流動性ロマンティカ

桜間八尋

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初夏

第1話

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 莉緒りお、聞いてほしいことがあるんだ。

 私が愛しい人の名前を呼ぶと、いつもと変わらない笑みで彼女は応えてくれる。それを見ていられるだけで満足だったはずなのに、いざ期待以上のものが手に入る確信が得られるや否や、私は手を伸ばさずにはいられなかった。

 やっと男になれたんだ。だから、

 恋に盲目となった私は自分の欲深さを省みることもなければ、莉緒の本心さえ恋の成就に比べれば取るに足らないものだったに違いない。実に醜悪な、遺伝子の奴隷だ。思考を放棄した私は彼女の肩を抱き寄せると、恥も外聞も忘れてその耳元に囁いた。

 愛して。

      *

 目が覚めると、そこには見慣れた自室の天井があった。

 今しがた見ていた光景が現実のものだったのか、はたまた夢の産物だったのか。その判断もつかないほどに寝ぼけていたれんは、パジャマの中に手を突っ込むと自分の下腹部に触れる。だがしかし、そこに期待していた感触はなかった。

 当たり前の事実に落胆しながらも、懲りずに恋は夢に現れた少女に対して想いを馳せた。

 長谷部莉緒。高校のクラスメイトで、恋にとっては初恋の人でもあった。

 夢だったとはいえ、文字通り目と鼻の先に彼女の笑顔が、そこには存在していたのだ。胸の内が幸福感でいっぱいになると、恋は布団の上に突っ伏した。そのまま寝返りを打っていると、不意に今日が何の日か思い出して憂鬱になる。

 プール開き。水泳の授業が始まる日だ。

 幸せな気分に水を差された恋は、二度寝を諦めるとベッドから抜け出した。その足で洗面所に向かうと、ルーティンに慣らされた身体から徐々に寝起きの怠さが抜けていく。

 蛇口から溢れ出した水が好みの温度に落ち着くまで待っている間、恋は洗面台の縁を掴んで俯いていた。ごぼごぼと音を立てて流れ落ちていくぬるま湯を眺めながら、自分の中にある不快な感情も一緒に吐き出して洗い流すイメージを思い浮かべる。それから一つ大きく息をついて、指先で流れ落ちる水を遮って温度を確かめた。その手で掬い取ったぬるま湯を顔に当てると、気の済むまで何度も洗った。

 濡れそぼった前髪をかき上げながら、鏡に映った自分の顔を見つめる。アーモンド形の大きな瞳と細い顎はいかにも女性的だが、薄い唇は色気に欠けているように思う。鼻は高くもなく、低くもない。頬に丸みがないところは(そばかすが気に入らないけれど)見方によっては男性的に映らなくもないだろうか。まずまずの美形だとは思うが、自分の理想とする方向性のものでないことは明白だった。

 朝食を摂ろうとキッチンに向かうと、電話中の母の声が耳に届く。普段よりもオクターヴ高いその声が、恋は苦手でたまらなかった。彼女が見ず知らずの誰かを騙すときと同じ声音だから。

 ただでさえ落ち込んでいた気分を後押しさせられると、食欲を忘れた恋は予め作っておいた昼食用の弁当だけを冷蔵庫から取り出してさっさと自室に引き返すことにした。脱ぎ捨てたパジャマをベッドの上に放ると、学校の制服に着替える。膝上まで丈のあるスパッツに、女生徒用のスカート。ワイシャツには袖を通すが、リボンタイは外したままにしておく。

 それは恋なりのささやかな抵抗だった。男でもなければ、女でもない。中性としてこの世に生を受けた、彼/彼女にとっての。

      *

「おはよ、恋」

 始業前の教室で、何をするでもなく窓の外を眺めていると、いつものように莉緒から声を掛けられた。

「おはよう、莉緒」

 お決まりの挨拶。夢の中と変わらない快活な笑み。僅かに香る制汗剤の匂いが、今日も今日とて彼女が部活の朝練に勤しんでいたことを窺わせる。始業までの五分か十分そこらの短い時間。莉緒とこうして他愛のない話をする短い時間が、恋にとって何よりも貴重でかけがえのない瞬間の連続だった。

 しかし、いくら二人の会話が弾んでいようと、始業直前になると莉緒がしきりに時計の方を気にしだすのが視線の動きでわかる。毎度のことであるが、お世辞にも授業に対して真面目に取り組んでいるとは言えない彼女が始業の時間を気にしているとは思えない。その証拠に、彼女が妙にそわそわしているのは一限目のこのタイミングだけだ。

「あっ、きた」

 始業ぎりぎりのタイミングで教室に入ってきたのは、二人のよく知る男子生徒だった。恋にとっては別段仲の良い相手というわけではないものの、莉緒にとっては特別仲の良い幼馴染なのだ。

「おはよ、一果いちか

 莉緒に声を掛けられても頷きを返すだけで、彼は無言のまま席についた。その前にこちらとも目が合ったが、それ以上のことはない。いつも通りのことだ。

 日村一果。莉緒の幼馴染。不愛想なのは玉に瑕だが、顔は悪くない。中肉中背。帰宅部。以上。恋が彼について知っていることといえばその程度―――の、はずだったのだが、

「ねえ、聞いてよ。この間一果のお母さんにね、」

 莉緒がしきりに一果の話をしたがったため、余計な知識が頭にこびりついてしまった。

「おい」

 すると、一果がうんざりした様子で莉緒の言葉を遮った。思春期の少年があれこれと家庭の事情を外に持ち出されるのを看過できるわけがない。が、それこそが彼女の狙いなのだ。なし崩し的に会話の糸口を晒してしまった彼が莉緒に絡まれている様子を眺めながら、恋は胸にちくりと刺すような痛みを覚えていた。

 莉緒が一果に対して特別な感情を抱いていることは、誰の目にも明らかだった。口を開けば彼の話ばかりするし、彼を見つめるときの熱を帯びた視線ときたら。それに比べて相手の方はというと、どうもはっきりしない。普段のやり取りを見ても、悪く思っている節はなかった。むしろ好意的な態度の方が多いだろう。しかし、時折彼が莉緒に見せる妙に冷淡な部分が恋には気掛かりだった。不快と言い換えてもいい。

 突き放すような言動をするでもなく、そっけなく周囲の言葉をシャットアウトする。それも唐突に。莉緒にしてみれば、想い人のこのような態度は理不尽この上ないものに違いなかった。たまにある、とか。いつものことだから、とか。その度に彼女の口から聞かされた。何度も。物憂げな表情を浮かべては、決まって苦笑いで誤魔化そうとする。悲しみを悟られないように。

 だから、私は日村一果が憎かった。

 同時に、莉緒を悲しませる彼をこの上なく羨んだ。

 彼女の感情をこれほどまでに揺さぶることができるのはこの世でただ一人、日村一果しかないない。彼がその気になれば、長谷部莉緒は世界一の幸せ者にだってなれるだろう。恋とはそういうものだから。そして、自分には彼を恋敵と呼ぶだけの自負がなかった。競争しようにも、スタートラインに立つことすらままならない。今の「未分化」なままの姿では。

 莉緒は恋をまるで女友達であるかのように扱った。恋自身、それが嫌なわけではないが、いずれ自分が女に「分化」するものと決めつけられているような、判然としない煩わしさを彼女に対して覚えてもいた。恋の容姿が女性寄りであるから、感性も女性に準じたものに違いないと、わざわざ口にはしないまでも無意識にそう捉えていると感じた人間は、何も莉緒に限った話ではない。むしろ、それが大多数に共通した印象だった。

 しかも、表面的にはジェンダーレスを装うような人間こそ、性別を強く意識している傾向にある。自分をガラス細工か腫れ物のように扱うのは決まって男の方で、そんな彼らを尻目に女たちは目の前のボーダーを取っ払おうとする。どちらも恋にとって好ましい態度とは言い難かった。

 文字通り万に一つの確率で生まれてくる中性の子供たちも、物心がつく頃には大抵どちらかの性別に収まっている。十代の半ばを過ぎても分化の兆しが見えない自分のような存在こそが例外中の例外なのであり、そんな自分を理解してほしいと無理強いするのもとうに諦めて、今はただそっとしておいてほしいとさえ思った。

 そうした一辺倒な評し方を身近な人々にしていたところ、恋の前に現れたイレギュラーがたった一人いた。無礼とまで言わないラインを弁えながらも、その本質は無遠慮。彼にとってクラスメイトはおしなべて「友達の友達」くらいの関心しかなく、そこに性差はない。

 そう、日村一果だけが、あの不愛想な級友だけが、雛形恋を誰とも区別しなかった。

 さりとて恋が彼に好意を抱くことなどなく、むしろ憎悪の対象といってよかった。莉緒の恋心を思いのままにしながら、彼女と親密になることは避けている。遠ざけもしないから、いつまでも彼の関心を惹こうとする莉緒のいじらしさが恋の目には哀れに映った。

 目の前の光景に対し、恋がどのような気持ちで向かっているかなど、二人は知る由もないだろう。知ってほしいとも思わない。授業が始まり、莉緒と一果のお喋りが止んだ後も恋は悶々としていた。これが毎日のように続くのだから、堪らない。

 無人の教室で、午後を一人で過ごしていてもやがて二人のことに考えが行き着く。集中力をかき乱された恋が自習を投げ出すと、そのまま机に突っ伏した。この時間、本来なら水泳の授業に出るところを、自分の性別を理由に挙げて自習時間に割り当ててもらっていた。無論、それでは体育の授業の評価に代わらないので、週末に一人で補習を受けることになっている。去年の同時期と同じ流れだ。

 いくら女生徒と似たような扱いを受けているからといって彼女たちと、ましてや男子たちに混じって水着に着替えるわけにもいかず、圧倒的マイノリティである自分の性に完璧な配慮がなされた環境なども、当然ここには用意されてない。だったら一人で補習を受けた方が気兼ねなく済むし、願ったり叶ったりというものだ。

 だがしかし、プールから戻ってきたばかりのクラスメイトに付着した塩素の匂いに、ちょっとした疎外感を覚えたのは言うまでもない。

      *

 土曜日。本来なら昼下がりまで惰眠を貪りたいところだが、生憎と今日は補習がある。いつも以上に気怠い朝を迎えながら、ぬるま湯で顔を洗っていると寝間着のポケットの中でスマホが鳴った。お湯の流れる蛇口を閉め、タオルで手の水気を十分に拭ってからそれを手に取ると、莉緒からの応援のメッセージが目に入った。

 自分もこれから部活だろうに。

 彼女の気遣いに多少は気持ちが和らぐと、恋は返信の内容を考えながら鼻歌混じりに登校の準備を整えた。

 ささやかな幸せを噛みしめていられたのも束の間、次第に重くなる足取りと比例するように気分は落ち込んでいった。平日とは異なるダイヤ、異なる客層。いつもとはまるで違う雰囲気の電車内に、自分だけが日常から取り残されてしまったかのような錯覚を受ける。それは教室でも感じていた、自分だけが世界に適合できていないような、「ずれている」感覚に通じていた。

 よくよく考えてみれば他の生徒より一日多く学校に通わされているわけで、憂鬱な気分になるのも無理はない。補習という形をとることで、性差によって生じる煩わしさから逃れられたかと思えば、結局のところその分の苦労が別の形にとって代わっただけなのだ。電車を降りて徒歩で学校へ向かう間も、徒労感は増すばかりだった。時間の空費と知りつつも、他にやりようもない。

 学校に着くと、まずは体育準備室に担当の教員を呼びに行った。彼にプールを開放してもらい、更衣室の鍵を借り受ける。去年とまったくもって同じ流れだ。

 これからたっぷり一時間、教員監視のもとでここを泳がされることになる。何十人もの生徒がプールをいっぺんに泳ぎ回ることなんて実際にはないわけで、必然的に彼らは幾ばくかのインターバルを挟んで一泳ぎすることを繰り返しているに過ぎない。自分にはそれすらも与えられないから、これが結構な運動量になった。週に一度とはいえ夏の間はそれが続くことになるのだから、想像しただけでうんざりする。

 家から持参してきた水着は、学校指定だが女生徒用のものだった。普段から女子の制服を着ているし、今更スクール水着の形に不平不満を口にするつもりはない。しかし、これに頼らなくても済むときが来たら、周囲はどんな目で自分を見るのだろう。それとも、分化が始まれば今よりうんと胸板が厚くなって、顔だって男前になるから男子用の水着をはいてもちぐはぐなところなんてなくなってしまって、案外なんとも思われないのだろうか。

 更衣室を前に鍵を手元で遊ばせながら、そんなことを考えていた。それから溜息を一つ漏らすと、それを鍵穴に刺し込む。希望的観測に過ぎないことを、あれこれ頭の中に抱えていてもいいことなんて何もない。それは自分が一番よくわかってることじゃないか。

 ドアノブを引くと、久方ぶりに嗅いだ湿気混じりの塩素と僅かばかり残った埃っぽさがない交ぜになった匂いが鼻をついた。それに思わずしかめっ面になりながらも、蛍光灯のスイッチに触れると陽光の届かない陰気な室内がにわかに明るくなる。それから目に付いたロッカーに手を掛けたとき、

「えっ」

 恋が不自然な物音を耳にした。

 コツコツ、と定期的に何かを叩くような音だった。その出所を探ろうと、更衣室全体をぐるりと見回してから耳をすます。窓の方からだ。

 どうやら、何者かが窓ガラスを外側からノックしているらしい。注意して目を凝らしても、分厚いカーテンに遮られているせいで向こうには何も見えなかった。

 何用かはともなく、どうしてこいつはドアではなく「窓」を叩くんだ―――覗きにしては礼儀が良すぎる。自分に声を掛ける者がいるとすれば補習を担当する体育教師だろうが、そうするとなおさらこそこそと窓越しに用件を伝える動機が見つからない。

 もっともらしい理由をつけるとしたら、自分にごくごく私的な事情を持ち出すのにこの場を選んだ、といったところだろうか。一歩間違えれば覗き魔扱いも免れないような状況を作り出す愚を犯した人間が、身近にいるとはとても思えないが。

 ノックはまだ続いている。

 真っ先に思い浮かんだのは莉緒の顔だ。クラスメイトの彼女なら自分が水泳の授業の補習を受けることも知っている。しかし、莉緒が無用なリスクを背負ってまで自分に何を伝えようというのか。それがまったくの謎だった。念の為スマホのメッセージを見返したが、それらしい意図を含んだやり取りもしていない。よって除外だ。だが、学校繋がりで自分に近しい人間など彼女をおいて他にいないし、他所に思い当たる節もない。恋の頭は増々混乱した。

 窓の外にいるのは一体誰なのか。その答えを知るには、自分の手を動かすしかない。気味が悪いからと無視するのは簡単だったが、恋の向こう見ずな性格がそうさせなかった。例え、それが破滅的な結果を招いたとしても、だ。そんなのは知ったことではない。息の詰まるような毎日が、恋に投げやりな生き方を選ばせていた。人生はなるようにしかならず、そこに自分の努力が介入する余地などないのだ、と。そうして、外的な要因にばかり目が行くようになった。

 運命だとか、偶然だとか、そんなものが自分の日常を大きく変えてくれるなんてことは期待しちゃいない。ただ、そうしたものを呼び込もうと無意識に手を伸ばしているだけ。意を決した恋が窓際に立った。恐る恐るカーテンをスライドさせると、すりガラス越しに人影らしきものが見える。

 ノックの音が止む。向こうも気づいたのだ。

 こちらにも人知れず対話する意思があると相手に伝わるよう、窓の留め金をゆっくりと時間を掛けて外した。もう後戻りはできない。窓を開けようと取っ手に触れたとき、恋の心臓が早鐘のように鳴った。不安はいつの間にか祈るような気持ちに変わっている。肌にまとわりつくような閉塞感、常に感じている息苦しさを打ち破ってくれるような何かが、そこにある気がして。

 窓をスライドさせている間に、自分でも気がつかないうちに目をぎゅっと瞑ってしまっていた。薄っすらと目を開くと意外な人物が恋の視界に映る。

「・・・・・・うす」

 そこには制服姿の日村一果が、気まずそうにしながら窓の外に立っていた。
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