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第10話
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なんとか今日の業務を終え、書類の片付けを始める。
普段の業務終了時間よりも一時間程度遅くなってしまった。だが、精神的にはその何倍も仕事をしていたかのように疲れている。心なしか肩や首回りが重く感じた。
ゴキゴキと肩をならしていると、執務室のドアを控えめにノックする音が響いた。
「入りたまえ」
特徴的なノックの音は、私の予想した通り、恋人であるキリのものだった。
彼はぺこりと頭を下げると、気まずそうな顔で私の顔をじっと見つめ、おずおずと部屋に入ってきた。
「アシュリー様、今日は本当にすみませんでした……」
「いや、いいさ。人間なら誰しもミスはつきものだしね」
私はつとめて、彼を安心させるような優しい口調を心がけた。
同時に、キリの謙虚な態度に、心の中でほっと安堵の息を吐く。
なんだ。ミルトはああ言っていたが、キリは充分に反省しているじゃないか。
同じミスが三度続いたと言っていたが……きっと、それはまだ秘書の仕事に慣れていなかったからだろう。
それに、ミルトはもしかすると、キリとユージを比べてしまっているのかもしれない。
ユージは子どもの頃から大人顔負けに仕事ができた。
片田舎の町から王都に上京してきた彼は、すぐに薬師の仕事だけではなく、経理や秘書業務にも少年の内から携わるようになった。
見習い期間を終えた後、この商会の事務関係の仕事をわかりやすくまとめ、マニュアル化したのもユージだ。
そんなユージと比べられてしまっては、さすがにキリが可哀想だ。なにせ、私自身ですらユージの仕事ぶりには舌を巻くばかりなのだから。
「あ、ありがとうございます、アシュリー様。僕、もっと精進できるように頑張ります……!」
「ああ、大丈夫だから無理せずにね」
私の言葉に、キリは可憐なはにかみ笑いを浮かべた。
そして、首をこてんと傾げて私を上目遣いで見上げる。
「アシュリー様。それで、今日はどちらへ行かれますか?」
「え?」
続いたキリの言葉に、私は目を瞬かせた。
今日はどちらへ――そんな風に言われても……私は別に、今夜はキリと何も約束はしていない。
ただ、普段であれば……仕事が終わった後に、キリを連れて王都のリストランテで夕食を共にするのが常だった。
まさか、そのことを言っているのだろうか?
確かに、いつもならもうそろそろ馬車で商会を出ている頃合いだが……まさか、キリは今日もそのつもりだったのか?
正直に言えば、私はさすがに今日は彼と食事を共にする気はなかった。
午前中ずっと、怒声をあげ続ける職人たちを相手にして、私は精神的にかなり疲労していた。今夜は早く家に帰って、ゆっくりと休みたい。
それに、何より……今朝の一件の原因はキリにある。今朝のことであんなに肩を落としていたキリが、今夜、私と顔をつき合わせて食事をするのは心苦しいだろうと思っていたのだが……
「……あ! す、すみません。今夜はアシュリー様もお疲れですよね……僕ったら、気が利かなくて……」
「あ、ああ、そうなんだ。申し訳ないが、またの機会にさせてくれ」
「分かりました! あの、僕、またステキなお店を見つけたんです。だから今日も、アシュリー様と行きたいと思ってしまって……」
「ありがとう。楽しみにしているよ」
キリがはにかむような笑みを浮かべる。
だが、私はその笑顔を、先ほどのようにあたたかな気持ちで見つめ返すことができなかった。
執務室を出ていくキリの背中を見つめながら、私の脳裏には、ミルトの言葉が蘇る。
『――無論、人間の行うことですから、必ずどこかでミスは生じます。ですが――どのミスもすべてマニュアルに従わず、自分の能力を過信して『これでいいだろう』と正規の手順を踏まえていないことで生じているものと見受けられます。これは、もはや本人の性格の問題と言わざるを得ない気がいたします』
そんなはずはない。
キリがそんないい加減な人間であるわけがない。
オッドブル商会は、キリにとっては、自身の恋人が商会長を務めているのだ。なのに、そのようないい加減な気持ちで彼が働くはずがない。
キリはもっと真面目で、純粋で――……
そこまで考えて、私はふと、キリと交わした会話、彼の立ち振る舞いを思い返す。
「…………」
冷静になって、客観的にキリとのことを思い返す。
今までは気に留めていなかったが、見かけによらず、キリの好む店は肩肘の張る高級店が多いことに気が付いた。
コース料理を格式ばった作法で食べなければいけない高級リストランテだ。
最初の内は、キリの喜ぶ顔が見られるなら、と思っていたが……正直、ああいう店は私の好みではない。
よく考えると、今夜のキリとの夕食を断った理由も、そこにも理由がある。
そして、キリが私の好みや、懐事情を気にかけてくれたことは、思えば一度もなかった。
可愛らしいはにかみ笑顔で礼を言ってくれることはあっても、彼が自ら支払いをしようとしてくれたことはない。まぁ、提案してくれたとしても、もちろん私は断っただろうが……
……ああ。そういえば、ユージが私に声をかけてくれたことがあったな。
『――連日、あんな高級店ばかり行って懐具合は大丈夫なのか? たまにはもっと気安い店でもいいんじゃないのか』
その言葉に対して、私はなんと答えただろうか?
あまりよく覚えていない。だが、よくない言葉を彼にぶつけた気がする。
多分、「お前には関係ないだろう」とか、そういう類の言葉だ。
「……ユージ……」
……あの頃の私は、ユージとキリの距離が縮まっているのが、たまらなく嫌だった。
なにせ、ユージは私の部下で、ベータ性ではあるが、その仕事ぶりや発想は私を大きく上回る男だ。
いつだって冷静沈着で、達観したような彼の物言いは、子どもの頃からひそかな私の憧れだった。
だから、キリがユージのそばにいるだけで、どうしようもない焦燥感に駆られた。
ユージがその気になれば、私は絶対に彼に太刀打ちできない。
ユージにキリを奪われたくなかった。
そして同時に――キリに、ユージととられたくなかった。
私にとって、ユージは唯一無二の親友だった。
なんでも打ち明けることができて、心から信頼できる男だ。
そんな彼に、私以外の友人が出来ることが許せなかった。
それがたとえ、私の恋人だとしても。
「…………っ」
自分の醜い嫉妬心と執着心を自覚して、ぎり、と拳を握りしめる。
爪を立てた掌から血が滲むのが分かったが、止めることはできなかった。
それとも……この思いもまた、アルファの本能のなせる業だというのだろうか?
普段の業務終了時間よりも一時間程度遅くなってしまった。だが、精神的にはその何倍も仕事をしていたかのように疲れている。心なしか肩や首回りが重く感じた。
ゴキゴキと肩をならしていると、執務室のドアを控えめにノックする音が響いた。
「入りたまえ」
特徴的なノックの音は、私の予想した通り、恋人であるキリのものだった。
彼はぺこりと頭を下げると、気まずそうな顔で私の顔をじっと見つめ、おずおずと部屋に入ってきた。
「アシュリー様、今日は本当にすみませんでした……」
「いや、いいさ。人間なら誰しもミスはつきものだしね」
私はつとめて、彼を安心させるような優しい口調を心がけた。
同時に、キリの謙虚な態度に、心の中でほっと安堵の息を吐く。
なんだ。ミルトはああ言っていたが、キリは充分に反省しているじゃないか。
同じミスが三度続いたと言っていたが……きっと、それはまだ秘書の仕事に慣れていなかったからだろう。
それに、ミルトはもしかすると、キリとユージを比べてしまっているのかもしれない。
ユージは子どもの頃から大人顔負けに仕事ができた。
片田舎の町から王都に上京してきた彼は、すぐに薬師の仕事だけではなく、経理や秘書業務にも少年の内から携わるようになった。
見習い期間を終えた後、この商会の事務関係の仕事をわかりやすくまとめ、マニュアル化したのもユージだ。
そんなユージと比べられてしまっては、さすがにキリが可哀想だ。なにせ、私自身ですらユージの仕事ぶりには舌を巻くばかりなのだから。
「あ、ありがとうございます、アシュリー様。僕、もっと精進できるように頑張ります……!」
「ああ、大丈夫だから無理せずにね」
私の言葉に、キリは可憐なはにかみ笑いを浮かべた。
そして、首をこてんと傾げて私を上目遣いで見上げる。
「アシュリー様。それで、今日はどちらへ行かれますか?」
「え?」
続いたキリの言葉に、私は目を瞬かせた。
今日はどちらへ――そんな風に言われても……私は別に、今夜はキリと何も約束はしていない。
ただ、普段であれば……仕事が終わった後に、キリを連れて王都のリストランテで夕食を共にするのが常だった。
まさか、そのことを言っているのだろうか?
確かに、いつもならもうそろそろ馬車で商会を出ている頃合いだが……まさか、キリは今日もそのつもりだったのか?
正直に言えば、私はさすがに今日は彼と食事を共にする気はなかった。
午前中ずっと、怒声をあげ続ける職人たちを相手にして、私は精神的にかなり疲労していた。今夜は早く家に帰って、ゆっくりと休みたい。
それに、何より……今朝の一件の原因はキリにある。今朝のことであんなに肩を落としていたキリが、今夜、私と顔をつき合わせて食事をするのは心苦しいだろうと思っていたのだが……
「……あ! す、すみません。今夜はアシュリー様もお疲れですよね……僕ったら、気が利かなくて……」
「あ、ああ、そうなんだ。申し訳ないが、またの機会にさせてくれ」
「分かりました! あの、僕、またステキなお店を見つけたんです。だから今日も、アシュリー様と行きたいと思ってしまって……」
「ありがとう。楽しみにしているよ」
キリがはにかむような笑みを浮かべる。
だが、私はその笑顔を、先ほどのようにあたたかな気持ちで見つめ返すことができなかった。
執務室を出ていくキリの背中を見つめながら、私の脳裏には、ミルトの言葉が蘇る。
『――無論、人間の行うことですから、必ずどこかでミスは生じます。ですが――どのミスもすべてマニュアルに従わず、自分の能力を過信して『これでいいだろう』と正規の手順を踏まえていないことで生じているものと見受けられます。これは、もはや本人の性格の問題と言わざるを得ない気がいたします』
そんなはずはない。
キリがそんないい加減な人間であるわけがない。
オッドブル商会は、キリにとっては、自身の恋人が商会長を務めているのだ。なのに、そのようないい加減な気持ちで彼が働くはずがない。
キリはもっと真面目で、純粋で――……
そこまで考えて、私はふと、キリと交わした会話、彼の立ち振る舞いを思い返す。
「…………」
冷静になって、客観的にキリとのことを思い返す。
今までは気に留めていなかったが、見かけによらず、キリの好む店は肩肘の張る高級店が多いことに気が付いた。
コース料理を格式ばった作法で食べなければいけない高級リストランテだ。
最初の内は、キリの喜ぶ顔が見られるなら、と思っていたが……正直、ああいう店は私の好みではない。
よく考えると、今夜のキリとの夕食を断った理由も、そこにも理由がある。
そして、キリが私の好みや、懐事情を気にかけてくれたことは、思えば一度もなかった。
可愛らしいはにかみ笑顔で礼を言ってくれることはあっても、彼が自ら支払いをしようとしてくれたことはない。まぁ、提案してくれたとしても、もちろん私は断っただろうが……
……ああ。そういえば、ユージが私に声をかけてくれたことがあったな。
『――連日、あんな高級店ばかり行って懐具合は大丈夫なのか? たまにはもっと気安い店でもいいんじゃないのか』
その言葉に対して、私はなんと答えただろうか?
あまりよく覚えていない。だが、よくない言葉を彼にぶつけた気がする。
多分、「お前には関係ないだろう」とか、そういう類の言葉だ。
「……ユージ……」
……あの頃の私は、ユージとキリの距離が縮まっているのが、たまらなく嫌だった。
なにせ、ユージは私の部下で、ベータ性ではあるが、その仕事ぶりや発想は私を大きく上回る男だ。
いつだって冷静沈着で、達観したような彼の物言いは、子どもの頃からひそかな私の憧れだった。
だから、キリがユージのそばにいるだけで、どうしようもない焦燥感に駆られた。
ユージがその気になれば、私は絶対に彼に太刀打ちできない。
ユージにキリを奪われたくなかった。
そして同時に――キリに、ユージととられたくなかった。
私にとって、ユージは唯一無二の親友だった。
なんでも打ち明けることができて、心から信頼できる男だ。
そんな彼に、私以外の友人が出来ることが許せなかった。
それがたとえ、私の恋人だとしても。
「…………っ」
自分の醜い嫉妬心と執着心を自覚して、ぎり、と拳を握りしめる。
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