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討ち入りのような訪問だったが、料亭の人はビックリしてたけど嫌な顔はせずに「元気だな」って笑い飛ばしてくれた。
そしてカウンターの隅に置いてあった飴を前に押し出し好きなだけ食えと勧められる。
葵を見るとつい何か食べ物をあげたくなるって気持ちは誰でも持つらしい。
前に言った事があるけど、葵はその「若く」見える容姿を上手く活かせばおっさんとかおばさんには無敵なのに「甘い物は苦手です」と言い切る。
捻くれているのはポーズなのだと知っているが、今モンブランを食べて来たのに、「頭隠して尻尾隠さず」を果敢にやり遂げる葵に拍手を贈りたい。
せっかくなので飴を一つ貰って口に入れた。
それを見た大将は何だか嬉しそうだ。
切り身になったお魚をカウンター前の冷蔵庫に入れると手を拭いて色々な話をしてくれた。
何でも初老の板前は椎名の若い時からの知り合いなのだそうだ。「昔は可愛かったのにあんな道に進むなんて思いもしなかった」と笑う。
葵を見て「坊主くらい」って言うから椎名が14、5の頃からの付き合いなのだと思う。
え?
葵が14、5に見えると言ったんじゃないぞ?
でも「もう10年以上前からの付き合いだ」と口にした大将はそのつもりだ。今にも「中学生」と言いそうだったから慌てて昔話を遮った。
「あの、俺達はそろそろお暇します。仕事の邪魔になるんで長居をするなって椎名さんに言われてるんです、先にお支払いをしたいんですけどいいですか?」
「おう、持ってけ!」と渡されたのは発泡スチロールの箱とタッパーが入った紙袋だ。
スーパーのレジ袋を想像していたから驚いたけどバス停まではすぐだし何とかなる。
椎名から預かっていたお金の入った封筒を渡していると、当然ってか、そうするだろうなって予想通り、葵は発泡スチロールの箱を選んで持ち上げた。
ムキになったように足で引き戸を開けて行ってしまう。
「今度は店に食べに来い」と笑っている大将にお礼を言って、急いで追いかけると、葵が歩いた後には斜めになった箱から落ちた水が点々と線を描いていた。
「…………無理だろ」
「無理じゃないです」
説得したら絶対に怒り出すから無言で箱を取り上げて歩き出すと「返せ」って追いかけてくる。
本当に可愛いったら無い。
「適材適所って言葉知ってるか?」
「健二さんが持っても俺が持っても大して変わりないでしょう」
「変わりないならどっちでもいいだろう、ほら、バスの運賃は葵が払ってくれ」
片手で箱を支えてポケットから財布を取ろうとすると落ちてしまった。
後ろを歩く葵が当然拾うと思ってたらヒョイッと跨いで知らん顔をする。
葵の闇属性ってこんな所。
「おい!拾えよ」
「やだね馬鹿」
「何でだよ、事務所の財布だぞ」
「健二さんが落としたんだから健二さんが拾えばいいでしょう、俺はこの「紙袋」が重いんで手がいっぱいです」
「葵が拾うべきだ、俺は知らないからな」
「俺も知らないです」
喧嘩しながらスタスタと歩き続けて、喧嘩しながらバスを待ち、お互いに意地を張ったままバスに乗ってしまった。
二人共無一文だと気付いたのは20分もバスに揺られてもうすぐ着くって頃だった。
「………仕方ないな」
「仕方ないですね」
「うん」と頷きあって席を立つ。
荷物が大きいから空いたバスの中でも座っていたのは一番後ろの後部座席だった。
そのバス停で降りるのは俺達の他には一人だけらしい、荷物を抱えて並んでいると葵がツンツンッとシャツの裾を引っ張り声を潜めた。
「行きますよ」
「………え?」
「どこに?」と聞こうとした瞬間、葵はバッとバスを飛び降りダーッと駆け出した。
「お客さん?!」
驚いた運転手が叫んだ声にちょっと振り返ったけど、俺が付いて来ない事を知るや否や「付いて来ないなら捨てて行く」って潔さで走り去った。
「…………嘘だろ」
呆然。
一瞬の事で止める間も無かった。
逃げる事は無い。
ってか逃げなくていい。
……葵は何故こうも突飛なのだ。
お金を持って無いのはもうしょうがないのだから
バスの運転手だってどうしようもない、払えって言っても「取り敢えず金目の物」とか適当な物を差押えしたり出来る訳もなく、身包みを剥ぐわけにもいかないのだ。
今度2回分払うって事で乗客の良心に任せるのが普通だ。
「逃げるか?」
しっかりしているなって思わせる時もあるが、全般的に世間の常識に疎い葵は未開の僻地から突然文明に放り出された難民のような側面がある。
教える事が沢山あって楽しいけど時たま起こす極端な行動は後始末が大変だ。
「お前……仲間だろ」って胡散な目を向けてくる運転手に「財布を落とした」と事情を話して、葵は腹を下していた事にした。
降りたバスが行ってしまうと曲がり角にある電柱から目だけを出して伺っている葵がいた。
追っ手がいないか確かめてから出てくるって…。
「マジで仔猫、しかも野生」
自分で言った事に納得して自分でうんと頷く。そしてフワフワに蒸しあがった牡蠣をツルッと吸い込んだ。すると葵がムッと眉を潜めながらもつられたようにツルッと牡蠣を吸い込む。
料亭に分けてもらった牡蠣は粒が異様に大きいから暫くハフハフモグモグ黙る。
ゴクンと飲み込んむと、「美味しいな」の返事が「仔を付けるな」だった。
間が開いたのだからサラッと流せばいいのに、一々そこに拘るからもうわざと言ってる。
面白いのだ。
面白いからもっと煽ると素直に食いついてくる。
「それは……ほらあれだ」
「どれですか」
「ほら、野良の仔猫に餌をやるとだな、忍び足で寄ってきて奪って逃げる……ってか逃げてるつもり?誰も怒ってないのに必死で可愛いだろ?」
「可愛いとか言うな」
「仔猫の話だ」
「その話をするのに仔猫である必要は無いですよね、それで言うと健二さんは嬉しい時にオシッコをちびる馬鹿犬みたいです。
「……馬鹿を付けるな」
ブラック葵は口が立つ。
可愛さ余って小憎らしさも抜群。
「………お前さ、さっき俺を見捨てただろ」
「健二さんがモタモタするからです」
そこで牡蠣の殻が飛んで来た。
やり返そうとすると「まあまあ」と割り込んで来たスーツに軍手の椎名が、片殻に乗った蒸し牡蠣をニコニコしながら葵の前に差し出した。
椎名が徹底的に葵を優先するには理由がある。
葵は色んな意味で一人っきりなのだ。
母親を含めて顔を知っている親族は一人もいないらしい。
男だし、一応とついてしまうのが難だけど、大人なのだから一人でもどうって事無いと思う。でもそれは「大人」の理屈だって身に染みている。
そう、これは歳とか性別とか理屈では無いのだ。
そんなつもりは無かったし、ごく普通の事だと思っていたが、椎名とは旧知の仲だと見せ付けてしまった時、大きな黒目の中からポロポロと溢れてくる「寂しい」を見てしまった。
「健二さん」
「え?何?」
「殻から汁が溢れてます、それから意味もなく変な顔して俺を見るのはやめてください」
「………たんと食べろよ」
「食べてます、それにしても事務所で鍋なんて出来るんですね」
「またやろうね」と椎名が笑ったのは同じ事を考えていたのだと思う。
こっくり頷いた葵は甘い物を目の前にした時のようにふかっと柔らかくなった。
「次はスッポンだな」って椎名は笑ったけど、そんな高い物はいらないし、はっきり言って椎名は邪魔だ。今度は普通の具材で普通の鍋を葵と2人でやろうと決めた。
この事務所には小さなキッチンが付いてはいるが普段は料理なんてしないのだ。
元々は湯を沸かす為の片手鍋くらいしか無かったが、カセットコンロとか土鍋とか軍手を用意してくれのたのは銀二さんだ。因みに今日の銀二は元気のいい市場のおっさんである。
殻付きの生牡蠣をどうするつもりなのかと思ったら土鍋で蒸すと言うシンプルで豪華な夕食となっている。
牡蠣は昼ご飯にする筈だったが「色々」あったせいで遅れたから夕方にずれ込んでいた。
初めて牡蠣を食べると言う葵が殻の中身を見た時の反応は面白かった。
見た事も無かったなんて驚きだが、牡蠣を知らなければ食べるには勇気がいるのはわかる。
わかるけど「甘い物で胸焼けをしている」……なんて大好きなモンブランを悪者するって……牡蠣を食べなくても済むように慌てて並べた言い訳は面白かった。
前に焼肉屋でセンマイを見た時と同じ顔をしていたけど牡蠣はセンマイとは違う。
是非とも食べてみて欲しかった。
無理矢理食べさたりは出来ないから、椎名と俺と銀二さんがまず食べて「美味し~い」とデモンストレーションをして葵が自ら口に入れるのを待ったのだ。
恐る恐る殻口を寄せ、つるんッと一口で吸い上げて噎せた後、捻じ曲がっていた眉がほわッと解けた葵に……そこにいた全員が癒された。
そして葵が持って帰ったタッパーにはウニ、赤貝、とり貝、何かの白子、とても高くてとても美味しいけど、食べた事がない者にはちょっと見た目が気持ち悪いラインナップが揃ってる。
白子を指差し、これは何かと聞いた葵に「精巣」だと椎名が答えると、葵はサッと顔色を変え、震える声で「誰の?」と聞いた時には笑わせてもらった。
多分フグかタラの白子だと思うけど「さあ」って答えた椎名も葵を揶揄って遊んでる。
事務所の中に葵を混ぜたリズムが出来上がってきていた。
椎名が葵を連れて来た理由は「お決まりの道を歩きそうだったから」と聞いただけだ。
お決まりの道とは……。
借金のカタに連れてこられた若い男の使い道なんてしれている。おそらく詐欺の受け子や架け子などの違法な仕事を強要され、捨て駒にされるぐらいが関の山だ。そして前科が付けば仕事を探すのが難しくなり、そこをまた利用される。
転がり落ちて日の光を浴びる生活がどんどん遠ざかるって事だろう。
しかし、同じような奴は他にも沢山いるのに何故椎名が葵を連れて来たのかははっきりとは知らない。もっと言えば何故椎名が俺を拾ったのかもよくわからない。
恵まれない子供達に愛……って訳じゃないと思うけど、好きにしていいって椎名が言うんだから好きにしてる。
贅沢な飯は乙。
新鮮な高級牡蠣は絶品だった。
もう当分の間牡蠣は見たくないって程たらふく食べて、箸休めに高級づくしの刺身を食う。
天国だ。
ついでだと飲んだ冷酒は葵も少しだけ舐めていた。
そのせいか葵はソファに座ったままうつらうつらとしている。
椎名は「風呂はいいから寝かせてやれ」と言って帰っていった。
因みに銀二は鍋の用意をして最初に1つ2つ食べた後は外で待ってると出て行ってしまった。
「酒を飲んだら運転出来ないから」って事は本当に外で待ってると思っていい。
未だ戸籍が無いらしい銀二の持つ運転免許証は、どこかにいる実在の人から「お借りしている」らしい。
銀二の変身は何種類も見たけど未だにどれが本物かわからない、そして椎名の何なのかもわからないままだ。
……それはさておき。
ここまで長々と「欠野 葵」について語って来たのは困っている事があるからだ。
そしてカウンターの隅に置いてあった飴を前に押し出し好きなだけ食えと勧められる。
葵を見るとつい何か食べ物をあげたくなるって気持ちは誰でも持つらしい。
前に言った事があるけど、葵はその「若く」見える容姿を上手く活かせばおっさんとかおばさんには無敵なのに「甘い物は苦手です」と言い切る。
捻くれているのはポーズなのだと知っているが、今モンブランを食べて来たのに、「頭隠して尻尾隠さず」を果敢にやり遂げる葵に拍手を贈りたい。
せっかくなので飴を一つ貰って口に入れた。
それを見た大将は何だか嬉しそうだ。
切り身になったお魚をカウンター前の冷蔵庫に入れると手を拭いて色々な話をしてくれた。
何でも初老の板前は椎名の若い時からの知り合いなのだそうだ。「昔は可愛かったのにあんな道に進むなんて思いもしなかった」と笑う。
葵を見て「坊主くらい」って言うから椎名が14、5の頃からの付き合いなのだと思う。
え?
葵が14、5に見えると言ったんじゃないぞ?
でも「もう10年以上前からの付き合いだ」と口にした大将はそのつもりだ。今にも「中学生」と言いそうだったから慌てて昔話を遮った。
「あの、俺達はそろそろお暇します。仕事の邪魔になるんで長居をするなって椎名さんに言われてるんです、先にお支払いをしたいんですけどいいですか?」
「おう、持ってけ!」と渡されたのは発泡スチロールの箱とタッパーが入った紙袋だ。
スーパーのレジ袋を想像していたから驚いたけどバス停まではすぐだし何とかなる。
椎名から預かっていたお金の入った封筒を渡していると、当然ってか、そうするだろうなって予想通り、葵は発泡スチロールの箱を選んで持ち上げた。
ムキになったように足で引き戸を開けて行ってしまう。
「今度は店に食べに来い」と笑っている大将にお礼を言って、急いで追いかけると、葵が歩いた後には斜めになった箱から落ちた水が点々と線を描いていた。
「…………無理だろ」
「無理じゃないです」
説得したら絶対に怒り出すから無言で箱を取り上げて歩き出すと「返せ」って追いかけてくる。
本当に可愛いったら無い。
「適材適所って言葉知ってるか?」
「健二さんが持っても俺が持っても大して変わりないでしょう」
「変わりないならどっちでもいいだろう、ほら、バスの運賃は葵が払ってくれ」
片手で箱を支えてポケットから財布を取ろうとすると落ちてしまった。
後ろを歩く葵が当然拾うと思ってたらヒョイッと跨いで知らん顔をする。
葵の闇属性ってこんな所。
「おい!拾えよ」
「やだね馬鹿」
「何でだよ、事務所の財布だぞ」
「健二さんが落としたんだから健二さんが拾えばいいでしょう、俺はこの「紙袋」が重いんで手がいっぱいです」
「葵が拾うべきだ、俺は知らないからな」
「俺も知らないです」
喧嘩しながらスタスタと歩き続けて、喧嘩しながらバスを待ち、お互いに意地を張ったままバスに乗ってしまった。
二人共無一文だと気付いたのは20分もバスに揺られてもうすぐ着くって頃だった。
「………仕方ないな」
「仕方ないですね」
「うん」と頷きあって席を立つ。
荷物が大きいから空いたバスの中でも座っていたのは一番後ろの後部座席だった。
そのバス停で降りるのは俺達の他には一人だけらしい、荷物を抱えて並んでいると葵がツンツンッとシャツの裾を引っ張り声を潜めた。
「行きますよ」
「………え?」
「どこに?」と聞こうとした瞬間、葵はバッとバスを飛び降りダーッと駆け出した。
「お客さん?!」
驚いた運転手が叫んだ声にちょっと振り返ったけど、俺が付いて来ない事を知るや否や「付いて来ないなら捨てて行く」って潔さで走り去った。
「…………嘘だろ」
呆然。
一瞬の事で止める間も無かった。
逃げる事は無い。
ってか逃げなくていい。
……葵は何故こうも突飛なのだ。
お金を持って無いのはもうしょうがないのだから
バスの運転手だってどうしようもない、払えって言っても「取り敢えず金目の物」とか適当な物を差押えしたり出来る訳もなく、身包みを剥ぐわけにもいかないのだ。
今度2回分払うって事で乗客の良心に任せるのが普通だ。
「逃げるか?」
しっかりしているなって思わせる時もあるが、全般的に世間の常識に疎い葵は未開の僻地から突然文明に放り出された難民のような側面がある。
教える事が沢山あって楽しいけど時たま起こす極端な行動は後始末が大変だ。
「お前……仲間だろ」って胡散な目を向けてくる運転手に「財布を落とした」と事情を話して、葵は腹を下していた事にした。
降りたバスが行ってしまうと曲がり角にある電柱から目だけを出して伺っている葵がいた。
追っ手がいないか確かめてから出てくるって…。
「マジで仔猫、しかも野生」
自分で言った事に納得して自分でうんと頷く。そしてフワフワに蒸しあがった牡蠣をツルッと吸い込んだ。すると葵がムッと眉を潜めながらもつられたようにツルッと牡蠣を吸い込む。
料亭に分けてもらった牡蠣は粒が異様に大きいから暫くハフハフモグモグ黙る。
ゴクンと飲み込んむと、「美味しいな」の返事が「仔を付けるな」だった。
間が開いたのだからサラッと流せばいいのに、一々そこに拘るからもうわざと言ってる。
面白いのだ。
面白いからもっと煽ると素直に食いついてくる。
「それは……ほらあれだ」
「どれですか」
「ほら、野良の仔猫に餌をやるとだな、忍び足で寄ってきて奪って逃げる……ってか逃げてるつもり?誰も怒ってないのに必死で可愛いだろ?」
「可愛いとか言うな」
「仔猫の話だ」
「その話をするのに仔猫である必要は無いですよね、それで言うと健二さんは嬉しい時にオシッコをちびる馬鹿犬みたいです。
「……馬鹿を付けるな」
ブラック葵は口が立つ。
可愛さ余って小憎らしさも抜群。
「………お前さ、さっき俺を見捨てただろ」
「健二さんがモタモタするからです」
そこで牡蠣の殻が飛んで来た。
やり返そうとすると「まあまあ」と割り込んで来たスーツに軍手の椎名が、片殻に乗った蒸し牡蠣をニコニコしながら葵の前に差し出した。
椎名が徹底的に葵を優先するには理由がある。
葵は色んな意味で一人っきりなのだ。
母親を含めて顔を知っている親族は一人もいないらしい。
男だし、一応とついてしまうのが難だけど、大人なのだから一人でもどうって事無いと思う。でもそれは「大人」の理屈だって身に染みている。
そう、これは歳とか性別とか理屈では無いのだ。
そんなつもりは無かったし、ごく普通の事だと思っていたが、椎名とは旧知の仲だと見せ付けてしまった時、大きな黒目の中からポロポロと溢れてくる「寂しい」を見てしまった。
「健二さん」
「え?何?」
「殻から汁が溢れてます、それから意味もなく変な顔して俺を見るのはやめてください」
「………たんと食べろよ」
「食べてます、それにしても事務所で鍋なんて出来るんですね」
「またやろうね」と椎名が笑ったのは同じ事を考えていたのだと思う。
こっくり頷いた葵は甘い物を目の前にした時のようにふかっと柔らかくなった。
「次はスッポンだな」って椎名は笑ったけど、そんな高い物はいらないし、はっきり言って椎名は邪魔だ。今度は普通の具材で普通の鍋を葵と2人でやろうと決めた。
この事務所には小さなキッチンが付いてはいるが普段は料理なんてしないのだ。
元々は湯を沸かす為の片手鍋くらいしか無かったが、カセットコンロとか土鍋とか軍手を用意してくれのたのは銀二さんだ。因みに今日の銀二は元気のいい市場のおっさんである。
殻付きの生牡蠣をどうするつもりなのかと思ったら土鍋で蒸すと言うシンプルで豪華な夕食となっている。
牡蠣は昼ご飯にする筈だったが「色々」あったせいで遅れたから夕方にずれ込んでいた。
初めて牡蠣を食べると言う葵が殻の中身を見た時の反応は面白かった。
見た事も無かったなんて驚きだが、牡蠣を知らなければ食べるには勇気がいるのはわかる。
わかるけど「甘い物で胸焼けをしている」……なんて大好きなモンブランを悪者するって……牡蠣を食べなくても済むように慌てて並べた言い訳は面白かった。
前に焼肉屋でセンマイを見た時と同じ顔をしていたけど牡蠣はセンマイとは違う。
是非とも食べてみて欲しかった。
無理矢理食べさたりは出来ないから、椎名と俺と銀二さんがまず食べて「美味し~い」とデモンストレーションをして葵が自ら口に入れるのを待ったのだ。
恐る恐る殻口を寄せ、つるんッと一口で吸い上げて噎せた後、捻じ曲がっていた眉がほわッと解けた葵に……そこにいた全員が癒された。
そして葵が持って帰ったタッパーにはウニ、赤貝、とり貝、何かの白子、とても高くてとても美味しいけど、食べた事がない者にはちょっと見た目が気持ち悪いラインナップが揃ってる。
白子を指差し、これは何かと聞いた葵に「精巣」だと椎名が答えると、葵はサッと顔色を変え、震える声で「誰の?」と聞いた時には笑わせてもらった。
多分フグかタラの白子だと思うけど「さあ」って答えた椎名も葵を揶揄って遊んでる。
事務所の中に葵を混ぜたリズムが出来上がってきていた。
椎名が葵を連れて来た理由は「お決まりの道を歩きそうだったから」と聞いただけだ。
お決まりの道とは……。
借金のカタに連れてこられた若い男の使い道なんてしれている。おそらく詐欺の受け子や架け子などの違法な仕事を強要され、捨て駒にされるぐらいが関の山だ。そして前科が付けば仕事を探すのが難しくなり、そこをまた利用される。
転がり落ちて日の光を浴びる生活がどんどん遠ざかるって事だろう。
しかし、同じような奴は他にも沢山いるのに何故椎名が葵を連れて来たのかははっきりとは知らない。もっと言えば何故椎名が俺を拾ったのかもよくわからない。
恵まれない子供達に愛……って訳じゃないと思うけど、好きにしていいって椎名が言うんだから好きにしてる。
贅沢な飯は乙。
新鮮な高級牡蠣は絶品だった。
もう当分の間牡蠣は見たくないって程たらふく食べて、箸休めに高級づくしの刺身を食う。
天国だ。
ついでだと飲んだ冷酒は葵も少しだけ舐めていた。
そのせいか葵はソファに座ったままうつらうつらとしている。
椎名は「風呂はいいから寝かせてやれ」と言って帰っていった。
因みに銀二は鍋の用意をして最初に1つ2つ食べた後は外で待ってると出て行ってしまった。
「酒を飲んだら運転出来ないから」って事は本当に外で待ってると思っていい。
未だ戸籍が無いらしい銀二の持つ運転免許証は、どこかにいる実在の人から「お借りしている」らしい。
銀二の変身は何種類も見たけど未だにどれが本物かわからない、そして椎名の何なのかもわからないままだ。
……それはさておき。
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