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第三章 | 酒問屋の看板娘、異端児になる
酒問屋の看板娘、異端児になる 其ノ陸
しおりを挟む大通りをまっすぐに抜けて、路地を二つ。
二八蕎麦は確かそのあたりにあったはずなのだけれども、いくら走っても見えてはこない。
なおは流れてくる汗をぬぐいながら、じりじりと照り付ける太陽を睨んだ。
「あっつ!まじであっつ!ってかここどこだよ!」
立ち止まってあたりを見渡すも、右も左も長屋ばかり。
なんとなくこっちだろうと思って走ってきたが、どうやら全然違うところに来てしまったらしい。
一度店に戻って……と引き返すものの、また見たことのない場所に出る。
「なんだよ、ここ!迷路かよ!」
なおはしばらくぐるぐると走り続けたが、とうとうへばって座り込んでしまった。
久しぶりに走ったからだろう、心臓が飛び跳ね、汗が滝のように流れ落ちてくる。
一体全体自分はどこにいるのだろうか。
数分前、自信満々に走り出した自分を殴りたかった。
ふと、兄だと名乗る男の見下すような目と、怯えたつるの姿を思い出す。
こんなことになるなら喜兵寿を探しに走るのではなく、つるを追いかけたほうがよかったのでは……
一瞬そんな考えが頭をよぎったが、すぐに振り払うようにして立ち上がった。
「よし、まずは誰かに柳やの場所を聞こう」
自分の位置がわからない以上、それが最善だ。
それに喜兵寿がもう店に戻っている可能性もある。
なおが再び走り出そうとすると、後ろから聞き覚えのある声で「なおさん!」と呼び止められた。
「やっぱりなおさんですよね。あれえ、こんなところでどうしたんですか?」
振り向くと夏だった。買い物帰りなのだろうか、手には枝豆を抱えている。
「よかった!実は喜兵寿を探してるんだけど、道に迷っちまって。柳やの場所を教えてくれないか?」
そういって駆け寄ると、夏は驚いた顔でなおを見た。
「なおさん、顔が真っ赤。大丈夫ですか?何か飲んだ方がいいんじゃ……」
「あぁ、後で何か飲む。今は急ぎで喜兵寿を探さなくちゃで。実はつるが誰かに連れて行かれたんだよ、兄ちゃんっていってたけど、よくわかんないしさ。急いで喜兵寿に伝えたほうがいいんじゃないかと思って」
なおが説明すると、夏の顔がさっと曇るのがわかった。
「……なるほど。それはきっと一番上のお兄さんですね。わかりました、行きましょう」
そういうと足早に歩きだす。
長屋を抜けて、右に曲がり、細い路地をさらに抜ける。
つるの背中についていくと、あっという間に見知った店の前に出た。
「え?あれ?おれだいぶ走ったと思うんだけど」
まるで狐につままれたような気分だ。
あれだけ走り回ったはずなのに、近くをぐるぐるしていただけとは……
改めて自分の方向感覚のなさにびっくりする。
「なおさんが先ほどいたのは、お店裏手の長屋あたりですよ。慣れていないとこのあたりは迷いますよねえ」
夏はそう言いながら、店の中をのぞき込み、続いて店の周囲に素早く目を走らせる。
「きっちゃんはまだのようですね……どこに行ったか心当たりはありますか?」
「朝つるが『朝市に買い出しに行った』と言っていたから、たぶんまだ朝市だとおもう」
なおの言葉に、夏は「わかりました」とほほ笑む。
「水曜日のいまは昼四つ。きっちゃんのいつも買い出しから考えるに、たぶん橋向の米屋か、堀の下の野菜売りのどちらかかな……」
夏はぶつぶつと独り言を言うと、静かに目を閉じ、今度はくんくんと風のにおいを嗅ぎ始めた。
「えっと夏ちゃん、一体何を……」
なおが話しかけると、
「しっ!ちょっと静かに待っていてください」
そういってゆっくりと歩きながら風のにおいを嗅ぎつづける。
美しい女性が枝豆を抱えたまま、犬のように鼻を鳴らし続けるのはなかなかにシュールな光景だ。
何をしているのか全くわからなかったが、なおは真剣なその様子を黙ってみていた。
しばらくすると夏はその動きをぴたりと止め、こちらに向かって大きく手招きをする。
「なおさん、わかりました!きっちゃんは今堀の下の野菜売り場で買い物を終え、こちらに向かっていると思います。こちらの道を真っすぐ行けば、途中で落ち合えると思うので行きましょう」
「いやいやいや、ちょっと待って。どういうこと?!」
なおが素っ頓狂な声を出すも、夏は「なにか?」といった具合に小首を傾げる。
「1週間のきっちゃんの行動は大体把握しているんです。そりゃあもちろんいつもと違う動きをすることもありますが、そういう時はきっちゃんのにおいを辿ればすぐにわかりますよ」
「におい……?」
「はい!きっちゃんってすごくいいにおいがするじゃないですかあ。わたし大好きなんです。あ、大好きって言っちゃった♡ふふ、これは恥ずかしいから秘密にしてくださいね。ふふふ」
人間とは「好き」がすぎると、嗅覚までも異常に研ぎ澄まされるものなのだろうか。
にわかには信じがたく、なおはまじまじと夏の顔を見つめが、その目は至って真剣で嘘を言っているそぶりは微塵もなかった。
「……じゃあ、行ってみようか」
「そうですね。行きましょう。わたしつるちゃんのあの馬鹿兄貴、心底嫌いなんです。一刻も早くつるちゃんを取り返しましょう」
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