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紙切れ上の夫レイフが他国へ逃亡したらしいと情報が入ったのは年が明けての事だった。友好国でもあった隣国への入国は容易かったようである。


「暦では春なのに凍るような寒さだわ」
気分転換にと庭園へ出たミラベルだったが早々に屋敷へ戻るべく踵を返し、おつきの侍女に蜂蜜入りのミルクティーが飲みたいわねと愚痴る。それに賛同した侍女は早く部屋へ戻りましょうとせっついた。

伯爵家で一番暖かいサロンへ雪崩れ込むと先客が暖を取っていた、兄のブレンドンだ。彼は優雅に茶を嗜み分厚い冒険譚を捲っていた。廊下から冷たい空気が部屋へ侵入したことに気が付き漸く頭を挙げる。

「やぁ、お転婆さんが来ていたのか。済まないがすぐにドアを閉めて貰えるかな?」
「あら、失礼しましたわ兄様。はぁ……大人しく部屋におれば良かったと後悔していた所です」

少々乱暴な足取りで兄ブレンドンの向かい側に座ったミラベルは、侍女が淹れたミルクティーに早速手を伸ばし暖を取る。陶器を通してジンワリ伝わる温もりに頬が緩んだ。

その少女が抜けきらない様子に兄は苦笑しつつ、愛らしい妹だと心の奥底で呟く。
遠縁から迎えた養女ミラベルは、彼の複雑な胸中をまだ知らない。奇遇にも瞳の色と髪色までも似ていた兄妹は他人から見れば本当の家族のように映るだろう。

「二つ前のご先祖が同じ……それだけなのにな」
小さく呟いやブレンドンに妹ミラベルは冒険話の感想だろうと見当違いの事を思って聞き流した。そんなに夢中になるほど面白いのなら後々借りようと思った。

長い溜息を漏らしたブレンドンは異国へ逃げたレイフの所業について話始めた。ミラベルは今更何を耳にしようと驚かないと確認している。



「まぁあの方、つくづく厚顔無恥だこと……隣国の王女に懸想するだなんてね」
「いや、細かく言えば元王女の娘にだね。王籍から離れて侯爵家へ嫁ぎ子を成した、その3人目の娘がいまの標的になっているようだね」

浅ましいことだとミラベルは肩を竦めた、形だけの夫婦とはいえ法的には離縁は成立していない。生国に妻を持つ男が王族に手を出した。その逆も罪は重い。

「外交問題に発展しかねない事をやらかしている自覚がないのでしょうね。倫理的に言えば両成敗にはなるでしょうけど……我が国に泥を塗ることは大罪だわ」
ミラベルの言葉に一部だけ同意をした兄は「エイジャー家への裏切りが抜けている」と指摘して渋い顔をした。兄妹は愚行を止めないレイフに例えようのない怒りを更に膨らませた。

「いっそのこと去勢をもって罰とするのが良いと思いますわ。」
「ひっ、それは同じ男としては辛いな。」
無意識に視線を下半身に落とし震えた兄を見てミラベルは吹いてしまった。慌てて扇を開いて取り繕うがブレンドンはそれを見逃さない。

「なにかとても失礼なことをされた気がする」
「あら、いやだ。下の事となると殿方は繊細なのねぇ、やましいことがないのならば堂々となさいませ」
「ぐ……」
珍しく言い負かされたブレンドンは悄気ると話を本題に修正した。近く隣国モアランドへ外交団が派遣されると兄は説明した、両国会談の席でレイフの悪行は暴かれるだろうと言った。

「まぁ急展開ですのね、裁判で長引くと思ってましたのよ。不貞行為に結婚詐欺、加えて投資詐欺……並べればきりがないので止めますけど」
彼女はやや温くなったミルクティーを一気に飲み干すとケフリと小さな息を吐く。

「私の手で断罪したかったのに、国が動くとなれば仕方ありませんね。ですが同じく裏切られ捨てられた女性団が大人しくしているか甚だ疑問ですわ」
「それはどういう意味だい?」

ミラベルは居住まいを正すと言った。
「どの方も財界に影響を及ぼすほどの資産家です、モアランド国に輸出入をなさっている家もありますわ。罪人は国が裁くと言って引き下がるかしら?特に注意すべきはフィンチ家のローナ様でしょう。数多あった良縁を蹴ってまでレイフに尽くしていたと報告にありましたでしょう?」

「あぁ、そうだったな。罰金と数年の禁固刑で納得するとは思えない、爵位は剥奪されると思うが被害者から見れば温いだろうな。上位貴族の罰はそういうものだから」
「えぇ、普段は慎ましく情が深い方こそ恐ろしいのですわ。」



一月後にミラベルが危惧した通りの事件が起こった。
貧民街に流れる溝川にレイフと思われる遺体が汚泥の中に発見されたのである。

妻として検死立ち合いに召喚されたミラベルは変わり果てた姿のレイフを目の当たりにする羽目になった。検視官がくすんだ布を遺体の肩ほどまでに捲り上げた、水死体は酷い有様だと警告されていたミラベルは顔色を悪くするが気を張って夫らしき物体を見た。

だが予想に反して彼の顔は美しいままそこにあった。
ツンと尖った鼻筋、そして薄く開けた瞳は何も映さないが青い目はキラキラとジルコニアのように輝いている。

「まぁ貴方、久しぶりに会っても麗人のままなのね。死んでまで美しいだなんて……」
妻ミラベルの言葉に反応した検視官は”夫君に間違いないですね”と定型文のような台詞を言ってクリップボードを握り直した。傍らのデスクからなにかの書面を取りだして「御遺族の同意を」と言い出す。

だが、突き出された羽ペンをミラベルが手に取ることはなかった。

「わたくしサインなどしませんわ。だって、夫じゃないもの」



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