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第四章

板胸VSブラコン

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 今度こそ、クラリスは貞操を失う覚悟をした。

 なぜなら、この丸眼鏡の男は既に下半身を露出している。

 今の時代、股割れドロワーズなんてお婆さんくらいしか着てない。

 即、あのおぞましいモノがクラリスの股にゴールインすることはないはず……と思ったが。

(失態だわ!)

 今日は寝冷えも安心、綿の臍パンではない。

 ちょっぴり背伸びして、なんとも頼りないシルクの勝負下着にしてしまった!

 だってまた、あの人が間違って夜這いに来るかもしれないと期待していたから。

「ふん、生地が透けて、うっすら可愛いお毛けが見えるよ」

 丸眼鏡が興奮の鼻息で白く曇っている。どう見ても変質者。

 男の手が下着にかかる。

 脱がされてしまったら……自分も彼のように丸出しになったら、この頼りない布地すら存在しないのだ。

 必死に抑えるが、ゴム紐という革新的な発明の利点が今は仇に。

 あっさり脱がされた。

 ものすごい力で内腿を広げられ、生暖かくて固いものをそこに押し付けられる。

「ひぃっ」

 ズキズキと痛む頬など気にならないくらいの嫌悪感が襲う。

「いやっ、いやだ」

 クラリスの眦から落ちた涙は、悔し涙だった。

 あの夜、夫が間違って夜這いに来たとき、初めてを奉げてれば良かった。

 何で寝てしまったのよ、カイト様のバカ!

 おかげで、こんなわけの分からない逆恨み眼鏡に、乙女の一番大事な物を奪われるはめになってしまった。

 グイグイ押し付けられてパニックになる。この人は、何をしようとしているの!?

「入らない。これだから処女は」

 舌打ちし、ザクシムはドレスの襟から力任せに喪服の前ボタン引きちぎる。紫水晶を加工したボタンが音をたてて散らばった。

 さらに、ブラ付きコルセットの紐までも乱暴に切ってしまう。

 そう簡単に布や紐など裂けるわけがない。

 結果、大変な衝撃が怪我した肩に伝わったが、その上、固定していた包帯までむしりとられた。

 苦痛で呻き声がもれる。

 
 だが、肩に来た衝撃よりも、胸を露出されたことの方が苦痛だった。

 男は糸目をさらに細めて、小ぶりな乳房と、桜色の、まだ誰にも吸われた事がないような乳首を見つめる。

「ああ、いいね。小さいのは私好みだ。胸はデカければいいなんて思ってる女が多くて困る」

 ダグレスが背後で、失礼ね! と叫んでいるのが耳に入った。

 あなたのは上げ底じゃないの、とクラリスは頭の冷静な部分で思ってしまう。

 奇妙なことに、どこか状況を客観的に見ていた。まるで他人事のようにぼんやりと……それほどこの状況は受け入れがたかったのだ。

 ザクシムはクックックと悪魔のように笑い、いきなり乳房を掴んだ。

 クラリスは痛みに硬直する。痛みが、彼女を現実に直面させた。

「早く濡れてくれよ。大佐が来てしまう……。あいつを殺すときは、絶望に歪んだ顔を見て楽しみたい。やっぱり人を雇うより、ぜんぶ自分でやりたかったんだよ、私は。他人の銃で撃つのは、気に入らないがね」

 クラリスはそれを聞いて逆上した。意識がはっきりする。

 夫に手を出させるわけにはいかない。

 首をあげ、乳房を掴んでいる男の手に思い切り噛み付く。

「小娘っ」

 再びザクシムが手をあげた。

 その隙を狙って片膝を跳ね上げる。

 見事に股間に直撃した。むき出しの股間に。ザクシムの絶叫が響き渡る。

 それと同時に、バンッと居間の扉が開け放たれた。

「カイトさまっ!」

 息を乱して駆けつけたカイトを見て、跳ねるように起き上がったクラリス。

 そのまま夫の方にかけよろうとした。

 しかしその結い上げた髪の毛をザクシムが掴み、引き寄せた。ガッチリと羽交い絞めにする。

「いらっしゃい、レンブラン大佐。思ったより早かったですねぇ」



※ ※ ※ ※ ※



 まずカイトは、クラリスの有様に目を見張った。

 腫れあがった頬に血がこびりついている。ひどく殴られたのだ。

 そして――ああ、胸をはだけている。あるかないか分からない可愛らしい胸が。

 これは一足遅かったのか?

「銃を捨てて」

 ザクシムが嬉しそうに言った。何故か内股で前屈みだ。

(なんで、こいつが……)

 完全に、カイトの迷いのせいだった。

 ドアを開けた瞬間、彼が撃とうと思ったのはダグレス・ネイロンの方だったのだ。

 しかし彼女――いや、彼だろうか――は椅子に縛り付けられていた。

 状況はつかめないが、実際に撃たなきゃならなかったのは、どうやらこの丸眼鏡の軍人。

 ザクシム・ランバードが居ること自体、カイトには想定外だったのである。

(やられた)

 完全に人質に取られたクラリスを見て、カイトは奥歯を噛み締めた。

「何でだよ、あんた何で俺のモノを傷つけようとしてるんだよ」

 俺のモノ……。クラリスは押さえつけられながらも、ちょっと感動した。いい響きだが……。

(ポッケに入れたハンカチや万年筆にでも同じ事を言うんでしょうね)

 死を前にして皮肉に思う。

 おそらく夫は銃を捨てないだろうから。

「愛妻を盾に取られたら身動きも取れませんよね。銃を置いてこちらに滑らせなさい。三度は言わないよ」

 カイトが何の迷いもなく銃を床に置いて、ザクシムの方に滑らせた。

 ザクシムはそれを蹴って部屋の隅に遠ざける。

 クラリスには信じられなかった。

 夫が丸腰になってしまった。

 私のために身を危険にさらしてるなんて。

「ランバード中佐は、東風に乗って戦死した弟の仇を取りたいんですって」

 椅子にしばりつけられたダグレスがそう言った。カイトの顔から血の気が引く。

「『東風』の、遺族か……」

 その顔を見た途端、クラリスは夫が思ったよりずっとそれを気にかけていたことを知ったのだ。

 がっくりと膝をつく。

「そうか……それでか」
「『神風艦隊』は水軍でも憧れのエリート職です。私は間違った」

 ザクシムの真っ白な眼鏡の隅から、つつっと涙が伝う。カイトは目をつぶった。

「謝っても、無意味だ。それでも謝りたい。俺の責任だ」
「お前には分からないだろう」
「分かるさ」

 カイトが目を開けた。

「俺が士官になりたかったのは、兄たちが死んだからだ。バカな上官の無理な作戦で、戦死したからだ」

 ザクシムが黙った。

「俺の兄貴たちの死は、お飾りで司令官をやっていたルーヴァンス公ヴェルヘルム家の、ボンクラ息子たちのせいだからな」

 旗艦以外一隻も戻らなかった、ヴァッキャロー海の敗走。万単位の餓死者を出したアラヤンダー島の陸戦は、士官以上が輜重部隊だけ連れて逃げた。

 皇帝の一つ下の弟は、己の息子たちの実力を見せつけ、議会を味方にし、次の帝位を狙っていたという噂である。

 誤算だったのは、凡庸なニコロスの四人の皇子たちと同じく、彼の息子たちもまた大した器ではなかったところ……。

 実戦経験の少ない彼らを作戦司令官にして、結果どれほどの戦死者が出たか。

 しかし因果応報だろうか、ヴェルヘルム家の子息たちはその後、不審な死を遂げる。彼らを恨む者はたくさん居たらしい。

 体制がおかしいのだ。平民はよほどの手柄をあげなければ士官になれない。士官学校は金がかかるし、コネもいるのだ。

 貴族というだけで十代の士官候補生の命令に従わなければならない、下士官以下ベテランの兵士たちの不満は、いかほどのものか。

「そんな風に、誰かの命令で死ぬなんて真っ平だった……俺なら、減らせると思った」

 カイトは唇を噛み締めた。

「自惚れだった」

 ザクシムは嘲笑を浮かべた。

「責任はお前が取れ。ニコロスの系譜は元から死ぬべきやつらだった。弟の命は汚ならしい皇女の血では贖えない!!」

 カイトの眉が、ピクッと動いた。

 何を思ったか、銃を持った相手にスタスタ歩いて近づいていく。

「ちょっ……止まりなさい」

 少し焦ったザクシムが叫ぶ。カイトは止まった。

「弟のことは本当に悪かった。俺の力不足だ。俺がヴェルヘルム家の養女に、変に反発したせいなんだ」

 クラリスは、夫が一瞬ちらりとダグレスに気を取られたことに気づいた。

 しかしすぐにザクシムに意識を戻す。

「その腰の銃、ジュロス少佐のだろ? いつ盗んだんだ?」

 まったく注意をそらそうとせず、ピタリとダグレスの銃を向けている男に、カイトは世間話でもするかのように軽い調子で問いかけた。

「候補者はほぼ一緒に行動してましたからね。隙などいくらでもある。抜く機会も無かったので、私が単発の銃しか携帯してないことには誰も気づきませんでした。銃を持っている人間に奪われるとは思っていなかったでしょう。趣味の悪い髑髏のシールが貼ってありましたが、あっさりはがれました」

 クラリスは、何とか銃口を夫からはずせないだろうかと考える。

 このさい自分は撃たれてもいい。

 片腕も何とか使える。あとは、一瞬の隙さえあれば。

「すみませんね、大佐。この家の連中が憲兵を呼ぶ前にすませちゃいましょう」

 無情にもザクシムは、余裕など与えようとせずいきなり引き金を引いた。

 ほぼ同時に、男の利き腕に力が篭ったことを見抜いたクラリスが、全体重をかけて大きく後ろに仰け反った。

 発砲の瞬間男がバランスを崩し、カイトは跳ねるように横に飛んでいた。銃の弾は逸れ、カイトの肩をわずかに掠めた。

「貴様っ」

 ザクシムは体勢を立て直し、腕の中の女を抱きなおすと再び狙いをカイトに向けようとした。

「オラッ!」

 野太い声がして、ザクシムの銃を後ろから掴んだ者が居た。

(え?)

 ダグレスだ。

 縛られていたはずなのに。

 クラリスは男の腕の力が弱まったのを感じ、急いで抜け出した。

 ダグレスはそのまま天井に向けて発砲させると、彼の腕を大きく捻じ曲げた。

 ゴキッと嫌な音がして、ザクシムが銃を取り落とす。

 クラリスは短銃にかけよった。

 同時にカイトが手を伸ばす。

 クラリスが先に銃を手に取り、見様見真似で構える。

 その上からカイトが片手で包み込むように支えた。

「このオカマ!」

 ザクシムは変な風に曲げられた右腕の痛みに絶叫し、さらに押さえ込もうとするダグレスを振りはらった。

 出血でフラフラだったダグレスがよろめく。

 ザクシムは振り返りざま、ホルスターの自分の――正確にはエルリック・ジュロスのだが――銃を取り出して構える。

「お前の大事な者も奪ってやる」

 カイトに血走った目を向け、折れた腕を支えながら向けた銃口は――彼の妻の眉間。

 あ……死ぬのかな。

 クラリスがそう思った途端、大きな音とともに腕に衝撃が走る。

 クラリスの手の上からグリップを握っていたカイトが、引き金を引いて撃ったのだ。

 今度は迷いは無かった。

 ザクシム・ランバードの身体がゆっくり傾くと、ドサッという音とともに崩れた。

 眼鏡が割れ、血が飛び散っている。もう片方の目は、ガラス玉のようにどこも映していない。

 至近距離で撃たれた彼は即死だった。

(いたっ)

 手に持った銃に走った衝撃で、肩の痛みがぶり返す。

 それでようやく我に返った。

「悪かった。左腕一本じゃどうも狙いがつけられなくて。すごく痛むか?」

 カイトがクラリスを支えた。石膏で固められた腕のカイトは、咄嗟にクラリスの支える手を利用したのだ。

「私――」

 今さらながら、震えが襲ってくる。

 怖かった。

 ここのところ死が身近だったからこそ、よけいに大きな恐怖感だった。

 カイトは自分の軍服の上着をクラリスに羽織らせると、同じ姿勢のまま後ろから抱きしめた。

「ちょっとの間、こうしおいてやるよ」

 温かい体温が伝わってくる。

 前にも上着を貸してもらったことがあるが、その時はこんな風に抱きしめてはくれなかった。

 その嬉しさで、すぐに震えは止まった。

 いやだ、この人から離れたくない。

 クラリスは心の底からそう思った。

 一緒に居たい。ずっと一緒にいたい。

「カイトさま、私――」
「いちゃついてるんじゃないわよ」

 呆れたような声。

 あ、もう一人存在を忘れていた。

 二人はダグレスを振り返った。座り込んで髪をかきあげ、こっちを睨みつけている。

 指や手のひらをゴキゴキ言わせている。

「手首の関節外してまで、ロープ抜けしたんだからね。御礼くらいしなさいよ」

 カイトもクラリスも、はだけた胸元を見て複雑な気分だった。

 どう扱っていいか分からない。

 ていうか、この人なに?

「ご主人さま、お嬢様!」

 リオックとコック、それにハウスキーパーが、手に包丁やらフライパンやら持って飛び込んでくる。背後に憲兵隊を連れてきていた。

「ああ、良かった、ご無事で」

 箒を振りかざしながら入って来たリオックは、ダグレスの胸筋に目がいって、しばし絶句している。

 一瞬にして死んだ魚の目になった。

「ダ……ダグレス・オ、オ、オカーマーさまも……ご無事で?」

 カイトは気味悪げに近づくと、ダグレスの上着を脱がす。

「痛っいたいたいたっ」
「ガラスか。止血するから動くなよ」

 こんなときなのに、クラリスは彼の筋肉質で見事な上半身に見とれた。

 えぇ、オカマなんてもったいない。

 おっと、ジロジロ見ていると、夫にいやらしい女だと思われてしまいそうだわ。

 だけど、憲兵たちがザクシムの遺体を運ぼうとしているところも見たくない。

 そこでクラリスはあさっての方を向いて尋ねた。

「どうして私たちを助けてくれようとしたんですか? ネイロン少佐」

 ガラスを抜いたあと、その背中を自分のハンカチで圧迫しているカイトも頷いた。

「てかあんた、本当にネイロン少佐なのか?」

 ダグレスは何と応えるべきか吟味しているようだった。

「まーなんていうか、ネイロン少佐は男なのよ」
「たしかに、あんたは男だ」
「うーんと、そうじゃなくて」

 ダグレスは言いにくそうにしている。

「ええい、もういいわ。だから、オカマでもなくて。ていうかオカマじゃなくて私的には女装なんだけど。ネイロン少佐はね、完璧にいい男って感じなの」

 カイトは苛々と先を促す。

「何を言ってるかわからねーよ、つまり?」
「いい男って――紳士ってやつはね、ストレスが溜まるのよ。淑女たちの期待に添わないといけないから」

 二人はなぜか一生懸命理解しようと話を聞いている。

「でね、こっそり趣味で女装してたの」

 ストレス発散か!

「ところがね、ちょっと前にクレイヴォーンに視察に来てたフランソル・ミシュターロ少将にそれを見つかちゃってね。まー正確には、見つかっちゃったというか、女装してたのでその……女モードになってたのよ、私。それで、その、彼を逆ナンしたというか……口説き落とそうとしたの」

 ダグレスはふてくされている。

「まさか身元がバレるなんて思わなくて。そしたらあの男あっさりあたしの正体見抜いちゃってさ。強請られて脅されて、情報部の仮工作員みたいなのにされちゃったのよ」

 何か思い出したのか、顔をしかめるダグレス。

「あいつ、あんなクールな顔してて、まるっきり鬼畜よ鬼畜」

 クラリスがそっとそちらに目を向けると、ニヤニヤ笑っている夫と目が合った。

「あいつはほんと、鬼だよな。弱みは絶対利用するから。ていうか、口説くって……あんたやっぱり――ゲイなんだろ?」

 ダグレスが怒って立ち上がる。

「ざけんじゃないわよっ、名門アルムハウゼンの男子がオカマでモーホーなわけないでしょ。女装した時だけ心まで女になるの! だから――大佐もかなり好みよ」

 突然色っぽい声が復活した。見ると、トロンとした視線をカイトに送っている。

 カイトとクラリスは青ざめた。

 ダグレスはにっこり笑った。

「まー、両刀と思ってくれていいわ」

(思いたくない)

 二人ともそう思った。なんだかこの人めんどくさい。

 ちょうどいいところで憲兵隊の衛生兵が駆けつけてきたので、無理やり後をまかせる。隙を見せたらケツを掘られそうで、いや、掘らされそうで? 怖かった。

「いこう」

 カイトに促され、背後で「待ちなさいよ!」と叫んでいるネイロン少佐を置いてクラリスは夫を追いかけた。

「とりあえず、まずお前が着替えて来いよ」

 カイトは憲兵や使用人の目を気にしてそう言った。

 侍女レディースメイドが急いでクラリスを連れて行く。ひどい有様だった。衣服はビリビリなだけではなく、煙臭い。

 屋敷に置いていこうと思っていた上等のドレスの一つに着替えると、今度は侍女に水の入った革袋を二つ渡された。

「奥様、冷やしてください」

 ほっぺが腫れ、リスみたいに膨らんでいる。ひどい顔。

 これ以上嫌われたくないのに……。


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