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土蜘蛛の里と北の大陸編
北の大陸
しおりを挟む何でこんなことに……。
リンファオは初めて踏む異国の土地に怯えていた。
ラムリム市だって異国のようなものだが、それでも本島の中にある。
だがここは、真冬には凍てついた氷に閉ざされてしまう港。
肌寒い。これで夏だと言うから笑える。外套の襟を掻き合せた。
リンファオの祖先が住んでいた東の大陸も、明確な季節があったと聞くが、海に氷など浮いたりしないだろう。
それでもここはまだ、北の大陸ラストビアでも最南端。沿岸部にある国、ブルゴドルラード王国だ。
北部となると、短い夏のさらに一時以外は氷に閉ざされていて、港に入ることも出来ない。
リンファオは長い航海で疲れきっていた。遠洋航海など初めてだった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
国籍を偽った捕鯨船での航海は、苛烈を極めた。
「北への航路は、船に慣れぬ者にはつらいぞ。二ヶ月は陸に上がれない。今の季節ならば、暴風雨に巻き込まれることも多い。もし仕事が遅くなれば、港は氷で閉ざされ、おそらくアリビアに戻ってくるまでに一年以上かかるだろう」
と、言ったアーヴァイン・ヘルツの言葉通り、荒れに荒れた外洋を、リンファオを乗せた船は危なかしく進んだ。
土蜘蛛の体質上あまり吐いたりしないのだが、この時ばかりは食べ物をうけつけなかった。
そしてくり返し叩きつける雨と荒波の飛沫。防水性の高い合羽を借りたけれど、そんなもの何の役にも立たない。
有り得ない角度で高波に持ち上げられた帆船は、舳先から真っ逆さま落ちていき、波の壁に突き刺さる。
そのたびに滝のような海水を頭から浴びた。しかも、冷たい。体が温まる暇が無いのだ。
これで人間がよく生きてるな、と感心してしまうほどだ。
格子蓋にしっかり掴まりながら、リンファオはこのまま流されて死ぬのかな? と何度も思った。
「中央昇降口を塞げ! 排水ポンプ、人員が足りないぞっ!」
捕鯨船の船長が野太い声で怒鳴ったあと、格子蓋に掴まった少女と目が合った。
「おい貴様っ、ただで乗せてやってるんだ、とっとと働け!」
船長はまごまごするリンファオに、雨風の音にも負けないくらいの大声を出しながら、船尾を指差す。
「ミズンマストのリックを手伝え!」
見上げると、後部マストの帆桁に掴まったリックとやらが、帆を縛り付けようと奮闘している。
リンファオは、ちびりそうになった。
いや、確かに身は軽いけど、やったことないし。
まごついている間に、リックとやらは風に煽られて海ポチャし、そのまま波に飲まれて消えていった。
無慈悲な船長が、親指でヤードを指し示した。
「ほれ、おまえの番だ」
※ ※ ※ ※ ※ ※
血生臭い政変は、ほんのひと月前のことだ。
アーヴァイン・ヘルツは最強の同族を皆殺しにした少女に、少しも感傷に浸る時間を与えず、きつい仕事を申し付けたのだ。
それが彼自身のスタイルなのかもしれない。
喪失感から逃れるために、動き続ける男なのだろう。
(私は違う。そんなことできない)
あのあとすぐ、気力と闘志を使い果たして放心状態にある土蜘蛛の少女を、アーヴァインはほんの少し満足した表情で見つめながら告げた。
「ブルゴドルラードの嫡男に嫁いだ、ニコロスの娘と、その孫を殺せ。怪我が癒えたらすぐにだ」
リンファオは言葉もでなかった。
しかし、そう命じた彼の行動は、けして早すぎるということはなかったのだ。
リンファオが出航して間もなく、ラストビア大陸の二つの強国から、続々と巨大な船が出港することになるのだから。
その数は、大型の帆船とその補助船合わせて二百隻近い。全て軍艦で、自国への悪影響を警戒した君主制の国々が、いち早く動いた結果だった。
アリビアは、ラストビア大陸の西海岸にある、多くの都市国家とは古くから交易がある。その海には最大の貿易航路が出来上がっていた。
しかし内陸のプロスターチン帝国と、最南端のブルゴドルラードが手を組み、この航路を海上で封鎖したのである。
プロスターチンは、鉱石や硝石床が豊富で、かつ軍備も充分整えられた内陸の大国であり、西海岸の植民地化を謀っている。
一方ブルゴドルラードは軍港と多数の軍艦を持ち、過去何度もアリビアとは交戦している。
しかもアリビアの王位継承権を持つ子供がいるのだ。
介入してこないはずがない。
時期を同じくして、もう一つの大国も動いた。
東の大陸の唯一国家であるサイが、アリビアとの交易を禁止した。
アリビア国籍の商船は全て、かの国の港で拿捕されてしまったのだ。
リンファオから見ると、アリビア暫定政府は、サイ国については特に問題視していないようだった。
こちらがサイに侵攻する動きさえ見せなければ、すぐに国交を再開すると予測している。
サイの王権は、周囲で何があっても覆されることはないほど堅固なものになっているからだ。
さらにサイにとって、アリビアは重要な貿易国である。帝政時代から繊維資源に関してはあまり高い関税をかけていないアリビアとは、友好的な関係が続いていた。
北の二ヵ国との間とも国交のあるサイが、一度はアリビアと敵対する姿勢をみせることはいたしかたないことである。
しかし、アリビアとの関係もおろそかにはできず、そのポーズがいつまでも続くはずがない。中立を保つだろう、というのが軍の見解だった。
世界の工場たるアリビアとの交易は抗いがたいものがある。政権が代わっても、それは変わらない。
一方アリビアは、北の大陸、特にブルゴドルラードとは、幾度となく植民地と領海をめぐって争っていたため、戦火を交えることは必至である。
ニコロス政権時は、娘を人質同然に嫁がせて関係を保っていたのだ。
が、彼が倒れた直後、その娘とブルドゴルラードの王子の子を立てて、アリビア皇帝の継承権を主張してきた。
完全な海神信仰のかの国では、ニコロスの娘といえ国教会の信者では無い。さらにかの国には、帝国から教皇を始め、旧教の信徒が数多く亡命していた。
アリビアに海神信仰の幼帝を樹立し、ブルゴドルラードの王子が摂政として政権を握る。あわよくば、アリビア領海だけでなく、気候の良い島国をまるごと手に入れることができるというわけだ。
リンファオはそれを阻止するために送られた。幼帝即位を、阻むために。
「何で王様になんかなりたいんだろう」
リンファオは、あまり役に立たなさそうな地図を見ながら呟いた。
里にいるとき、掃除当番のリーダーにされてしまって嫌だったが、王様は嫌じゃないんだろうか、と思う。
自分なら里長にだってなりたくない。王なんて、面倒なだけじゃないか。押し付け合うならともかく、奪い合うほどのものじゃない。
「それにしても、広い」
里を出て、広い世界を見たつもりでいた。
だけど、大陸になりそこねた島とは言え、所詮アリビアは島国なのだ、ということを思い知らされた。
北の大陸には大小さまざまな国がひしめいている。
連合封鎖艦隊の目をどうにかくぐり抜け、ブルゴドルラードの小さな貿易港についたリンファオ。遠くに連峰を霞ませる空を見通し、ため息をついた。
この情報部の地図も、今はもう古いかも知れない。特に内陸は、絶え間なく戦が起こり、下克上の様相を示している。
その中でもプロスターチン帝国がじわじわと領土を広げているようだ。もう何個も都市国家を吸収している。帝政アリビアを彷彿とさせる勢いだ。
ブルドゴルラードは小さいながらも、横に細長い豊かな国だ。海沿いなので、主要貿易港をいくつももっている。
和平停戦中、アリビアは大陸の西側との交易のさいに、商船の補給地として使用していた。ものすごく高い税金をふっかけられていたようだが。
それでも宣戦布告され、この国の港を使えなくなるのは痛手だった。
捕鯨船の船長も、北の海での仕事は控えると嘆いていた。しばらくは、鯨油の価格が高騰するかもしれない。
「いやあ、人使いの荒い船長だったな。軍の方からたんまり礼金はもらってるはずなのに」
隣に立つ男が、疲弊した様子でそう言った。別の男が頷く。
「まあ、俺たちが水軍の出だから仕方ない。封鎖艦隊と交戦にならなかっただけ、ラッキーだったと思わなきゃ」
船の仕事ならその辺りの水夫よりよほど慣れている兵士たち。彼らの格好は、今でこそ捕鯨船の船乗りと同じみすぼらしい私服だが、本当なら軍服着用者だ。使えるものは使う、というのが船長の性なのだろう。
(私、水夫じゃないんだけど)
縄梯子にしがみついて喚き散らした自分を恥じるように、俯いた。
木に登って降りられなくなった猫みたいだと、後で同行者たちから揶揄された。
どんな高い崖だって平気で登っていけるが、段索はダメだった。だって揺れるし、下海だし、泳げないし……。
「道は案内する」
軍属の若い男が、途方に暮れているリンファオに言った。アーヴァイン直属の部下が何人か同行することになっていて、忙しく荷造りしている。
皆、その場で濡れている服を捨て、防水の衣装箱の中から、商人風の服を取り出して化けているが、面構えが格好をみごとに裏切っている。こんなコワモテの商人、居るのか。
「ばれないかな?」
リンファオは不安そうに呟いたが、スルーされた。
「とにかく急ごう。戦争は本国に任せておいて、冬が到来する前に帰還するぞ」
マッテオ・スカルピはしげしげと隣の少女を見つめた。
都市国家イテーレオからの移民である彼は、女に目がない。
イテーレオ半島の人間は、挨拶がわりにナンパするお国柄なのだ。
もちろん妙齢の女性がタイプだが、顔に包帯を巻いた黒ずくめのこの少女には、思わず目を奪われてしまう。
細いウエストに、ピンと伸びた姿勢、可愛らしい声。
ぜったい美少女だ。
「ちゃんと前見て走らせろ」
上司に後ろから背中をつつかれる。
少女は幌馬車は初めてのようだった。
御者をやってみたいと言われ、仕方なく一緒に手綱を握っているのだが、完璧な体型をした娘に緊張している。
真っ白な手が自分の無骨な手に触れて、思わず赤面した。咳払いとともに話しかける。
「おまえ、本当にニコロスの護衛を全員やったのか?」
「スカルピ兵長──」
「でも中尉、俺信じられなくて」
荷台の幌の中の男たちから失笑が漏れる。リンファオに同行したのはほとんどが、あの惨劇の夜に琥珀宮に踏み込んだ者たちだ。
リンファオの戦いを見て、自ら同行を志願した。
リーダー格の男、ユリアン・ヴァーグナー中尉もその一人だ。はっきり言って惚れ込んだと言っていい。
斬り込みを何度も経験している水軍の男たちにとって、あの戦いは、胸の中を熱くするものだった。
しかも美少女というところがまた萌える。
このマッテオは、それを見ていない。いや~かっこよかったわ~と仲間が語っているのを聞いて、ずるくね? と不満なのだ。
「マッテオ、彼女の気持ちを考えろ」
中尉に戒められて、言葉を飲み込む。
そうだ、皇帝の周りを固めていた土蜘蛛。あの男を倒すための最も大きな難題は、この少女の仲間だったのだ。
「すみません」
無口な少女に小声で謝罪する。リンファオは肩をすくめた。
「終わったことだもの」
塵になったシショウは、元には戻らない。
「なんかもう、殺しに関しては麻痺したかもしれない」
誰にともなく続けたリンファオに、マッテオはもう一度目をやった。
「そんなことに慣れちゃいけないよ。あんたみたいな年若い女の子が」
「女の子じゃないよ、たぶんあんたと同じくらいだ」
「ええっ!?」
リンファオは少し笑ってから、今度は背後に声をかけた。
「麻痺したけど、たぶん子供は殺せない。ヴァーグナー中尉。私は潜入を手伝うだけだ。あとはあんたたちだけでやって」
ぎょっとしたように、ユリアンが身を引いた。
「しかし上官からの命令は絶対ですぞ、リンファオ殿」
「わかってる。でも出来ない」
リンファオは頑なに顔を背けた。
「あんたたちにも子供はいるかもしれないけど、ごめん。……無理なんだ。代わりにやってくれ」
荷台の男たちが、渋い顔でお互いの顔を見つめ合った。しかし、ユリアンはしっかり頷いた。
「分かりました。とどめは私が」
子供に子供を殺させるのは、ヴァーグナーのような従軍歴の長い軍人にとっても、ひどく寝覚めが悪いことだったのだ。
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