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喫茶ルイス

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 六月の中旬、土曜日だった。

 久々の晴れ間で湿度も落ち着いている。
 俺と純くんは連れ立って、路地裏にひっそりとたたずむ小さな喫茶店にたどり着いた。

 喫茶店の名は『喫茶ルイス』。
 ドアには貸し切りの札が下がっている。

 緊張した面持ちの純くんをうながして、遠慮なく足を踏み入れた。
 カランカランとドアベルの音が空気を揺らす。

 サイフォンがこぽこぽと柔らかい気泡を浮かべて、マスターがロートに上がってきたお湯とコーヒーの粉をゆっくりとかき混ぜていた。
 コーヒーの香りがふわりと鼻腔をくすぐり、ここで味わったコクのある苦味が口の中に蘇ってくる。

「いらっしゃい」

 背中にかかるくらいに伸ばした黒髪を、緩くくくった若いマスターがにっこりと笑いかけてきた。
 純くんがまた小動物じみた動きでぺこりとおじぎした。

「お、お邪魔します。おれ、月野純っていいます。大輝さんの友達? です……」

「君が噂の純くんか。初めまして。俺は、雨宮 涼あまみや りょう。そこの変なおっさんと腐れ縁で喫茶店のしがないマスターです」

「お前、二十五歳の俺をおっさんと呼ぶなら、同い年のお前ももれなくおっさんだぞ……」

「いいじゃないか、おっさん同士。二人で仲良く歳取ろうよ」

 そう言って甘ったるく微笑んでみせる。
 イケメンのこいつがこれやると女の子は目をぱちぱちと瞬かせて、顔を赤く染める。
 だが、腐れ縁の俺にはいつもの悪ふざけだとわかっている。
 ただ純くんの教育には悪いだろう。
 ちらりと純くんを見下ろすと、むすっと頬がかすかに膨れていた。

「ど、どうした純くん」
「いえ、仲がいいんだなーって」
「まぁ腐れ縁だし……」

 そうじゃないです、と純くんはふいと視線をそらした。困ったなぁ。

「へぇ」

 俺たち二人の様子を見て、涼は一目で関係を見抜いたらしい。
 意味深な笑いを浮かべている。
 あまり刺激しないでくれよ。

 手招きする涼に応じてカウンター席に純くんと二人して座った。
 かちゃりと白磁のカップに入った香り高いコーヒーが出される。
 純くんの前にはミルクピッチャーと砂糖壺も。
 子供扱いされたのが不服らしく、またぷくっと頬を膨らませる純くん。
 まぁ遠慮はいらないと見てコーヒーにどぱどぱとミルクも砂糖も投入している。
 可愛らしい反抗心だった。

 マスターの性格は悪いがうまいコーヒーで一息ついて心もほぐれた。俺は改めて純くんにお礼を言う。

「今日は来てくれてありがとうね、純くん。もう少しでみんな来るから、まぁゆっくりしてってよ」
「はい。ところで……」

 純くんはきょろきょろと喫茶店の中を見回した。

 貸し切りの店内は、午前中のやわらかい光でゆったりした時間が流れている。
 木製のテーブルと椅子、ソファーが等間隔に並んだ何の変哲もない喫茶店だが、店の一角のテーブルと椅子の並びは変だった。

 一つの大きめのテーブルに椅子が二つ。その周りを囲むようにいくつかの椅子が並んでいる。

「本当にやるんですね、身内だけに公開インタビュー」

「知り合いのファンタジー作家が異様に人見知りすぎて、馴染みの顔がいないと喋れないんだ。インタビューをする出版社の人と君以外はみんな知り合いだよ」

「なんでそんな身内だけの集まりにおれを呼んでくれたんですか?」

 この間同じ質問をされたが、その時は『君と一緒に出かけたかった』という腹がむず痒くなる理由だった。
 が、それでは身内だけの親密な集まりに呼ぶ理由にはならないだろう。

(君をファンタジー漬けにするためだよおおおおおお!)

 とは言えなかった。

「俺のことをもっと知って欲しかったから、かな。俺、昔からファンタジーが好きでね。今日来る作家も素晴らしいファンタジー作家なんだ。あいつの一番のファンは、俺だよ」

 彼の荒々しいながらも緻密な世界観を思い出して、思わず熱が込み上げる。

「一番の、ファン……」

 純くんがそう呟いてなぜかコーヒースプーンをぎりぃと握りしめている。ナンデ?

「その作家はもともと作家になるつもりはなかったんだけど、大輝が『お前は絶対に面白いファンタジーを書ける! 俺にはわかる!』ってゴリ押しして、ありとあらゆるサポートをしたんだよ。その予言は当たって、あいつはあるファンタジー大賞で大賞を獲った。今は若き新進気鋭のファンタジー作家というわけだ」

 涼がサイフォンの手入れをしながら補足する。

「聞いたことない? 『汚濁に生きる聖湖』」

「あ、知ってます。月の女神に祝福された一族がいて、一夜にして湖を作れるんですけど、実は祝福どころか呪われているんですよね」

 純くんは思い出すように持ち上げたカップのコーヒーの水面をじっと見つめた。

「そして呪われた水を王子に飲ませちゃって王子は危篤に。一族全員が死刑を命じられるけど、唯一祝福も呪いも授けられなかったせいで死罪を免れた『汚濁』と呼ばれていた一族の鼻つまみ者が、王子と一族を助けるために女神に会いに行く話、でしたっけ」

「え、純くん読んだの!?」

 食い気味に身を乗り出すと、純くんはこっくりとうなずいた。

「面白かったですよ。一族なんか全員死んでもいいけど、親友の王子だけはこの身を犠牲にしても助けるっていう『汚濁』の覚悟がかっこよかったです」

 ーーおれにも命を捧げたくなるような、そんな友達いたらいいなって思いました。

 そんなことをまるで叶わぬ夢のように言って微笑むものだから、なんだか切なくなってしまった。
 なかなかいないよな、そこまで思える友達。

「そっかぁ、読んでくれたんだ。純くんもファンタジーが好きなんだね」

 嬉しくなってはしゃいだが、純くんは気まずそうに視線をそらした。
 あれ……?

「おれは、ファンタジーの妄想はよくするけど、好きかっていうと……」

「嫌い……?」

 そう問う自分の眉尻が下がっているのがわかる。

 ファンタジーが嫌いだったら、俺の計画が一発で破綻してしまう。そうなったら俺は悲しい!

 うーん、嫌いじゃなくて……、と純くんは言葉をさまよわせていたが、観念したようにため息をつきながら教えてくれた。

「おれの場合、ファンタジーの妄想ってここではないどこかで生きたいって思い、ーーつまりは現実逃避なんです。好きで現実逃避するひとってあんまりいないじゃないですか。現実が楽しくないってことですから」

 うっ、と俺は内心うめいた。当たってる。
 俺が人の妄想を見るのが好きなのも、俺が日々を楽しめていないからだし。

「だから、おれにとってファンタジーは楽しいけど現実逃避の手段で、それを繰り返すたびにちょっとずつ逃げてるってことを自覚しちゃって、自分が嫌いになっていくーー。そんなジャンルなんです」

 がっかりさせちゃったらごめんなさい……。

 そう言って、気まずそうにカップを置く純くん。

 がっかりした? いや、むしろ逆で親近感。

「大丈夫だよ、純くん。ファンタジーはそこで待ってるだけなんだ。俺らが近づくために色々理由を考えちゃってるだけなんだよ。現実逃避のためでもいい、ワクワクしたいからでもいい、感動したいからでも、倫理観がめちゃくちゃになった世界で全てを壊したくなったからでもいい。ファンタジーはなんでも受け入れてくれる、懐の深いジャンルだと俺は思うよ」

 そう、ファンタジーへの向き合い方に正解はないのだ。

「だから、純くんは楽しんでいいんだよ。現実逃避でもいいじゃない。俺もよく現実逃避でファンタジーに逃げ込んでるよ。それでいいんだよ」

 純くんの目をまっすぐ見て笑いかける。
 純くんは一瞬体を跳ねさせると、じわじわと首筋を赤くして、「はい……」と蚊の鳴くような声で返事をした。

 え、照れてる。かわいい。

「そろそろみんな来るな。ほら、青春してないであっちに移動して。テーブルのセッティング手伝ってね」

 涼がティーポットやらサンドイッチやクラッカーやらの軽食をどんどんとカウンターに置いていく。運べと言いたいらしい。人使いの荒いやつめ。

「まぁいいか。涼のサンドイッチうまいんだ。コーヒーにめちゃくちゃ合う。純くん成長期だからいっぱいあげるよ。いっぱい食べて大きくおなりー」

 そう言って、小さいサンドイッチを一つつまんで、純くんの口に持っていく。
 ううう、と顔を赤くして戸惑っている純くん。

 唇に押し付けて、「あーん」と言ってやると視線をうろたえさせながらやっと口を開けたので、そのまま食べさせてやる。

 うわ、かわいい。必死にもぐもぐと咀嚼しているところとか完全にハムスターじゃないか。
 弟に欲しいなぁ。

 なでたくなってむずむずしている腕を必死に抑える。セクハラに当たるかもしれない。
 だがなでたい!!!!

 葛藤している俺と、顔を赤くしてもぐもぐ口を動かしている純くん。
 それを見て「あ~あ……」と言いたげな、涼。

 そんなこんなで、カランカランとドアベルが軽やかに鳴って、みんながやってくるまで癒し空間が展開していた。

 それが終わることが惜しいような、助かったような変な気持ちを抱えたまま、

 いよいよ、公開インタビューが始まる。
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