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ラムリム市編

リンファオ師匠になる

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 リンファオのお腹は順調に膨らんでいった。しかし元が細いせいか、あまり外からは目立たない。

 実に身軽に動いているように見える。

 それでもテレーザとゲルクは、居候のリンファオを甘やかせてくれた。

 簡単な家事だけしていると、身体がなまってくる。

 もうずっと鍛錬していない。

 神剣のことを思い出すと、少し心のはしが痛むのが不思議だった。

 今日は二人が出かけているあいだに、瞑想と気功の呼吸法をやってみた。

 蛟のケンが言っていた通り、気功の出口を封じられているようだ。

 前ほど気が満ちてくる爽快感が無い。

 リンファオはこれほど自分が無力だと思ったことはなかった。

 妊娠しているせいかもしれないが、身体がずっと重いのだ。

 思いたったように立ち上がり、勝手口から裏庭に出た。

 衣服の袖をまくり上げると、久々に太功拳を実践する。

 初めはゆっくり、徐々に動きを早めていく。

 都の連中に教えた健康体操とはまるで別物だった。

 それはまさに、武術の型だった。

 リンファオは一息つくと、巫女舞の型を取り入れた。

 巫女舞は太功拳をもっとなよやかに、流れるように柔らかくしたものだ。

 しかしその手指の一つ一つは、正確に相手の急所に届くように計算されていて、剣を持ちながら踊る剣の舞同様、暗殺術の一種として伝えられてきたものだ。

 こちらのほうがリンファオには演じやすい。

 姐巫女たちの踊っていたものより、ずっと切れのある鋭い動きになっているのが自分でも分かる。

 もう、ただ舞うだけの巫女には戻れない、そんな気がした。

 こんな自分に精霊や神は降りないだろう。そう思うと、悲しくなった。

 月のものが来たということは、体が満ちているということだ。

 姉巫女たちの協力や、陶酔状態に入る薬草を焚かなくても、自分一人で完全に精霊を落とすことができるようになっているはずなのだ。

 姐巫女が言うには、精霊や神と一体となると、昇天するような幸福感が訪れるという。

(神剣を扱った時みたいな感じだろうか)

 リンファオには想像できなかった。

 ふと視線を感じて家の方を振り返ると、勝手口にゲルクが立っていた。

 目を丸くして、リンファオの動きを食い入るように見ていたのだ。

 こんな近くに来るまで気づかないなんて。リンファオは感覚が鈍っていることを自覚した。

「どうしたの? 今日も帝国の艦がぶっぱなしに来ていたんでしょ?」
「ドージェに絡まれて、喧嘩になったんだ。それで擦り傷の手当に帰ってきた。いやいや、あいつの方が大怪我だから、そんな顔すんなよ」

 そう言ってリンファオに近づく。

 そして、いきなり殴りかかってきた。

 リンファオは流れるように、拳の当たらない場所に移動していた。

「ちょっと、何するのよ!?」

 カンカンに怒って聞く少女の言葉には答えず、

「やっぱ拳法か何かの演舞だったんだな? 最初は、こんな綺麗な舞を見たのは初めてだと思って見とれてたけどさ。ただの舞じゃない。空気が、僧兵の鍛錬に似てたもん」

 リンファオは困って俯いた。ところが、色々聞いてくるよりも、ゲルクは土下座していた。

「頼む、教えてくれ。俺もっと強くなりたいんだ」
「それ以上強くなってどうするの? あなたは子供のくせに、そこいらの男たちよりずっと強いよ」
「この村の連中と戦うわけじゃねーよ。分からないのか?」

 ゲルクは苛々していた。

「そうだ、ラムリム市の連中はみんな危機感が無いんだ。いつも警戒しているのは、天教の坊さんたちだけだよ。俺はあいつら帝国軍が、このままただのお遊びの脅しだけで引き下がるとは思えないんだ。俺、本当は天教の聖地なんてどうでもいいと思ってる。みんなこんな土地さっさと捨てて、別の土地に逃げるべきなんだ」

 ゲルクは唇に痛みを感じて顔を歪めた。ドージェに殴られた痕に響いたのだ。

 ドージェも本気で来るとかなり強い。だけど、武器をもった連中が砦に入り込んできたら、大人の連中だって瞬殺だ。

「奴らは大砲みたいな、小さな筒状の武器を持ち歩くようになってるんだって。知ってっか?」
「銃のこと?」
「ああ、あんなのがどんどん出回ってて、今まで通りの戦い方が通じるか分からないけど、もっと強くなっていたいんだ。戦争になった時、テレーザを守りたい。ただ俺、僧兵の槍術は薙刀も十文字槍もいまいち合わなくて……。振り回すより振り回されちゃうんだ。頼む、師匠。あんた本当はできるんだろ? 今の動きで分かってるんだ。俺の目は節穴じゃない」

 再び頭を下げられて、リンファオはため息をついた。

 太功拳くらいなら、習得できるかもしれない。

 どうせ今の自分には気功術は使えないのだし、型だけ教えることに抵抗はない。

「わかったわ。その代わり、このことは誰にも言わないで」

 この顔の特徴と腕っ節のことで土蜘蛛の里に噂でも入れば、リンファオはここにはいられなくなる。




※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 久々に大きな商船が数隻、ラムリム市の入江沖にやってきた。

 帝国水軍の巡視船が頻繁にやってくるこの海域に商売をしにくるのは、なかなか度胸がいる行為だ。

 去年、別の島の自由都市に住む天教徒が聖地を目指してきたが、待ち伏せしていた帝国艦隊に沈められた。

 巡回船の航路を潰され、それから海路を利用して来る信者はめっきり減った。

 しかし商船に関してはさらに危険で、見つかれば天教徒じゃなくても攻撃され、積荷を没収されてしまう。

 おかげで特産であるワインや、オリーブ、鰯を売るための商船は不足していた。

「ラムリム市の商人たちが持っているちんけな船も、ほとんど沈められたよな。ミケーレ諸島の海賊討伐に出てる艦隊が、ラムリム市の封鎖艦隊も兼ねてるって言うぜ」

 トゥルナンが竹の筒に入れた真水を飲みながら、砲の反対側にいるドージェに愚痴る。

 彼の父親も商船を持っていたが、今はもう無い。

 他の商家も皆海路を諦め、砦の大門からキャラバン隊を組み、本土内陸部に交易に行くようになった。

 灯台を砲撃されてから、夜に遠くの海から帰ってくることも難しくなったからだ。

 この辺りには無人島か、漁村しかない小島が多い。

 まともな港が無いから、灯台が無ければ家の明かりを頼りにするしかなくなり、よく船が難破することがある。

 逆にそれを狙って、断崖絶壁にわざとカンテラを吊るして船を難破させ、流れ着いた漂着物を盗むせこい連中まで、現れだしたのだ。


「そう言えばここのところ大人しいな、帝国の連中」

 活気のある港を見ながら、トゥルナンがぼんやり呟く。久々に砦の外の港側に市場がたった。

「四隻か? 五隻か? 船団を組んでやってくるなんて、あの商船のやつらは正気じゃねえな。封鎖艦隊や軍港のやつらによく見つからなかったよ」

 ドージェが塔の石の柵に乗り、危なっかしく足をぶらぶらさせながら港を見ている。

 何が積んであるか見に行きたいが、こんな時に帝国軍が来たら洒落にならない。

 チラッと背後を見ると、ゲルクの真っ赤に腫れた顔が見える。

 あの夜以降、何度殴ってやろうかと思ったが、殴る前に殴られた顔で砲台に登ってくるのには戸惑った。

 シグメ・チェモやその取り巻きたちに聞いてもやってないというし、何だか気味が悪かった。

 他の班のやつらも、ゲルクの顔の怪我のことを聞いてくるが、本人は、何でもない、というだけだった。

 何もしてないドージェに、やりすぎだ、と非難が集中して参った。

 濡れ衣だ。

「おまえさ、その顔本当になんなの? 俺のせいにされるんだけど」

 ドージェに聞かれ、ゲルクは肩をすくめる。

「テレーザのしつけが最近厳しいんだ」

 それを聞いて皆、優しそうな初老の女の顔を思い浮かべ震え上がった。



 ゲルクは、自分はできる男だとずっと思っていた。

 テレーザに迷惑をかけたくない。

 だから最近はおとなしくしているけれど、喧嘩は昔からとんでもなく強かった。

 ドージェだって、サシでやり合おうとはしてこない。

 めったに撃たせてもらえない砲の扱いも誰よりも早いし、狙いは正確。

 そして合わないと言っていた寺での槍術訓練さえも、あっという間に師範を超えてしまったからだ。

(なのに、あの女は一体何なんだ)

 ゲルクは、完璧な顔立ちの同居人を思い浮かべた。

 ゲルクの動体視力で捉えられない動きなんて、砲弾くらいだと思っていたが……。





「槍が苦手なら、剣を習ったら?」

 リンファオはあっさり言った。それから首を傾げる。

「でも師範より上手なんでしょ? 何で苦手なの?」
「振り回すのが無駄な気がするんだよ」

 ゲルクはそう答えた。

 傍目にはかっこよく映るけれど、もっと効率よく敵を仕留めたかった。

 リンファオは考え込む。

「きっと、長い槍は子供の身長じゃあ扱いにくいんじゃない? 短槍にしたらそもそも救世寺流槍術とは違うようになっちゃうみたいだし。いっそ剣術に乗り換えるってのはどう?」
「習ったらって簡単に言うけど、ここじゃあ武術は槍が主流だからなぁ。帝国軍が攻めてきた時のための市民訓練は、僧兵が市民に教えるんだ。だからだいたい天教徒は槍遣いだよ」
「私が教えるよ」

 ゲルクの顔が輝く。しかし、すぐにその顔が曇った。

「剣は高価でさぁ」

 槍なら薙刀や十文字槍を、一家に一本支給されているのだが……。

 工業化でなんでも量産されている帝国とは違い、隔離されたラムリム市は原始的な生活をしている。

 銑鉄などの材料は外の商人から仕入れているし、鍛冶屋は市内にニ箇所しかない。農機具などの生活用品依頼で、常に混み合っている。

 砦員には率先して打ってくれるらしいが、みそっかすのゲルクはもちろん貰えない。

 個人で本物の剣を買うとなると、貧民街の者には高価で、手に入れることは難しいのだ。

 第一この堅固な砦の街で、真剣を使う必然性はあまりない。

「剣が欲しい、なんてテレーザにはおねだりできないな」
「別に今は剣なんて無くてもいいのよ。練習にいきなり真剣は使わない。槍術だってそうでしょう?」

 リンファオはそう言って裏庭を見回し、棒きれを拾ってゲルクに放り投げた。ゲルクが受け取ると、自分は箒を掴んで身構える。

「敵が斬りこんで来ると思うなら、殺すつもりでかかってこい」

(そう言われてもなぁ)

 手元の棒きれを見てため息をつく。雰囲気が出ない。どこかでちゃんとした木剣を作ってこよう。

 しかしそのホウキを持った妊婦に、ゲルクはボッコボコに痛めつけられたのだった。




 あちこちの打ち身は、全部箒の柄で叩かれた痕だ。

 少女の繰り出す攻撃は、まったく予想できないものだった。

 ゲルクは城壁の向こう側の海辺に目をやりながら、リンファオが流れ着いた日のことを思い出す。

(彼女は何者なのだろう)

 ゲルクは、少女が普通じゃないことに気づいていた。

 その人間離れしている整いすぎた容貌や、天女のような動き。

 彼女からしたらただのチャンバラ遊び。

 棒きれを繰り出すゲルクをあざ笑うかのように、その全部をあっさりと受け止めてしまった。

 毎日毎日彼女から剣を教わっているうちに、ゲルクはその正体を疑いのないものに変えていた。

(間違いない、この人は人殺しの専門家なんだ)


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