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アリビア帝国編 Ⅱ

ナターリア

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(そう言えば皇帝は、娘の話をほとんどしなかったな)
 
 リンファオは何となく昔のことを思い出した。

 外国に嫁いだ、最初の妃との娘ではなく、処刑された方の娘──紅玉宮で一緒に遊んだ、冷たい顔立ちの幼女のことである。

 リンファオは今、翡翠宮の中庭に居た。樹木の上でまったりしている。

 ニコロスとは、ほとんど接触の機会が無い。

 基本的に公務も私的な行動にも土蜘蛛の護衛が付くわけだから、もし接触しようものなら、たちどころにリンファオの存在が感知されてしまうだろう。

 皇帝側もそれを考え、仕事の依頼など用件がある時は、リンファオに梟を飛ばしてくる。

 もちろん、四六時中標的を追っているわけでもないので、暇な時間も十分にあるのだ。

 後宮の別館とは名ばかりの、大きな建物。ここの敷地は広く、さらに広大な森が周囲を囲んでいる。帝都にあることを忘れさせるほど、外の喧騒から逃れていた。

 先の皇帝は色好みで、抱える側室や、戯れにお手つきした妾・愛人の類いも異様に多かった。しかも情が深く、庶子まで引き取り後宮に住を与えていたそうな。

 そんなだから後宮が手狭になり、新たに翡翠宮を建築させたと言う。

 一方でニコロスは、正妻のみ。

 あとは気まぐれに手を出すだけの女が、ちらほらいるくらいだったと言う。離婚後、二番目にオフィリアが后になった後は、そんな遊びすらもゼロであったと聞く。

 よって、この別館どころか後宮も、スカスカの状態だったようだ。

 皇帝や皇子たちのほとんど訪れることのない翡翠宮なら、仲間の気配に怯えることもなく、のんびりと穏やかにすごせる。

 何より嬉しいのは、許可を貰えた日は、夫と我が子を眺めることが可能なことだ。

 シャオリーの成長が目下、唯一の楽しみと言えた。

 そして暇な日は、こんな風に庭園の果実の木の上で、ウトウトしながら昔のことを思い浮かべることができる。

(たしか、皇女マリア……だったかな。あの頃八歳くらいだったし、今はさぞ綺麗な少女になっているだろうなぁ)

 傷だらけの荒んだ目をした幼女を思い出す。会ってみたいと思った。

 ニコロスの血を引いているというのに、あの子に関してはなぜか、不快感がない。

 皇族特有の色素を受け継いでいないからか、あの子自身の持つ、静謐な空気のせいだろうか。

 そのうち見た目の成長は、あの子にも追い抜かれてしまうのだろう。

 時の流れは速い。



 実は、幾度となくヘンリーとシャオリーを連れて逃げようかと考えた。

 だが、記憶の無いヘンリーを連れて、逃げきることが出来るか不安だった。

 下手したら誘拐になってしまう。

 それに、一族が総出で追ってくるとなると、守りながら戦うことの難しさが付きまとう。

 青虎の島にいた時のようにひたすら鍛錬を繰り返し「気」と「体」の力が一番高まった状態、そして、シマと一緒なら、あるいは出来るのかもしれない。

 死ぬ気でやれば、神剣遣いの中でも自分が強いほうだという自負がある。

 ただし、ロウコとシショウさえ居なければ……だが。

 賭けに出るには、代償は大きすぎた。

(あのマリアとかいう娘を人質にとって逃げるとか?)

 ニコロスが昔見せた、あの子に対する異様な目つき。リンファオには、執着と取れた。里に連絡したらマリアを殺すぞ、と脅すか?

 だが、それも想像に過ぎない。事実あの娘は虐待されていた。

 人質の価値が無ければ、やはりリンファオは破滅することになる。




 それにしても──。


 この後宮の別館には、ニコロスとは無関係の女がたくさん住んでいる。若い男は自分の夫くらいだが……。

 彼女たちは、愛人というわけでも無いらしい。老婆や中年の女も居れば、子供もいる。

 ニコロス自身の息子や娘を見かけないのだから、そもそもここは後宮とは呼べないのかもしれない。

 木の上から、考え深げに翡翠宮を行ったり来たりする人々を見ていると──。


「皆さん人質なのですよ」

 突然声をかけられて、木から落ちそうになった。オレンジの実がなる大木のすぐ下に、女が一人佇んでいる。

 庭は、ここに住むものたちの、共有スペースとなっているのだ。

 考え事に夢中になっていて、気配に気づかなかった。まあ、殺気のない美しいご婦人だから仕方ない。

 自分に言い訳をしていると、そのご婦人が静かな声で言った。

「一つ頂いてよろしいかしら?」

 リンファオはコクコク頷いた。そして甘そうな果実を選び二、三個落としてやる。

 東の大陸の木を品種改良して、温暖なミケーレ諸島でも育つようにした柿とかいう果物だ。

 ここより寒いモス島の山間には、普通に生えていた。

 干すと甘さが増すため、稚児たちには大人気なのだ。

 しかし品種改良品は水気が多く、干しても腐ってしまう。懐かしいあの味とは違ったことにがっかりしたものだが、保存には向かない代わりに、喉の乾きを癒やしてくれる。

 上品そうなご婦人だが、皮ごと丸かじりするのだろうか。思わず柿を拾う彼女をガン見してしまった。

「そのお顔、どうなさったの?」

 唐突に質問され、ギクッとなる。

 ご婦人は、包帯でぐるぐる巻きのリンファオを、無感動な目で見ている。リンファオは違和感を持った。

「あっ……えと、うっかり火傷しちゃいまして。ところで奥様はどちらの?」

 まだ二十くらいの美しい女だった。

 年齢的に結婚していてもおかしくなさそうなので、彼女の言うとおり、敵対国かどこかの人質なのだろうか。

 この翡翠宮は、シャオリーたちのためだけでなく、そういう用途に使われているのだろう

(この女性は、なんで軟禁されてるんだ?)

 勝気そうな印象の女性なのに、目がうつろだ。そのちぐはぐさが不思議だった。

 リンファオは、先ほど思い出した皇帝の娘と重ねていた。

 やや釣り上がった眉の下にある、綺麗な藍色の瞳に映るのは──虚無。

「お嬢ちゃんも人質なのかと思ったわ。陛下は私たちを押さえることによって、その夫、父親、それに息子をがんじがらめにするのよ」

 うつろな目の美しい女性は、芝生の上に座り込んだ。ふわりとスカートが広がる。

「わたくしなど居なければ、あの人は気高く生きることができた……」

 リンファオは唾を飲み込む。

 ニコロスは数年前、新たな法を制定した。

 各分野において上層の地位を占める者──地方の大貴族や、軍幹部等、ニコロスが指定した者の家族を最低一名、帝都の皇帝の近くに預けることを義務化したのだ。

 皇帝はそうやって、自分を裏切らないように防御策を張っている。

 それがここだったのか……。

 だから『嘆きの館』と呼ばれているのだ。リンファオは納得した。

 多分、この女性の立場は、ヘンリーやシャオリーと同じなのだろう、そう推察した。

 ヘンリーは記憶喪失で、シャオリーは幼い頃ここに来た。自分の立場が分かっていないが、それはまだ、彼らにとって幸せだったのだろう。

 この別館に居るほとんどの女性たちが、家族の重荷になっていることに罪悪感を覚えているのかもしれない。


「私は貴女とは逆の立場で、人質を取られてがんじがらめになっている方です」

 リンファオは、木の上からポツリと言った。

 初めて女性が興味を持ったように、意思を込めてリンファオを見あげる。

「どなたを?」
「夫と子供です」
「まぁ、若いのに」

 リンファオは苦笑した。本当はこの女性とそんなに変わらないくらいだ。

「私からしたら人質なんて、生きていてくれさえすれば、それでいいのです。それだけが心の救いになる。どんなことでも、乗り越えられる」

 リンファオの言葉に、女の瞳が揺れた。ふいっと淋しげに逸らされる。

「でも、わたくしは……いえ、彼は一人失ってしまったわ。わたくしは守れなかった」

 リンファオが首をかしげると、侍女の呼び声が響いた。

「ナターリア様っ、ナターリア様っ」

 女がノロノロと立ち上がった。どこか辛そうだ。侍女が怒ったように叫ぶ。

「ダメですよ、まだ出歩いたら。出血がとまっていないのです」

 リンファオは慌てて、木から飛び降りた。

「どこかお悪いのですか?」

 侍女が驚いたようにリンファオを見つめた。だが、この包帯の少女がよく別館に出入りしているのは知っていたようだ。警戒はしなかった。

「お子が流れたばかりなのです。流産後は安静にしていないと」
「流産した?」

 ナターリアが悪鬼の形相で振り返った。

「させられたの間違いでしょう」

 侍女は困ったように俯いた。

 やはり、この女性は本来とても気の強い女性のようだ。

 リンファオはナターリアのお腹に手を当てた。

 琥珀宮は近いが、癒しぐらい使っても大丈夫だろう。

 ……たぶん。

 この気の強そうな女性が、ほうっておけばポキッと折れそうで、怖かった。

 下腹部に気を送る。

 二人の女はびっくりして少女を見つめていた。

 やがてナターリアが、その手をどけた。

「不思議な力があるのね。だけどその必要は無いわ」
「だって、貴女を思っている人がいるのに」

 リンファオが言い募ろうとすると、ナターリアは首を振った。

「私は死んだほうがいいの。そうすれば、あの人はやりたいことができる」

 そんな風に考えちゃ駄目だ。

 リンファオは言いたかったが、うつろな目のこの女性には、何を言っても駄目な気がした。





※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



──その後も、何人か殺した──

 感情も殺した。

 無抵抗なものを殺すというのは、とにかく寝覚めが悪い。


 情報部の捜査班によって、何度か追い詰められたこともあるが、概ね、この森の中にある屋敷の敷地内に逃げ込めば安全だった。

 治外法権的なあれだ。

 軍の連中には、既に黒幕が誰だか分かっているように思えた。

 標的が標的だけに、ニコロスの差金以外に有り得ない。

 いつまでこんなことを続けるのか。

 水軍大将の一人を殺害したあとから、そんな風に思えるようになった。

 それでも殺害命令は来る。それがどれほど優秀な軍人でも。

 少しでも疑いを抱かれれば消されてしまうのは、代わりがいくらでもいるからだ。

 皇帝の従順な犬となる人材が。

 その証拠に、都の住人たちには英雄扱いされ、大変人気のある将校を北の海から呼び寄せたらしい。

 ただ、この男の場合、その武勇伝を聞く限りでは犬になりそうにないのだが。

 皇帝自身がその才気を恐れて追いやった、アーヴァイン・ヘルツとかいう、リンファオですらその名を耳にしたことがある海戦の天才だと言う。

 戦術の本まで出しているらしい。

 自らの猜疑心が招いたことだが、減っていく優秀な軍人たちを補うために、ついには左遷していた者まで呼び戻すことになったのか。

 いや、もしかしたらその男を、殺すためなのかもしれない。

 後者では無いことを祈った。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



「私を殺してぇぇえええ!」

 叫び声が、敷地内に響き渡った。

 また、あの女だ。

 昼寝から起こされてぼーっとしていたが、毎度のことなので誰の叫び声かはわかる。

 ナターリアだ。

 あのあと、彼女はまた妊娠した。

 日に日に大きくなるお腹を呪うように、冷たい池の中に飛び込んだり、毒物を飲んだりして侍女たちを困らせている。

 事情はよく知らないが、お腹の子が望んだ相手の子では無いらしい。

 おそらく、半分気が触れている。

 リンファオは自分と重ねて不憫に思った。自分には巫女の義務である、繁殖という下地があった。

 だから、ケンに無理やり孕まされたが、正気は保てた。それに、子供は可愛かった。今となっては、シャオリーを孕まないことなど考えられない。

 ケンじゃなきゃ、シャオリーは生まれなかったのだ。


 間借りしていた部屋のベッドから起き上がり、包帯を顔に巻くと、声の主を探して廊下に出る。

 ナターリアはいつにもまして荒れていた。

「あの人が帰ってくる! あの人がこのお腹を見たら絶望してしまうわっ」

 暴れる女を抑えようと、侍女が三人がかりでぶら下がっている。

 半キチガイだけに、ものすごい力だ。

 なぎ倒された若い侍女を支えてやると、事情を聞いた。

「領土拡大に目覚しいご活躍をされている、ヘルツ中佐が、本日お戻りになるのです」

 ああ、あの英雄扱いされている人か。ではナターリアは彼の人質なわけだ。

 そこで目を丸くする。その英雄が都に戻るのは、たしか一年ぶりだ。

「やはり、あのお腹の子は、旦那さんのお子じゃないんですね」
「陛下も酷いことをなさる。ご自分の種を植え付けなさった」

 侍女の一人が小さく呟いた。

 リンファオはぎょっとした。ああ、なんてことだ。あのニコロスという男は──。え、マジでなにやってんの?

 ……あのサイコパスなら……やりそう。

 ギリッと歯を食いしばる。何が目的でそんなことをするのだろうか。一国の統治者がこれほど気ままで残酷な人間であることが、許されるのか。

 水軍の人気はますますもって上り坂だ。

 議会政治が復活し、出兵の可否も皇帝の一存では通らなくなってきた。

 筆頭元帥のニコロスを含め、軍に名ばかりの肩書きを持つ皇室の人間が、そろいもそろって無慈悲を通り越し、サディストなのだから当たり前である。

 皇帝への不信感が募るのは必然なのだ。

 そして、ニコロスも反発の空気が高まっているのを感じている。

 ほんの少しでも疑わしい人間がいると、リンファオに処分するよう命じてきた。

 それが何の意図も無さそうな人間でもだ。

 自分の権威を守るために行われていることなら、まだ分かる気もする。

 歴史的にも、王や皇帝は玉座を守るために残酷になる。そもそも土蜘蛛なんていう刺客の集団が現れたのだって、かつて東の大陸の王たちが争った結果だ。

 だがニコロスという男は、玉座を守るためというよりは──わざと相手を苦しめて喜んでいるような、そんなところがある。

 なんで、あんな風になってしまったのか。

 リンファオは、手がつけられないほど暴れているナターリアに近づくと、ぎゅっと抱きしめた。

 ナターリアは目を見開いて、不思議な感覚に凍りついた。

 心の傷は癒せない。

 だけど、高まった感情を押さえつけることはできる。

「私の産んだ子は、私の夫の子ではない。犯されてできた子供だ」

 ナターリアの耳に囁くと、彼女は固まった。

「だけど、生まれた子は私の子だった」

 リンファオはそう言うと、ナターリアを放した。

 彼女はもう暴れなかった。

 ペタンと座り込んで、さめざめと泣き出した。

「私の嘆きより、あの人を引き裂く絶望が恐ろしい。私があの子を失ったときに命を捨てていれば、これ以上の辱めは受けなかった!」
「あなたの夫にとって、あなたの価値はそんなものなの?」

 リンファオは、思わずきつい口調で言ってしまった。

「長い遠洋航海に出たら、妻は忘れられてしまうものなの?」

 私のように、記憶から無くなるものなのか。

 リンファオは声を荒げないように諭した。

 忘れられていても、存在を守ることが出来るなら自分は無力ではない。

 だけど彼女は──。

「もしあなたの夫があなたを忘れていないなら、子供も、あなたまでも失うという絶望を味わわせないで。一緒にその苦しみに耐えてあげれば? それがあなたにできる唯一のことでしょう」

 リンファオにとって、皇帝に命じられた相手を殺すことが、あの二人にできる全てなのと一緒で。

 ナターリアはやっと、弱々しく頷いた。

 それを遠巻きに見ていた大貴族や軍幹部の妻たちが、ナターリアを取り囲む。

「陛下のお許しを得て、少し遊びに行きましょう。監視は付きますが、外輪客船での周遊がレーヌ河で行われるんです。そこから海に下るんですって。ものすごく豪華な内装らしくてよ? さ、素敵なドレスを着て、人生を楽しむのよ」

 ナターリアは首を振った。

 そう簡単に立ち直ることはできないのだろう。子供の問題もあるし。

 しかし、ナターリアは少し考えてから、ようやくお腹を撫でて頷いた。

「ここに居ても、皆に心配かけるだけだものね」

 ナターリアは、取り乱した自分を詫びるようにリンファオに目礼すると、皆に囲まれてそこから立ち去った。


──そしてその姿が、アーヴァイン・ヘルツの妻の姿を見た最後だった。

    
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