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二章
4 ザイオス酒場に入る
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この町でいちばん繁盛している酒場『車輪の下』は二階が宿屋になっている。
厩もあるし、一階には蒸し風呂だけでなく温浴用の浴槽や、垢擦りサービスまである。それに、組合に所属した湯女ならぬ公娼たちが常駐しているだけでなく、酒も料理も美味いと評判だった。
それでも貴族専用の高級館とは違うので、商売相手は一般の旅人や庶民――のはずだったのだが……。
最近は評判を聞きつけて、富裕層の割合が増えてきている。
平民より金払いがいいのは助かるが、店の女主人ノア・パストールにとって、不本意きわまりないことだった。
貴族どものために店を開いているわけではない。
だからその男が入ってきたとき、いささかほっとしたのだ。
背は高く、どちらかと言えばほっそりした体格の男である。
年季は入っているが、小奇麗な鞣し革の外套を羽織り、この辺では見たこともない帽子を被っている。
顔立ちから異教徒ではなさそうだが、東方よりの民族衣装だろうか、胸元に小型の刃物を入れる筒状のポケットが付いた膝丈のガウン。腰を赤のサッシュベルトで縛ってあり、下履きの上から靴と一体型の騎馬狩猟民族が愛用する長い革のブーツを履いている。
黒地のガウンには金の刺繍がしてあり、垢ぬけていて、しかもなかなか上質そうなものだ。
育ちは良さそうだが、貴族かどうかの前に、明らかにこの国の人間ではない。
──つまり放浪者だ。
背中には、これまた奇妙な得物──細く、やけに長い剣を担いでいる。
放浪者なのは確かだが、行商人臭くもない、そして傭兵特有の粗野な感じも受けなかった。
(何かしら。若僧なのに……)
見るものをヒヤッとさせる、どこか危うさを含んだ美貌だった。
そう、美しいのだ。
セルディアン王国の民と違い、切れ長の目で彫りが浅くスッとしている。かと言って、東方の異教徒ののっぺりしたものでもない。
あちこちの人種のいい部分だけ受け継いだかのような、反則的美形だった。
男は店内を見渡すと、黙ってカウンターに腰を下ろした。
「見かけない顔、旅人ね。馬はどうしたの?」
愛想良く声をかける。男は帽子を脱ぎもせず、背中の長い剣を降ろしもしない。
「馬は市壁の厩にあずけてきた。適当な食事と……部屋は空いているか?」
耳に心地よい低い声だった。ノアはがらにもなく浮かれてしまった。美形大好き。
しかし、いい大人がはしゃぐのはダメ、ぜったい。
努めて営業口調で聞いた。
「泊まるだけ? うちにはいい娘がたくさんいるわよ」
「いや、いい」
無愛想な物言いに、逆に萌えるノア。
「イカした帽子ね、何ていうやつ? それに、すごい質の良さそうな生地じゃない」
「……」
男は疲れているのか、帽子の縁をつまみ、そのまま深く下ろしてしまった。
ノアは諦めず、しなを作った。粘ついた声で言う。も、もう我慢できない。
「あんたなら、異教徒でも、ケツの青いハナタレ小僧でも、このあたし自らが相手をしてやってもいいわよ?」
めいいっぱいの色気を込めた流し目は、しかしするりとかわされた。
「泊まるだけだ」
熟女の鑑と謳われたノア・パストールの誇りが傷ついた。
「なによ。年上には興味ないの? それとも、あたしって魅力ない?」
「あいにくだが、今夢中になって追いかけている相手がいる。相手が商売女だろうが、浮気はしたくない」
一途!
ノアは悔し紛れに言った。
「さぞかし、いい女なんでしょうねぇ」
「いや……男だ」
何ともいえない気持ちで旅人を見つめる『車輪の下』の女主人。
こんなにいい男だってのに、男色家だなんて。でもそれはそれで、ちょっと妄想して楽しんだりできそうだ。
謎の放浪者が軽い夕食をとっているとき、今度もまた、間違ってもこの街の貴族には見えない男が入ってきた。
その客は、店の誰もがふりかえるほど大きな体躯をしていた。腰に剣を帯びていたが、騎士のような威圧的な態度をとる男にも見えない。人相が柔らかいのだ。
そのみすぼらしい――袖とか襟とかあちこち破れている――旅装束からすると、せいぜい職探しの傭兵かなにだろう。
「何の用?」
旅人だから仕方がないが、不精ヒゲがむさい。そして、いかにも文無しの男に親切にしてやるほど、ノアの機嫌は良くなかった。
男は気にした様子もなく、カウンターの上に数枚の銅貨を投げた。
「厩の分と、部屋の分。っと、部屋は空いてるよな?」
金を持っているのが分かった途端、ノアは愛想のいい微笑みを浮かべた。
「泊まるだけかい?」
先ほどの男と全く同じことを聞いた。実は筋肉もけっこう好きだ。
「うちにはいい娘がたくさん――」
「もちろん、女も買うさ」
間髪入れずに答えると、無精ひげの生えた、しかし人好きのする顔をほころばせる。
「ただし、一服したらな。この店でいちばんうまい食い物と酒をくれ」
隣で黙々と食事をとっている、陰のある謎めいた男と違って、この男は能天気――いや開けっ広げで感じがいい。
無精ひげと、伸びるにまかせたバサバサのヘアスタイルを何とかすれば、こちらもノアの好みになりそうだ。
「ねえ、食後のお楽しみのことなんだけどぉ……」
ノアは身をくねらせながら、カウンターに寄り掛かった。誰が見ても誘っているとしか見えない視線を男に投げる。
「どんな女をご所望?」
「若いのだ」
引退しようかしら、ノアはギリギリと歯を食いしばり、真剣に考えた。
厩もあるし、一階には蒸し風呂だけでなく温浴用の浴槽や、垢擦りサービスまである。それに、組合に所属した湯女ならぬ公娼たちが常駐しているだけでなく、酒も料理も美味いと評判だった。
それでも貴族専用の高級館とは違うので、商売相手は一般の旅人や庶民――のはずだったのだが……。
最近は評判を聞きつけて、富裕層の割合が増えてきている。
平民より金払いがいいのは助かるが、店の女主人ノア・パストールにとって、不本意きわまりないことだった。
貴族どものために店を開いているわけではない。
だからその男が入ってきたとき、いささかほっとしたのだ。
背は高く、どちらかと言えばほっそりした体格の男である。
年季は入っているが、小奇麗な鞣し革の外套を羽織り、この辺では見たこともない帽子を被っている。
顔立ちから異教徒ではなさそうだが、東方よりの民族衣装だろうか、胸元に小型の刃物を入れる筒状のポケットが付いた膝丈のガウン。腰を赤のサッシュベルトで縛ってあり、下履きの上から靴と一体型の騎馬狩猟民族が愛用する長い革のブーツを履いている。
黒地のガウンには金の刺繍がしてあり、垢ぬけていて、しかもなかなか上質そうなものだ。
育ちは良さそうだが、貴族かどうかの前に、明らかにこの国の人間ではない。
──つまり放浪者だ。
背中には、これまた奇妙な得物──細く、やけに長い剣を担いでいる。
放浪者なのは確かだが、行商人臭くもない、そして傭兵特有の粗野な感じも受けなかった。
(何かしら。若僧なのに……)
見るものをヒヤッとさせる、どこか危うさを含んだ美貌だった。
そう、美しいのだ。
セルディアン王国の民と違い、切れ長の目で彫りが浅くスッとしている。かと言って、東方の異教徒ののっぺりしたものでもない。
あちこちの人種のいい部分だけ受け継いだかのような、反則的美形だった。
男は店内を見渡すと、黙ってカウンターに腰を下ろした。
「見かけない顔、旅人ね。馬はどうしたの?」
愛想良く声をかける。男は帽子を脱ぎもせず、背中の長い剣を降ろしもしない。
「馬は市壁の厩にあずけてきた。適当な食事と……部屋は空いているか?」
耳に心地よい低い声だった。ノアはがらにもなく浮かれてしまった。美形大好き。
しかし、いい大人がはしゃぐのはダメ、ぜったい。
努めて営業口調で聞いた。
「泊まるだけ? うちにはいい娘がたくさんいるわよ」
「いや、いい」
無愛想な物言いに、逆に萌えるノア。
「イカした帽子ね、何ていうやつ? それに、すごい質の良さそうな生地じゃない」
「……」
男は疲れているのか、帽子の縁をつまみ、そのまま深く下ろしてしまった。
ノアは諦めず、しなを作った。粘ついた声で言う。も、もう我慢できない。
「あんたなら、異教徒でも、ケツの青いハナタレ小僧でも、このあたし自らが相手をしてやってもいいわよ?」
めいいっぱいの色気を込めた流し目は、しかしするりとかわされた。
「泊まるだけだ」
熟女の鑑と謳われたノア・パストールの誇りが傷ついた。
「なによ。年上には興味ないの? それとも、あたしって魅力ない?」
「あいにくだが、今夢中になって追いかけている相手がいる。相手が商売女だろうが、浮気はしたくない」
一途!
ノアは悔し紛れに言った。
「さぞかし、いい女なんでしょうねぇ」
「いや……男だ」
何ともいえない気持ちで旅人を見つめる『車輪の下』の女主人。
こんなにいい男だってのに、男色家だなんて。でもそれはそれで、ちょっと妄想して楽しんだりできそうだ。
謎の放浪者が軽い夕食をとっているとき、今度もまた、間違ってもこの街の貴族には見えない男が入ってきた。
その客は、店の誰もがふりかえるほど大きな体躯をしていた。腰に剣を帯びていたが、騎士のような威圧的な態度をとる男にも見えない。人相が柔らかいのだ。
そのみすぼらしい――袖とか襟とかあちこち破れている――旅装束からすると、せいぜい職探しの傭兵かなにだろう。
「何の用?」
旅人だから仕方がないが、不精ヒゲがむさい。そして、いかにも文無しの男に親切にしてやるほど、ノアの機嫌は良くなかった。
男は気にした様子もなく、カウンターの上に数枚の銅貨を投げた。
「厩の分と、部屋の分。っと、部屋は空いてるよな?」
金を持っているのが分かった途端、ノアは愛想のいい微笑みを浮かべた。
「泊まるだけかい?」
先ほどの男と全く同じことを聞いた。実は筋肉もけっこう好きだ。
「うちにはいい娘がたくさん――」
「もちろん、女も買うさ」
間髪入れずに答えると、無精ひげの生えた、しかし人好きのする顔をほころばせる。
「ただし、一服したらな。この店でいちばんうまい食い物と酒をくれ」
隣で黙々と食事をとっている、陰のある謎めいた男と違って、この男は能天気――いや開けっ広げで感じがいい。
無精ひげと、伸びるにまかせたバサバサのヘアスタイルを何とかすれば、こちらもノアの好みになりそうだ。
「ねえ、食後のお楽しみのことなんだけどぉ……」
ノアは身をくねらせながら、カウンターに寄り掛かった。誰が見ても誘っているとしか見えない視線を男に投げる。
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