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アリビア帝国編 Ⅱ

里帰り

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 都の郊外に出て、人混みや都会特有の臭いから逃れたヘンリーは、ほっとしていた。

 政の中心となっている王宮、その周辺にある各省庁の建物や、金融通り、貴族の邸宅が立ち並ぶ区域などは別にいい。

 塵ひとつ落ちてないほど綺麗だ。

 だがそこから少し離れた繁華街の煩雑さには、どうしても慣れない。

 レーヌ河沿いの市場がたつ日は特に、行くべきではなかった。

 ヘンリーの乗る馬車にたかってきた物乞いたちを思い返す。

 憲兵の一斉清掃にひっかかれば、たちどころに逮捕される。

 職も家も持たない浮浪者だと分かれば、救貧院に送られ、すぐに仕事を見つけなければ強制労働だ。

 ニコロス治世、浮浪法が改正された。

 貧民街は撤去された。

 捕まった浮浪者たちは問答無用で鉱山や工業地帯に送られ、安い賃金で酷使されることになる。

 ここ数年で、囚人対策はもっと過酷になった。税金を極力使わない、という方針がとられているのだ。

 ──おそろしいことに、盗みなどで捕まった者たちも重犯罪者と同じく牢に入れられ、簡易裁判で処分されてしまうのだ。その家族もろとも。もう、常軌を逸している。めちゃくちゃだ。

 浮浪者たちはその危険を承知で、都市部に渡り、施しを求めてくる。


 特区へ続く、静かな田舎の一本道。この辺りは舗装が甘く、ガタガタと揺れが激しい。

 目を閉じるとまた、やせ細った体にボロをまとった子供たちが浮かぶ。車輪に砕かれそうになりながらも、通り抜ける馬車に群がる様に心を痛めた。

 ウィリアム・アターソンが避妊や堕胎の薬品を作り出してからは、かなりの孤児が減った。それでも、飢えた市民はまだこれほどいる。

 植民地をまねて、羊毛や綿花などの原料を自分の領地で自給しようとする貴族。

 新農法による、少人数で効率良く回せる大規模農地経営。

 それらに巻き込まれ、土地と仕事を無くし、流れてきた自営農民の子が多いと聞く。

 目を背けてはいけない事実に、憂鬱になる。

 新農法は、ウィリアムの弟である叔父が提唱したのである。

 それでも食糧生産は爆発的に増えた。功績だと思う。

(なら僕も、もっとなんとかしなきゃ)

 自分は何も成していない。一族の祖先や親族の作ってきたものより、価値あるものなど産み出していない。

 公衆衛生学と都市工学の権威と言われたウィリアムの従兄弟が、いち早く上下水道を整えたおかげで、ニコロス下は水の汚染によるチフスも、コレラの流行も無くなった。

 死亡率と貧困率を下げることのみに、自分の能力を活かしたかった。

 今の自分はどうだろう。世のため人のためならず、国のためにすらなっていないことをやらされてる気がする。

 ニコロスにしか価値の無いようなものを、作らされている気がするのだ。

 あの皇帝は、どこに向かっているのか。彼の進む先は、破滅しか見えない。国民を道連れに、破滅したいのか。

 法を整える議会の連中も、なぜ黙っているのだろう。所詮は自分が可愛いのか。貧民救済の制度など二の次。嫌気がさしてくる。

(ふんっ、だから特区から出たくないんだ)

 外の世界に触れて、悶々と悩みたくない。

 すぐに、それが引きこもりの発想だと気づき、自嘲する。

 いっそ、この国から出ていって、未開の国を一から変えていき、そこで生活してみたい、と思ってしまう。昔からある、自由への憧れだ。

 物心ついた頃から、権力はヘンリーをがんじがらめにし、苦しめていた。




 馬車は街道を外れ、研究特区に指定された区域に入る。

 施設のある鬱蒼とした森の中に差し掛かった時、突然、ポケットの中の獣が興奮して動き回り始めた。

「え、ちょっとどうした、シマ?」

 ヘンリーは次の瞬間、つんのめりそうになった。先駆けの馬に乗っていた護衛が、手綱を引いたのだ。

 ヘンリーの乗った馬車も、急に停まった。

 馬の興奮した鼻息と、なだめる御者の声。

(強盗か?)

 強盗ならいい。あげるお金があるから、命は助けてくれるかも。乱暴しようとしたら、シマもいるし、試作品の銃がある。

 だけど、顔に入れ墨があるやつらだったらかなりまずい。

 わあ、どうしよう。冷や汗が頬を伝う。

 いや、ロウコが言っていたじゃないか。アターソンの施設を狙ってきていたやつらは、皆殺しにしたと。

「ヘンリー坊ちゃん、女の子が道を塞ぐように立っていると、護衛の者が言っています」

 ヘンリーは怪訝な顔で首をかしげ、窓を開けた。

 小柄な人影が、何も危害は与えない、というように両手をあげて近づいてくる。

 ヘンリーはずり落ちてきた眼鏡を押し上げると、その目を細めた。

 その彼の眼が、だんだん見開かれていく。

 顔はよく見えない。でもあの背格好は──。

 彼は、バンッ、と馬車のドアを開けて飛び降りる。その顔は半泣きだ。

 ヘンリーは信じていたのだ。ずっと待っていた。

「リン──!」

 リンファオ! そう名前を叫ぼうとして、少女が慌てて唇に人差し指を当てたことに気づいた。

 そこでやっと彼も少女の異様さに気づいた。

 仮面をつけていない。

 その代わり、顔の半分を白い包帯で巻いて隠している。もう半分は泥でも塗ったくったように汚れている。

 護衛官が、物乞いと勘違いして剣で追い払おうとしている。

「待って! 僕の知り合いだ。特区の──近くの村の娘だ」

 言いながら護衛に下がるように促し、懐かしい少女に駆け寄る。

 リンファオはだいぶ疲れているかのようだった。

 突然手に持っていた風呂敷づつみを地面に落とすと、背中を見せた。

 すやすや眠っている赤ん坊だ。おんぶされているそれを見て、ヘンリーは仰天した。

「ごめん、ヘンリー」

 リンファオは、おずおずと言った。

「行くあてがなくて……少しの間、身を潜ませたいんだ」

 青虎の喜びようは見ものだった。

 大きくなったり、小さくなったり──あげく雄だったようで、小柄なリンファオに抱きついて腰を振り出す始末。

「ごめんね。置いていって。私の代わりに、ずっとヘンリーを守っていてくれたんだね」

 リンファオは、土蜘蛛の神獣をよく労ってやった。



※ ※ ※ ※ ※ ※



「まさか、そんなことがあったなんて」

 ヘンリーは研究所につくが否や、リンファオに食事を与え、年配の召使いに頼んで赤子の寝床やら、母乳が足りないときのためにミルクやらを用意させた。

 自分では、赤ん坊が何を必要としているかわからない。

 落ち着くとやっと今までの話を聞き、起こったことを我がことのように悲しんだ。

 攫われたのは、もう一人の人格の自分がパシリに使ったせいだ。

 リンファオが、恐ろしい敵にとらわれて、まさか孕まされていたなんて。

 つまりその…つまり…強姦…。

 ヘンリーは崩れ落ちそうになった。

「悲観することじゃない。私にとって、この子は授かり物だもの」

 リンファオは、まだ首も据わってないシャオリーを抱きしめて、そう言った。

 確かに愛らしい赤ん坊だった。

 生まれたては、中年のオッサンのような顔が普通なのに、既にリンファオに似て整った美形だ。

 そう言えば、とリンファオに目をやる。

 面をしていたら逆に土蜘蛛であることがバレてしまうから、今は素顔を晒しているリンファオ。

 どことなく、そこに違和感があった。

「君は相変わらず、怖いくらい綺麗だね。女らしくなったし……」

 リンファオの頬に朱がのぼる。

 突然何を言う。

 自分が今、顔を軽く拭いただけのボロボロの姿だって知ってるし……。

「どど、どうしたの急に」

 ところが、照れているリンファオをよそに、ヘンリーはじっとその顔を観察してくる。

 口説くつもりで褒めたわけではなかったようで、難しい顔で考え込んでいる。

「だけど妙だ。前より美しくない」
「へ?」

 失礼なものの言いようだ。

 むっとしているリンファオに気づかず続ける。

「なんていうか、人外の神々しさが無い」
「神々しさ?」
「エドワードの記憶から、君の顔を初めて見たとき、正直少し怖かったんだ。魔物みたいで。あ、ごめんね。女性に対して失礼だったね」

 リンファオはちょっと考えた。

 そういえば、ラムリム市の市民たちにも、そんなに気味悪がられなかった。人並みの容姿になったのだろうか。

「ひ、人並みじゃないよ、とんでもなく綺麗だよ!! い、色気も出てきたし」

 そこで初めてヘンリーの顔が赤くなる。

 観察結果を述べるのは平気だが、女性を褒めるのには慣れていない。

「色気?」

 リンファオは思わず笑った。

 授乳中のせいで、元から成長していた胸は、今やスーパーカップだ。男の人が巨乳に弱いというのは本当なのだろう。

 ヘンリーの赤い顔を見ていると、男は単純だと思ってしまう。

「きっと所帯じみてきたんだわ。だから薄気味悪くないのよ」

 リンファオは微笑んだ。

「あ、そうだ」

 ヘンリーが、ポンと拳で片手の平を叩いた。

「何ていうか、オーラが無い」
「お、オーラ?」

 科学者であるヘンリーが妙なことを言う。目に見えないものは、信じなさそうな人なのに。

「空気が違うんだ。所帯じみたとかじゃなくてさ」

 リンファオには、理由が分かった気がした。

 やはり、蛟の封印のせいだ。

 今のリンファオには、気功術が使えない。

 だから、同族とニアミスしたとき、彼らに気づかれなかったのだ。

 それに自分にも、同族の気配が分からなかった。

 気力の満ちていないリンファオは、人間と同じオーラしかまとっていない。

 ラムリム市でそれほど気味悪がられなかったのは、オーラのせいだろうか。

 ヘンリーが感じたのは、それなのだろうか。

(そういえば、あの男はなんて言っていた?)

 蛟のケンの言葉を思い出す。

『リラックスした心の隙を突かないと、この「目」の幻影は通じない。捕まっているおまえに幻影術は効かない。そして全てを委ねるほど愛した相手でないと、俺の封印はとけない。残念だったな。土蜘蛛の気功なら、内部から術を解くことが出来たかもしれないのに』

 あの屈辱の日々を思い出すのは嫌だが、あの言葉に真実が隠されていた。

「そうか……」

 リンファオはシショウの幻を見せられ、彼に心と体を開いた。

 そして術を施された。

 この術を解くことが出来るのは、全てを委ねるほど愛している相手。

 つまり、シショウだけなんだ。

「リンファオ?」

 突然泣き出した少女に、ヘンリーはうろたえた。

「おい、どうしたんだ化け物、土蜘蛛は涙なんて出ないはずだろ?」

 ぎょっとして顔を上げる。

 意地悪そうにつり上がった口元。

 でもその目には、焦りの色がある。

「エドワード?」

 リンファオの泣き顔に、動揺してヘンリーが引っ込み、なぜかこいつが出てきたらしい。

 こっちの方も動揺しているみたいだけど。

「ひひ、ひ、久しぶりだな。ガキがガキなんてこさえて、ガキ、ガキガキ。しかもすっかりくたびれちまって。うわ~っ、もう女の子じゃねーな、うん、オバさんだ。いや、見た目は成長してないから、孤児のオバさんだね」

 エドワードは、乞食のような格好のリンファオを見て、鼻の頭にシワを寄せる。

 そしてようやく、どもらずに言った。

「そのきったねーチビと一緒に、俺の泡ぶく風呂にとっとと入ってこい。見てるだけで吐きそうだ」

 懐かしいな、リンファオは毒舌──というより、もうディスっているだけとしか思えない──を聞きながらうっすら笑った。

 シショウにはもう会えない。でも、それでいいのかもしれない。

 土蜘蛛のが戻れば、あいつらに──番人に存在を気づかれてしまうかもしれないから。


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