北を見るフェイト

ろくろくろく

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もう2度と近寄らない

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今まで生きて来た人生の中でこれ程嫌な思いをした事は無い。最悪中の最悪だ。

氷上の顔を見たくなかった。

もっと言えばデザイン部にいたくない、何なら会社を辞めてしまいたかった。
仕事も嫌だし、酒蔵のチラシなんか破いて捨ててしまいたい。

深夜のオフィスで垣間見た光景は理性のバリアを食い破る勢いで日常のあちこちに害を成す。

氷上の足元にいた奴が誰だったかはわからないままだ。まさかとは思うが、もし同じ会社に勤めている同僚なら即刻退職願を出してもいいくらいの気持ちになっている。

しかし、1番嫌だったのは自分自身だった。

本当にもう関わりたく無い。
何なら軽蔑していると言っていいのに、目の端で氷上を探してしまうのだ。
色の付いた吐息を吐き、淫れていたあの時。
暗鬱な前髪の奥であの目がどんな表情を象っていたのかを想像してしまう。

誰も彼もが気に食わず、未来企画自体を憎んでいると言っていいくらいの気持ちになっていた。
荒れている自覚はあるが自制は出来なかった。

勿論仕事はちゃんとしている。
しかし、最低限必要な仕事の話はするが、雑談の類に乗る気は無く、無視と慇懃を貫いていた。
しかし、悪いとは思わない。
デザイン部のリーダーである氷上がそうなのだから、返事をしないぐらい何が悪いと思ってしまう。

そのせいか、再び「呑みに行かないか」と洋平くんに誘われたけど「嫌です」の一言も言えないくらい誰とも口を聞きたく無い。
頭を下げて外出、そのまま直帰の日々が続いていた。


そのままひと月程経ったが氷上とは一言も口を効いてない。

揶揄うようなキスをされた時もそうだったが、無視をしていると知らしめたいのに、こちらからアクションを起こさないな限り全く接点が無くなるのも悔しい。

それに、氷上はもっと不安になったりするべきだと思う。
逃げる時には足音を消さなかったのだから、会社で犯した不道徳な行いを誰かに見られたと気付いている筈だ。未来企画には数多の社員がいるが、デザイン部に用がある人間なんて限られているのだから北見の態度を見れば、それが誰かなんて気付いてもよさそうなのに言い訳一つしようとしない。

益々頑なになってしまう自分に嫌気が差していた。
だからという訳では無いが、断っても断ってもしつこく連絡して来る「正男」こと瓢真の誘いに乗りそうになった。

かの、有名な繁華街の二丁目にある「タコスの美味しい店」を指定され「来ないか?」と言われたから思いとどまれたが、飲む気になっていた気持ちを自己処理する事が出来無くなり1人飲みをするようになった。

昔馴染みでもある隠れ家のようなオーセンティックバーに足を運ぶのはもう毎晩に近い。

灯りはカウンターの奥に並ぶ酒瓶の後ろから照らす間接照明とカウンターに乗ったガラスの中の蝋燭だけだ。
BGMは無く、小さな咳払いすら憚るくらいの切れるような静寂と、少ない座席が生む閉塞感が好きだった。

1人で飲むのは嫌いじゃない。
しかし、この所のお酒は余り美味しく無かった。

カウンターの端っこに座り、空きっ腹にアイリッシュウイスキーを流し込むと滲みるって言葉がピッタリくる。
次の一口でグラスを開けると、シェイクを振っていたマスターに「もっと落ち着いて呑みなさい」と窘められた。

因みにこの店のマスターは女性なのである。本来女性をマスターとは呼ばないかもしれないがママと呼んで怒られた事がある。
年齢は不詳だが妖艶なイメージのあるとても美しい人で、一度軽い気持ちで口説いてみたら、返ってきた無言の笑顔が冷たかった事この上なかった。
しかし、突き放したりはしないのだ。
ほぼ何も答えてくれないが胸の内を吐露するにはピッタリの相手だった。

「ゆっくり呑みたいんですけどね、何かに追い立てられているみたいで……」

彼女の返事は「そう」の一言だ。
 
「俺は…ちょっとだけ特別なんだと思っていたのかな、ムカついて……何もかもにムカついて、殴ってやりたいくらいなんですけど…あの人は軽いビンタひとつでも分解しそうで……」

ピタんと軽く頬を張るとバーっと崩れて水溜りになりそうに思える。

「なんてったって…氷だからな……」

冷たくて、冷たくて、触ると火傷をしそうだ。
熱く焼けたアスファルトに寝転んだ時によく溶けなかったと思う。

2杯目のアイリッシュウイスキーを空にした。

空いたグラスを押し出して「わかります?」と聞いたら、何の話をしているのかわかる訳無いのに「そうね」と困った顔をしながらお代わりをくれた。

小さな間を置いてのフラットな相槌。
何がどうして誰の事を言いたいのかは聞いてこない。聞き流して欲しいと思っている今の心境にはありがたいスタンスを取ってくれるから、この店が好きなのだ。

例えば友達に話してもこうはいかない。
何があったのか詳しく話せと言われても、氷上がどんな性癖を持ち、誰と何をしようが関係無いのに、自分でも持て余す腹立たしい感情を説明出来ない。

美しいカットの入った重いグラスに浮いた結露の曇りに氷と書いてみたが我ながら読めない。

「何にも気にしてないんですよ…あの人……」
「そうか」
「は?」

凪いだ風のような声が突然野太い声に代わって返事をしたものだから驚いて顔を上げると、知らない間に嫌な奴が隣に座ってニコニコとしていた。
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