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ケツ顎は諦めない

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 微かな物音に目を覚ますマリア。ベッドの上で身を起こすと、全身カピカピにされていた。

 オイルランプの灯りだけでデスクに向かっている夫──きゃっ言っちゃった!──を見て首を傾げる。

「閣下?」
「起きたか。このホテルのいいところは、いつでも湯が使えるところだ。洗ってこい」

 確かに、以前泊まった時に熱いシャワーが出て驚いたものだ。亡命したアターソンの当主が、新大陸に渡ってすぐここに泊まり、地下に蒸気ボイラーを設置させたらしい。

「わかり……ました」
「それまでに、雑務は終わらせておく。一緒に夜食を食べよう。簡単なものなら、夜中でも持ってきてくれるらしいぜ」

 さすが、最高級ホテルのルームサービス。

「今日は年越しパスタのみらしいが」

 とある小国の伝統で、年が変わる時に音をたてて長いものを啜りながら食べると、長生きできるとかできないとか。

 じゃあ、やってみようぜ、と新大陸の開拓者たちの間で広まったエセ文化だ。色々全然違うものになったようだが、不味くはないと聞く。


 マリアは寝ぼけてよたよたしながら、バスルームに向かった。

 身体は洗わなくてもよいのではないか? アーヴァインの匂いが消えてしまうのが嫌だ。

 しかし以前、アーヴァインにさんざん抱かれた後そう言ってみたら、めちゃめちゃ叱られたことを思い出した。

 「汚いだろ! それに、また付けるんだから」

 本当に? アメニティも全て最上の輸入品だ。こんな石鹸で洗ったら、薔薇の香りになってしまう。

 マリアは髪を洗いながらクスンと鼻をすすった。煙草と麝香のような、あの匂いが好き。

 ドキドキする。今彼が近くに居るなんて、夢みたい。

 新婚休暇はたった三日間だった。彼はすぐ新大陸に呼ばれ、マリアも自分の商船の出港時間が定められていたため、バタバタと別れたのだ。

 じっくり、話す時間もなかったのである。

 だから、今回会うのはとても緊張した。もし、気が変わっていたら?

 貿易会社の測量士で痴女のアンリエッタからは「早く着いたんだから、さっそく襲いに行きなさいよボス。私も手伝うから」と進言された。

 しかしながら臆病な自分は、忍び込むことしかできなかった。

 でも、彼の寝息を堪能するだけじゃ我慢できなくて……。

 マリアはパイル素材のバスローブを羽織り、バスルームから出た。

 暖炉の前に、広い背中の男がしゃがんでいる。

 アーヴァインは薪を並べ、熾火に火吹き棒で空気を送り、火の勢いを復活させているところだった。

 蒸気暖房のラジエーターは各部屋に設置してあるが、この客室が広すぎて隅々まで行き渡らないのだ。

「髪、乾かしてやる」
「……」

 結構です、と断るべきか。フランソルの助言通りにするなら、そうすべきだ。

 結局、彼はどんな女性が好きなんだろう。彼の望むような態度は──。どうすれば好きでいてくれる?

 マリアは、自分の欲に従った。てててと近づき、ぴとりとアーヴァインの背中に張り付く。ビクッと彼が身を震わせた。

 駄目だっただろうか……。嫌われてしまうのだろうか。マリアはぎゅっと目を瞑る。

「その椅子に座れ」

 低い声で言われ、渋々彼から離れた。暖炉の前に用意された椅子に座る。

 アーヴァインが後ろに回り込み、タオルでせっせと髪を拭いてくれる。もったいないことだ。

「ありがとうございます閣下」
「それ……やめろよ」
「え?」
「閣下って言うの」
「──教……官?」

 アーヴァインが呆れたように息をついたのが分かった。

「いつの話だ。俺はもう、お前の講師でもねえぞ」
「……そう……でしたね」

 アーヴァインはしばらく沈黙していた。

 彼自身、いまいち「マリア」と呼ぶのは照れくさい。つい「おい」とか「お前」とか言ってしまう。

──サイテーだな。まあ、ほら、もう肉便器なんて呼ばないから。

「にく──いや、マリア。名前で呼べよ」

 マリアはうろたえた。しかし黙って待っている最愛の人を見あげ、がんばって口にした。

「ア……アーヴァイン様」
「様は要らんだろ、夫婦だぜ」

 マリアはゴクッと生唾を飲み込んだ。夫婦!

 一方アーヴァインは呆れる。どうせ恐れ多いとか思ってんだろ。

「みんなが呼んでるみたいに、呼べよ」
「ケ……ツ顎様」
「ちげーよ! え、みんなそう呼んでる!? 世の中の夫婦が呼び合うみたいにだなぁ……ぐぬぁぁああめんどくせぇ『あなた』とか、え? 無理? それじゃあ、ご主人様……いやダメか、旦那様……メイドみたいだな。でもとりあえずそれならどうだ?」

 マリアがパッと顔を輝やかせる。

「旦那様!」

 アーヴァインが背後に倒れた。

「どうなさいました!?」

 マリアが慌てて立ち上がる。脳卒中とかだろうか。

「あ……いや、腰が抜けた」

 可愛すぎて死ぬことがあると、初めて知った。

 アーヴァインは柄にもなく甘酸っぱくなりそうな雰囲気を恐れた。こんなオッサンが顔赤くしてキュンキュンするのは誰得なのか。

 マリアの悩殺バスローブ姿から目を背ける。

 髪を拭いていると、どうしても切れ込んだ胸の谷間が飛び込んでくるのだから、股間が大変だった。

「窓の近くに年越しパスタを運ばせた」

 いいか、お前ら。俺はその辺りの青二才のように、顔を赤くしたりはしねえ、絶対だ。

「食おうぜ、お前、昼から食ってないだろ?」
「はい……服を着てきますね」

 寝間着代わりに、古風な白のシュミーズドレスが用意されていた。本土では懐古主義の皇帝の機嫌を取るために、貴婦人たちの間で定期的に流行していたっけ。

 だが、ここでは室内でも寒いくらいだ。

 迷ってから、その上から厚手のガウンを羽織り、窓辺に運ばれたテーブルの傍に行った。アーヴァインがワイングラスに琥珀の液体を注いでいるところだった。

 バファマ諸島で取れる白い葡萄で作られたものだ。気泡しやすい品種である。アターソン製の丈夫な瓶を使うことにより、破裂を免れたものだけが出回りだした、スパークリングワインだ。

 出回りだしたとは言え、まだ庶民には手が出ない。

 オイルランプではなく燭台に火を灯し、雰囲気よくテーブルをセッティングしてくれているアーヴァイン。

 彼はマリアに気づくと、椅子を引いて待ってくれている。

 マリアは、彼が自分のためにそんなことをしてくれるのが、信じられなかった。

「冷めるぞ、早く座れ」

 ぼうっとなっているマリアに、怪訝そうに命じる。

 マリアはハッとなって言われたとおりにしたが、彼が椅子をさらに引いて転ばすのではないか、一瞬そんな不安がよぎった。

 憎まれていた期間が長すぎたのだ。

 パスタは固めに茹でてあり、つみれ入りの温かいスープの中に入っていた。量は控えめで、ちょうどマリアの空腹を満たしてくれそうだ。

「今日だけは音をたてて啜るらしいぞ」

 マリアは長いまつげを瞬かせてフォークを口に運んだが、困ったように固まってしまう。

「……すすれ……ません」
「まあ、見てろ。こうだ。ズズズぐっ……ぐふっ……ぐほおぉ!!」
「旦那様!!」

 マリアが立ち上がる。こいつめ、この憎たらしい長い麺め! ヘルツ閣下に何を!

「マリア、銃をしまえ。パスタに罪は無い! え、どこに所持してたの!?」
「閣下! 鼻からパスタが!!」

 大騒ぎである。あまり白人には定着しなさそうな文化だ。

 仕方なく二人ともフォークに巻き付けて口に運んだ。

「大事な話がある」

 マリアは凍りついた。ばかな、もう離婚の話か! ドレスの下──腿にマフピストルを装着していたから嫌われたのか!?

「待て、オロオロするな。涙目やめろ、違う、落ち着け」

 マリアにナプキンを渡し、アーヴァインは言い聞かせるように話しだした。

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