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アリビア帝国編 Ⅱ

スパイのお仕事

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 情報部に潜り込め、と言われたとき、どういうつもりか分からなかった。

 いつも通り素性を隠して誰かを殺害するのかと思いきや、諜報員として活動しろという。

 リンファオは、耳を疑った。

「どういうことですか?」
「スパイをスパイしろ、と言っておる」

 ニコロスは、翡翠宮の皇帝専用の応接間でソファーに腰掛け、ゆったりとくつろいでいる。

 爪の手入れをしていた侍女に命じると、濃い色の果実酒を持ってこさせた。わざと答えを焦らしているのだろう。

 一気に飲み干し、空になったグラスごしにリンファオを眺めている。

 また、無理を言って楽しんでいる口調ではあるが、その目は予想に反して真剣だった。本気で言っているのだ。

「情報部は水軍の作戦総本部の下にあるんでしょう? 私に軍人になれと?」
「内部のことは、余にすら伝わってこぬのよ。現在の長官は余が指名したものだが、ただの飾りに過ぎんようでな。残念ながら役には立っていない。新たに余の駒を送り込んで、中身を探らせねばと思っておった。目下、危険だと思っていた男は、海で仇を追い回していることだし、せっかく土蜘蛛を自由に使える機会を無駄にはしたくない」

 階級はそれほど高いわけではないのに、何故かアーヴァイン・ヘルツを目の敵にしていたニコロス。

 だがあの軍人は、妻が死んだ恨みの矛先を、海賊に向けた。そのことを皇帝は、とても喜んでいるように見える。

 その恨みが皇帝自身に向かっていれば、迷いなくリンファオに処分させていたのだろう。

 殺すには惜しい男と思っているのも、確かなようだった。

 忠誠心を試すにしても、もう少しやり方が無かったのだろうか、とリンファオは思う。

「あの男は血眼になって、外輪船を沈めた海賊団を探している。上院の議員たちは抱き込んだし、軍の幹部も、廷臣も、今のところ大人しいしな。何人か殺したことが功を奏しておる」

 満足げな彼の琥珀の目はどろりと濁っていた。

「──余が今気になるのは、情報部だけだ。表面は従順に振舞っておるが、やつらの行動の何一つ、こちらに漏れてこない」

 皇帝にも独自の諜報チームがいる。それは皇帝の目と耳として、外国はもちろん国内の機関でも暗躍している。

 情報部の放つ間諜とはまた別で、命令系統の頂点がニコロスであることから、そのほとんどが親衛隊の裏部隊に属している。まれに、外部から雇う場合もあるらしい。ここに、いい例がいる。

 しかし、その諜報員を送り込んでも、いまいち内部の活動が見えてこないのが、今の情報部だった。

 機密事項が漏れない。これは組織としては良い事だと思うのだが、軍が自分の道具であるという認識の皇帝にとっては、我慢ならないことなのだろう。

「土蜘蛛なら、何かつかめるやもしれぬ」

 無茶な。

 リンファオは焦って首を振った。土蜘蛛が万能人間だと思っているのか? 勘違いも甚だしい。

「包帯まみれのこの顔は目立ちすぎます。それに諜報活動なんて、やったこともない」

 護衛と刺客ならなんとかやったが、諜報活動となると、どこかにしれっと潜り込んで色々調べたり、しれっと色々聞き出したりしなければならないに違いない。

 まずこの風貌で、しれっと潜り込めるわけがない。

「縁故を使う。たどっても余にはたどり着かない経路で、うぬを送り込むから大丈夫だ。傷痍軍人は少なくはないぞ。情報部では負傷して使い物にならなくなった兵士を、事務仕事に割り当てている」

 それでも文句を言おうと口を開こうとしたとき、ニコロスはグラスを床に落とした。

 パリンッと音がして、破片が膝まずいたリンファオのところまで飛んできた。

 琥珀の瞳がじっとリンファオを見据える。

 アルコール臭は、リンファオが仕えていた頃より、ずっと強くなっている。

「何度も言うが、うぬに拒否する権利があると思うか? 仲間に知らされたくなければ、任務を遂行しろ」




※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 水軍の統括本部の三つの庁舎のうち、まるごと一つが情報部の建物だった。

 デスクワークに傷痍兵は確かにいた。

 片腕だったり、片足だったり、おおきな傷があったりと様々で、退役前にもうひと仕事出来そうな若者ばかりだ。

 火傷している人間もいるが、顔は晒している。

 顔が見えないのは怪しまれないだろうか。

 女だから傷のある顔を見られたくないんだろう、そう思ってくれればいいのだが。

「代々法務官を務めるマルセル家の、カルロ・マルセル中将殿の縁者か?」

 入ってきたのは、鋼色の髪と灰色の瞳をした青年だった。長身で姿勢が良く、パリッとした軍服がよく似合う。

「女の身で剣術の達人というが、確か?」
「はい。リリ、リ、リリリ、リン・マルセルと申します」

 声が上ずる。はっきり言って演技とか無理だし、とリンファオは思った。

 マルセルという軍人本人すら、皇帝からのツテだとは気づいていない。ただの腕が立つ、遠い親戚だと思われている。

「うちの娘、暖炉の火がスカートに燃え移って、大怪我しちゃったの。結婚もできないし、ちょっと就職先、助けてくれない?」
「ああ、いいよ気の毒に。どれ、紹介状を書いてやろう。どこがいい?」

 ──そんなノリだったという。簡単すぎるだろ。

 まあでも、身の上は作り替えられた……はず。

 それでも目の前の、怜悧な眼差しをした若い男を見ていると、殺されに来たようなものだと感じる。

 絶対に疑われている。

 しかし相手の軍人は新人の緊張した態度など意に介せず、軍服と資料をごっそり渡してきた。

「私は直属の上官の、フランソル・ミシュターロ大尉だ。これ、一通り読んでおいて。希望部署は諜報課らしいが、今女性の諜報員は足りている」

 それから、小さく舌打ちされた気がした。

「──というか、人事課め……。まいったな。君の怪我だと目立ちすぎて、諜報活動など無理だ。身体までケロイドだらけなら、閨房術が上手くても使えない。……だが、マルセル中将から預かった人間を追い返すわけにもいかない。取り敢えずしばらくは、雑用を頼む」

 あっさりそれだけ言うと、リンファオの包帯で巻いた顔には見向きもせずに、さっさと行ってしまった。

 コネで入ってきた役たたずに、非常に迷惑そうだったが、疑われている感じではなかった。

 肩透かしをくらった気分だ。



 その理由は数日ですぐにわかった。

 リンファオは、本当にただの雑用だったのだ。まったく機密事項に携わらせてもらえない。

 事務作業は地味な仕事だった。どさどさと積み上げられた帳簿の山にうんざりする。

 各艦隊の兵員名簿、傷病者名簿、士官クラスから見習い水夫に至るまでの収入と支出を照らし合わせ、合計と差し引き残高が間違っていないか報告しろとのこと。

 それどころか艦隊の配給食料等の積荷から備品に至るまで、全体の帳簿から部署別の帳簿をチェックして、責任者から領収書、受領書にサインを貰うまでの一連をひたすら繰り返す。

 主計長のちょろまかしを暴くのが目的らしいが、これって経理の仕事じゃないの!? 情報部がやることなのこれ!?

 ほとんどが、苦手な数字の計算。算術は稚児時代に嫌というほど教えられたが、一番嫌いな授業だった。

 ものすごく苦痛だ。

 何よりも、この数字の羅列である書類の中から、一体皇帝に何を報告しろと?

 せめて軍幹部や大貴族の領地経営等に携われれば、まだ何か見つかったかもしれないけれど。

 だいたい皇帝に反するような活動の証拠書類を、こんな新米が扱わせてもらえる訳もなく……。

 もちろん、隠されたそれを探し出すのが諜報員とやらの仕事なのだろうが、こういうことは土蜘蛛の里では習っていない。習うわけない。素人同然だ。

 運良く事務室にあった、東の国に伝わる珠算をパチパチやりながら、毎日毎日真面目に出納帳を作成していくリンファオ。

 任された仕事に問題はあるけれど、最初の心配は杞憂だったようで、周囲からの警戒はまったく無いように思えた。

 ただし、これでは何のために潜り込んだのか分からない。

 え、私、何しにここに来てるの?


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


「リリくん、少し違う仕事をしてみないかい? 色々覚えたいだろう?」

 ミシュターロ大尉が、初日以来初めてリンファオに会いに来るなり、そう言った。

「リンです」

 名前の間違いだけ指摘したが、内心は大喜びだ。

 そろそろニコロスに何か結果を報告しなければ、と焦っていたリンファオだ。

 ぶんぶんと首を縦に振った。何せ家族の命がかかっている。

「何でしょう、なんでもやります!」
「王立保険協会の船舶保険に加入している、商船の保険金詐欺を調べる部署なんだが」
「……お断りします」

 涙目になっているリンファオに首をかしげてみせ、やっと気づいたように片方の手の平を、ポンと拳で叩いた。

「そうか、君は見た目に反して、武闘派だったね」

 確かに頭脳派では無い。ぜったいに。もう数字は見たくないの。

「では……こんなのはどうかな? 諜報活動では無いのだけれど、ある人を守ってほしい」
「はい?」
「重要人物なんだ。剣術の達人である君にたのみたい」

 護衛なら本職だ。だが、ここから怪しい活動を探り出す仕事につながるだろうか。

「ドノバン・ランデール少将だ。彼については少し行動に不審な点が多くてね。国家転覆の疑いがある。過激な男だが、真意がはっきりするまでは誰にも狙わせるわけには行かない。この国には、皇帝を崇拝する狂信者がたくさんいる。ここのところ、少し噂が立てばすぐに暗殺されるという事件が続いているんだ。ランデール少将が間違って殺されないように、しっかり警護してくれたまえ」

 リンファオは罪悪感を隠して頷いた。その一連の殺しは、私がやりました、と言えたらどんなにか楽か。

「ですが、じっさいは白ですよね?」

 祈るように言ってみる。

 皇帝に報告事項が無いのは問題だが、無実の人間を殺したくはない。

 ただの噂のみの判断で怪しい人物を暗殺しているのは、他でもない、皇帝自身だ。そして、それを命じられているのはリンファオ。

 まだ罪を感じる神経が残っているリンファオにとって、割り切ってはいても苦痛を伴う仕事なのである。

 フランソル・ミシュターロ大尉は、そうと知らずに暗殺者そのものを、ランデールの元に送り込もうとしている。

「いや、それが、限りなく黒に近い。これを見てくれ」

 リンファオに書類を見せる。

「皇帝が直轄領の視察に行ったとき、馬車の車輪が外れた事件があったろう?」

 そういえば、危うく潰されかけ、怒り狂って首謀者を探していた時期があった。けっきょく見つからなかったけれど。

「あの時の馬車係はものすごく遡ると、元々ランデール殿の屋敷の使用人だったんだ」


※ ※ ※ ※ ※


 ためらいはあったが、梟に手紙を持たせ報告しておいた。

 ランデール少将は、かなり皇帝に気に入られていた軍人だった。

 出身も貴族で、上院に議席を持っており、宮廷にまめに出入りのある人物。ニコロスは彼に十分な恩恵を与えていた。

 これを知ったら怒り狂うだろう、とリンファオは思った。

 皇帝はすぐに、リンファオに梟を飛ばしてきた。


 その三日後にランデールは死んだ。


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