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第二章 | 江戸のストーカー、麦をくれる

江戸のストーカー、麦をくれる 其ノ捌

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水場は、柳屋の裏にある路地を少し進んだところにあった。
木でできた井戸のようなものがあり、水を汲むための桶などが置いてある。

「おお、井戸!はじめてみた!」

井戸といえば石造りで、上に滑車がついているようなイメージだったけれど、それとはだいぶ異なる。
井戸の側には「稲荷」と書かれた鳥居があって、その前で数人の女性達が立ち話をしていた。

昼飯の支度前なのだろうか、手には立派な大根を抱えている。
その足元では腹掛けをした子どもが走り回っていた。

なおはたらいとざるを置くと、よいしょっと井戸の中を覗き込んだ。
深さはかなりあるようで水面は見えないが、かすかにちゃぷちゃぷという水音が聞こえてくる。

じりじりと照り付けるような暑さと対極に、井戸の中はしんと静かに涼しかった。

「さてと。これでどうやって水を汲むかだな……」

井戸の上には長い長い持ち手の桶が置いてあるので、それで汲むのだろうということは予測できるが、何か他にルールがあったのでは困る。

ここいら一体の人が使う大事な水だろうから、誤って汚してしまうなどといったことはしたくなかった。

「……誰かに聞くか」

周囲を見渡すと、鳥居前の女性達と目が合う。
しかし彼女たちはすぐ視線をそらすと、眉をひそめひそひそと小声で話し出した。

警戒されていることはあきらかだったが、なおは気にせず声をかける。

「すんません~!この井戸の使い方教えてもえらえませんか?」

すると、女性達は「信じられない」といった表情でこちらを見ると、再びひそひそと話し出した。

「井戸の使い方知らないなんて」「怪しい人だ」「岡っ引きに言った方がいいのでは」なとどいった単語が細切れに聞こえてくる。

困ったなあ、となおが腕組みしていると、突然足元に子供がぶつかってきた。

「おい、お前。変なやつだな。だれだ?」

年は3歳くらいだろうか。
鼻水を垂らしながらこちらを見上げている。

腹掛け一枚の姿は「リアル金太郎」という言葉がぴったりで、なおは笑いながら子供の前にしゃがみ込んだ。

「おう坊主。人に名前を聞くならまず自分が名乗れよ」

なおが言うと、子供は勢いよく話し出した。

「おりゃあ、イチだ。そこの長屋に住んどる。
とうちゃんとかあちゃんがいてな、いもうとももうすぐ生まれる。
かあちゃんはおとうとだっていってるけど、おりゃあいもうとだとおもう。
かあちゃんはおとうとがいいのかもしらんけどな」

「俺はなおだ。よろしくなイチ」

なおが手を差し出すと、母親らしき女性「イチ!」と叫ぶながらものすごい形相でが飛んできた。

「やめてください!岡っ引きを呼びますよ!!!」

イチが言うようにもうすぐ子供が生まれるのであろう。
大きなお腹を守るようにしながら、イチを引きはがす。

「俺は別に怪しいもんじゃ……」

見ると一緒にいた女性たちも、一同に箒や棒、大根を握り締め、こちらを刺すように睨みつけている。

「いや、だから俺は井戸の水を汲みたいだけで……!」

なおが弁解するもその言葉は全く届かず、女性の一人が「誰か!助けてください!」と叫び出した。

「え、ちょっと……だから……」

やばい、なんだこれ。

そう思っているうちに、近くの長屋から「どうした!」「大丈夫か!」とわらわらと人が飛び出してきた。

その手には武器になりそうなものが握り締められており、中には鎌を持った男までいる。

「おい!何をしている!!!!」

その数はざっと10人強だろうか。
なおは「小さい長屋なのに、こんなに人がいたのか」と驚き、いやいや今はそこじゃない、と慌てて頭を振る。

正直喧嘩は苦手だ。
若かったころは不良グループと呼ばれる中にいたけれど、のらりくらりできるだけ争いからは逃げて生きてきたのだ、こんなに大勢を相手にできるわけがない。

それも皆、小柄なくせにやたらマッチョだった。

だめだ、逃げるか、そう思った時、後ろから聞きなれた声がした。

「皆さん、驚かせてすみません!この人は怪しいもんじゃないんです」

振り返るとつるだった。
ごめんね、のポーズをしながらにこにこと歩いてくる。

「この人は柳屋が新しい酒つくりのために南方からお招きした杜氏でして。いまはうちに住んでおります」

つるの言葉に、女性たちが口を開く。

「怪しいもんじゃないったって、この人井戸の使い方もわからなかったんだよ?!それにおかしな髪の色だし、様子もおかしいし……!」

つるはなおの前に立つと、深々と頭を下げた。

「ご紹介が遅くなってすみません。彼はなにせ暮らしの違うような遠方に住んでいるものなので、わからないことも多いんです。

彼の住んでいた地はここにたどり着くまでに半年もかかるような、それはそれは遠方でして……道中の険しさと暑さで少し様子がおかしいこともあったかもしれません。

でも決して害を加えることはありませんので、ご安心ください」

「いや、様子はおかしくないって……!」

なおが口を開くと、つるの鋭い後ろ蹴りが飛んできた。

「いっ……!!!」

「挙動がおかしいこともあるかと思いますが、これからどうぞよろしくお願いします。新たな酒ができたあかつきには、是非みなさん柳屋に飲みにきてくださいね。

振る舞い酒をさせていただきますので」

つるの穏やかで淡々としたはなし口調に、人々は「まあ、つるちゃんが言うのなら」と、手にしていた武器を下ろし、ぞろぞろと家の中へと戻っていった。

最後につるは鳥居前に残っていた女性達とイチに声をかける。

「怖い思いをさせちゃってごめんなさい。彼にはわたしからいろいろと教えておきますので」

そういって頭を下げる。
女性達は「いいのよ、いいのよ」「こちらこそごめんなさいね」と言いながら、つるの肩を叩いた。

「つるねえちゃん、おりゃあもうすぐにいちゃんになるでよ。べつになんもこわくなかったぞ」

イチはそう言いながらつるの足元に抱き着いている。
つるはわしゃわしゃとその頭を撫でると、再び頭を下げた。

女性達が立ち去ると、つるはくるりとなおに向き直った。
真顔でなおの目をぎっと見つめてくる。

(こりゃあ怒られるぞ)

なおは身構えたが、予想に反しつるは「ごめん」と頭を下げた。

「水場の使い方わからないだろうなと思ってたけど、教えなくてごめん。意地悪だった」

真っすぐなつるの言葉に、なおはたじろぐ。

「いや……えっと、聞かなかった俺も悪いわけだし……」

「聞きにくくしてたのもわたしの責任。ごめん」

そういって再び頭を下げた後、つるは切り替えるようにパンっと手を叩いた。

「よし、この話はこれでおしまい!さあ。さっさと水を汲んじゃいましょう」

「お、おう」

つるは井戸の上に置いてあった持ち手の長い桶を手にとると、ざぶんと井戸の中に落とした。

「井戸の水を汲むには、この桶を使って。水を運ぶには、土間にある水桶を使うといいと思う」

話しながらつるは器用にするすると桶を井戸から持ち上げた。
中にはたっぷりと水が入っている。

「ほら、こんな感じ。でもさ、こんなの見ただけでわかるでしょう?井戸があって桶があったら、こうやって汲み上げる他別になくない?なんでわざわざ声をかけたの?」

つるが怪訝そうにいう。

「そりゃあ聞くだろ。だってこの水はここらに住む人たちの大事なもんだろ。下手なことして汚しちまったら大変だと思ってさ」

なおが答えると、つるは一瞬きょとんとした顔をした後、あははと笑い出した。

「あんたのことだらしなくて、どうしようもない男だと思ってたけど、意外なとこちゃんとしてんのね」

「そんなの当たり前だろ。って、俺だらしなくもどうしようもなくないから!」

つるはひとしきり笑うと、なおの持ってきたたらいに水をざばりとあけ、桶をなおに手渡した。

「さあ汲んじゃってちょうだい。このたらいでも、2人で運べば店まで持ち帰れるでしょ」

なおは桶を受け取ると、井戸から水を汲み揚げた。

それは思ったよりも重くて、持ち上げる度に腕の筋肉にずっしりと負荷がかかるのがわかる。

それに加えてこの暑さだ。なおは額にびっしりと汗をかきながら桶を引き上げた。

さぶん、さぶん

3回程水を汲むと、たらいはいっぱいになった。
透き通って冷たそうな水だ。

なおはぜえぜえと肩で息をしながら、水の中に顔を突っ込みたい衝動を必死で抑えてた。
仕事がら重いものを持つのには慣れているはずなのに、腕はぷるぷると震えている。

思わずしゃがみ込むと、上からつるの声が降ってきた。

「たったこれだけでだらしないわね。さ、店まで帰るわよ」

見ると、つるがたらいの淵に手をかけている。

「まじか。そうか、これを持つのかあああーーー」

なおは叫ぶと、ばたりと後ろに倒れこんだ。
汗でべったりとはりついた着物に土ほこり。

そしてうるさいほどの蝉の声。見上げた空はびっくりするほどに青かった。
ああ、麦芽をつくるための水を汲むだけでこんなに大変だなんて。

なおはゆっくりと目を閉じた。

「ああ、ビールが飲みたい。キンキンに冷えたやつを一気に飲みたい……」

凍ったジョッキに並々と入ったビール。
口をつけた瞬間の泡の感じや、それを押しのけるようにして喉に滑り込んでくる冷たい炭酸……

しかしその妄想もすぐにつるに破られる。

「ほら遊んでないで帰るよ!」

「……うい」

こうして店までの数十メートル(なおの体感にしてみれば数キロ)を、重いたらいを持ち上げ帰ったのであった。
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