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アリビア帝国編 Ⅱ
ニコロス
しおりを挟む耳元で、誰かが大騒ぎしている。
ぎゃあぎゃあうるさいな。リンファオは思った。
まだ寝ていたいのだ。出来るなら、このままずっと。
「マンマ、マンマ」
リンファオはぱっちりと目を覚ました。授乳期間で培われた技。シャオリーの泣き声には敏感に反応する。
ガバッと起き上が──れなかった。
身体が硬直している。どうやら頭のてっぺんからつま先まで、包帯でぐるぐる巻にされているのだ。まるでミイラだ。
「シャ、シャオリー」
「ああ、気づかれましたかのう」
白衣の老人が椅子から立ち上がる。ベッドの端にしがみついているシャオリーをひょいと抱いて、リンファオから見える位置においてくれた。
「全身火傷で、ずっと意識が無かったんですよ。まさか助かるとはね」
「夫は!?」
リンファオは全てを思い出して叫んだが、喉が焼けるように痛み、咳でうまく声が出なかった。それでもしゃがれ声を振り絞る。
「ヘンリーは!?」
「無事ですよ」
どうやらこの老人は医者らしい。ラムリム市の医者と雰囲気はだいぶ違うが、消毒の匂いが染み付いている。
「でっかい番犬があなたたち二人を担いで、火事場から出てきたそうです」
「怪我は──」
「君が一番酷かったみたいだよ。もう一人の若者は多少火傷してたようだけど、痕にもならない程度だそうだ。担当医が首をかしげとったがの」
外気功が間に合ったんだ! リンファオはほっとした。
「あの事故の日は風が強くて、開発棟や医療施設にまで飛び火したようだ。重症者は街の医院で応急処置だけされて、設備の整えられた帝都病院に搬送された──あ、ちょっと待って」
医者はノックの音を聞いて、シャオリーを抱っこしたまま扉に向かった。
そこでリンファオは、自分がものすごく豪華な部屋に寝かされていることに気づいた。
四柱式ベッドもやたらでかいし──四人くらい寝られそう──どうやら羽毛の布団だ。
天井には美しい装飾が施されている。
ふと窓を見ると、見たこともないほど薄いガラスが貼られていた。
調度類は縁に金が施された白い家具で統一されている。
あきらかに、病院では無い──いや、病院って行ったことない。これが普通なのか?
「これは、陛下」
医者の狼狽した声。リンファオは一瞬聞き間違えたかと思った。
「子供を連れて下がれ。誰も近づけるなよ」
ぞくりと背中を這う、聞き覚えのある声。リンファオは震えあがりながら、目だけ声の主に向けた。
ああ、見間違うはずがない。短期間だが、警護対象だったのだから。
(なぜ、彼が……)
ニコロス四世が一人でいるのを初めて見た。いつも周囲にかしずかれ──そうだ、土蜘蛛は!? リンファオは恐怖に固まり、周囲を探った。
気配が分からない。これほどの怪我をしているのだから、気力がにぶっているのだろうか。
「安心しろ。おまえの一族の者たちは、一時的に琥珀宮に残してきた。ここは後宮の別館。うぬだけ病院から移動させた」
リンファオはビクッとなる。え? 正体がバレている? ニコロスは笑った。
「その反応か。やはりおまえが、死んだとされていた土蜘蛛なのだな」
かまをかけられた。凍りついたまま、どうすることもできずに様子を伺う。
ニコロスもじっと黙っている。ひたとミイラ姿の患者を見据えたまま。
やっと口を開いたときは、どこかぼんやりした口調になっていた。
「開発特区の事故は、当初、どこぞの工作員の仕業かと思われた。まあ、けっきょく不幸な事故だったわけだが」
リンファオに聞かせると言うより、独り言のように呟き続ける。
「事故調査委員会の報告書で、ひとつ不審な点を見つけた。あの特区は完全に身元が分かるものしか住めない。移民も認めていない。研究施設関係者に至っては、護衛から下働きまで、もちろん、研究員──帝都大学の学生たちすら、厳選された者しか送られない」
ニコロスは、額にかかるサラッとした赤毛をうしろに撫で付け、言葉に少し力を込めた。
「なのに変なのだよ。ひとり、身元の知れぬ者が働いていた。しかもアターソングループの総帥という立場の、ヘンリー・アターソンの配偶者としてな」
リンファオは黙したままだった。次に何を言われるのか分からず、相づちすら打てなかった。
今や皇帝は、明らかにリンファオに話しかけている。
「おまえ、余の護衛だった土蜘蛛だな?」
ニコロスは、ミイラ体が返事をしないことには気にもとめず、確定しているかのように話し続けた。質問ではなく、確認なのだ。
「あの頃は、やけに小さいのが一匹いると思っていたが。女だったとは珍しい」
ニコロスはミイラに手を伸ばした。包帯でぐるぐる巻きになった顎に手をかけ、自分の方に首を向かせた。
皮膚が引きつって痛み、顔をしかめる。
しかしニコロスの情には何も訴えかけなかったようだ。しげしげ見つめながら、ポツリと言う。
「前に、皇女が世話になった」
リンファオは顔を背けた。
ニコロスは深い息をつき、包帯だらけの顔から手を離した。
「ふむ。絶世の美女とかいう土蜘蛛の里の女を見る、またとない機会だったのに。その火傷では無理か」
リンファオは怯えた。この男に正体を知られているということは、どうなるのだろう?
「違う、私は土蜘蛛では──」
「若きアターソンの当主からおまえのことを聞きだした。ああ、軽い尋問だ。酷いことはしていない。怪我人だしな」
リンファオが狼狽えたのが分かり、皇帝は畳みこむように言葉を被せた。その整った眉を軽くしかめる。
「しかし、どうも話がずれていてな。おまえを、余が遣わした護衛だと言っている」
「え?」
「あの男は頭を打った。記憶が逆行しているわけではないようだが──おまえを配偶者として認識しておらん」
皇帝は、土蜘蛛の反応を楽しんでいるかのように、いったん言葉を切った。リンファオは絶句していた。
「記憶喪失、いや記憶混濁とういやつだ。──技術開発部の者たちの聴取でも、おまえは若き当主アターソンの妻ということになっている。彼だけがおかしなことを口走ってることになる」
理解力が追い付かず、リンファオは彼の言葉を頭の中で反芻した。記憶混濁?
「施設の者たちの話を聞く限りだと、ヘンリー・アターソンは、子供の父親と言うわけではなさそうだ。ただし本人は、赤子に関しては、本当に自分の子供だと思いこんでいるようだが……」
やっとゆるゆるショックの波が襲ってきた。目眩と吐き気という形で。頭を打った──記憶がおかしくなっている?
「私のことは……覚えてないと?」
「土蜘蛛の護衛として来たうぬのことなら、覚えているようだ。だが妻など知らぬと言っている」
「医者はなんと? あの老人は貴方の侍医でしょう? 国家最高の医師のはずだ」
勢いこんで喋り、リンファオは再び激しくむせた。火事で気道まで焼けたらしい。それでもガラガラ声を振り絞る。
「一時的なものなのですよね? 治せますよね?」
ニコロスは乾いた笑みを浮かべた。
「国家最高の医師は、患者自身。ヘンリー・アターソンぞ。余は知らぬ」
「でも宮廷医師ならきっと──」
「供に搬送されてきたアターソンの助手たちの方が、我が侍医の腕よりはるか上だ。もちろん、彼らの見解も一緒よ。いつ治るか分からぬ、とのことだ。……まあ、そんなことどうでもよい」
そしておもむろに、ベッドの下から何か取り出した。
「不死鳥」
リンファオは呟いた。ニコロスは、すこし煤けたそれをリンファオに押し付けた。
「重要なのは、余が国家の宝を失ったかもしれぬこと。そして、代わりに違う宝を手に入れたと言うことだ」
それまでどこか楽しげだったニコロスが、真顔になった。
「それと、おまえの弱身を握っているという事実」
ドクンと心臓がなった。ニコロスは少し残念そうに付け足す。
「それほど醜く焼けただれていなければ、極秘に囲い、直々に寵を与えても良かったのだが。……もったいない」
リンファオは震え上がった。ケロイド万歳だ。
癒しの能力は巫女が得意とする物で、使えない剣士もいる。だから、雇い主には伝えていない。
リンファオは今、火傷でドロドロだし、女として何かされることはないはず。
しかしニコロスは、リンファオの目をじっと見据えたままだ。金にも見える琥珀の瞳。
この男は空虚でありながらも、何もかも見通しているような目をする。
それが、逆らう者をねじ伏せる力となっているのだろうか。
カリスマという言葉は浮かばなかったが、只者では無いのだ、と認識させられた。
ニコロスは身を乗り出して顔を近づけた。リンファオは思わずのけぞった。
この男は怖い。
「安心しろ。女として役に立たんでも使い途はいろいろある──例えばな、余はずっと土蜘蛛を、護衛としてだけではなく、刺客として雇いたかった」
この男は、何を言おうとしているのだろう。
「なに、余とて、アターソンの記憶が正常に戻ることを期待している。国の宝だからな。──殺したくはない」
殺すって……。リンファオは息を呑んだ。
「あの子供の命はどうでも良いが、うぬの一族にとってあの子供は、存在してはならない者らしいな」
シャオリーの、ことだ。
「余がどれほど土蜘蛛の巫女とやらを所望しても、けして叶わなかった。それほどあの一族は女子が外に出ることを恐れていた。外で生んだ違う種族との子供は、守ってきた純粋な力の流出となる。里長はそう言っておったな」
リンファオは大きく震え出した。マンマと叫ぶあの子を、自分の子ではないと言い張るには遅すぎる。
ニコロスは、己の言葉の一つ一つが、相手に与える影響を確かめながら伝えた。
「余が琥珀宮の護衛たちに、うぬの存在を知らせるか知らせないかは、まあ、おまえ次第だ。もちろん子供の命だけではない。ヘンリー・アターソンの命も、握っている。うぬの返答次第だ。分かるな?」
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