞きに行ってくれ」
「それはいいですけど……」

行けと言うなら行くが、よく考えたらどんな鞄かは聞いてなかった。
ピンクのFURLA は以前会社の前で会った時に絵里子さんが持っていた物だと思うが、形を説明しろと言われたら無理だ。

「鞄の中に何が入っているか聞いてますか?免許証とか財布とか具体的な何かが無いと警察も困りますよ」
「ピンクのバッグが届いて無いかだけでもいい」
「でも…」
「ああ…ちょっと待て!」

反論しかけた口をビタンと殴られた。
どうやらそれらしき物が見つかったらしい、駅員が電話をしながらメモを書き、アイコンタクトをしながら氷上に渡した。

「駅?忘れ物センターじゃ無くて?」

まだ電話は終わってないのに、縋るように聞き直した氷上を見て、人の良さそうな駅員は困ったように笑っている。
「持ち主が向かうようです」と伝えてから急いで電話切った。

「その駅に行けばあるんですね?」
「ええ、お探しの鞄かどうかはわかりませんが、大きな紙袋と一緒に切符売り場の前に置き去りになっていたようです、夜の回収前だったからまだ当該駅でお預かりしているんですが……あの、ご存知だとは思いますが、持ち主だと証明しないと受け取りは出来ませんよ」
「本人が取りに行きます」

余程慌てているのか、いつもの社会性無視なのか。お礼も言わずに携帯を出した氷上に代わり、無理を聞いてくれた駅員さんにお礼を言った。

氷上の電話はお兄さんか瓢真か、絵里子さんにだろう。早口で鞄の在処を告げ、行くぞと手を取ってギュッと握ってきた。

「行くんですか?」
「行くさ」

「……いいですけど……手は繋がなくてもいいと思います」
「何でもいいだろ」
「鞄は絵里子さんが取りに行くんでしょう?」
「鞄が違う物だったら困るだろ」
「困るでしょうが、ここはお兄さんに任せとけばいいんじゃ無いですか?」

瓢真や氷上の慌て方を見ていると、どうやら絵里子は何か精神的な爆弾を持っているらしい。
しかし、どんな事情があろうとも、恐らく氷上の兄も鞄を探しているのなら恐らく路線上にいるだろう。

「ここはお兄さんに任せましょうよ、俺達より落ち着くと思います」
「違うんだ」
「何が?」

「絵里子さんが探しているのは鞄じゃ無いんだ。
「え?鞄でしょう?」
「鞄だけどそうじゃない」
「はあ…」

……鞄でないなら鞄と名のつく……鞄だろう、「ハンドバッグだ」などと言われたら多分切れる。

「どうなんですか?」
「鞄は鞄だけど絵里子さんが探しているのは兄貴なんだ」

何だかわからないまま「はい」と答えたが……何故か胸がドキンと跳ねた。

お兄さんを探している?
氷上の言った事は右脳独特の比喩なのか、または脚色の無い事実なのかはわからないが、ずっと握ったまま離さない手が氷上の焦りを伝えて来る。

都心を離れて行く電車は駅が進む毎に人が減って行く。席が二つ空いたから座った。
カタン、カタンと決まったリズムを刻む車両の気まぐれな身震いに肩がぶつかる。

どう受け取っていいかわからないまま、掛ける言葉が見つけられないでいると「ごめん」と一言だけがポツンと浮いた。

「………どうして謝るんですか?」
「あんまり見せたく無いのに巻き込んでる」
「残暑の厳しい夕方にあなたの後をつけたのは俺ですからね」
「え?……」

項垂れていた顔を少し上げて「何の事だ」と見上げて来る目。鈍く光る真新しい銀箔のような美しい三日月だ。

「青いと……思っていたら銀色なんですね」

訳のわからない事を言うと呆れたのか、それともこんな時なのに見惚れてしまったと知っているのか。氷上は「そうかもな」と擦るように小さく笑い、頭を預けて来た。


鞄を忘れた。

それはそんなに大した事じゃ無いと思う。
勿論だけど、財布やカードが入っていたら誰だって慌てる。しかし、ピンクのフルレは1日に何件も届くような鞄では無いと思う。恐らくもう見つかっていると考えて間違い無いだろう。

それでも、得体のしれない不安に包まれて胸の中が騒ついている。
お互いに凭れ合い、手を繋いだままで不穏な空気を見るまいと眠るように目を閉じて、目的の駅に着くまで電車に揺られた。

絵里子さんが鞄を置き忘れたらしい場所はデパ地下やモール街と繋がる大きな駅だった。

もう1時間か2時間程早ければもっと華やかなのだろう、しかし、10時を過ぎている今は閉まったシャッターが物寂しく感じる。
疎らな人並みは皆、家路に急いでいるのか、誰もが下を向いているように見えた。

「絵里子さんも向かっている」との連絡が瓢真からあった。先に間違い無いかを確かめても良かったのだが、どうせ持ち主の確認が出来なければ返しては貰えないのだ。
改札口を出て、そのままそこで少し待つ事になった。

「何か飲みますか?」

そう問いかけてみたが氷上は答えない。

とっくの昔に酔いは覚めていたが、走ったせいで喉がヒリヒリと痛み喉が渇いていた。
何か無いかと探した末に、一軒だけ空いていたジューススタンドでりんごジュースを2つ買った。

「座る所は…無いですね」
「そんなに待たないと思う。こっちが先か、あっちが先かってくらいのタイミングだったからな、もうじき着くんじゃないか?」
「そうですか」

何だかわからないが氷上が少し辛そうに見えた。
それならもう帰っていいのでは無いかと言いたかったが言えないでいると、階段下のホームに電車が着いたようだった。
改札口に吸い込まれて行く人は小走りになり、登りのエスカレーターには人の気配が産まれている。

どうやら絵里子はその電車に乗っていたらしい、カツカツとヒールの音が聞こえたかと思ったら、見覚えのあるコートがエスカレーターの降り口から飛び出て来た。
こっちだと手を振る暇も無かった。
氷上も何も目に入っていないのだろう、改札横の駅員に食い付いた。

「チカさん!!」
それが絵里子の第一声だった。

改札を飛び越えた氷上は、絵里子を庇う様に体を支え、「大丈夫」を繰り返している。
絵里子は電車を降りてすぐに、なりふり構わずエスカレーターを駆け上がって来たのだろう、すぐに追いついて来た瓢真も慌てていた。

傍観するしか無かった。
何故瓢真までここにいるのか、何故そんなにも慌てているのか、そして最大の「何故」は誰も教えてくれない。
誰の目にも止まらない透明な虫のような気分になっているのは仲間外れにされたような気分から来る僻みだろう。

興奮している絵里子を宥めているのは瓢真だ。
その間に駅員に事情を話したのは氷上だった。
社会に通じる言葉を持っていたなんて驚きしか無いが、ちゃんと敬語を口にして鞄を取りに来たと説明している。

どこかにいるお兄さん、塔矢はやれば出来る子らしいです。

そんな報告が出来ればいいのだが……
どうやら、それは不可能な事らしいとわかって来た。


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