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第114話 出発の日
しおりを挟む出発の日は、すぐにやってきた。
「や、おはよっ」
2月14日、早朝。
日和が、いつもの快活な笑顔を浮かべて訪ねてきた。
朝一の飛行機に乗るために準備していた僕の動作が止まる。
「いいのに、見送りなんて」
「いやいやお見送りさせてよ! 今日明日と治くんと会えないんだし」
言って、むうーと頬を膨らませる日和。
子供っぽい表情の裏には、どこかもの悲しげな気配があった。
見ているとこっちまで寂しい気持ちになってきたので、視線を逸らす。
ちょうど視界に入った時計の短針は、まだ「6」に到達していなかった。
「ごめん、早起きさせちゃって」
「そんなの気にしない! むしろ、久々に早起きして清々しい気分!」
「その割には、目にクマがあるような」
「や、やはー、昨日、ヨーチューブ見てたらすっかり」
「夜更かしか」
「陽が昇っていて」
「起きてすらいない件について」
てへっと、日和が頭の後ろに手を当てる。
「というか、普通に大丈夫じゃないでしょ。部屋帰って寝ないと」
「全然大丈夫だから、気にしないで!」
「でも……」
「いいからいいからっ、気にしない気にしない!」
押し切られる形で、それ以上は突っ込まなかった。
とはいえ僕のために来てくれたことは正直なところ……とても嬉しかった。
「座ってて、もうちょっとで準備できるから」
「おーけーいっ」
それからは少しゆったりめに、準備をした。
◇◇◇
下北沢から慶応井の頭線で渋谷に出たあと、品川へ向かうため山ノ手線に乗り換える。
「うひゃー、混み混みだねえー」
「だね」
早朝とはいえ、都内の大動脈の役割を担う山ノ手線はかなりの混雑具合だった。
車内はサラリーマンや学生たちで溢れていて、妙な圧迫感と緊張感があった。
「学校は大丈夫なの?」
拳一個分の距離にいる日和に、尋ねる。
「よゆーのよゆーちゃんっ、むしろお見送りしてすぐ行ったら時間余っちゃうから、カフェで朝ごはんかな?」
「さっきパン食べてなかったっけ?」
「成長期?」
「もう何も突っ込まないよ、ブラックホールちゃん」
「いやいや何ボケてんの、突っ込んでよっ。私が大飯食らいの胃袋ブラックホールみたいになっちゃうじゃん」
「自覚なかったの?」
ご要望通り突っ込んで差し上げると、日和は満足そうに頷き控えめに笑った。
いつもの、混じり気のない笑顔、他愛のない会話。
──先週、夜のお台場で日和から告白を受けてからも、僕らはずっとこんな調子だ。
件(くだん)の告白に関してお互いに話題にすることもなく、僕らはいつも通りの一週間を過ごした。
まるであの告白が夢だったんじゃないかって思えるほどの、変わらぬ日々。
あの夜、僕も日和も、今以上の関係になることを保留にした。
お互いの心が通じ合ったかのように、自然の流れでそうなった。
この話の続きは……僕が帰って来てから。
そんな暗黙の了解が漂っているのような雰囲気。
ただじっくり思い返すと……以前より日和に遠慮が無くなったというか、スキンシップが増えた。
一緒にいる時の距離感は前にも増して近くなっていたし、ハグも毎日欠かさない。
なんならさっき、家を出る前にもしてきた。
この変化についても、お互いに話を切り出すことはなかった。
とはいえ正直なところ……日和が今、どのような心持ちでいるのか、気になっていた。
僕と離れるのが悲しい、帰って欲しくないと咽び泣いた日和。
今もまだ、内心は深い悲しみに覆われていて、僕のいないところで泣いているのではないか、という不安があった。
「んぅ、どうしたの?」
考え込んでいて、神妙な面持ちになっていたのか。
日和が、怪訝な表情を浮かべている。
「いや……」
なんでもない、と口にしようとしたところで、電車が大きく揺れた。
「うお」
僕の重心が前にずれて、日和との距離がゼロになる。
「わわっ」
慌てて僕を抱き留める日和。
ふわりと漂う、嗅ぎ慣れた甘い香り。
忙しない満員電車内だからなのか、日和の体温からいつもより落ち着く作用を感じられる。
「前にもあったねー、このシチュエーション」
「デジャヴ感あるね」
動揺のないやり取り。
秋の高尾山、帰りのケーブルカーでの一幕を思い起こす。
あの時は一瞬で恥ずかしくなって、お互いにすぐ離れたっけ。
「てか、ごめん」
流石に周囲に人がいてこの状態は気まずいだろうから、身体を離そうとする。
でも、それは叶わなかった。
ぎゅううっと、日和に身体をホールドされたから。
離さないぞと、言わんばかりに。
「どうしたの」
尋ねると、日和は囁くような口調で、
「……治くん成分をチャージしてるの」
心臓が跳ねて、一瞬だけ息が詰まる。
僕は何も言わず、日和と同じことをした。
日和成分を、チャージした。
今日明日会えないと思うと、少しでもこの温もりを、匂いを、安心感を、覚えておきたいと思ったから。
日和も、何も言わなかった。
くすりと、小さくて嬉しそうな笑い声が一度だけ、聞こえた。
お互いに何を求めているか、そしてどうして求めているかがわかっているから、言葉のやり取りは必要ない。
電車が品川に到着するまで、僕と日和はずっと、お互いの背中に腕を回し続けていた。
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