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身から出たフェイト
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空が真っ赤だった。
高いビルの窓が空の赤を映し、まるで大気が燃え上がっているかのようだ。夕焼けとはこんなに鮮烈なものだったのかと驚嘆に近い感動を覚え、額に浮いた汗を拭いた。
指で掬える程汗をかいているのは、久し振りに見上げた空模様に感激したからでは無い。
今、目にしている光景に呆然とする余り、強い日差しを避けて日陰に入る事も忘れて立ち尽くしているからだ。
もう10分はそこにいるのだろうか。
動けなくなっているのは無機質な高層ビルの建ち並ぶビジネス街に溶け込み、素知らぬ振りで営業をしているラブホテルの前だった。
足元には……火傷しそうなくらい焼けたアスファルトの上で人の靴を枕にして寝転がる男が1人。
どうしたら良いのかわからず、カスカスに乾いた弱々しい笑いしか出てこなかった。
全面に張り巡らされた偏光ガラスが青く発光している。細長い巨城からは2本の筒が透けて見えた。
今し方出てきたビルを振り返った北見《きたみ》は、忙しく上下するスケルトンのエレベーターを見上げ、顔に貼り付けていた笑顔を解いて舌打ちをした。
「最初に聞いたレトロっぽいっイメージってのは何だったんだよ」
20歳の年に大学を辞め、小さな広告代理店「未来計画」に勤めて6年、営業職のコツを掴んでからは流行と世相の注視を怠らず、服装や態度、話し方まで都会的なスタイルを作り上げ、クライアントを威圧する事に腐心してきた。
「これは素晴らしいデザインです」と雰囲気で押し切るのだ。
今、打ち合わせを終えたのは関東地区に30軒ほどのバイク屋を展開するスピードスター株式会社だ。近年はバイク人気が低迷している為、バイク屋など斜陽産業であった筈なのだが、蔓延する道路の渋滞や宅配文化の広がりと共に息を吹き返して業績を上げたらしい。
しかし、職種と社風に似つかわしくないハイソサエティなビルにテナントを置く株式会社スピードスターの社長はいかにも田舎者で俗物くさい中年の男だった。
浮いた資金が出来たのだろう、創業当時から使っていた素人臭いロゴを捨て、新しくしたいとの依頼を受けて青いガラスのビルに通う事、もう数度目。
スピードスターはデザインを請け負う上で最も厄介な「具体的なイメージを持っていない」タイプのクライアントだ。
最初の打ち合わせでレトロと聞いて、二色刷りをイメージした50sっぽいライダーのイラストを配置したロゴから始まり、コーポレートカラーのオレンジにしてくれ、もっとカラフルに、もっと目立つ感じで、もっとポップに、もっと、もっと。
今日は「もっと今時らしくスタイリッシュに」と言われて、鉄壁を誇っている北見の営業スマイルが歪みそうになった。
レトロとポップとスタイリッシュを同居させろと言われてもかなり難しい。社長の口調では今のデザインを修正したり昇華したりでは済まないだろう、つまりゼロペースでのやり直しになる訳だが、前に虎、後ろに狼とはこの事だ。面倒なクライアントも厄介だが、デザインのやり直しを頼まなければならないデザイナー達も厄介だった。
客相手に営業スマイルは当然だが身内相手にも穏やかで我慢強い「営業」を施さなければならないのはこの仕事の肝とも言えるが、電話をするのは憂鬱で思わず独り言を呟いた。
「どうせ聞き取り能力が無いとかお前がやれとか言われるんだろうな」
今回の担当デザイナーは特に文句の多いアラサーの地味女子である森上だ。素人目にも酷いデザインを出してくる事も度々あるくせ「私の力不足」とは一回も言わない。
「どうせグチグチと文句を言われるのなら森上が退社するギリギリの頃合いに修正を伝えて逃げた方がいいな」
スマホを出して時計を見ると夕方の4時を過ぎた所だった。営業職のいい所は仕事さえこなしていれば自由な所と言える。その日はもう他に回る用は無いから適当に時間を潰し、直帰しようと決めてコーヒーショップでも探すつもりだった。
読みかけていた本の続きが気になっていたのだ。
スピードスターが入るビルは3車線道路が網目に通るビジネス街にある。テナント家賃は相当高額になると思われるが成り上がりの田舎者には立地や見た目がステータスなのだろう、駅近なのは楽だがしっとりと休める飲食店は少ない。
しかし、スタバやタリーズ、サンマルク。チェーンのカフェなら余る程ある。
取り敢えず一番最初に目に付いた、道路の向かいにあったスターバックスに向かおうと横断歩道の方に行きかけた時、目の端に捉えた光景にハタと足を止めた。
「あれは……」
見間違えじゃ無いと思う。
今向かおうとしていたスタバから出てきた男を知っていた。
「氷上《ひかみ》さん?……だよな?…」
氷上は未来企画、デザイン部のチーフデザイナーをしている男だ。つまり同僚なのだが、今は夕方の4時過ぎ、絶賛仕事中の筈なのだが、ヒョロっとした細長い背格好はやはり氷上に見える。
1人じゃ無い。
何やら素行が悪そうに見える若い男に、脅されている親父のように竦めた肩を抱き込まれ、ヨタヨタと歩いていく。
一緒にいる男はテロテロした紺のシャツに花柄のサルエルパンツ、真っ白にブリーチした髪、あまり真っ当な職に就いているとは思えない服装をしていた。
どう見ても一般人じゃ無い。
そんな奴とこんな所で、こんな時間に何をしているのか、どこに行くのか気になった。
いつも同じ場所、背中を丸めた同じ姿勢で机に張り付いているのが常だ。トイレに立つ姿を見る事すら稀なのだ。
渡ろうとしていた信号が変わった事にも気付かず、目で追っていると赤い柱が目立つお洒落なビルの中に入って行く。
「え?…嘘……」
ちょっと驚いた。
そのビルは、一見するとアパレル専門のファッションビルか飲食店でも入っていそうに見えるのだが、この界隈では有名なホテルだ。
立地の割に価格が安く、観光客やビジネス客など「普通」の客がメインなのは間違い無いが、休憩などというメニューがある上にフロントが無い。
つまりは堂々と表通りに居を構え、普通の顔をしながらラブホテルの役割をこなす連れ込み宿の一面を持っている。
つまり氷上には不意に隣り合わせた見知らぬ誰かに話の一片を片耳にでも聞かれる事すら不味い密談があるらしい。あながち脅されていると思ったのは勘違いでは無いのかもしれない。
これは…ちょっと面白い事になった。
実は、今現在持っている名刺には一応「営業」と記されているが北見は営業部には所属していない。極小の広告代理店である未来企画が請け負う案件のうち、価格の低い細かい仕事を担当する「デザイン部専任の営業」をしている。
簡単に言えば、本物の営業が高く複雑な仕事を請け負い、北見が安く簡単な仕事の面倒を見ているって事だ。
対して氷上は5人いるデザイナーの中で、会社を上げて取り組むような「いい仕事」しか請け負っていない、つまり、同僚とは言っても氷上との接点は無いのだ。
仕事上でも、勿論プライベートでも、もっと言えば挨拶すらまともした事が無い。
それは別に仲が悪いとか、くだらない諍いがあるとか確たる理由がある訳ではなく、氷上の性質と仕事の性質のせいである。
常人ならぬ奴が多いデザイナーらしいと言えばそうなのだが、氷上の変人っぷりは相当なもので、より良い人間関係を構築する気はゼロらしい。
こっちから挨拶してチラとも見ない、顔も上げない。立って歩いている所を見る事すら稀で、いつもMacの27インチモニターに隠れるように背中を丸めて潜んでいるだけだった。
氷上はウスバカゲロウのような男…とでも言えばわかりやすいだろうか。
とにかく薄い。
透けていると言ってもいい。
それは儚いとか、繊細とか、透明感があるという意味では無く、言葉の通り薄いのだ。体型も細い。声も小さい、覇気がない、表情が無い。
ほぼ知らない人なのだがあまり良い印象は無いのである。
だから、一体どんな秘密を持っているのか、思わぬ所で氷上の弱味を見つけた気分だった。
どうせ関係無いのだから興味本位でもあった。
そして、ちょっとだけ……ほんの少しだけだが、「助けた方がいいのかもしれない」とも思っている。
だから、ホテルと同じ並びにあるスタバはやめて、反対車線のドトールコーヒーに入って外が見える席を確保した。
何を思ったのか、季節限定だと勧められるまま、きな粉豆乳ラテなるものを購入してしまったのも、思わぬタイミングで楽しいイベントが発生したからだと思う。
そして待つ事30分。
予想以上に甘い飲み物は一口飲んだだけでゲンナリした。手元に開けた本は外が気になり過ぎて文字を追っても頭に入らない。
もう飲む気は無かったのに無意識口に運んでしまうきな粉豆乳ラテは知らぬ間に底を付いた。
クネクネと弄り回したせいで本の1ページは紙の端がフニャフニャになってる。
「こりゃ駄目だな」
人のプライベートを暴くなんて、我ながらつまらぬ事に時間を割いているなっていう自覚はあるが、感覚としては芸能人の不祥事を見るのと同じだった。
もう、本は諦めて鞄にしまい込み、暇つぶしの代わりに氷上に何があったかを想像してみる事にした。
肩を竦ませて歩いて行く様子から見ても、借金の取立てとか、出会い頭に絡まれたとか、美人局に引っ掛かったとか、お金がらみか………最悪の場合は薬だ、氷上の風体を見ていると薬関係はあってもおかしく無いと思える。
勿論、氷上に聞いても何があったのかは教えてくれたりはしないだろう。つまり、待っていても真相が判明する事など無いが、ホテルから出て来た氷上の背中に「偶然ですね」と声を掛けてビックリする顔が見たい。その一心だった。
しかし、長くても30分と思っていたのに、1時間経っても2人は出て来ない。
腹は減って来るし、馬鹿馬鹿しさが台頭して来るし、例え氷上の弱味を握っても接点が無いのだから使いようも無いって事に気付いたりして、もうこれ以上見張ってはいられない。
馬鹿だったと自分を諫めつつ、席を立った時だった。4車線を跨いで尚且つ随分と距離はあるのに、遠目でもわかる派手な服装がホテルから出て来たのが見えた。
しかも1人だ。
馬鹿だと自覚しつつ思わず走った。走る必要なんて無いのにドトールコーヒーを慌てて飛び出し、タイミング良く青になった交差点を渡ってチャラい背中を追った。
ヒラヒラと踊る花柄のパンツがタクシーの車内に消えるまで走った。
追いついて何が出来る訳でも無いのに何をやってるのか。ホテルの前まで来たものの収穫すべきイベントはもう無い。
コーヒーショップできな粉豆乳ラテを飲み干してしまった時に止めるべきだったのだ。
完璧なエアコンのおかげでせっかく乾いていた背中に汗の湿り気を感じて、サマージャケットを脱ごうとしている時だった。
「姫ちゃん?」と背中から呼ばれて飛び上がった。後ろ暗さと恥ずかしさは満点だ。
正に仕掛けようとしていた罠に自らが嵌った感がある。
そろそろと後ろを振り返ると、今ホテルから出て来たらしい氷上が物を投げ打つようにタリンと腕を垂らして立っていた。
「氷上…さん…」
因みにだが「姫ちゃん」は会社での愛称だ。
北見《きたみ》逸姫《いつき》という名前の姫だけをフューチャーする呼び名は小学校からお馴染みだからもう何とも思わない。
しかし、氷上にまで「姫」と呼ばれるなんて思わなかった為、絶句していると、恐らく初めて見るヘラッとした笑顔が返ってきたからもう一度びっくりした。
「笑った……」
「こんな所で何してんの?仕事?」
「あ……はい、すぐそこのスピードスターで…あの?氷上さん?」
動揺した心を持ち直し、営業トークと得意のスマイルで乗り切ろうとしたが、氷上の顔をよく見てそんな場合では無いと悟った。
様子がおかしいのだ。
立っている足元は一歩踏み出そうとするとよろめいてフラフラしている。
「あの…まさか……酔ってるんですか?」
「あ?……ああ……多分…」
「多分って何ですか、一体何をしてるんです、仕事は?」
「……今日は…別件……でさ……スタジオに…さ…」
話しながらもユラ~ッとよろけて、腕につかまってきたと思ったら、まるでぬかるみに溺れるようにズルズルと落ちていく。そのままコトンと横になり、人の靴を枕にした。
蹴り転がして放置しようかと思った。
しかし、一応だけど同僚でもあるし、もし氷上が欠勤したら北見にもトバッチリが来るかもしれない、せめてタクシーに乗せるくらいまではしなければと、声を掛けようとしてギョッと手を引いた。
ほぼ年中同じ(そう見える)白い長袖シャツのはだけた襟の隙間から大量の赤い斑点が見えた。
赤く火照った生々しい鬱血痕が何か……
いつそこに張り付いたのかは明白だった。
「え?……え?…男と?ホテルって…そういう事?」
こんな事を聞くべきじゃ無かったのに、つい口にしてしまった。ほぼ独り言のつもりだったのだが、焦点の合ってない目が長過ぎる前髪の隙間からキョロッと動いて見上げてくる。
「駄目?」と聞かれて慌てた。
「いや、駄目じゃ無いけど…」
もし、殴られて顔が変わっていてもここまで驚いたりはしない。
てっきり密室が必要だったからこそのホテルだと思っていた。よく見ると耳の下、首、長袖を捲り上げた腕には強く掴まれたのか手形らしい痣が付いている。
怪しい男と氷上が1時間ほど過ごした場所は確かにラブホテルだが、まさかセックスをする為に入ったとはほんの少しも考えてはいなかった。
「今時……珍しく無い…のかもしれないけど……氷上さんはゲイ…なんですか?」
似合うけど。
「さあ?…」
「さあって…ちょっと困ってましたよね?まさか無理矢理?やっぱり脅されているとか?」
「やっぱりって何だよ……」
「………氷上さん?」
スッと目を閉じた氷上は立とうともせずそのまま眠る気に見えた。
場所はビジネス街、もう9月も終わろうとしているのに日差しはまだ暑い。
何とかしなければならないけど、何となくだが氷上に触れていいものかと、戸惑いしか出てこなかった。酔っ払いの女子をどう扱って良いものか悩むのと同じだ。
どうしていいかわからない。
茫然と立ち尽くし、焼け始めた空が綺麗だな……なんて思っている所だった。
高いビルの窓が空の赤を映し、まるで大気が燃え上がっているかのようだ。夕焼けとはこんなに鮮烈なものだったのかと驚嘆に近い感動を覚え、額に浮いた汗を拭いた。
指で掬える程汗をかいているのは、久し振りに見上げた空模様に感激したからでは無い。
今、目にしている光景に呆然とする余り、強い日差しを避けて日陰に入る事も忘れて立ち尽くしているからだ。
もう10分はそこにいるのだろうか。
動けなくなっているのは無機質な高層ビルの建ち並ぶビジネス街に溶け込み、素知らぬ振りで営業をしているラブホテルの前だった。
足元には……火傷しそうなくらい焼けたアスファルトの上で人の靴を枕にして寝転がる男が1人。
どうしたら良いのかわからず、カスカスに乾いた弱々しい笑いしか出てこなかった。
全面に張り巡らされた偏光ガラスが青く発光している。細長い巨城からは2本の筒が透けて見えた。
今し方出てきたビルを振り返った北見《きたみ》は、忙しく上下するスケルトンのエレベーターを見上げ、顔に貼り付けていた笑顔を解いて舌打ちをした。
「最初に聞いたレトロっぽいっイメージってのは何だったんだよ」
20歳の年に大学を辞め、小さな広告代理店「未来計画」に勤めて6年、営業職のコツを掴んでからは流行と世相の注視を怠らず、服装や態度、話し方まで都会的なスタイルを作り上げ、クライアントを威圧する事に腐心してきた。
「これは素晴らしいデザインです」と雰囲気で押し切るのだ。
今、打ち合わせを終えたのは関東地区に30軒ほどのバイク屋を展開するスピードスター株式会社だ。近年はバイク人気が低迷している為、バイク屋など斜陽産業であった筈なのだが、蔓延する道路の渋滞や宅配文化の広がりと共に息を吹き返して業績を上げたらしい。
しかし、職種と社風に似つかわしくないハイソサエティなビルにテナントを置く株式会社スピードスターの社長はいかにも田舎者で俗物くさい中年の男だった。
浮いた資金が出来たのだろう、創業当時から使っていた素人臭いロゴを捨て、新しくしたいとの依頼を受けて青いガラスのビルに通う事、もう数度目。
スピードスターはデザインを請け負う上で最も厄介な「具体的なイメージを持っていない」タイプのクライアントだ。
最初の打ち合わせでレトロと聞いて、二色刷りをイメージした50sっぽいライダーのイラストを配置したロゴから始まり、コーポレートカラーのオレンジにしてくれ、もっとカラフルに、もっと目立つ感じで、もっとポップに、もっと、もっと。
今日は「もっと今時らしくスタイリッシュに」と言われて、鉄壁を誇っている北見の営業スマイルが歪みそうになった。
レトロとポップとスタイリッシュを同居させろと言われてもかなり難しい。社長の口調では今のデザインを修正したり昇華したりでは済まないだろう、つまりゼロペースでのやり直しになる訳だが、前に虎、後ろに狼とはこの事だ。面倒なクライアントも厄介だが、デザインのやり直しを頼まなければならないデザイナー達も厄介だった。
客相手に営業スマイルは当然だが身内相手にも穏やかで我慢強い「営業」を施さなければならないのはこの仕事の肝とも言えるが、電話をするのは憂鬱で思わず独り言を呟いた。
「どうせ聞き取り能力が無いとかお前がやれとか言われるんだろうな」
今回の担当デザイナーは特に文句の多いアラサーの地味女子である森上だ。素人目にも酷いデザインを出してくる事も度々あるくせ「私の力不足」とは一回も言わない。
「どうせグチグチと文句を言われるのなら森上が退社するギリギリの頃合いに修正を伝えて逃げた方がいいな」
スマホを出して時計を見ると夕方の4時を過ぎた所だった。営業職のいい所は仕事さえこなしていれば自由な所と言える。その日はもう他に回る用は無いから適当に時間を潰し、直帰しようと決めてコーヒーショップでも探すつもりだった。
読みかけていた本の続きが気になっていたのだ。
スピードスターが入るビルは3車線道路が網目に通るビジネス街にある。テナント家賃は相当高額になると思われるが成り上がりの田舎者には立地や見た目がステータスなのだろう、駅近なのは楽だがしっとりと休める飲食店は少ない。
しかし、スタバやタリーズ、サンマルク。チェーンのカフェなら余る程ある。
取り敢えず一番最初に目に付いた、道路の向かいにあったスターバックスに向かおうと横断歩道の方に行きかけた時、目の端に捉えた光景にハタと足を止めた。
「あれは……」
見間違えじゃ無いと思う。
今向かおうとしていたスタバから出てきた男を知っていた。
「氷上《ひかみ》さん?……だよな?…」
氷上は未来企画、デザイン部のチーフデザイナーをしている男だ。つまり同僚なのだが、今は夕方の4時過ぎ、絶賛仕事中の筈なのだが、ヒョロっとした細長い背格好はやはり氷上に見える。
1人じゃ無い。
何やら素行が悪そうに見える若い男に、脅されている親父のように竦めた肩を抱き込まれ、ヨタヨタと歩いていく。
一緒にいる男はテロテロした紺のシャツに花柄のサルエルパンツ、真っ白にブリーチした髪、あまり真っ当な職に就いているとは思えない服装をしていた。
どう見ても一般人じゃ無い。
そんな奴とこんな所で、こんな時間に何をしているのか、どこに行くのか気になった。
いつも同じ場所、背中を丸めた同じ姿勢で机に張り付いているのが常だ。トイレに立つ姿を見る事すら稀なのだ。
渡ろうとしていた信号が変わった事にも気付かず、目で追っていると赤い柱が目立つお洒落なビルの中に入って行く。
「え?…嘘……」
ちょっと驚いた。
そのビルは、一見するとアパレル専門のファッションビルか飲食店でも入っていそうに見えるのだが、この界隈では有名なホテルだ。
立地の割に価格が安く、観光客やビジネス客など「普通」の客がメインなのは間違い無いが、休憩などというメニューがある上にフロントが無い。
つまりは堂々と表通りに居を構え、普通の顔をしながらラブホテルの役割をこなす連れ込み宿の一面を持っている。
つまり氷上には不意に隣り合わせた見知らぬ誰かに話の一片を片耳にでも聞かれる事すら不味い密談があるらしい。あながち脅されていると思ったのは勘違いでは無いのかもしれない。
これは…ちょっと面白い事になった。
実は、今現在持っている名刺には一応「営業」と記されているが北見は営業部には所属していない。極小の広告代理店である未来企画が請け負う案件のうち、価格の低い細かい仕事を担当する「デザイン部専任の営業」をしている。
簡単に言えば、本物の営業が高く複雑な仕事を請け負い、北見が安く簡単な仕事の面倒を見ているって事だ。
対して氷上は5人いるデザイナーの中で、会社を上げて取り組むような「いい仕事」しか請け負っていない、つまり、同僚とは言っても氷上との接点は無いのだ。
仕事上でも、勿論プライベートでも、もっと言えば挨拶すらまともした事が無い。
それは別に仲が悪いとか、くだらない諍いがあるとか確たる理由がある訳ではなく、氷上の性質と仕事の性質のせいである。
常人ならぬ奴が多いデザイナーらしいと言えばそうなのだが、氷上の変人っぷりは相当なもので、より良い人間関係を構築する気はゼロらしい。
こっちから挨拶してチラとも見ない、顔も上げない。立って歩いている所を見る事すら稀で、いつもMacの27インチモニターに隠れるように背中を丸めて潜んでいるだけだった。
氷上はウスバカゲロウのような男…とでも言えばわかりやすいだろうか。
とにかく薄い。
透けていると言ってもいい。
それは儚いとか、繊細とか、透明感があるという意味では無く、言葉の通り薄いのだ。体型も細い。声も小さい、覇気がない、表情が無い。
ほぼ知らない人なのだがあまり良い印象は無いのである。
だから、一体どんな秘密を持っているのか、思わぬ所で氷上の弱味を見つけた気分だった。
どうせ関係無いのだから興味本位でもあった。
そして、ちょっとだけ……ほんの少しだけだが、「助けた方がいいのかもしれない」とも思っている。
だから、ホテルと同じ並びにあるスタバはやめて、反対車線のドトールコーヒーに入って外が見える席を確保した。
何を思ったのか、季節限定だと勧められるまま、きな粉豆乳ラテなるものを購入してしまったのも、思わぬタイミングで楽しいイベントが発生したからだと思う。
そして待つ事30分。
予想以上に甘い飲み物は一口飲んだだけでゲンナリした。手元に開けた本は外が気になり過ぎて文字を追っても頭に入らない。
もう飲む気は無かったのに無意識口に運んでしまうきな粉豆乳ラテは知らぬ間に底を付いた。
クネクネと弄り回したせいで本の1ページは紙の端がフニャフニャになってる。
「こりゃ駄目だな」
人のプライベートを暴くなんて、我ながらつまらぬ事に時間を割いているなっていう自覚はあるが、感覚としては芸能人の不祥事を見るのと同じだった。
もう、本は諦めて鞄にしまい込み、暇つぶしの代わりに氷上に何があったかを想像してみる事にした。
肩を竦ませて歩いて行く様子から見ても、借金の取立てとか、出会い頭に絡まれたとか、美人局に引っ掛かったとか、お金がらみか………最悪の場合は薬だ、氷上の風体を見ていると薬関係はあってもおかしく無いと思える。
勿論、氷上に聞いても何があったのかは教えてくれたりはしないだろう。つまり、待っていても真相が判明する事など無いが、ホテルから出て来た氷上の背中に「偶然ですね」と声を掛けてビックリする顔が見たい。その一心だった。
しかし、長くても30分と思っていたのに、1時間経っても2人は出て来ない。
腹は減って来るし、馬鹿馬鹿しさが台頭して来るし、例え氷上の弱味を握っても接点が無いのだから使いようも無いって事に気付いたりして、もうこれ以上見張ってはいられない。
馬鹿だったと自分を諫めつつ、席を立った時だった。4車線を跨いで尚且つ随分と距離はあるのに、遠目でもわかる派手な服装がホテルから出て来たのが見えた。
しかも1人だ。
馬鹿だと自覚しつつ思わず走った。走る必要なんて無いのにドトールコーヒーを慌てて飛び出し、タイミング良く青になった交差点を渡ってチャラい背中を追った。
ヒラヒラと踊る花柄のパンツがタクシーの車内に消えるまで走った。
追いついて何が出来る訳でも無いのに何をやってるのか。ホテルの前まで来たものの収穫すべきイベントはもう無い。
コーヒーショップできな粉豆乳ラテを飲み干してしまった時に止めるべきだったのだ。
完璧なエアコンのおかげでせっかく乾いていた背中に汗の湿り気を感じて、サマージャケットを脱ごうとしている時だった。
「姫ちゃん?」と背中から呼ばれて飛び上がった。後ろ暗さと恥ずかしさは満点だ。
正に仕掛けようとしていた罠に自らが嵌った感がある。
そろそろと後ろを振り返ると、今ホテルから出て来たらしい氷上が物を投げ打つようにタリンと腕を垂らして立っていた。
「氷上…さん…」
因みにだが「姫ちゃん」は会社での愛称だ。
北見《きたみ》逸姫《いつき》という名前の姫だけをフューチャーする呼び名は小学校からお馴染みだからもう何とも思わない。
しかし、氷上にまで「姫」と呼ばれるなんて思わなかった為、絶句していると、恐らく初めて見るヘラッとした笑顔が返ってきたからもう一度びっくりした。
「笑った……」
「こんな所で何してんの?仕事?」
「あ……はい、すぐそこのスピードスターで…あの?氷上さん?」
動揺した心を持ち直し、営業トークと得意のスマイルで乗り切ろうとしたが、氷上の顔をよく見てそんな場合では無いと悟った。
様子がおかしいのだ。
立っている足元は一歩踏み出そうとするとよろめいてフラフラしている。
「あの…まさか……酔ってるんですか?」
「あ?……ああ……多分…」
「多分って何ですか、一体何をしてるんです、仕事は?」
「……今日は…別件……でさ……スタジオに…さ…」
話しながらもユラ~ッとよろけて、腕につかまってきたと思ったら、まるでぬかるみに溺れるようにズルズルと落ちていく。そのままコトンと横になり、人の靴を枕にした。
蹴り転がして放置しようかと思った。
しかし、一応だけど同僚でもあるし、もし氷上が欠勤したら北見にもトバッチリが来るかもしれない、せめてタクシーに乗せるくらいまではしなければと、声を掛けようとしてギョッと手を引いた。
ほぼ年中同じ(そう見える)白い長袖シャツのはだけた襟の隙間から大量の赤い斑点が見えた。
赤く火照った生々しい鬱血痕が何か……
いつそこに張り付いたのかは明白だった。
「え?……え?…男と?ホテルって…そういう事?」
こんな事を聞くべきじゃ無かったのに、つい口にしてしまった。ほぼ独り言のつもりだったのだが、焦点の合ってない目が長過ぎる前髪の隙間からキョロッと動いて見上げてくる。
「駄目?」と聞かれて慌てた。
「いや、駄目じゃ無いけど…」
もし、殴られて顔が変わっていてもここまで驚いたりはしない。
てっきり密室が必要だったからこそのホテルだと思っていた。よく見ると耳の下、首、長袖を捲り上げた腕には強く掴まれたのか手形らしい痣が付いている。
怪しい男と氷上が1時間ほど過ごした場所は確かにラブホテルだが、まさかセックスをする為に入ったとはほんの少しも考えてはいなかった。
「今時……珍しく無い…のかもしれないけど……氷上さんはゲイ…なんですか?」
似合うけど。
「さあ?…」
「さあって…ちょっと困ってましたよね?まさか無理矢理?やっぱり脅されているとか?」
「やっぱりって何だよ……」
「………氷上さん?」
スッと目を閉じた氷上は立とうともせずそのまま眠る気に見えた。
場所はビジネス街、もう9月も終わろうとしているのに日差しはまだ暑い。
何とかしなければならないけど、何となくだが氷上に触れていいものかと、戸惑いしか出てこなかった。酔っ払いの女子をどう扱って良いものか悩むのと同じだ。
どうしていいかわからない。
茫然と立ち尽くし、焼け始めた空が綺麗だな……なんて思っている所だった。
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