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久しぶりだね
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いつの間にか硬く握りしめていた拳の中で、少し伸びていた爪が食い込んでいた。開いて見ると粘った汗でじっとりと濡れている。
恥ずかしかった。
健二が「首輪」と口にした時、砕けて、崩れて、溶けて無くなってしまいたい程恥ずかしかった。
あの日。
楓ちゃんと銀二が別れた後、まだ行く所があるからと言って、銀二がどこかへ消えてしまった。だから一人で帰って来た。
陽が傾く頃、急に冷たくなった風に背中を丸めて下を向いていた。事務所の階段に足を掛け時、背中から抱き寄せられた時は健二だと思った。
健二だと思ったから振り返らずに思いっきり肘で突いたのだ。
途端、腕が捻じ上がり二の腕がミシリと軋んだ。
驚いて……馬鹿みたいに健二だと信じていたから驚いて振り返ると、一生見たくなかった嫌な顔がそこにあった。
目の横に出来た笑い皺がやけに深いのに、笑っているのか怒っているのかわからない顔。
ヤニ臭い息。
歪めた口の端から覗く金色の犬歯。
寒いからか怖いからはわからない。体の芯に震えが来て声が出なかった。
引田は「久し振りだな葵」と言った。そしてドアの手前が薄暗くなった細く急な階段を見上げたのだ。
それだけだった。
酷く乱暴に閉まった車のドアの音に続き、「葵!」と呼ぶ椎名の声が聞こえると、引田は「チッ」と舌打ちをして手を離した。
そして、体を擦り付けるように突き飛ばされ、よろけている間に早足で立ち去った。
そりゃ逃げると思う。誰だって逃げる。
椎名の声はいつになくドスが効いてたし、乗ってる車は言わずと知れたヤクザ仕様のメルセデスだ。逃げるよ。
だから逃げようと思った。
そのまま消えようと思った。
今、足を掛けている階段を上がればご飯があって、ベッドがあって、醤油を薄めた茶色い汁でもいい、斧を振り下ろしてもいい。そんな気の置けない安心があるのに、何を捨てても逃げなければならなかった。
でも椎名の手足は長いのだ。
自在に関節を外せるんじゃ無いの?と疑うくらい長い。走ったのに捕まって、逃げるより死ななければならない名前を口にした。
「引田は何をした?!何を言われた?!」
目の前が真っ暗になって、ここ暫くの安寧に忘れていた混沌と絶望が舞い降りて来た。
「知ってる」も「知らない」も言いたくなかったから、手近にあった椎名の腕に噛み付いて自分の口を塞いだ。
手加減なんかしてないから皮膚を破いたと思う。
突き飛ばしてくれたらいいのに、全く動じない椎名に噛み付いたまま抱っこされて、噛み付いたまま階段に置かれて「上がれ」と言われた。
出口は強靭な椎名に塞がれている。
1つ段差を上がった。
もう一つ……階段を一段上がるごとに目の前が暗くなって行く、ドアに辿り着くと背中から「借金を忘れるな」と聞こえた。
だが、腎臓はまだ腹の中にある。
そして、椎名と健二は葵の本当の姿を知っても、事務所で働けと言ったあの時と同じように「売らない」と言った。「葵」じゃなくても、誰でもいい、首輪を付けた傀儡でなくても、使い道はあるのだと言ってくれた。
もう信じるか信じないではない。
指がもげてもこの事務所での暮らしを……嘘みたいに暖かい健二を手放したくない。
そう思ったけど…………
考え込んで手を見詰めてる間に、健二が戻ってきていた。目の前で片膝を付いて手を胸に、もう片手を差し出している。
何故かスーツ……。
いや、言い直すと多分スーツ。
胸ポケットからはみ出ているのはポケットチーフ………じゃ無くて臙脂色の靴下。ジャケットも、シャツも、パンツも、全部くっしゃくしゃ。
かび臭い匂いが漂ってくるのは気のせいじゃ無いと思う。
ここ暫く……正確に言えば暴走族駆除の依頼が完結した辺りから健二は変だった。
「ちょっと」変な健二には慣れてしまっていたけどこれはさすがに意味がわからない。
うん。
健二は手放した方がいいような気がする。
「何をしてるんですか?」
「葵の作った味噌汁を毎朝食べたい」
「…………」
「味噌汁………悪いですけど作った事無いから買ってきましょうか?毎朝食べるんですね?」
「そうじゃ無くて……」
じゃあ何なのだ。
「決まった」って顔から一転、「分からないの?」って驚いたのは何でだ?
次にサッと出てきたのはデジタルの置き時計だ。
しかも電池が切れて止まってる。
「同じ時を刻もう」
「…………」
「何?」と目で椎名に聞いてみたが「何?」と返ってきた。
「久しぶりに難しいですね」
「は?難しく無いだろ」
「何で逆ギレ?」
「難しく無い、葵、結婚しよう」
「…………」
「椎名さん、すいませんが斧を取りに行ってもいいですか?」
手放すだけでは傍迷惑である。
ここは後世の為にもすっからかんの頭を割っといた方がいい。真面目な顔で重々しく頷いた椎名の許しを得て、立ち上がろうとすると立てた膝がカクンと抜けてそのまま動けなくなった。
そして、よりにも寄って差し出した健二の手を取ってしまった。
「やった!」って……やってない。
しかし、今動いたり口をきいたり……それこそ体のどこにも力を入れたくない。
痺れた足がふわふわになっていて、間もなくやって来る「あの」何とも言えない痛みに耐えなければならない。
「椎名さん!これでわかっただろ、俺と葵は二人でやって行く、葵は俺といたいって言ってんだ」
言ってない。
この事務所に置いて欲しいと言ったんだ。
しかし今は言えない。
「それでいいのか?」と聞かれたけど、全部お見通しの椎名は半笑いだ。
状況が見えてるんなら何とか言って欲しいのに「やれやれ」って突き放されてしまった。
守ると言うなら今フォローして欲しい。
………結果。
あくまで不可避の結果だよ?
「うん」としか言えなかった。
恥ずかしかった。
健二が「首輪」と口にした時、砕けて、崩れて、溶けて無くなってしまいたい程恥ずかしかった。
あの日。
楓ちゃんと銀二が別れた後、まだ行く所があるからと言って、銀二がどこかへ消えてしまった。だから一人で帰って来た。
陽が傾く頃、急に冷たくなった風に背中を丸めて下を向いていた。事務所の階段に足を掛け時、背中から抱き寄せられた時は健二だと思った。
健二だと思ったから振り返らずに思いっきり肘で突いたのだ。
途端、腕が捻じ上がり二の腕がミシリと軋んだ。
驚いて……馬鹿みたいに健二だと信じていたから驚いて振り返ると、一生見たくなかった嫌な顔がそこにあった。
目の横に出来た笑い皺がやけに深いのに、笑っているのか怒っているのかわからない顔。
ヤニ臭い息。
歪めた口の端から覗く金色の犬歯。
寒いからか怖いからはわからない。体の芯に震えが来て声が出なかった。
引田は「久し振りだな葵」と言った。そしてドアの手前が薄暗くなった細く急な階段を見上げたのだ。
それだけだった。
酷く乱暴に閉まった車のドアの音に続き、「葵!」と呼ぶ椎名の声が聞こえると、引田は「チッ」と舌打ちをして手を離した。
そして、体を擦り付けるように突き飛ばされ、よろけている間に早足で立ち去った。
そりゃ逃げると思う。誰だって逃げる。
椎名の声はいつになくドスが効いてたし、乗ってる車は言わずと知れたヤクザ仕様のメルセデスだ。逃げるよ。
だから逃げようと思った。
そのまま消えようと思った。
今、足を掛けている階段を上がればご飯があって、ベッドがあって、醤油を薄めた茶色い汁でもいい、斧を振り下ろしてもいい。そんな気の置けない安心があるのに、何を捨てても逃げなければならなかった。
でも椎名の手足は長いのだ。
自在に関節を外せるんじゃ無いの?と疑うくらい長い。走ったのに捕まって、逃げるより死ななければならない名前を口にした。
「引田は何をした?!何を言われた?!」
目の前が真っ暗になって、ここ暫くの安寧に忘れていた混沌と絶望が舞い降りて来た。
「知ってる」も「知らない」も言いたくなかったから、手近にあった椎名の腕に噛み付いて自分の口を塞いだ。
手加減なんかしてないから皮膚を破いたと思う。
突き飛ばしてくれたらいいのに、全く動じない椎名に噛み付いたまま抱っこされて、噛み付いたまま階段に置かれて「上がれ」と言われた。
出口は強靭な椎名に塞がれている。
1つ段差を上がった。
もう一つ……階段を一段上がるごとに目の前が暗くなって行く、ドアに辿り着くと背中から「借金を忘れるな」と聞こえた。
だが、腎臓はまだ腹の中にある。
そして、椎名と健二は葵の本当の姿を知っても、事務所で働けと言ったあの時と同じように「売らない」と言った。「葵」じゃなくても、誰でもいい、首輪を付けた傀儡でなくても、使い道はあるのだと言ってくれた。
もう信じるか信じないではない。
指がもげてもこの事務所での暮らしを……嘘みたいに暖かい健二を手放したくない。
そう思ったけど…………
考え込んで手を見詰めてる間に、健二が戻ってきていた。目の前で片膝を付いて手を胸に、もう片手を差し出している。
何故かスーツ……。
いや、言い直すと多分スーツ。
胸ポケットからはみ出ているのはポケットチーフ………じゃ無くて臙脂色の靴下。ジャケットも、シャツも、パンツも、全部くっしゃくしゃ。
かび臭い匂いが漂ってくるのは気のせいじゃ無いと思う。
ここ暫く……正確に言えば暴走族駆除の依頼が完結した辺りから健二は変だった。
「ちょっと」変な健二には慣れてしまっていたけどこれはさすがに意味がわからない。
うん。
健二は手放した方がいいような気がする。
「何をしてるんですか?」
「葵の作った味噌汁を毎朝食べたい」
「…………」
「味噌汁………悪いですけど作った事無いから買ってきましょうか?毎朝食べるんですね?」
「そうじゃ無くて……」
じゃあ何なのだ。
「決まった」って顔から一転、「分からないの?」って驚いたのは何でだ?
次にサッと出てきたのはデジタルの置き時計だ。
しかも電池が切れて止まってる。
「同じ時を刻もう」
「…………」
「何?」と目で椎名に聞いてみたが「何?」と返ってきた。
「久しぶりに難しいですね」
「は?難しく無いだろ」
「何で逆ギレ?」
「難しく無い、葵、結婚しよう」
「…………」
「椎名さん、すいませんが斧を取りに行ってもいいですか?」
手放すだけでは傍迷惑である。
ここは後世の為にもすっからかんの頭を割っといた方がいい。真面目な顔で重々しく頷いた椎名の許しを得て、立ち上がろうとすると立てた膝がカクンと抜けてそのまま動けなくなった。
そして、よりにも寄って差し出した健二の手を取ってしまった。
「やった!」って……やってない。
しかし、今動いたり口をきいたり……それこそ体のどこにも力を入れたくない。
痺れた足がふわふわになっていて、間もなくやって来る「あの」何とも言えない痛みに耐えなければならない。
「椎名さん!これでわかっただろ、俺と葵は二人でやって行く、葵は俺といたいって言ってんだ」
言ってない。
この事務所に置いて欲しいと言ったんだ。
しかし今は言えない。
「それでいいのか?」と聞かれたけど、全部お見通しの椎名は半笑いだ。
状況が見えてるんなら何とか言って欲しいのに「やれやれ」って突き放されてしまった。
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………結果。
あくまで不可避の結果だよ?
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