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研究特区編

襲撃 1

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 リンファオは、頭の中でシショウの言葉を反芻していた。

 あのシショウが本当に自分と番いたいなんて……。

「厄の子なのに……」

 地図を見ると、森の奥の小さな滝の裏に、痺れゴケが生えているようだ。

 そもそもこんな辺鄙な場所が、技術開発や医療研究の特区になっているのも、これが理由である。

 地質学的にこの森だけ隆起し、本土の地層と異なるとか。

 この森の動植物の生態系は、他とは違っていた。毎年新種が見つかる不可思議な地域なのだ。

 ゆえに、薬草畑で育たない様な珍しい薬草も、たくさん自生しているのである。

 

 護衛なのに、こんなことまでしなきゃならないのか、と疑問にも思ったが、シショウの言葉が嬉しすぎていつまでも腹を立ててはいられなかった。

 じゃぶっと泉に足を入れると、水は思ったより冷たかった。透き通った湧き水だ。

 リンファオは、黒装束の下穿きを捲り上げた。

 最近背が伸びてきているようで、里から持ってきた衣は全てつんつるてんである。

 そろそろ新調しなければならない。

 浅い水面を歩いて行くと、滝の裏を覗き込む。

 奇妙な色のコケがびっしり生えていた。原色に近い黄色。正直、気持ち悪い。

 毒とかないよね?

 そんな警戒もすぐに薄れるほど、ウキウキしている。だって、シショウったら──

 手を伸ばし、濡れないようにコケを剥がそうとした、その時だ。

 突然背後から紐をまわされて、首をしめられた。

 リンファオは、紐が首に食い込まないように必死に掴み、解こうとする。

(気配が、感じられなかった)

 それほどシショウとのことで浮かれていたと言うのか。

 至近距離だぞ、気配が読めないなんて、そんなバカな。自分に感じられない気配なんてあるのか? 神剣遣いでもあるまいし……。

(まさか、ロウコか?)

 ぞくっとして、もがきながら首を傾け後ろを見る。冷めた表情を貼り付けた男だ。顔半分には、刺青。

「み、みずち……か」

 前に倒した刺客たちより、ずっと手練なのは確かだ。

 蛟は数が多い。

 少人数で行動する蛟は、それだけ力があるということらしい。ましてや、彼は一人。

 最初の襲撃に失敗して、上級クラスの刺客が出てきたに違いない。

(でも、なぜ……ウィリアム・アターソンは死んだのに)

 リンファオは、肺に残っていた空気を短く吐き出すと、紐を掴んでいた両手を相手の頭に置き、気を叩き込んだ。

 男は咄嗟に危機を感じ、飛びずさって避ける。

 大きく咳き込みながら、リンファオは泉に膝をつきそうになるのを堪えた。間髪入れず首にまきついた紐をはぎとり、跳躍しながらクナイを投げつける。

 蛟はそれを全て叩き落とした。

 無言で対峙する二人。

 苦しそうに息を整えながら、リンファオがやっと質問した。

「……なぜ蛟がいる? おまえらの目的の人物はもういない」

 男は口の端に笑みを浮かべる。

「土蜘蛛がまだいる。これはどういうことだろうな?」

 リンファオはぐっと黙った。

「仲間に、子供のように小さな土蜘蛛の護衛が居たと聞いた。それを探りに来た。おまえがそうだな? 誰を守っている?」

 殺さなければ。そう思った。

 前の奴らも、一人残らず殺せばよかったのだ。

 リンファオは、すらりと神剣を抜き放った。

 刺客が緊張するのが、手に取るように分かった。土蜘蛛を知っているなら、当然の反応である。

 刺客の男は、リンファオの一挙一動を見逃すまいと視線を固定したまま、腰の鎖鎌に手をかけた。

 リンファオが先に動いた。

 跳躍した小柄な敵を、蛟の男は見逃さなかった。

 禍々しい鈍い光を放った鎖鎌が、リンファオを追って飛ぶ。それは空中で何本にも増えた。

(捕らえた)

 蛟はほくそえむ。

 小柄なその土蜘蛛は、空中でバラバラに切られた──ように見えた。

 男は腹部に痛みを感じて愕然となる。

 見下ろすと、腹から刃が突き出ていた。

「ばかな……どうやって」

 男の口からどっと血がこぼれる。

 確実に相手の息が止まるよう、リンファオが刃を上にして臓物を引き裂いたからだ。

 蛟はリンファオにもたれるように倒れこみ、そのまま息絶えた。


「一級の刺客でさえ、おまえの動きにはついていけないか。残像と生身の区別がまったくついてなかった」

 おもしろそうなロウコの声がふってきた。

「それにしては、気配に気づくのが遅かったな。俺はとっくにつけられていることに気づいていたぞ?」

 見ていても、助ける気などさらさら無かったらしい。

 いっそ、殺されてくれればと思っているのだろうか。リンファオが死ねば、ロウコは里に帰れる。

 血に濡れた刃を衣で拭うと、リンファオは遺体を担ごうとした。

 木の上から、ロウコの怪訝そうな声がまた降ってくる。

「何をしている?」
「解剖したいだろうと思って。いつも検体不足だって喚いてたから。あ、その前に痺れゴケ採って来なきゃ……。ロウコ、これ運べない?」

 ロウコは呆れたように沈黙した。ややして、怒りをにじませた声。

「ふざけるな」

 だよね。リンファオは諦めて、ざぶざぶ清水の中に入っていった。




 ずるずる、ずるずる。変な音に、集まった護衛の兵士と、研究員が振り返る。

 遺体を引きずってきた土蜘蛛に、皆がざわついた。

 真っ先にヘンリーがかけつける。

「まだ居たのか」

 リンファオがえ? と彼の顔を見上げた。

 ヘンリーは、長テーブルの上に掛けられた布を取り払った。白衣の若い男が、血だらけになって死んでいた。よく知った顔だ。

「最近入った、研修生ですね」

 リンファオは、ドサッと蛟の遺体を床に投げた。

 気功が使えても、けして腕力があるわけではない。疲労でフラフラだ。

「蛟だっけ? 顔に刺青のある刺客。あれに殺された」

 ヘンリーの説明に、リンファオがガクッと膝をつく。もう一匹いたのか。

 周囲の人間に被害が出た。仕事ではないとは言え、守りきれなかった虚しさが襲う。

 ヘンリーがやんわりと笑う。

「落ち込まないで。エドワードが変な仕事を申し付けたんだろ? だいいち、その前に休憩を取らせたのは僕だし。それに、彼は敵側の人間だったんだよ」

 リンファオが顔をあげた。

 他の研究員がその言葉を受けて、血に染まった設計書の束をリンファオに見せた。

「アターソン博士の、研究資料を持ち出そうとしたんです。身元は確かだったはずなんだが」

 何せ機密情報を扱う場所だ。施設員は身内まで丹念に調査するだろう。

「追いかけて森の中で彼を見つけた途端、どこからか顔に刺青のある男が現れて──」

 ヘンリーが後を引き継ぎ、テーブルの上の遺体を指差した。

「ものすごく長い剣でバッサリ。研究資料を横取りしたんだ。僕らも殺られると思って固まっていたら、君の置いていったペットが食べちゃったんだよ、その刺客を。だから遺体は無い」

 シマは役にたったらしい。リンファオはほっとした。

 他ならぬヘンリーが追いかけたから良かったのだろう。他の人間だったら守らなかったかも。

 血で汚れたヒゲをピクンとさせながら、青虎は床の上に伸びて居眠りをしている。

 ヘンリーはずぶ濡れのリンファオに気づいた。リンファオは青い顔をしている。

「この季節に水に入らせるなんて。エドワードはけしからんヤツだな。着替えないと……大丈夫? 風邪ひいてない?」

 リンファオは首を振ると、いつものポジション──梁の上に跳躍した。

 首を絞められたからだろうか、それともあの長距離、男の遺体を担いで歩いたからだろうか。

 調子が悪い。

 気持ち悪いし、さっきから目が回る。

 そう言えば、朝からたまに、シクシクと下腹部が痛んだりしていた。基本、健康体の土蜘蛛には珍しい。

 蛟の気配を感じられなかったのも、体調が悪いせいだったのだろうか。

 あっ、と思った時にはもう遅かった。

 ぐらんと周囲が歪み、梁の上からバランスを崩して落下する。

 心配そうに見ていたヘンリーが、咄嗟に動いた。

「のわぁぁ」

 護衛を受け止めようとした瞬間、ヘンリーは柔らかい毛の獣に突き飛ばされる。

 リンファオは、巨大化した青虎の背に受け止められていた。

「あ……ありがとう、シマ」
「どう……いた……しまして……」

 恨みがましく言ったのは、ぶっとんでビーカーだのフラスコだのあるガラス器材の中に突っ込んだ、ヘンリーだ。

 彼の額からはダラダラ血が流れている。他の研究員に支えられて、やっと起き上がる。

「君のペット、僕を守るのが仕事じゃないんだっけ?」

 眼鏡を取って血を拭った。途端人相が変わる。

「って、痛ぇぇじゃねーかガキゴルァ」

 うっかり出てきたエドワードが、研究員の腕を振り払って、青虎の上のリンファオに掴みかかろうとした。

 ふと、その勢いが止まる。

「……おい?」

 リンファオは、青い毛並みの中で丸まって目を瞑り、死んだように身動きひとつしなかった。



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