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番外編   椎名さん

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椎名さんはあまり自分の事を話さない人だ。
言い方を変えれば昔話はするけど基本真面目な自分に照れてしまう人だから、何が本当で何が嘘かわからないのだ。

わかっているのは中身と見た目のギャップがすごい人だって事だ。
本当は服も小物も持ち物も車も用を成せば何でもいいらしい。
外出限定だが、いつも身なりに気を使うのはヤクザを職業としてとらえているからだ。
ただでも忌み嫌われる仕事なのだからだらしなく見えてはいけない、そしてカッコよくあらねばならない。そう思っている。

あの、醜態を晒したラブホテルから回収された後、一晩お世話になった次の日にやけに綺麗なアパートの空き部屋に連れて行かれて「ここでいいか?」と聞かれた。

はっきり言えば雨風が凌げるだけでもありがたいので「はい」と答えると怒りだした。

トイレと風呂は別じゃ無いと嫌だとか南向き希望とか角部屋は無いのか?とか何かあるだろ!思ってる事を言え!!……と。

「はい」と答えると「はいじゃねえ!」だ。

これは…結構難しい人なのだな、と思った。

何も、無理矢理諾々と返事した訳じゃ無い。
広くても狭くても新しくても古くても掃除をしなければ汚れるのは同じなのだ。
部屋は眠るスペースがあればそれでいいし、風呂は体を洗えばそれでいい、ましてやトイレの蓋が自動で開いたり閉まったりして頂く必要は全くない。

椎名さんは何軒かの物件を見て回るつもりをしていたらしい。
本当にそんな必要は無いので「ここ"が"いい」と早々に手を打った。

そして、どんな仕事をするのかと思えば、「俺の預かりになった」との言葉通り、椎名さんの為にだけ働く仕事だった。

そしてそれは難問ばかりだ。

薬を売る仕事だって決して簡単では無かったが、椎名さんが要求する難問は今まで生きてきた人生の中で考えた事も無い難しい要求をされる。

「旨い店に連れて行け」

そんなもの知らない。
旨い不味いで食べ物を選んだ事は無い。
そして人の旨い不味いなんてもっとわかる訳ない。

最初の1回目は、わからないと正直に言えばそれで済んだが、この先何度も「わからない」では済まない。

食べている椎名さんを観察して、街の評判に聞き耳を立て、美味しいと誰かが言う物、不味いと誰かが言う物、匂いを嗅いで食感を確かめ、舌の先で味を確かめた。

勿論最初は全部美味しいとしか言いようが無かった。しかし美味しいの反対が不味いでは無い事に気付いてからは、何を要求されていたのか漸く掴めてきた。

特別な店に置いてある粒の揃った大きな苺は旨い、スーパーで売っている数百円の苺は物による。しかし、農家のハウスで蔓に繋がったまま完熟した苺はお金を出せばいつでも手に入ると言う物では無かった。

椎名さんの言う「旨い物」ってそう言う事だ。

海の物は海辺が旨い、山の物は山を知っている人が選べば旨い。そんな店を見分ける事が出来るようになると、椎名さんに「よく頑張った」と褒めて貰えた。

体が震える程嬉しかった。

勿論仕事はそれだけじゃ無い。
椎名さんには3種類の服と態度を着て分けろと言われている。

どこに行ってもみくびられる事が無いキッチリしたスーツ。目立つ事を考えろと言われた漫才師みたいに戯けた服。そして1番得意な安く地味な服。

それはビジネスマンとチンピラと市井の人の3種類って事だが、これも布地の見分けが付くようになると椎名さんが着るスーツのオーダーを任せてくれるようになった。

一つ一つ積み重ねていく毎日。

椎名さんの「よくやった」を求めてひたすら考え、ひたすら先を読み、ひたすら前に進んでいると、何でも「はい」だけでは済まなくなっていく。

椎名さんは気まぐれで、勝手で、意外と色々挫けたりするのだ。

子供のなりたい職業ランキングに「極道」って入る日が来るかもしれない、だから筋を通し義を通し、カッコよくあらねば……なんて馬鹿な事を呟きながらお酒を飲むと酷い事になる。

膝の上に頭を乗せて眠られた日には、一睡も出来ずに足の痺れと戦った。

因みに椎名さんは、ラフで危うい熱烈な女性信奉者だ。手当たり次第、場当たり、適当、職業柄幸せには出来なから決まった相手は持てない、なんてカッコいい事を言う割にだらしが無いから、面倒の火消しに走り回る事になる。

パンツを人質に取られたから迎えに来いと言われてもパンツを届けて済む話じゃ無かった。
ホテルの部屋にお邪魔して、裸で眠っている女の人から抱き込んで離さないパンツを回収して帰ってくる……なんて怖いミッションを熟さなければならない。


最近で1番大変だったのは「刺青」事件だ。
クドクドと女に説明しなくても分かるだろうからと、背中に墨を入れる決心をしたのはいいが、3針刺すと痛いって喚いて激怒だ。
半年掛けてデザインを吟味したのは何だったのか、何も悪く無い彫師に凄んで、罵倒して、子供みたいに逃走…、そのまま挫折した。

その話には実は続きがある。

いつの日か、ずっと先かすぐそこかわからないが、どこかで自分の命が尽きた時にどこの誰だか分からないかもしれない。
その想像は余りに虚しく、余りに寂しく、生きた証が欲しかった。物言わぬ、この屍は銀二だと、誰かに分かって欲しかった。
だから歳をとっても決して消えない刺青は丁度良かった。

その事を椎名さんに相談するとやけに真面目な顔で「駄目だ」と言われた。「そんな理由で体を汚すな」と。自分はもっともっと下らない理由で墨を入れようとしたくせに「許さない」と言うのだ。

どうせこの先誰かと所帯を持つなんて無い。
だから刺青があって困る事なんかない。
温泉やサウナに入れない程大きく入れるつもりも無かった。脇の下か足の裏にでもチマッと入れるだけでいいのだ。

それでも椎名さんの答えは「駄目」だった。

だから、つい言ってしまったのだ。
「私がやり遂げたら悔しいからでしょう」と。

そしたら容赦無い平手が飛んで来た。
正に吹っ飛ぶ。

ドンッと背中で鳴った激突音は部屋を揺らし、電灯を揺らし、空気を揺らした。壁に伝いに崩れ落ちた体の上にズシンと乗ったのは椎名さんの膝だ。

「何故ですか?!」と喚くと「黙れ」と言って口の中に指が入って来た。
鼻先が触れる手前で見た椎名さんの顔は激怒で顔が歪んでいた。

「お前は1人じゃ無い、俺がいる、俺がお前の居場所を作ってやる、人知れず死んだりしない、俺が…誰かが必ず看取る、そんな心配する暇があるなら好きな女でも探せ!」

「そんなもの……」

女と言えば母なのだ。
あの愚かで、短慮で、自分の無い母なのだ。
今までも、これからも女などいらない。
関わりたく無い。交わりたく無い。


そして、その夜何があったかを言うと、そのまま震え、そのまま泣いて、そのまま椎名さんに抱かれた。

ちょっと嘘みたいだった。
実は次の日、何事も無かったように振る舞う椎名さんに、あれは嘘か夢だったのかと真剣に悩んだ。

しかし、椎名さんの気持ちはわかった。
先に言った通り、椎名さんは至極熱烈な女性信奉者なのだ。
うっかり勢いで男と致してしまったなんて失敗でしか無いのだろう。

残念なようで、安堵したようで何とも複雑な気分だったが気が晴れた事は晴れた。

その後も変わりなく椎名さんの秘書もどきは続けた。

そして数年経つと、随分と信頼を得たのか、指定暴力団に所属する不便を肩代わりするまでになっていた。

借金を背負ったある男が戸籍を貸してくれたのだ。(買ったとも言える)
免許証が手に入ると社会的に果たせる事が激増した。数多ある会社の代表取締役や、椎名さんが購入したマンションの名義も預かっている。

そして、そのマンションには不便だからと言って「銀二の部屋」も用意された。

元々素の椎名さんを知っているから窮屈では無い。仕事には厳しい椎名さんだが家の中では上下なんか無かった、寧ろ入れ替わる。
生活する上で最低限必要になる家事も、それぞれか、時には等分、時には一緒にする。

そして盆と正月…それくらいの頻度で椎名さんの前に細いピンを差し出した。
それは細目の男に教わったアダルトグッズな訳だが、椎名さんは苦笑いを浮かべながらも付き合ってくれるのだ。

いつもいつも「痛く無いのか?」って恐る恐る埋め込んだピンを揺らし、恟々とした顔をしていて笑える。

不思議だが、椎名さんの前だと遠慮しなくてもいいのだ。多少特殊な行為に恥じる事もなく快楽に溺れ、倒錯に身を落とし、欲しいままに欲しいと言える。


椎名さんの為なら何でも出来ると思う。
とても無邪気で大きな人だ。

拾われてからずっと、椎名さんは生きる為のリハビリを施してくれたのだと思う。旨い店を探せと言ったのは食べる事を楽しめと言った。
服装の取り替えは社会のTPOを学べと言った、
少し甘えた態度で無茶を言うのも、空っぽだった器に暖かいお湯を注ぐ為だったのだ。

そしてその暖かいリハビリはまだ続いている。


グツグツと煮立つお湯の中に輪っかの付いた金属の細いピンを投げ入れて消毒をしていると、ドアが開く音がして見に行った。

すると、明らかに殴られた痕に見える女の手形を頬に張り付け、憮然とした椎名さんが「ビール」と言って手を出した。

その日は何があったかの愚痴を聞き、夢を聞き、泣き言を聞いて、朝になった。


終わり。














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