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三章
8 州侯の使者
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使者がたどり着いたという客室までは、黄色の外壁の新館から北に渡り、さらに女性用の住居棟を通り抜け、旧館まで行かなければならない。
目的地までは護衛を付けるのも分かるほど遠く、しかも入り組んでいて、下手したら自分がどこに居るか分からなくなりそうだ。
領主の中には、未だに木造の掘っ立て小屋のような砦に住んでいる者までいるというのに、この城は破格だった。
礼拝堂に使用されている棟の横を通ると、ふんだんに使用されているステンドグラスを通した光が、石の渡り廊下に美しい色を投げている。
トラヴィスはもう、自分の荘園のマナーハウスをほとんど訪れないという。
その理由が分かった。なるほど、金をかけた、こだわりの趣味の居城といったところか。
広いだけではない。
遺跡の城砦を利用しているとはいえ、辺境の一領主の物とは思えない贅をこらした設備。
修繕費を考えると、嫌気がさしてくる。
そんな金、一体どこから――。
いや、分かりきったことではないか。
飢えた民を思い出し、ザイオスは唇を噛み締める。
ようやく使者の間が見えてきたとき、それまでそわそわしながら辺りを気にしていたトラヴィスの顔にも、すこし安堵の色が浮かんだ。
「おまえたちは扉の外に残れ」
チャーチがザイオスたちにそう言い、第一騎士団の部下二人を連れて領主の後に続こうとすると、トラヴィスがそれを阻んだ。
「そいつら二人も同席させる」
トラヴィスが指し示したのは、ザイオスとクラウスだった。チャーチが目をむいて反論した。
この乞食同然の恰好の大男を?
「なにをおっしゃいますか! ド・テリエ卿の使者との対面に、こんな平民を――なりません!」
「その大切な使者とやらが、一番危険かもしれないのだ。……なにも奴隷まで入れろとは言っていないだろう」
チャーチは訳が分からないというように頭をふり、もういちど彼を説得しようとした。
「こいつらは、傭兵あがりのただの平民ですよ? 騎士ではない! 作法だってなってないし、昨日まで浮浪者だったかもしれないのに」
「風呂は俺もこいつも入ったぜ。服だって洗濯済みだ」
ザイオスは臭くないことをアピールする。
「宿の湯女が、輸入物の高価な石鹸で隅々まで綺麗にしてくれたぜい?」
ついでに気持ちいいこともしてくれたが、それは黙っていた。
クレトが小さく、俺は自分で洗った、と呟いたがザイオスは無視した。
「服だって灰で煮たわけじゃねえ。やたらバラの匂いのする高級洗剤と洗濯板で、ごしごしやってくれたんだ。おかげで一張羅がさらにボロボロになった」
それは元からでは、とクレトが呟いたがこれも無視だ。
チャーチは、ザイオスのビリビリの袖を見ながら叫ぶ。
「そういう問題ではない!」
「ああ、うるさい、もうよい」
トラヴィスはイライラと二人のやりとりを遮る。
「オルベール、貴様とて貴族ではあるまい。しかも人相も悪い。言われた通りにせよ」
刺のある主人の言葉にチャーチは口をつぐみ、渋々二人を中に入れた。
ところが、入れられた当人であるザイオスは、入った瞬間逃げ出したくなった。
六人の従者を従え、部屋の中央にある椅子に腰掛けて待っていたのは、エスペランス州侯の側近の次男、ラドバウト・ファン・エッフェンだった。
――ザイオスの従兄弟でもある。
(なんでこいつが!?)
とっさに顔を背ける。
ここで騒がれればやっかいなことになる。
もしばれたら、奴のことだ、何が何でも連れて帰ろうとするだろう。
そんなことになったら、今までの苦労が水の泡。
「こ……れはこれは――ユドークス・ファン・エッフェン殿の御子息であらせられますね。――まま、ま、まさか若君自らが足を運ばれるとは。何か、よほどの悪い知らせでも?」
ラドバウトと向かい合うかたちで座った領主は、おかしなことにザイオスよりもずっと動揺していた。
「やけにものものしい警備ですね、バスク伯スタンフュウス殿。何事ですか?」
ラドバウトの視線が領主の背後へとずらされ、ザイオスの姿を捕らえた。
(うわっ、ばれたコレ!)
観念してザイオスが顔を上げると、すでにラドバウトの目は領主へと移っていた。彼は顔色一つ変えずにつづける。
「急な来訪で申し訳ない。本日は、父の代理で参りました。……実にいい護衛をお持ちだ」
(確かに目が合ったはずなのに?)
ザイオスは首を傾げた。
「お父上の代理……お父上の……」
ブツブツ呟き、冷や汗を額にびっしり浮かべていたトラヴィスは、突然、何か吹っ切れたように顔をゆがめて笑う。
そして立ち上がり、ラドバウトを見おろした。
ラドバウトの父親は、自分の領地ラッセーレ伯爵領を長男に引き継がせ、自身は州の直轄領地の管理を補佐するエスペランス州侯ド・テリエの側近である。
一領主としての立場なら、父親の名代として来たファン・エッフェン家の方が上であった。
そして今回の訪領は、州侯の代理である。
見下ろす、という無礼な態度に、ラドバウトの従者たちがざわつく。
「もうやめましょう」
這うようなバスク伯の言葉に、ラドバウトは目を見開いた。
「え?」
トラヴィスは突然、苛ついたように部屋の中を歩き回りだした。
彼は身分の低いものが嫌いだったが、もう一つ嫌いなものがある。自分より若くして、自分より上の地位に居る者だ。
トラヴィスは立ち止まると、怪訝そうに見上げているファン・エッフェン家の若僧をじろじろ眺めた。
若い。
まだ、二十半ばそこそこだろうか。
だがやがてこの男が次の州侯の補佐をするようになるのだろう。しかし、それはこいつの父親の功績であって、実力では無いはず。
(運がいい)
それに比べて、俺は何でこんなについてないんだ? え? 俺はこんな所で何をしているんだ? 俺なんて長男なんだぞ。本当ならーー。
「だいじょうぶですか?」
耳鳴りがする。遠くの方で、ラドバウトの気遣う声が聞こえる。
(お前なんかに同情されたくない。本来、お前らなど、俺の顔を見ることすらできない)
耳鳴りが強くなる。さらにワァンワァンと頭を揺さぶる音に変わった。頭痛。
「バスク伯?」
(そう、確かに俺は領主だ、今は)
伯爵の額には、相変わらず脂汗が浮かんでいる。無言でニヤニヤ笑う彼は、熱病患者のようであった。
次の瞬間、ラドバウトどころか、チャーチやザイオスも唖然とした。
突然領主の甲高い笑い声が、部屋中に響き渡ったからだ。
「え……あの、大丈夫ですか?」
ラドバウトが眉をひそめて声をかけると、やっと真顔になった。
「そろそろ茶番はおしまいだ」
トラヴィスの態度が、今度はがらっと変わる。
「俺がまだ生きていることに、内心驚いているんじゃないか?」
「は?」
ラドバウトは困惑を隠せない。
トラヴィスは呆気にとられている彼を見て鼻をならす。芝居がうまいじゃないか。
「とぼけるなよ、小僧」
「無礼な!」
ラドバウトの背後に控えていた州からの従者たちが、カッとなって立ち上がった。
全員板金鎧を身につけた精鋭騎士たちだ。とっさにチャーチが自分の剣に手をかける。
「よせ!」
ラドバルトの言葉は、自分の騎士たちにかけられたものだった。トラヴィスはにんまり微笑む。
「そうだな。無礼なことなんか何ひとつない」
ことの成りゆきを無表情に、だが興味深げに見守っていたクレトは、隣でザイオスが小さく舌打ちするのを聞いた。
「本題に入ろうか、小僧」
トラヴィスは嘲笑を浮かべながら、鷹揚に椅子に腰掛けた。
「本題……ですか?」
「しらばっくれるな。いいか、今すぐやめさせるんだ」
「は? なにをですか?」
「あくまでもとぼける気か貴様。俺に刺客を放っただろう? あいつをーー白夜をけしかけやがって!」
ザイオスはカクンと顎を落とした。何を言ってやがんだこの男は。まさか、州侯が仕組んでいるとでも言いたいのか。
一瞬ポカンとしたラドバウトも、ややして肩を落とした。
「伯爵。我々はそのような真似はいたしません」
「だまれ~っ!」
額には玉汗が次々と浮かびあがり、顎に滴り落ちてくる。トラヴィスは口から泡をとばしながらまくしたてた。
「この俺に嘘は通じない! 俺を殺すか、またあの塔に幽閉するつもりだろう? どこぞの使者を切り刻んだとか、公爵と手を組んで暗殺を企んでいたとか、変な言いがかりつけやがって!」
言いがかりではなく事実ではないか、という言葉をザイオスは飲み込む。
廃嫡後、貴人の塔に居を移されたトラヴィスだ。それなりに自由を許された不自由無い待遇を受けていたようだが、自分が表舞台に出ることがもうないと本人は気づいていたはず。
失意の王太子を唆すのは簡単だったろう。
もっともコンカート公爵マルッチェリーノ・アレオッティは、継承権の順に王子たちの暗殺を実行していったのだから、そのうちトラヴィスも殺されていたはずなのだが。
証拠は曖昧、または隠滅されたのか、暗殺にトラヴィスは関わっていないことになっている。
処刑を免れたとはいえ、疑いの抜けない彼の身柄は、そこから厳重に監視されるようになった。
そしてサントーメの乱後間もなく、この領地を封ぜられたのである。
「いいか、今すぐ白夜を回収しろ。この俺の前にやつを引きずり出して謝罪しなければ、スコーシアのおいぼれの首が飛ぶことに――」
「いい加減になさいませっ!」
物静かだったラドバウトの形相が変わった。若いとは言え、トラヴィスの口をつぐませるだけの迫力があった。
「エスペランス州侯への侮辱は、国王陛下への侮辱。これ以上言いがかりをつけるおつもりなら、陛下に直訴いたすがよろしいか!」
トラヴィスはふんっ、と横を向き口を尖らせる。やけに幼稚な態度だ。
「そんなもん陛下が取り合うわけなかろう。負い目があるのだからな」
「どうですかな。じつは、今日ここへ参りましたのは、州侯ド・テリエ卿あてに書簡が届いたことを伝えに」
「書簡?」
「陛下直筆のものです」
そう言ってラドバウトが手渡した封蝋の国璽は、確かに見覚えのある王家の指輪印章が押されている。
トラヴィスは震える手で受け取ったものの、開ける勇気がない。
「な、なんと?」
尋ねた声はかすれていて、今まであれほど傲慢な態度をとっていたとは思えない。目に見えて怯えていた。
ラドバウトはちょっとため息をつくと、
「バスク領地の廃村の数や、税率をご報告いたしました。その返信でございます」
トラヴィスが黙り込んだのは一瞬だった。すぐに強気に笑って見せた。
「廃村の原因は干ばつだ。運が悪かったのだよ」
「私はもうすぐこの州内に地方管理官を派遣する立場になる。この領地の中にも管理官を置ければ、もう少し詳しい内容が分かるようになりますね」
ラドバウトなりに脅しをかけた。
「だが、バスクはおまえら州からの役人を拒否する権利がある」
にやにや笑うトラヴィスをなぐってやろうかと、ザイオスは歯軋りしていたが、一方でラドバウトは気色ばむザイオスとは対照的だった。
落ち着いたおだやかな声色で、さらっと付け足した。
「さて、どうなりますかな。現在交渉中ですが……陛下は、このままバスク領が変わらなければ、領地を州の管理下に戻すおつもりだそうです」
トラヴィスの顔色が真っ白になった。
「州侯のものに……? 俺から取り上げるというのか?」
ポツリと呟くと、まるで操り人形のように立ち上がった。
「陛下は、俺を利用したあげく、こんな田舎に閉じ込めたくせに、それすらも、取り上げるというのか」
ラドバウトは冷めた目でそれを追った。
トラヴィスは、しばらく天井を見上げてぶつぶつと何事かを呟いていた。
気が触れたのか?
その場の誰もがそう思い始めた頃、やっと反応を返した。
「分かった。だが、潰れたのは干ばつと――自営農民や農奴どものせいだ。怠ける奴が多くて困る」
そう言いながら、フラフラと扉に向かう。
「そう、俺の責任じゃない。農地管理は部下に任せてあるんだ。俺は何も悪くない。誰も俺を責めることは出来ない」
「どちらへ?」
譫言のように繰り返す彼に、チャーチが心配して尋ねると、
「居室に戻る。おまえら護衛を――」
領主はどことなくぼんやりとした目で、そばに控え、ことの成りゆきをおろおろと見守っていた補佐管のヨーナスを振り返った。
「客人殿の世話を頼む」
「はあ、あのしかし――」
うろたえる彼を無視して出ていこうとしたトラヴィスを、ラドバウトが引き留めた。
「この城に、白夜が潜んでいるという噂を聞きました」
領主はのろのろと振り返った。
ラドバウトは領主の後に続こうとしていた、護衛の一人を指さして言った。
「だとしたら、我々も危ない。その大きな戦士を一人、貸していただけませんか」
ザイオスはギクリとして立ち止まる。
ランバウトの奴、やっぱり気づいてやがったな。
一方トラヴィスは、かなり迷った。
彼の指名した男は、闘技会でめざましい活躍をした生え抜きの戦士だ。
白夜が居るのに、自分の近くから離していいものだろうか。
しかし、州侯が白夜を雇っていないとなると、確かにこの使者の若僧も命を狙われるかもしれない。貴族なのだから。
別段、彼らがどうなろうと知ったことではないが、州侯に警備上の責任を問われる恐れがある。
または疑いを――使者を細切れにしたのは領主だ、という疑いを持たれでもしたら厄介だ。
きっとそうする。だって州侯は、このバスク領を欲しがっているのだから。
農地を回せないのも、侯爵の部下たちが何かこっそりやらかしているのではないか?
畑に毒をばらまいたり。
うん、きっとそうだ。俺は悪くないもん。
「よかろう。おまえ、ここに残って使者殿の身を守れ」
「え、いや、俺よりこいつの方が――」
クレトの首根っこをつかんで突き出そうとすると、すかさずラドバウトが口を挟む。
「あなたが一番頼れそうだ。お願いしますよ」
「だそうだ。しっかりお守りしろ」
さっさと行ってしまった領主の代わりに、チャーチが噛みつくように命じた。
普通俺じゃないのかよ? 指名するなら、この騎士団長様じゃないのかよ? その不満はなんとか心のみに押しとどめたが。
目的地までは護衛を付けるのも分かるほど遠く、しかも入り組んでいて、下手したら自分がどこに居るか分からなくなりそうだ。
領主の中には、未だに木造の掘っ立て小屋のような砦に住んでいる者までいるというのに、この城は破格だった。
礼拝堂に使用されている棟の横を通ると、ふんだんに使用されているステンドグラスを通した光が、石の渡り廊下に美しい色を投げている。
トラヴィスはもう、自分の荘園のマナーハウスをほとんど訪れないという。
その理由が分かった。なるほど、金をかけた、こだわりの趣味の居城といったところか。
広いだけではない。
遺跡の城砦を利用しているとはいえ、辺境の一領主の物とは思えない贅をこらした設備。
修繕費を考えると、嫌気がさしてくる。
そんな金、一体どこから――。
いや、分かりきったことではないか。
飢えた民を思い出し、ザイオスは唇を噛み締める。
ようやく使者の間が見えてきたとき、それまでそわそわしながら辺りを気にしていたトラヴィスの顔にも、すこし安堵の色が浮かんだ。
「おまえたちは扉の外に残れ」
チャーチがザイオスたちにそう言い、第一騎士団の部下二人を連れて領主の後に続こうとすると、トラヴィスがそれを阻んだ。
「そいつら二人も同席させる」
トラヴィスが指し示したのは、ザイオスとクラウスだった。チャーチが目をむいて反論した。
この乞食同然の恰好の大男を?
「なにをおっしゃいますか! ド・テリエ卿の使者との対面に、こんな平民を――なりません!」
「その大切な使者とやらが、一番危険かもしれないのだ。……なにも奴隷まで入れろとは言っていないだろう」
チャーチは訳が分からないというように頭をふり、もういちど彼を説得しようとした。
「こいつらは、傭兵あがりのただの平民ですよ? 騎士ではない! 作法だってなってないし、昨日まで浮浪者だったかもしれないのに」
「風呂は俺もこいつも入ったぜ。服だって洗濯済みだ」
ザイオスは臭くないことをアピールする。
「宿の湯女が、輸入物の高価な石鹸で隅々まで綺麗にしてくれたぜい?」
ついでに気持ちいいこともしてくれたが、それは黙っていた。
クレトが小さく、俺は自分で洗った、と呟いたがザイオスは無視した。
「服だって灰で煮たわけじゃねえ。やたらバラの匂いのする高級洗剤と洗濯板で、ごしごしやってくれたんだ。おかげで一張羅がさらにボロボロになった」
それは元からでは、とクレトが呟いたがこれも無視だ。
チャーチは、ザイオスのビリビリの袖を見ながら叫ぶ。
「そういう問題ではない!」
「ああ、うるさい、もうよい」
トラヴィスはイライラと二人のやりとりを遮る。
「オルベール、貴様とて貴族ではあるまい。しかも人相も悪い。言われた通りにせよ」
刺のある主人の言葉にチャーチは口をつぐみ、渋々二人を中に入れた。
ところが、入れられた当人であるザイオスは、入った瞬間逃げ出したくなった。
六人の従者を従え、部屋の中央にある椅子に腰掛けて待っていたのは、エスペランス州侯の側近の次男、ラドバウト・ファン・エッフェンだった。
――ザイオスの従兄弟でもある。
(なんでこいつが!?)
とっさに顔を背ける。
ここで騒がれればやっかいなことになる。
もしばれたら、奴のことだ、何が何でも連れて帰ろうとするだろう。
そんなことになったら、今までの苦労が水の泡。
「こ……れはこれは――ユドークス・ファン・エッフェン殿の御子息であらせられますね。――まま、ま、まさか若君自らが足を運ばれるとは。何か、よほどの悪い知らせでも?」
ラドバウトと向かい合うかたちで座った領主は、おかしなことにザイオスよりもずっと動揺していた。
「やけにものものしい警備ですね、バスク伯スタンフュウス殿。何事ですか?」
ラドバウトの視線が領主の背後へとずらされ、ザイオスの姿を捕らえた。
(うわっ、ばれたコレ!)
観念してザイオスが顔を上げると、すでにラドバウトの目は領主へと移っていた。彼は顔色一つ変えずにつづける。
「急な来訪で申し訳ない。本日は、父の代理で参りました。……実にいい護衛をお持ちだ」
(確かに目が合ったはずなのに?)
ザイオスは首を傾げた。
「お父上の代理……お父上の……」
ブツブツ呟き、冷や汗を額にびっしり浮かべていたトラヴィスは、突然、何か吹っ切れたように顔をゆがめて笑う。
そして立ち上がり、ラドバウトを見おろした。
ラドバウトの父親は、自分の領地ラッセーレ伯爵領を長男に引き継がせ、自身は州の直轄領地の管理を補佐するエスペランス州侯ド・テリエの側近である。
一領主としての立場なら、父親の名代として来たファン・エッフェン家の方が上であった。
そして今回の訪領は、州侯の代理である。
見下ろす、という無礼な態度に、ラドバウトの従者たちがざわつく。
「もうやめましょう」
這うようなバスク伯の言葉に、ラドバウトは目を見開いた。
「え?」
トラヴィスは突然、苛ついたように部屋の中を歩き回りだした。
彼は身分の低いものが嫌いだったが、もう一つ嫌いなものがある。自分より若くして、自分より上の地位に居る者だ。
トラヴィスは立ち止まると、怪訝そうに見上げているファン・エッフェン家の若僧をじろじろ眺めた。
若い。
まだ、二十半ばそこそこだろうか。
だがやがてこの男が次の州侯の補佐をするようになるのだろう。しかし、それはこいつの父親の功績であって、実力では無いはず。
(運がいい)
それに比べて、俺は何でこんなについてないんだ? え? 俺はこんな所で何をしているんだ? 俺なんて長男なんだぞ。本当ならーー。
「だいじょうぶですか?」
耳鳴りがする。遠くの方で、ラドバウトの気遣う声が聞こえる。
(お前なんかに同情されたくない。本来、お前らなど、俺の顔を見ることすらできない)
耳鳴りが強くなる。さらにワァンワァンと頭を揺さぶる音に変わった。頭痛。
「バスク伯?」
(そう、確かに俺は領主だ、今は)
伯爵の額には、相変わらず脂汗が浮かんでいる。無言でニヤニヤ笑う彼は、熱病患者のようであった。
次の瞬間、ラドバウトどころか、チャーチやザイオスも唖然とした。
突然領主の甲高い笑い声が、部屋中に響き渡ったからだ。
「え……あの、大丈夫ですか?」
ラドバウトが眉をひそめて声をかけると、やっと真顔になった。
「そろそろ茶番はおしまいだ」
トラヴィスの態度が、今度はがらっと変わる。
「俺がまだ生きていることに、内心驚いているんじゃないか?」
「は?」
ラドバウトは困惑を隠せない。
トラヴィスは呆気にとられている彼を見て鼻をならす。芝居がうまいじゃないか。
「とぼけるなよ、小僧」
「無礼な!」
ラドバウトの背後に控えていた州からの従者たちが、カッとなって立ち上がった。
全員板金鎧を身につけた精鋭騎士たちだ。とっさにチャーチが自分の剣に手をかける。
「よせ!」
ラドバルトの言葉は、自分の騎士たちにかけられたものだった。トラヴィスはにんまり微笑む。
「そうだな。無礼なことなんか何ひとつない」
ことの成りゆきを無表情に、だが興味深げに見守っていたクレトは、隣でザイオスが小さく舌打ちするのを聞いた。
「本題に入ろうか、小僧」
トラヴィスは嘲笑を浮かべながら、鷹揚に椅子に腰掛けた。
「本題……ですか?」
「しらばっくれるな。いいか、今すぐやめさせるんだ」
「は? なにをですか?」
「あくまでもとぼける気か貴様。俺に刺客を放っただろう? あいつをーー白夜をけしかけやがって!」
ザイオスはカクンと顎を落とした。何を言ってやがんだこの男は。まさか、州侯が仕組んでいるとでも言いたいのか。
一瞬ポカンとしたラドバウトも、ややして肩を落とした。
「伯爵。我々はそのような真似はいたしません」
「だまれ~っ!」
額には玉汗が次々と浮かびあがり、顎に滴り落ちてくる。トラヴィスは口から泡をとばしながらまくしたてた。
「この俺に嘘は通じない! 俺を殺すか、またあの塔に幽閉するつもりだろう? どこぞの使者を切り刻んだとか、公爵と手を組んで暗殺を企んでいたとか、変な言いがかりつけやがって!」
言いがかりではなく事実ではないか、という言葉をザイオスは飲み込む。
廃嫡後、貴人の塔に居を移されたトラヴィスだ。それなりに自由を許された不自由無い待遇を受けていたようだが、自分が表舞台に出ることがもうないと本人は気づいていたはず。
失意の王太子を唆すのは簡単だったろう。
もっともコンカート公爵マルッチェリーノ・アレオッティは、継承権の順に王子たちの暗殺を実行していったのだから、そのうちトラヴィスも殺されていたはずなのだが。
証拠は曖昧、または隠滅されたのか、暗殺にトラヴィスは関わっていないことになっている。
処刑を免れたとはいえ、疑いの抜けない彼の身柄は、そこから厳重に監視されるようになった。
そしてサントーメの乱後間もなく、この領地を封ぜられたのである。
「いいか、今すぐ白夜を回収しろ。この俺の前にやつを引きずり出して謝罪しなければ、スコーシアのおいぼれの首が飛ぶことに――」
「いい加減になさいませっ!」
物静かだったラドバウトの形相が変わった。若いとは言え、トラヴィスの口をつぐませるだけの迫力があった。
「エスペランス州侯への侮辱は、国王陛下への侮辱。これ以上言いがかりをつけるおつもりなら、陛下に直訴いたすがよろしいか!」
トラヴィスはふんっ、と横を向き口を尖らせる。やけに幼稚な態度だ。
「そんなもん陛下が取り合うわけなかろう。負い目があるのだからな」
「どうですかな。じつは、今日ここへ参りましたのは、州侯ド・テリエ卿あてに書簡が届いたことを伝えに」
「書簡?」
「陛下直筆のものです」
そう言ってラドバウトが手渡した封蝋の国璽は、確かに見覚えのある王家の指輪印章が押されている。
トラヴィスは震える手で受け取ったものの、開ける勇気がない。
「な、なんと?」
尋ねた声はかすれていて、今まであれほど傲慢な態度をとっていたとは思えない。目に見えて怯えていた。
ラドバウトはちょっとため息をつくと、
「バスク領地の廃村の数や、税率をご報告いたしました。その返信でございます」
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「廃村の原因は干ばつだ。運が悪かったのだよ」
「私はもうすぐこの州内に地方管理官を派遣する立場になる。この領地の中にも管理官を置ければ、もう少し詳しい内容が分かるようになりますね」
ラドバウトなりに脅しをかけた。
「だが、バスクはおまえら州からの役人を拒否する権利がある」
にやにや笑うトラヴィスをなぐってやろうかと、ザイオスは歯軋りしていたが、一方でラドバウトは気色ばむザイオスとは対照的だった。
落ち着いたおだやかな声色で、さらっと付け足した。
「さて、どうなりますかな。現在交渉中ですが……陛下は、このままバスク領が変わらなければ、領地を州の管理下に戻すおつもりだそうです」
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「州侯のものに……? 俺から取り上げるというのか?」
ポツリと呟くと、まるで操り人形のように立ち上がった。
「陛下は、俺を利用したあげく、こんな田舎に閉じ込めたくせに、それすらも、取り上げるというのか」
ラドバウトは冷めた目でそれを追った。
トラヴィスは、しばらく天井を見上げてぶつぶつと何事かを呟いていた。
気が触れたのか?
その場の誰もがそう思い始めた頃、やっと反応を返した。
「分かった。だが、潰れたのは干ばつと――自営農民や農奴どものせいだ。怠ける奴が多くて困る」
そう言いながら、フラフラと扉に向かう。
「そう、俺の責任じゃない。農地管理は部下に任せてあるんだ。俺は何も悪くない。誰も俺を責めることは出来ない」
「どちらへ?」
譫言のように繰り返す彼に、チャーチが心配して尋ねると、
「居室に戻る。おまえら護衛を――」
領主はどことなくぼんやりとした目で、そばに控え、ことの成りゆきをおろおろと見守っていた補佐管のヨーナスを振り返った。
「客人殿の世話を頼む」
「はあ、あのしかし――」
うろたえる彼を無視して出ていこうとしたトラヴィスを、ラドバウトが引き留めた。
「この城に、白夜が潜んでいるという噂を聞きました」
領主はのろのろと振り返った。
ラドバウトは領主の後に続こうとしていた、護衛の一人を指さして言った。
「だとしたら、我々も危ない。その大きな戦士を一人、貸していただけませんか」
ザイオスはギクリとして立ち止まる。
ランバウトの奴、やっぱり気づいてやがったな。
一方トラヴィスは、かなり迷った。
彼の指名した男は、闘技会でめざましい活躍をした生え抜きの戦士だ。
白夜が居るのに、自分の近くから離していいものだろうか。
しかし、州侯が白夜を雇っていないとなると、確かにこの使者の若僧も命を狙われるかもしれない。貴族なのだから。
別段、彼らがどうなろうと知ったことではないが、州侯に警備上の責任を問われる恐れがある。
または疑いを――使者を細切れにしたのは領主だ、という疑いを持たれでもしたら厄介だ。
きっとそうする。だって州侯は、このバスク領を欲しがっているのだから。
農地を回せないのも、侯爵の部下たちが何かこっそりやらかしているのではないか?
畑に毒をばらまいたり。
うん、きっとそうだ。俺は悪くないもん。
「よかろう。おまえ、ここに残って使者殿の身を守れ」
「え、いや、俺よりこいつの方が――」
クレトの首根っこをつかんで突き出そうとすると、すかさずラドバウトが口を挟む。
「あなたが一番頼れそうだ。お願いしますよ」
「だそうだ。しっかりお守りしろ」
さっさと行ってしまった領主の代わりに、チャーチが噛みつくように命じた。
普通俺じゃないのかよ? 指名するなら、この騎士団長様じゃないのかよ? その不満はなんとか心のみに押しとどめたが。
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ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。
といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。
とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない!
フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!
僕の秘密を知った自称勇者が聖剣を寄越せと言ってきたので渡してみた
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その『勇者』は今、ワグナー王国にいるらしい。
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※小説家になろうにも随時転載中。
レンはただ、ある目的のついでに人々を助けただけだと言う。
それでも皆はレンが勇者だと思っていた。
突如日本という国から彼らが転移してくるまでは。
はたして、レンは本当に勇者ではないのか……。
ざまぁあり・友情あり・謎ありな作品です。
※小説家になろう、カクヨム、ネオページにも掲載。
嫌われ聖女さんはとうとう怒る〜今更大切にするなんて言われても、もう知らない〜
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「チッ。あの能無しのせいで……」
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一方で異世界の人なので人らしい生活を望み、天使達の住む空間で住民達と交流しながら料理をしたり風呂に入ったり、時にはイチャイチャしたりそんなまったりとした天界生活を満喫します。
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