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第一章

逃走中

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 馬車は大通りを避け、南街道と並走する裏道を走った。

 まだ街は日常の静けさを保っている。

 兄フランシスはおそらく、王宮での血なまぐさい出来事の直後、結果を見極めてから一番に逃げ出してきたのだろう。

 これで逆に皇帝の親衛隊や護衛たちが防御できていれば、兄の首は間違いなく飛んでいた。

 なんていうか、昔から要領がいいというか、物事を見極める能力に優れているのよね。

 それを言うなら両親もそうなのだが、今回ばかりは強運もつきたようだ。

 こんな言い方をすると、薄情だと思われるかもしれない。

 だけど上流階級って、自分で子育てはしないからね。乳母ナースや教育係、そして身の回りは子守りナースメイドまかせが普通なわけ。

 勉強は家庭教師が見てくれるし、食事も子供部屋。両親との触れ合いは、せいぜい寝る前の一時間くらい。

 特にうちの両親はハードワーカーで、基本的に王宮に寝泊まりしていたのだから、そういった意味での、立ち直れなくなるような絶望感は無かった。

 ……うーん、やっぱり薄情かしら。

 でも仕方ない。今は自分の命が第一優先なんだもの。


 しかし、馬車の外をヒラヒラと紙が舞いだすと、私の心は恐怖に凍りついた。

 新聞社が、号外をばら撒き始めたのだ。

 行動が早すぎる!

 予め新聞社を買収しておくのは漏洩のリスクがある。

 おそらく軍が用意していた物だ。

 襲撃成功の報を待ってから、新聞社に持ち込んだに違いない。

 通りの市民たちが一人、また一人とそれを手に取る。

 徐々にざわめきが大きくなり、やがてあちこちから歓声があがりだし、最後には爆発的な絶叫になった。

 次々に路地裏や店の中から市民たちが飛び出していく。

 反対に、タウンハウスから出てきた貴族たちは、棒立ちになってすぐに家の中に引き返していく。

 テレサが私の手を握った。群れをなして馬車通りを走っていく市民を見ながら、

「彼らは、王宮に向かっているのでしょうか?」

 と聞いてきた。ガクガク震えている。

 おそらく……。

 何が書いてあるかは明白だった。

「急ぎましょう」

 ジェイクは馬車のスピードをあげた。

 背後からは乳母の乗った馬車が追いかけてくる。

(そう、急がなきゃ)

 私は汗で濡れた手を握り締めた。

 いつも手袋をしなさいとルチアに叱られるけれど、今日はそんな暇も無かった。

 帝都守備隊の憲兵に軍の命令が行き渡れば、あらゆる道で検問が始まる。

 その前に街を出るのだ。

 裏道が終わり、馬車が南へ向かう大きな街道に合流した。

 背後から聞こえていたお祭りのような歓声は、どんどん遠ざかっていった。

 わたしはほっとして、馬車の背もたれに身を預けた。

 しばし目をつぶり、心を落ち着ける。

 やっと事態と向かい合う心の準備ができた。

 御者台に向かって声をかける。

「抜けられそうね」

 しかしジェイクは応えない。

 あれ、聞こえなかったのかしら。

 御者台の方へ座りなおして、窓をずらすと、もう一度大声で言った。

「もう大丈夫よね?」

 ジェイクは首を振った。

「不思議なんです」
「え?」

 ジェイクは、車輪の音にかき消されないように、大きめの声で言う。

「この先の森を抜けると、小さな綿織り物の工業街になって……アンフォラ地区に入ります。陸戦部隊の――帝都守備隊の臨時駐屯地が置かれているところです。南の街道を行くなら、どうしてもそこにぶつかる」

 しばし思考が止まった。

「え、そうだっけ!? いつの間に?」
「一ヶ月ほど前です。たびたび労働者のストライキがあったのでーー」

 半笑いになる。いやいや、明らかに混乱を予測した配置じゃない?

「……それって」

 ふつふつと怒りが湧き起こる。

「兄様は私を囮に使ったってことよね? 捕まることを見越して――」
「まさか。考えすぎですよ――」
「いいえ、まず抜け目のない兄様がその情報を知らないわけないもの。あの人の性格ならやりそうなのよ! メルディアチ家の令嬢が捕まれば、そこの長男が一人で逃げてるなんて思わないわよ。だって普通はいくら足手まといだからって、こんな可愛い妹を置き去りにしないもの!」

 あいつを除いてはね!

 怒ってるそばから、鬱蒼とした森が見えてきた。

 しかしここまで来て引き返すわけにも行かない。

 テレサが怯えたように私の顔を見る。

「お、お嬢様、どうなさるおつもりですか?」
「ジェイク! さりげないふりをして通り過ぎるわよ」
「さりげないふりって……」

 ジェイクが呆れている。

 だって、漏洩を恐れて最初からは知らされてないと思うの。……鳩を飛ばされたとしても。

 馬車がゆっくり森を抜け、木造の粗末な長屋が立ち並ぶ街の中に入った。

 すぐに目に入ってきたのは、馬に乗った軍服姿の男たち。

 今日は元帥に昇格した軍のお偉方だけが王宮に行っている。一応、軍のトップは皇帝だから、直々に叙任するためだ。

 その皇帝の預かり知らぬところで、帝都にいる水軍の兵士たちの多くは、王宮の包囲で駆り出されていることだろう。

 お願い、手薄になっていて。

 馬車を見て道を塞いだ彼らは、見る限りだと少人数だし、どことなく浮ついているように見えた。

 この人たちは、万が一の皇族の逃走を食い止めるための予備軍なのかもしれない。

 どうしよう。

「止まれっ!」

 当然ながら、停止させられた。

 私はバクバクいう心臓を抑えた。

「どこへ行かれる予定ですか?」

 馬車の中を覗いて、ちょっとだけホッとしたような表情を浮かべる兵士。

 まだ若く、ニキビの跡も初々しい。

 緊張のあまり押し黙る護衛の騎士たちに代わり、ジェイクがいかにもへどもどした口調で答えた。

「お嬢様の静養で、田舎の別荘へ届けるんです。肺を病んでおりまして。後ろの馬車は同行する医者です」

 私はすぐさまゴホゴホと咳き込みだした。

「ああ、ジェイク。早くあの薬を。労咳の薬を。いやいや、もしかしたら黒死病かもしれないわ、うああぁぁ、目が霞みますわ」

 若い兵士の顔が青ざめる。

 慌てて口を押さえて路を指差した。ちょうど風下方向だ。

「い、行ってください。早く」




※ ※ ※ ※ ※ ※




 兵士たちが心ここにあらずで良かった。

――あの時点でクーデターの成功までは、下っぱの兵士たちには知らされていなかったようだ。

 しかも若くて未熟だったことが幸いし、なんとか通り抜けられた。

 彼らは当面の行動だけ指示され、何か感じ取ってはいたのだろうが、かといって何が起こっていたか分からず、不安だったのだろう。

 ひとまず良かったのだがーーここから先、どこへ向かえばいいか分からない。

 なぜなら、兄が合流場所に来るか分からないからだ。

 やっぱ、あんなやつ信用できねー。

 だってさ、こんな危険な道からしか、馬車では南へは行けないんだもん。

 囮にするつもりはなかったとしても、見捨てる気満々だったんじゃないの?

 私はいったん馬車を停めさせた。

「うん、あの人を頼るのは危険だわ」

 私はジェイクにこっそりそう言った。

 いくら慌てていたとは言え、詳しい日時も場所も、合流手段も話さず置いていったのだ。

 合流する気なんて、そもそも無いに違いない。

 ルチアが腰を押えながら、後ろの馬車から出てきた。

「ラファエラ様、私は長く馬車には乗っていられませんわ。この辺りは道が悪うございます。どこか休憩できるところで一休みいたしましょう」

 騎士の一人が異論を唱える。

「出来うる限り都から離れた方がいいです。フランシス様のおっしゃっていたジレオンに、一刻も早くお嬢様を届けるのが俺たちの仕事だ」

 私はすっかり困り果てた。

 東海岸のジレオンは帝都からだと近いが、一度街道を使って南下してから回ると、とんでもなく遠い。

 馬車道を使わなければ、そうでもないんだけど……。

 チラッとルチアを見る。乗馬も苦手と言っていたし、歩いて舗装されてない道を歩くなんてとても出来そうにない。

 こんなどんくさい乳母だからこそ、小さい頃は目を盗んでジェイクやテレサと遊べたのだ。

 私は途方にくれた。

 少なくとも叔父は、家族と共にジレオンに来るかもしれない。

 彼らだって逃げなければいけない身の上なのだから、いずれかの港は使うはず。

 だって島国なんだから。

 当面の資金はあるし、港街で待つしかない。

 私は渋々頷いた。

「分かったわ。ジレオンへ向かいましょう。ルチア、もう少しがんばって」

 もう少しも何もないわ。

 身を潜めながらだと、何日かかるか分からない。

 ルチアじゃなくてもずっと馬車に揺られているのは辛いし、ましてや地方は舗装されてない道が多い。いくらアターソン製サスペンション付きの高性能馬車でも、ひどい悪路は転倒するくらいだ。

 さして若くも無いルチアが途中で音を上げることは必至。

「二日ほど行けば、私の友人の領地に入れるわ。ホーンベリー領で、一時的に匿ってもらいましょう」

 久しぶりにクラリスに会うことができるし、旦那が軍人だから領地は守られ――。

 ちょっと待て?

 私はハタと気づいた。そうよ、クラリスと言えば、もう軍人の妻じゃないの!

「だめだめ、だめよ。敵の陣地に飛び込んじゃうところだったわ」

 私は頭を抱えた。

 だけどどうしてもルチアを休ませたい。

 結婚して二年で寡婦。子供は夭逝してしまって可哀そうな身の上だった。

 親戚筋である我が家を頼り、お兄様と私の乳母になってくれたのだ。

 実の母より、よほど母親に近い存在だった。

「しょうがないわ。背に腹は代えられない」

 私はジェイクが道を知っていることを祈りながら、行き先を告げた。

 途端、ジェイクの顔が赤くなる。

「くそったれ! 嫌ですよお嬢さん」
「しょうがないのよ。他に行くところがないもの」

 南部最大の領地を誇るエルンスト。

 実はそこの領主の嫡男エドワルド・ザクセンウォールとひと悶着あった。

 熱烈に求婚されたのだが、うちの両親から拒絶されたのだ。

 ザクセンウォール家と言えばけっこうな名門。

 他の貴族の娘なら、まず断る理由はないのだろうけれど……何せ皇子から婚約の申し込みをされているわけだからね。

 ……あ、いたから、と言うべきか。

 両親も断るしかなかったのだ。

 だけどエルンストの若君はそれに激怒して、私を攫おうとした。

 乗馬中のことだった。

 遠乗りにジェイクとテレサがついて来てくれていなかったら、無理やり連れ去られていただろう。

 もちろん証拠はないのだけれど。

「SMの女王みたいな仮面つけて変装してたけど、あれは紛れも無くザクセンウォールのクソ野郎ですよ」

 SMの女王ってなんだろう。下町で育ったジェイクは、昔から私が知らない言葉をよく使う。

「分かってはいるけど、他に当てが無いのよ」

 地方の貴族もどうなるか分からないけれど、あそこは当主が勅令権反対、議会政治復活組だったから、粛清の対象にならないと思うの。

 兄や叔父が一緒ならば、もっと知り合いがいたかもしれない。

 だけど女の私にはそんなに頼れるツテなんて無かった。

 私は、社交場ではちょっと浮いてたのだ。

 ちやほやはされていたけど、男性からは身分的に気後れされ、女性からは嫉妬と羨望の目で見られていた。

 私も寄ってくるおべっか使いたちが大嫌いだったから、ツンツンしてたしね。

 例外が、ザクセンウォールの若様とクラリスなわけだ。さみし……。

 その若様は、その後も兄にすがり付いて私と結婚したがったらしい。

 兄は迷惑そうに、

「あいつ、ちょっと気持ち悪いよな。アルベルト殿下も猟奇的だけどさ。おまえ、変なやつにばっかり好かれるのな」

 ま、がんばれよっ、と肩を叩いた兄をぶん殴ってやりたかったっけ……。

 それでも今は、その好意に付け入るしかない。

 ルチアだけでも置いてもらえれば、私たちはジレオンまで旅を続けることができる。

 その見返りに何を要求されるか、あえて考えないようにした。

 まあ、逃げてさっさと違う人と結婚しちゃえばさ。ね?


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