3 / 8
何でチュー?
しおりを挟む
例え遥果がお金持ちだとしてもお金を借りたら返しに来なくてはならない。
それは避けたいからもう走って帰る。
道はわからないけど、とにかく来た道を戻ればどこかでマラソンのコースに行き着く筈だ。
そしたら運営が走らせている無料のリタイアバスが競技場までは連れて帰ってくれる。
そんなもん無ければ完走すればいい。
「達也?」と遥果が呼んでる。
でも待つ気は無い。
「ご馳走様」を捨て台詞に、ドアを開けて飛び出した。
窪地から数メートル走れば道に上がれる。
草を踏んで地面を蹴ったけど……
何だろう。足の力が抜けていく。
痛いとか怠いじゃ無いのだ。
正に足が消えていく、そんな感覚だった。
「あれ?……あ…あれ?あれ?」
カクンと膝が折れた。
後数歩で道なのにクタクタと体が崩れ、柔らかい下草に手を付いた。「達也!」と呼ぶ遥果の声は少し慌てているようだが、大丈夫と虚勢を張れる状態では無い。
足の虚無感は下半身を超えて腕の力を奪い、本当に何が起こっているのか、ひいては意識さえ霞んでくる。
苦しくは無いのだ。痛くも無いのだ。
この状態を強いて言えば眠い。
何だか懐かしく、少し寂しく、酷く切ない、郷愁のような感覚が心を覆う。
これはアレだ。
病気になったり怪我をするとお母さんを思い出すって感覚だ。実際の母は荒々しく雑で、ほぼ必要の無いお節介はしてくるけど何か頼むと胸を張ってキッパリと断ってくると言う自由で豪傑な人なのだが、体調が悪くなると何故か頭の中の母が美化するアレ。
自分がどこにいるかわからなくなるくらい走れたのは、ハイになり過ぎていた俺の体にエンドルフィンとかドーパミンとか何だかよく知らないけど苦痛を麻痺する脳内物質が溢れていたからだ。
しかし、珈琲を飲んだり古典のような心中話を聞いたりして落ち着いてしまったから鎮痛の効果が切れたのだと思う。
それって実はとても危ない事で……危ないからこうなってる?
まさか死んだりして……なんて思いながら笑えないのに笑っていると、何だか唇が熱い事に気が付いた。
唇だけが熱いなんて変だけど、熱いとしか言いようが無いから熱いと表現した。
それは今まで生きた中では知らない感覚で、薄くなりかけた現実が徐々にハッキリとしてきた。
そう、体力の限界に落ちかけて無抵抗になった俺は遥果に襲われてる。抱き起こされてブチューっと音がするくらいのキスをされていた。
目も覚めるよ。
「んふ~ーっ?!!!ん~っ!ん~っ!!」
抗議は鼻息。
罵倒も鼻息。
腕ごと抱かれてるから手が出せないのだ。
「んが!」
遥果!と喚いたつもりだ。
もう「さん」は付けない。
俺の断りも無く酷いと思う。
ファーストキスは人生で一度きりしか無いのだ。
貴重なファーストキスはきっと、ずっと先まで忘れない筈だ。歳を取って死ぬ間際に「初めてのチューは可愛いあの子だったなぁ」なんてもう望めないのだ。遥果の顔が記憶の中に永遠に刻まれてもう消えない。
ショックで頭はハッキリしたけど、まだ足の感覚が戻ってないからか、暴れてみたけど、丘に上げたウナギみたいにクネクネと依れるだけになってる。でもやらないよりはマシだ。
そして、最終兵器は頭突きだ。
「フン」っとおデコを打ち付けるとスポンッ、と嘘のような音がして張り付いていた遥果が取れた。
「勝手にチューすんな!」
「達也が勝手に外に出るからだろ!」
「はあ?!」
思わぬ逆ギレに驚いた。
でも、心の準備も無く、「好きだよ」「私も」なんて前振りも無くチューを奪われた方が驚く。
「お礼は言っただろ!俺がお金を持ってないって知ってるだろ、そんなら支払いはまた今度だ、そんなら帰るのは自由だろ!変態!馬鹿!」
世話になったのは事実なのに、ちょっと乱暴な言い方だなって思うけど言ってる事は間違ってないと思う。しかし変態と馬鹿は言い過ぎだったのか、「ふ~ん」と白けた声を出した遥果はちょっと気を悪くしたようだ。
「じゃあ帰れるもんなら帰れば?!」と、抱き抱えられていた膝からポイっと放り出された。
「帰るけど…」
自由になったはいいけど……立てない。
多分だけど貧血を起こしたのだと思う。
(貧血ってよく聞くけど、実は貧血を起こした事無いからよくわからない)
一瞬消え失せた体の感覚はもう戻っているけどまだ上手く動かない。
「さよーならー」なんてミュージカル調に手を振り、綺麗なターンをしながら店に戻っていく遥果はそれを知っていて遊んでいるのだ。
悔しいけど……立てないのだから仕方が無い。
両腕で地面を掻いて憎たらしい足にしがみ付いた。
「待って!…待ってよ!」
「あれぇ~、何ぃ~?帰るんじゃ無いのぉ~?」
「ごめん…なさい、遥…果さん……タスケテ……クダサイ」
「え~何て~?聞こえなーい」
聞こえてるくせに……
「もう一回、チューしてもいいなら考えるぅ~」
「……このクソホモ」
「あれぇ~?何か聞こえた~?」
「何でも無いです、チューはしませんが店の掃除をします、カップを洗います、肩を揉みます…だから……」
何だか足がジンジンと痺れているのだ。「早く立たせろ」って喚くと「俺のチューで蘇ったくせに…」とか「恩知らず」とかブツブツと文句を吐きながらも脇に腕を入れてズルズルと店の中まで連れ戻してくれた。
それはいいけど……引き摺られたせいでズボンが脱げそうになってる。
そしたら遥果が「果敢だね」って、何だそれ。
「……思いやり溢れる優しい扱いにズボンがズレただろ」
「うん、パンツが見えてるね、そこでだな、まだ立てないなら店の奥で横になれる場所があるよ?どうする?」
「どうするって…あっ!遥果、お前俺を動けなくして襲う気だな?チューする気だろ」
「………チュー?」
「あ、てめえ、なかった事にする気か、暇で退屈なんだろ?だけどおあいにく様だ、俺はそんな手に乗らないぞ」
「うん」
「チュー……ね…」と、ちょっと小馬鹿にしたような繰り返しと考え込むような腕組み。
そして呆れたような視線。
「………」
「……何だよ…その目、何か言えよ」
「いや……いいけど……歩けなくて、ベッドに寝て……チューの心配…だけ?」
「だけって何だ、俺のチューは貴重だぞ?少なくとも珈琲の料金分くらいは十分あるぞ、もうお金を返しに来たりしないからな、チャラだからな」
「珈琲代はいいけど……」
「達也は物凄く綺麗なんだね」と眩しそうに目を細めた遥果は何だかわからないけど底が抜けてしまったらしい。
ウキウキと楽しそうに、またダンスのようなターンをして4つあるテーブルの奥にある壁の取手に手を掛けた。すると壁が剥がれてパカんと簡易ベッドのような棚が出て来た。
「今、枕と毛布持ってくるからねー」とこれもミュージカル調だ。
「収納式のベッドがあるんだ…」
喫茶店なのに変なオプションだなぁって思うけど、有り難い事は有り難い。
感覚は戻ってるけど足がまだフニャフニャなのだ。触って捏ねたら形を変えられるんじゃ無いかと疑うくらいフニャフニャ。
幾ら閑散とした店でも、出入り口にゼッケンを付けた短パン男がいつまでも寝転んでいては甚だ迷惑だろう。
しかしこれ以上遥果の世話になりたく無いし、なる訳にもいかないので、こうなったら匍匐前進だ。肘と腕で這ってベッドの下まで進み、後は懸垂を試みる。
「壊れないかな…」
簡易ベッドは折りたたみ式の細い脚だけで全部を支えている。腕を掛けて体を持ち上げるとギイッと鳴いた。
しかし、もっと不安定かと思った簡易ベッドは意外と強固で、何とか体を持ち上げて寝転がる。
すると木枠の中はマットレスが敷いてあったらしく、ふわりと体を受けてくれた。
「ふかふかだな……」
細々とお金持ちだなぁっとしみじみ思いながら、ふうッと息を吐いて天井を見上げた。
梁の見える吹き抜けになっている。
つまりは二階が無いって事で、斜めの天井は屋根の形そのままだからだろう。
一階は店舗と厨房らしき狭い小部屋しか無いから、つまりのつまりは遥果の家はどこか別の場所にあるって事だ。
記憶が無くても(審議中)安定してる。
囚われてるとまで言うのだから現状に不満があるのかもしれないけど、やっぱり家はお金持ちで両親に助けて貰ってるんだと思う。(どう考えても自活の意思は薄い)
まあ……家賃が5万なのに6万しかもらってないとは言え仕送りで生きているのに、食うのもギリギリのバイト代でマラソン大会とかに出て遭難してる俺も俺だ。
やっぱり体は何とも無いのに足だけは痺れたままなのだ。それは、無自覚なのが不思議なくらい重症なのだと思っていい。
足が動かないのは多分塩が足りないからなのだと思う。水だけでは駄目なのだ。
丁度「毛布はチェックと花柄どっちがいい?」と正にどうでもいい事を聞くために遥果が顔を出したから、「花柄」と、ついでに「塩」を頼んだ。
「わかった」と枕と毛布と、本当に普通の卓上塩を抱えた遥果がルンルンとスキップして来る。
「機嫌いいな」
「うん、こんなに楽しい事って無いからな」
「それは何よりだけど、俺は餌じゃ無いからな」
「餌って酷いな」って遥果は笑うけど、自己紹介の次がチューなんてほぼ通り魔、こんにちはと撲殺。寝込みを襲う強姦魔。
そう。
俺の大切なファーストキスは敢なく惨殺。
「楽しくは無いだろ」
「絶対にチェックって言うと思ったのに花柄を選ぶしね」
「花柄って言った方が喜ぶと思ったの、どうせチェックって言っても花柄を持ってくるつもりだったろ?」
「よくわかるね」ってわかるよ。
ピンクピンクした厚手の毛布を広げて可愛いだろって笑う顔は揶揄う気満々だからね。
でもピンクも花柄も抵抗無いし、何よりも買って持って帰る訳じゃ無いから何でもいい。
ファサっと体に乗った毛布からはミモザの匂いがする。
「あり……がと…」
「寒い?、無茶をするからだよ、帰れる時は否応無しに帰っちゃうからさ、今はここにいて、達也は俺の側から離れたら多分逝っちゃうよ」
「不吉な事を言うな、そこまで酷くないよ、それに遥果が側にいて何か出来んの?珈琲味の点滴がメニューにあるとか?」
「無いけど俺はここにいる達人だからな」
怠ける達人ね
エロの達人ね。
連れ込みの達人ね。
遥果ってやっぱりちょっと変わった人だなって思うけど、意外にも面倒見がいい人だった。
靴を脱がせてくれた上に「冷えるから」って被せた毛布を折り返して足に巻いてくれる。
そこまでしてくれなくてもいいのに、頭を持ち上げてふかふかの枕を差し入れてくる。
そして、何故か塩を掌に出してる。
「何してるんですか?そんなの食べさせてくれなくてもいいですよ、それより出来れば水に混ぜて飲んだ方がいいかなって思うんだけど」
「舐めた方が早く無い?」
「何でもいいけど…」
しかし、ここで遥果の「つもり」を見誤った事に気が付いた。
掌に乗った塩を口に放り込んでくれるんだって思ってたら、遥果自身がペロリと舐めた。
つまりそれはやっぱり……そう言う事だ。
「え?え?何してんの?自分で舐める!自分で食う!いらないから!いらないから」
「楽しい方がいいだろ?」
「強姦魔!二回目も盗る気か!」
俺は何故寝転んだ。
座ってりゃ良かったんだ。
両手首を掴まれて、のしかかって来る遥果は意外と強くて暴れても外れない。
顎を引いて顔を背けて「噛むぞ」とガチガチ歯を鳴らしても怯んでくれない。
「遥果!!俺は病気だぞ、去年だけどインフルエンザになったぞ!まだウイルスがいるぞ!花粉症だぞ!」
「ここに病気なんか無いから」
「あるだろ!既に病気だろ!俺は男だったら!」
「まあまあ、いいから貰えるもんは貰っときなよ」
「いらねぇ!」
「ヒィ」
ペタンと顔に乗った遥果の唇は悲鳴を上げる俺の口を塞ぎ、のしっと体重がかかって来た。
「んむぅ~~っ!!」
唇を合わせるチューだけでも相当なのに、ヌウっと侵入して来たの物はかなりの塩味だった。
その感触に驚く。
質感に驚く。
知っている(知識)キスはこんなんじゃ無い。
レロレロと遥果が口の中で動くともうどうしていいかわからない。
だって逃げ場所が無いのだ。
手足の力は抜けていくし、遥果の体はあったかいし、思っていたような嫌悪感は無い。
「ん……」
ベロベロと口の中を舐められて気持ち悪くはあるけど否応無しに味わってしまう。
だって、美味しいのだ。
長距離を走ったままで水分の補給もせずに放置していたからか、体は知らない間に悲鳴を上げていた。立てなくなるまで気が付かないなんて我ながら鈍感過ぎた。
水分と塩分の欠乏はあらゆる病気よりもずっと死に近いのだ。脱水が酷くなると水を飲んでも吐いてしまう。それこそ点滴でもなけりゃすぐに死ぬ、だけど治療は一瞬である。
余程重篤で無い限り水を飲んで塩分を補給すればいい。
こうなったらむしゃぶり付いているのは遥果なのか俺なのか、最早甘く感じる塩味を舐めて吸って飲み込んだ。
「ん……ふぅ……」
恍惚の吐息が鼻の奥から漏れる。
絡まる舌と舌は熱くて、心地良くて、とても甘い。ピチャっと跳ねる水音は最早食欲を唆って来る。
「もっと?…」
ツウーっと伸びる水の糸を引いて唇を離した遥果が聞いた。「うん」と答えてしまったのは頭じゃ無くて体だったと思う。
今度は口の中に直接塩を振りかけた遥果は穏やかに笑ってる。
ゆっくり、焦らすように顔が寄ってくると、もうこっちから口を開けた。
腕の拘束ももう無い。
男同士でキス……そんな概念はもう無かった。
ひたすら遥果を求め、熱い肉を啜る長い交わりは数分に及び、舌の付け根が怠くなる頃に遥果が離れて行った。
吸い出された舌が何だか物寂しいのは頭の芯がふわふわしているからだと思う。
「ほら、もう口を閉めて、少し、眠るかい?」
「……いいの?」
「いいよ」
遥果はそう言ったんだと思うけど、半分しか聞こえてない。だって今日は5時起きなのだ。
多分半分の20キロは走ったし、カップルの喧嘩に体力を吸い取られて脱水症状で倒れた。
キリキリと下限を彷徨っていた体力はもう底をついて当たり前だと思う。
「1時間経ったら起こして」と言えたかどうか……
何もわからないまま、闇の中に落ちた。
それは避けたいからもう走って帰る。
道はわからないけど、とにかく来た道を戻ればどこかでマラソンのコースに行き着く筈だ。
そしたら運営が走らせている無料のリタイアバスが競技場までは連れて帰ってくれる。
そんなもん無ければ完走すればいい。
「達也?」と遥果が呼んでる。
でも待つ気は無い。
「ご馳走様」を捨て台詞に、ドアを開けて飛び出した。
窪地から数メートル走れば道に上がれる。
草を踏んで地面を蹴ったけど……
何だろう。足の力が抜けていく。
痛いとか怠いじゃ無いのだ。
正に足が消えていく、そんな感覚だった。
「あれ?……あ…あれ?あれ?」
カクンと膝が折れた。
後数歩で道なのにクタクタと体が崩れ、柔らかい下草に手を付いた。「達也!」と呼ぶ遥果の声は少し慌てているようだが、大丈夫と虚勢を張れる状態では無い。
足の虚無感は下半身を超えて腕の力を奪い、本当に何が起こっているのか、ひいては意識さえ霞んでくる。
苦しくは無いのだ。痛くも無いのだ。
この状態を強いて言えば眠い。
何だか懐かしく、少し寂しく、酷く切ない、郷愁のような感覚が心を覆う。
これはアレだ。
病気になったり怪我をするとお母さんを思い出すって感覚だ。実際の母は荒々しく雑で、ほぼ必要の無いお節介はしてくるけど何か頼むと胸を張ってキッパリと断ってくると言う自由で豪傑な人なのだが、体調が悪くなると何故か頭の中の母が美化するアレ。
自分がどこにいるかわからなくなるくらい走れたのは、ハイになり過ぎていた俺の体にエンドルフィンとかドーパミンとか何だかよく知らないけど苦痛を麻痺する脳内物質が溢れていたからだ。
しかし、珈琲を飲んだり古典のような心中話を聞いたりして落ち着いてしまったから鎮痛の効果が切れたのだと思う。
それって実はとても危ない事で……危ないからこうなってる?
まさか死んだりして……なんて思いながら笑えないのに笑っていると、何だか唇が熱い事に気が付いた。
唇だけが熱いなんて変だけど、熱いとしか言いようが無いから熱いと表現した。
それは今まで生きた中では知らない感覚で、薄くなりかけた現実が徐々にハッキリとしてきた。
そう、体力の限界に落ちかけて無抵抗になった俺は遥果に襲われてる。抱き起こされてブチューっと音がするくらいのキスをされていた。
目も覚めるよ。
「んふ~ーっ?!!!ん~っ!ん~っ!!」
抗議は鼻息。
罵倒も鼻息。
腕ごと抱かれてるから手が出せないのだ。
「んが!」
遥果!と喚いたつもりだ。
もう「さん」は付けない。
俺の断りも無く酷いと思う。
ファーストキスは人生で一度きりしか無いのだ。
貴重なファーストキスはきっと、ずっと先まで忘れない筈だ。歳を取って死ぬ間際に「初めてのチューは可愛いあの子だったなぁ」なんてもう望めないのだ。遥果の顔が記憶の中に永遠に刻まれてもう消えない。
ショックで頭はハッキリしたけど、まだ足の感覚が戻ってないからか、暴れてみたけど、丘に上げたウナギみたいにクネクネと依れるだけになってる。でもやらないよりはマシだ。
そして、最終兵器は頭突きだ。
「フン」っとおデコを打ち付けるとスポンッ、と嘘のような音がして張り付いていた遥果が取れた。
「勝手にチューすんな!」
「達也が勝手に外に出るからだろ!」
「はあ?!」
思わぬ逆ギレに驚いた。
でも、心の準備も無く、「好きだよ」「私も」なんて前振りも無くチューを奪われた方が驚く。
「お礼は言っただろ!俺がお金を持ってないって知ってるだろ、そんなら支払いはまた今度だ、そんなら帰るのは自由だろ!変態!馬鹿!」
世話になったのは事実なのに、ちょっと乱暴な言い方だなって思うけど言ってる事は間違ってないと思う。しかし変態と馬鹿は言い過ぎだったのか、「ふ~ん」と白けた声を出した遥果はちょっと気を悪くしたようだ。
「じゃあ帰れるもんなら帰れば?!」と、抱き抱えられていた膝からポイっと放り出された。
「帰るけど…」
自由になったはいいけど……立てない。
多分だけど貧血を起こしたのだと思う。
(貧血ってよく聞くけど、実は貧血を起こした事無いからよくわからない)
一瞬消え失せた体の感覚はもう戻っているけどまだ上手く動かない。
「さよーならー」なんてミュージカル調に手を振り、綺麗なターンをしながら店に戻っていく遥果はそれを知っていて遊んでいるのだ。
悔しいけど……立てないのだから仕方が無い。
両腕で地面を掻いて憎たらしい足にしがみ付いた。
「待って!…待ってよ!」
「あれぇ~、何ぃ~?帰るんじゃ無いのぉ~?」
「ごめん…なさい、遥…果さん……タスケテ……クダサイ」
「え~何て~?聞こえなーい」
聞こえてるくせに……
「もう一回、チューしてもいいなら考えるぅ~」
「……このクソホモ」
「あれぇ~?何か聞こえた~?」
「何でも無いです、チューはしませんが店の掃除をします、カップを洗います、肩を揉みます…だから……」
何だか足がジンジンと痺れているのだ。「早く立たせろ」って喚くと「俺のチューで蘇ったくせに…」とか「恩知らず」とかブツブツと文句を吐きながらも脇に腕を入れてズルズルと店の中まで連れ戻してくれた。
それはいいけど……引き摺られたせいでズボンが脱げそうになってる。
そしたら遥果が「果敢だね」って、何だそれ。
「……思いやり溢れる優しい扱いにズボンがズレただろ」
「うん、パンツが見えてるね、そこでだな、まだ立てないなら店の奥で横になれる場所があるよ?どうする?」
「どうするって…あっ!遥果、お前俺を動けなくして襲う気だな?チューする気だろ」
「………チュー?」
「あ、てめえ、なかった事にする気か、暇で退屈なんだろ?だけどおあいにく様だ、俺はそんな手に乗らないぞ」
「うん」
「チュー……ね…」と、ちょっと小馬鹿にしたような繰り返しと考え込むような腕組み。
そして呆れたような視線。
「………」
「……何だよ…その目、何か言えよ」
「いや……いいけど……歩けなくて、ベッドに寝て……チューの心配…だけ?」
「だけって何だ、俺のチューは貴重だぞ?少なくとも珈琲の料金分くらいは十分あるぞ、もうお金を返しに来たりしないからな、チャラだからな」
「珈琲代はいいけど……」
「達也は物凄く綺麗なんだね」と眩しそうに目を細めた遥果は何だかわからないけど底が抜けてしまったらしい。
ウキウキと楽しそうに、またダンスのようなターンをして4つあるテーブルの奥にある壁の取手に手を掛けた。すると壁が剥がれてパカんと簡易ベッドのような棚が出て来た。
「今、枕と毛布持ってくるからねー」とこれもミュージカル調だ。
「収納式のベッドがあるんだ…」
喫茶店なのに変なオプションだなぁって思うけど、有り難い事は有り難い。
感覚は戻ってるけど足がまだフニャフニャなのだ。触って捏ねたら形を変えられるんじゃ無いかと疑うくらいフニャフニャ。
幾ら閑散とした店でも、出入り口にゼッケンを付けた短パン男がいつまでも寝転んでいては甚だ迷惑だろう。
しかしこれ以上遥果の世話になりたく無いし、なる訳にもいかないので、こうなったら匍匐前進だ。肘と腕で這ってベッドの下まで進み、後は懸垂を試みる。
「壊れないかな…」
簡易ベッドは折りたたみ式の細い脚だけで全部を支えている。腕を掛けて体を持ち上げるとギイッと鳴いた。
しかし、もっと不安定かと思った簡易ベッドは意外と強固で、何とか体を持ち上げて寝転がる。
すると木枠の中はマットレスが敷いてあったらしく、ふわりと体を受けてくれた。
「ふかふかだな……」
細々とお金持ちだなぁっとしみじみ思いながら、ふうッと息を吐いて天井を見上げた。
梁の見える吹き抜けになっている。
つまりは二階が無いって事で、斜めの天井は屋根の形そのままだからだろう。
一階は店舗と厨房らしき狭い小部屋しか無いから、つまりのつまりは遥果の家はどこか別の場所にあるって事だ。
記憶が無くても(審議中)安定してる。
囚われてるとまで言うのだから現状に不満があるのかもしれないけど、やっぱり家はお金持ちで両親に助けて貰ってるんだと思う。(どう考えても自活の意思は薄い)
まあ……家賃が5万なのに6万しかもらってないとは言え仕送りで生きているのに、食うのもギリギリのバイト代でマラソン大会とかに出て遭難してる俺も俺だ。
やっぱり体は何とも無いのに足だけは痺れたままなのだ。それは、無自覚なのが不思議なくらい重症なのだと思っていい。
足が動かないのは多分塩が足りないからなのだと思う。水だけでは駄目なのだ。
丁度「毛布はチェックと花柄どっちがいい?」と正にどうでもいい事を聞くために遥果が顔を出したから、「花柄」と、ついでに「塩」を頼んだ。
「わかった」と枕と毛布と、本当に普通の卓上塩を抱えた遥果がルンルンとスキップして来る。
「機嫌いいな」
「うん、こんなに楽しい事って無いからな」
「それは何よりだけど、俺は餌じゃ無いからな」
「餌って酷いな」って遥果は笑うけど、自己紹介の次がチューなんてほぼ通り魔、こんにちはと撲殺。寝込みを襲う強姦魔。
そう。
俺の大切なファーストキスは敢なく惨殺。
「楽しくは無いだろ」
「絶対にチェックって言うと思ったのに花柄を選ぶしね」
「花柄って言った方が喜ぶと思ったの、どうせチェックって言っても花柄を持ってくるつもりだったろ?」
「よくわかるね」ってわかるよ。
ピンクピンクした厚手の毛布を広げて可愛いだろって笑う顔は揶揄う気満々だからね。
でもピンクも花柄も抵抗無いし、何よりも買って持って帰る訳じゃ無いから何でもいい。
ファサっと体に乗った毛布からはミモザの匂いがする。
「あり……がと…」
「寒い?、無茶をするからだよ、帰れる時は否応無しに帰っちゃうからさ、今はここにいて、達也は俺の側から離れたら多分逝っちゃうよ」
「不吉な事を言うな、そこまで酷くないよ、それに遥果が側にいて何か出来んの?珈琲味の点滴がメニューにあるとか?」
「無いけど俺はここにいる達人だからな」
怠ける達人ね
エロの達人ね。
連れ込みの達人ね。
遥果ってやっぱりちょっと変わった人だなって思うけど、意外にも面倒見がいい人だった。
靴を脱がせてくれた上に「冷えるから」って被せた毛布を折り返して足に巻いてくれる。
そこまでしてくれなくてもいいのに、頭を持ち上げてふかふかの枕を差し入れてくる。
そして、何故か塩を掌に出してる。
「何してるんですか?そんなの食べさせてくれなくてもいいですよ、それより出来れば水に混ぜて飲んだ方がいいかなって思うんだけど」
「舐めた方が早く無い?」
「何でもいいけど…」
しかし、ここで遥果の「つもり」を見誤った事に気が付いた。
掌に乗った塩を口に放り込んでくれるんだって思ってたら、遥果自身がペロリと舐めた。
つまりそれはやっぱり……そう言う事だ。
「え?え?何してんの?自分で舐める!自分で食う!いらないから!いらないから」
「楽しい方がいいだろ?」
「強姦魔!二回目も盗る気か!」
俺は何故寝転んだ。
座ってりゃ良かったんだ。
両手首を掴まれて、のしかかって来る遥果は意外と強くて暴れても外れない。
顎を引いて顔を背けて「噛むぞ」とガチガチ歯を鳴らしても怯んでくれない。
「遥果!!俺は病気だぞ、去年だけどインフルエンザになったぞ!まだウイルスがいるぞ!花粉症だぞ!」
「ここに病気なんか無いから」
「あるだろ!既に病気だろ!俺は男だったら!」
「まあまあ、いいから貰えるもんは貰っときなよ」
「いらねぇ!」
「ヒィ」
ペタンと顔に乗った遥果の唇は悲鳴を上げる俺の口を塞ぎ、のしっと体重がかかって来た。
「んむぅ~~っ!!」
唇を合わせるチューだけでも相当なのに、ヌウっと侵入して来たの物はかなりの塩味だった。
その感触に驚く。
質感に驚く。
知っている(知識)キスはこんなんじゃ無い。
レロレロと遥果が口の中で動くともうどうしていいかわからない。
だって逃げ場所が無いのだ。
手足の力は抜けていくし、遥果の体はあったかいし、思っていたような嫌悪感は無い。
「ん……」
ベロベロと口の中を舐められて気持ち悪くはあるけど否応無しに味わってしまう。
だって、美味しいのだ。
長距離を走ったままで水分の補給もせずに放置していたからか、体は知らない間に悲鳴を上げていた。立てなくなるまで気が付かないなんて我ながら鈍感過ぎた。
水分と塩分の欠乏はあらゆる病気よりもずっと死に近いのだ。脱水が酷くなると水を飲んでも吐いてしまう。それこそ点滴でもなけりゃすぐに死ぬ、だけど治療は一瞬である。
余程重篤で無い限り水を飲んで塩分を補給すればいい。
こうなったらむしゃぶり付いているのは遥果なのか俺なのか、最早甘く感じる塩味を舐めて吸って飲み込んだ。
「ん……ふぅ……」
恍惚の吐息が鼻の奥から漏れる。
絡まる舌と舌は熱くて、心地良くて、とても甘い。ピチャっと跳ねる水音は最早食欲を唆って来る。
「もっと?…」
ツウーっと伸びる水の糸を引いて唇を離した遥果が聞いた。「うん」と答えてしまったのは頭じゃ無くて体だったと思う。
今度は口の中に直接塩を振りかけた遥果は穏やかに笑ってる。
ゆっくり、焦らすように顔が寄ってくると、もうこっちから口を開けた。
腕の拘束ももう無い。
男同士でキス……そんな概念はもう無かった。
ひたすら遥果を求め、熱い肉を啜る長い交わりは数分に及び、舌の付け根が怠くなる頃に遥果が離れて行った。
吸い出された舌が何だか物寂しいのは頭の芯がふわふわしているからだと思う。
「ほら、もう口を閉めて、少し、眠るかい?」
「……いいの?」
「いいよ」
遥果はそう言ったんだと思うけど、半分しか聞こえてない。だって今日は5時起きなのだ。
多分半分の20キロは走ったし、カップルの喧嘩に体力を吸い取られて脱水症状で倒れた。
キリキリと下限を彷徨っていた体力はもう底をついて当たり前だと思う。
「1時間経ったら起こして」と言えたかどうか……
何もわからないまま、闇の中に落ちた。
0
お気に入りに追加
24
あなたにおすすめの小説
彼はオレを推しているらしい
まと
BL
クラスのイケメン男子が、なぜか平凡男子のオレに視線を向けてくる。
どうせ絶対に嫌われているのだと思っていたんだけど...?
きっかけは突然の雨。
ほのぼのした世界観が書きたくて。
4話で完結です(執筆済み)
需要がありそうでしたら続編も書いていこうかなと思っておいます(*^^*)
もし良ければコメントお待ちしております。
⚠️趣味で書いておりますので、誤字脱字のご報告や、世界観に対する批判コメントはご遠慮します。そういったコメントにはお返しできませんので宜しくお願いします。
どうせ全部、知ってるくせに。
楽川楽
BL
【腹黒美形×単純平凡】
親友と、飲み会の悪ふざけでキスをした。単なる罰ゲームだったのに、どうしてもあのキスが忘れられない…。
飲み会のノリでしたキスで、親友を意識し始めてしまった単純な受けが、まんまと腹黒攻めに捕まるお話。
※fujossyさんの属性コンテスト『ノンケ受け』部門にて優秀賞をいただいた作品です。
神獣の僕、ついに人化できることがバレました。
猫いちご
BL
神獣フェンリルのハクです!
片思いの皇子に人化できるとバレました!
突然思いついた作品なので軽い気持ちで読んでくださると幸いです。
好評だった場合、番外編やエロエロを書こうかなと考えています!
本編二話完結。以降番外編。
侯爵令息セドリックの憂鬱な日
めちゅう
BL
第二王子の婚約者候補侯爵令息セドリック・グランツはある日王子の婚約者が決定した事を聞いてしまう。しかし先に王子からお呼びがかかったのはもう一人の候補だった。候補落ちを確信し泣き腫らした次の日は憂鬱な気分で幕を開ける———
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
初投稿で拙い文章ですが楽しんでいただけますと幸いです。
花いちもんめ
月夜野レオン
BL
樹は小さい頃から涼が好きだった。でも涼は、花いちもんめでは真っ先に指名される人気者で、自分は最後まで指名されない不人気者。
ある事件から対人恐怖症になってしまい、遠くから涼をそっと見つめるだけの日々。
大学生になりバイトを始めたカフェで夏樹はアルファの男にしつこく付きまとわれる。
涼がアメリカに婚約者と渡ると聞き、絶望しているところに男が大学にまで押しかけてくる。
「孕めないオメガでいいですか?」に続く、オメガバース第二弾です。
手切れ金
のらねことすていぬ
BL
貧乏貴族の息子、ジゼルはある日恋人であるアルバートに振られてしまう。手切れ金を渡されて完全に捨てられたと思っていたが、なぜかアルバートは彼のもとを再び訪れてきて……。
貴族×貧乏貴族
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる