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勢い命

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肩を葵の髪が擦る。
首から肩の方にお湯が掛かり、ブルリっと震えて泡立った肌に目が吸い取られた。

窓の無い狭い風呂場には逃げ場の無い湯気があっと言う間に白く充満してる。

ビジネス用の事務所に取って付けたような狭い風呂場は小さなユニットバスよりも更に小さく、浴槽と大人一人が立ってシャワーを浴びるのがやっとの広さしか無い。そして狭い浴槽にはガメラがいる。

葵の肩が胸に触れている。
葵の腰が当たってる。
お湯の温度の方が明らかに高い筈なのに葵の体温を感じてしまう。

動けなくなった。

「健二さん?」

そんな風に下から覗き込むのはやめろ葵。
真っ直ぐに目を見るのもやめろ。

今ガチガチになっているくせ頭が「どうしようどうしよう」とフル回転しているのだ。

葵のいい所は人と話す時真っ直ぐに目を見る所だ。多少、細々と破綻している所はあっても芯の強さを伝えて来る濁りの無い目。

椎名は葵を連れてくる前、「受けれるかどうかは健二が決めろ」と、全てを預かった。仕事は元より一緒に生活するのだ、嫌なら断ってもいいって前提だったが、椎名に抱っこされて事務所に現れた葵は敵意を露わに睨みつけ、毒を吐き、威勢のいい啖呵を切って逃げ出す隙を伺っていた。状況を観察する様子は狡猾にすら見えたが、信頼しようと決めたのは真っ直ぐに見てくる葵の目だった。

「まあ……誰でも良かったって言うか誰でも仲良く出来るってか、合わない奴なんかいないってのが本音だけど……」

「は?突然何ですか」

「俺は葵で良かった」
「何が?」

「チューしていいか?」

もう何回目かの問いかけ。
今、お互いが素っ裸ってのはタイミングが良かったのか悪かったのか、葵は何も答えなかった。
でも目を逸らしたりはしない。真意を問うようにジッと目を見てくる。

こんな時は勢いだ。
考えるから駄目なのだ。
前に進みたいのに進めないのは「日常」が当たり前に過ぎて、友人が当たり前。後輩が当たり前。家族として付き合うのが当たり前になってる。

勿論それでもいいけど……十分な筈だけどこのままでは嫌なのだ。

今だって葵の全てを独占しているような物だと思う。四六時中一緒にいて、笑うツボもお腹が空くタイミングも食べたい物も、揃ってる。

そりゃ椎名と仲良くするとムカつく事もあるが、これ以上独占したいなんて思ってない。
ただ、抱きしめたいと思うのは別の欲なのだ。
そしてそれは性欲の話じゃ無い。
抱き締めて、その先に進んでも葵が自分の物になるなんて思ってない、それでも同居人の同僚で家族では嫌なのだ。

触れ合う手に囁く唇に…遠慮したくない、

この胸のつっかえが何なのか……なんせ初恋だからわからない。

迷いは無いのかと聞かれれば勿論ある。
それは葵だって同じだと思う。

もう少しの間、もうちょっとだけの数分を何も考えたりしなければシャワーを終えていたら……いつものようにベッドに入っていつものようにそのまま朝になっていたかもしれない。

しかし、ずっと…この要らぬ感情を食い止めていた堰の鍵を意図せずに外してしまった。

もう一回断っておくが性欲じゃないぞ?
そして、この先に進めば葵が自分の物になるなんて思ってない。

そしてもう迷っている場合じゃなかった。
性欲じゃ無いけど(我ながらしつこい)その気になった体の芯に熱が溜まり始めている。

今、葵に視線を落とされたらただヤリたいだけなのだ思われてしまう。そうなんだけど、間違いないけど、まずは何故そんな感情になったかを伝えたい。

一番に言いたいのは葵が可愛いからじゃない。
可愛いの意味は厨二みたいとか、弟みたいとかそういう事で、抱き寄せたいって思うのとは違うのだ。

生意気で極端で時には冷たいくらいの現実主義な癖に、世俗に背を向けポツンと一人で立っているような背中を……葵は男だってわかってて抱き寄せたい。

決して同情なんかじゃない。でも、どう説明していいかわからない。
考えれば考えるほど足の付け根が気になり、返事は待たずにお湯に濡れた葵の背中をグッと押した。

胸と胸が合わさると改めて思う。
何回も見てるから知ってたけど葵は細い。

力が入り過ぎて葵の背中に手がめり込んだのかと慌てた。

男を抱きしめた事なんか無いから比べられないけど女ともちょっと違った。
骨と骨のつなぎ目が柔らかいのか肌に手が埋まるような気がする。

キスをしていいかと聞いてとうとう抱きしめてしまった。じゃあもうするしかない。
裸でキスなんて危険だけど、何が危険って俺が危険だけど……葵の返事は待てなかった。

葵の目に不安の色は浮かんで無い……と思う。
ただ、何も言わず、続きを待つように目を見てくるのだ。

チュッと唇の先を軽く啄むと、防御する様にクッと唇の隙間を閉めた。

それでいいのに、そのままでいいのに、頬を押し上げると隙間が開く。
やはり……感じていた通りに葵は未経験じゃ無い。
そう思うと、見えない誰かにどうしようもない強烈な嫉妬を感じてしまった。
無垢な葵を誰かが汚したと思えばメラメラする。
柔らかい背中を誰かが抱きしめたと思えばムラムラする。それが男であれ女であれ、間違いなく年上だと思う。

情火を纏い燃え上がった熱がチリチリと脳味噌を焼いている。
抱きしめた体を引いてキスをしたまま風呂場を出た。キスをしたままベッドのある部屋まで移動する。葵は押されて反っりかえった体勢でヨタヨタと付いてくる。

合わさった唇は離れたりくっ付いたりする間にどんどん深くなりお互いの口内が混ぜ返っている。

キスをしたままドアを開けて、キスをしたままベッドの上に倒れこんだ。


腕の下に包み込んで鼻先を合わす。
そしてポカンと呆けたように空いた唇に小さなキス。
……笑って欲しかった。
せめて照れて欲しい。

こっちの焦燥をよそに葵の手足には意志がない。
落ち着いてると言うか、慌てて無い、と言うか静かと言うか……。
硬くなった下半身が密着した体の下でゴリゴリと擦れているのだ。
何をしようとしているかわかってないって事は無い筈。

欲しいのだ。
葵を自分のものにしたい。
葵がどう思っているかは今の所はわからないが、葵とは遠慮がある仲では無いと思っている。
何せ怒らせたら躊躇無く斧を振り下ろす奴なのだ。嫌なら嫌と言う。

ペロリと唇を舐めると瞬きの無かった瞳がゆっくりと閉じていく。
柔らかい隙間に入って行くと呼応するようにツイッと顎が上がった。

我ながらガッついたキスだと思う。
体重を乗せ、深く押し入り弱々しく応える葵の舌を吸い取り舐め回す。
先を尖らせ上顎をなぞると厭うようにツイっとのけ反って逃げた。

「嫌?」と聞いてみると触れたままの唇がコソコソと小さく擦れた。


「………ただで触るな」

「金を取るんだな……幾ら?」

「600万……なんだろ?」
「……1回で?……」

ふふっと葵は笑った。

笑ったのだ。
そして、葵の腕がそっと首に回った。

笑いで震えた喉にキスをする。
まだ少年のような滑らかな首にキスをする。
薄く浮き出た鎖骨にキスをする。
腕の付け根、小さな乳首、胸の窪み。

膨らみのない胸は返って体の芯が剥き出しになっているようで妙にいかがわしい。

胸の粒を引っ掻くように舌先で弾くと、意思を殺していたように硬かった体がピクリと揺れた。
体を守るように肩が上がり胸が丸くなる。

ここも…葵は知っている。
親では無い誰かの、他人の手が体を這う感覚を知っているのだ。
こんな小さな事でも堪らない気持ちになるのは、心のどこかで葵を自分の物だと思っていたからだと思う。

葵と知り合ってまだ一年も経ってない。

知らないところで誰かと知り合い、愛を語り合っていたとしてもそれは当たり前なのに、自分だってそうなのに知らないって所が悔しいのだ。

しかし、今まで付き合った誰よりも葵は近い所にいる。物理的な話じゃなくて心の距離でもなくて……何だか説明出来ないけど近いのだ。

合わさった腹の下でコリコリと擦れ合う硬いものが何なのかは確かめなくてもわかる。
そっと手を添えると、覚悟なのか、期待なのか、落ち着けと諭すような長い吐息が葵の口からふう~っと漏れ出した。





鼻の奥がモゾ痒くてポリポリと引っ掻いた。



「何だこれ」

目の下でひらひらしている白い物を引っ張ると最大なくしゃみが出た。
鼻から飛び出てきたのはいい加減に丸めたティッシュだ。

隣を見ると葵はもういない。
まあ、葵が先に起きるのはいつもの事だ。


「………やっちゃったよ……」

始終一人で喋っていた気がする。
葵は静かで、ずっと静かで、首を触るな……以外何も言わなかった。
一言も喋らなかった。

感覚の狭い早い呼吸の中に吐息のような小さな声が聞けただけだ。

しかし無理矢理ではなかったと思う。
葵の腕は背中に回っていたし、キスをしようと顔を近付けると合わせてくれたのだ。

そして。
やっぱり葵は男同士のセックスが始めてじゃないと確信した。
ゆさゆさと揺れる中で時々閉じた目の上で眉が寄る。グーっと伸び上がり反った背中がブルっと震えて、掴んだ腕に立てていた爪が解放される。
慣れているとはまでは言わないが、正しく反応するし正しく感じていたと思う。

誰もいない薄暗い闇の中で誰かが葵に触ったのだ。体の奥底にあやふやに蠢く性の欠片を植え付けた。

葵は知っていると何度も感じたが、否定したい気持ちがあった。

闇属性に片足を突っ込むような育ち方をしていても、まだ無邪気な子供のように明るく健全な世界しか知らないままでいて欲しかったのだ。

「そんなの……相思相愛かもしれないし……葵だって男だし……22の大人だし、あの顔だし、だから何だってんだ」

子供だと思い込んでいたのはこっちの主観だ。
葵は自分の過去をあまり話さない。
ろくでなしだった父親は事あるごとに出てくるが、何があったとか、こんな事が楽しかったとか、子供の頃の逸話1つ具体的に出てきた事は無い。

一度寝たからって自分のものになったなんて勘違いしない方がいいけど……。

ハッキリ言えばイチャイチャする自信はある。

朝顔を合わせるとちょっと赤くなったりして目を逸らしたりされると捏ね回すと思う。
可愛くて、危なっかしくて、その割に豪胆で、本性はいちびったやんちゃ小僧の葵が益々好きになってる。

葵は多分、掃除とかガメラの餌やりとか浴槽の水換えとかしているのだと思う。
シャワーをあびて、顔を洗って、ピカピカに歯を磨いて、髪を整えたいが……その前に。


スーツで出て行くかどうかを迷う。

「って……スーツってどうなってたっけ?」

20歳になった時に成人式に行って来いと椎名が買ってくれたのだが、その日に一回着ただけで勿論成人式にも行ってない、クラブで騒いで飲んで暴れてついでに喧嘩をしたような気がする。

持っている服は段ボール箱に詰めてベッドの下に入ってる。遊んでいた頃に贅沢な服を自分で買い、女に買ってもらい、誰彼に沢山貰ったから夏冬合わせて4つもあるのだ。
探してみると、もうあんまり着ない服を詰めた段ボールの底からクシャクシャに型崩れした紺色のスーツが出て来た。
試しにジャケットを羽織ってみると胸や肩がキツい。胸ポケットに薔薇でも刺したいのにそんなもんは無い。

そしてネクタイも無い。
微かな記憶だけど、成人式の日にテキーラに浸して火を付けたのはネクタイのような気がする。

「愛を確かめる大事な朝なのに」

突発的だったのが悪い。
蝋燭の灯るカットガラスを囲い、チーンなんてシャンパングラスを合わせてお互いの意思を確かめ合ってから事に及ぶ、それが正しい記念すべき初恋の生受なのだと思う。

仕方がないからいつものシャツを着ていつものトレーナーを被り事務所に出て行くと、葵の代わりにソファに座ってコーヒーを飲んでいる椎名がいた。
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