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第92話 恒例の寝落ちと、激震
しおりを挟むお出掛けから帰ってきた後、僕と日和はそれぞれの部屋に戻った。
ほどよい疲労感を覚えつつ、今夜は久しぶりに1人かと不思議な感慨を覚えながらシャワーを浴びる。
寝巻きに着替えリビングで漫画を読んでいると、なんの前触れもなくインターホンが鳴った。
「やっ、1時間ぶり!」
快活な声と共に手のひらを見せてくる日和を前にして、ぽかんとする。
「ちょ、今夜来るのはまずいんじゃない?」
「どして?」
「どうしてって……お昼に力使ってるから」
「ああー、なるほどー」
全然なるほどと思っていない、むしろ予想通りといったリアクションを取った後、日和は例の悪戯っぽい笑みを浮かべてにんまりと口角をあげた。
「私が部屋で寝落ちしたら、なにかするの?」
なにかって、なに。
口に出そうとして、呑み込む。
脳裏をあまり健全ではない映像が掠めたから、この話題について深掘りするのはよくないと判断した。
「しないよ」
端的に一言だけ、告げる。
「じゃあいいじゃん」
けろりと言いのけてから、表情をぽかぽかさせる日和。
いや、僕の精神的にはあまりよろしくないと、次の語を放つ前に日和が続けて言葉を重ねた。
「そういう誠実なところ、好きだよ」
心臓が跳ねる。
「いきなり何言い出すの」
「別にー?」
わざとらしくすっとぼける日和は、いつにも増して上機嫌のように見えた。
今日1日遊んだ興奮がまだ冷めきっていないのだろうか。
完全に省エネオフモードに切り替わっていた僕は、ため息と頭かきかきのお馴染みセットを披露してから、口を開く。
「早く入りなよ。寒いでしょ」
「ん、ありがと!」
靴を脱ぐ日和を待たず、背を向ける。
先にリビングの設定温度を上げておこうと思って。
「そういう優しいところも、素敵だなあって思うよ」
後ろから聞こえてきた言葉がどのことを指しているのかはわからない。
ただどちらにせよ、その発言が僕の体温を設定温度よりも上昇させたのは確かだった。
◇◇◇
「読み終わったよ、鼻血ぶー!」
「それだけ言われると訳がわからないね」
お馴染みの定位置。
僕のすぐ隣に座る日和が、先日貸した「華々しき鼻血ぶー」をこちらに見せてくる。
「今回は結構、時間かかったね」
「いやあー、ライトノベルと違って謎文が多かったり、展開が小難しかったりして、解読に時間がかかちゃった!」
「まあ、思いっきり尖った作品をご所望だったし。でも、よく最後まで読みきったね」
今度こそ途中でリタイヤするものと思っていたから、素直に感嘆する。
「へへーん、えらいでしょ。確かに尖りに尖ってて凄かったけど、すっごく面白かった!」
作品に対する興奮を抑えきれないといった様子で、ずいっと身を乗り出してくる日和。
きらきらと宝石箱を散りばめたような瞳に射抜かれて、目を逸らしそうになる。
とはいえここで逸らすと、僕が困るタイプのからかいが再スタートしてしまうから、じっと堪えて一言告げた。
「……それは何より」
「ふふっ、ありがと!」
そこからはいつもの、作品感想会が始まった。
読むのに時間をかけたからか、日和の感想にはいつもより気合が入っていた。
僕もその都度持論を返す。
そして気がつくと……日和との距離がほぼゼロになっていて息を呑んだ。
端正な顔立ちがすぐ目の前に迫る。
シャンプーと、日和本来の匂いが混ざり合った、いつもの甘ったるい匂い。
「あの、近い」
「あっ、ごめんっ」
大仰に身を引いた日和が、てへへと後ろ手で頭を掻く。
「あれだけはしゃいで、よくそんな元気が残っているね」
「ふっふっふ、これぞSJKの力よ!」
「スーパーJK?」
「ぶっぶー、セカンドJK、つまり、二年生の女子高生って意味だね!」
「思った以上にそのままだった」
「ちなみに一年生はFJK、三年生はLJKって言うよ!」
「ファーストJKと……なに、Lって」
「ラストJK!」
「ああ、なるほど……なんか感慨深いニュアンスだね」
「最近の若者はストレートでわかりやすい表現にちょっとしたエッセンスを入れるのだよー」
「最近に限った話なのかな、それ。でも、鼻血ぶーを読んだ後に言われると説得力が急降下だね」
「確かに!」
けらけらと、日和が腹を抱えて笑う。
どこにそんな元気が残ってるんだろう、本当に。
「というわけで、次の本ぷりーず」
両手のひらをこちらに向けて「ちょーだい」のジェスチャーをする日和。
子供っぽい動作が妙に可愛らしくて、返答にワンテンポ遅れてしまう。
「……了解、次は、ストレートでわかりやすい作品でいい?」
「おっ、奇遇だねえ、私もそれ言おうとしてた! おもいっっきりラノラノしたやつ読みたい!」
「ラノラノって。これはまた、極端から極端に走ったね」
「温度差が好きなのかな? ほら、サウナでじっくり身体を熱してから水風呂に入ったら気持ちいじゃん!」
「生憎、サウナは入らないからわからない」
「うやはー、そういえばそうだったねぇ、超気持ちいよ? 今度挑戦してみようよ!」
「まあ、検討しておく」
ここで即座に拒否しなくなったあたり、自分も変わったものだなと妙な感慨に耽る。
僕がもともと人に影響されやすい性質だったのか、それとも……。
「んぅ、どーしたの? 私の顔になんかついてる?」
「……なんでもない。本、取ってくる」
「いってらりんー」
その場から逃げるように腰を上げる。
意識を思い浮かべた本に持っていってから、部屋の片隅の本置きエリアをごそごそ。
しかし、お目当ての本は見つからない。
寝室だろうか。
そういえば、結構前にベッドで読んだ気がする。
部屋を移動し、寝室の本棚に視線を投げる。
ない。
ベッド周りを見回す。
すると、枕元に積まれた本の一番下でお目当ての品がかくれんぼしていた。
「へえー、ここが治くんの寝室かー」
伸ばそうとした手が止まる。
振り向くと、日和がきょろきょろと興味深げに僕の寝室を見回していた。
「ちょっと、勝手に入ってこないでよ」
「おっ、もしかして見られたら困る系のブツが置いてある感じかな?」
「ブツって?」
「例えば……えっちな本とか!」
「馬鹿じゃないの」
僕の名誉にかけて冷ややかに突っ込むと、日和はくくくと悪戯に成功した子供みたいに笑った。
今日はどうしたのだろう、本当に。
突っ込みにくいからかいが、いつもより多いような。
この手のボケを深掘りするのは非常に良くないと思い、手に取った健全なブツをさっさと手渡す。
「ん、ありがと! おおー、これはまた、ラノラノしてるね!」
日和の言う通り、貸したブツの表紙には、片方に金髪エルフ、もう片方に猫耳美少女を従えたよく見るタイプの顔の主人公が、漆黒の鎧と剣を携えて決めポーズを取っていた。
「最近流行りの異世界系だね。ノンストレスで読めるから、これはこれで楽しめる」
「おおー! 最高に極端だね! 早速読んでいい?」
「いいけど」
「やたっ、じゃあ、ベッド貸して?」
「は?」
いきなり何を言い出すんだろう。
「だって、すっごくふかふかそうなんだもん」
「だもん、って」
「だめ?」
「えっと……」
自分のベッドを、女の子が使う。
その事象そのものに妙なむず痒さ、気恥ずかしさを感じて、精神衛生的にあまりよろしくない。
とは、言えなかった、
「……だめでは、無いけど」
「やたっ」
胸の前でぐっと両手を握る日和に、肩を落とす。
まあテレビと違って、許可を取る前に使用しないだけまだマシか。
頭の中で誰に対してかわからない言い訳をしている間に、日和はごろりんと僕のベッドにダイブした。
「ふあーーっ、ふっかふか!」
ごろりんごろりんと、身体の両面で僕のベッドを堪能し始める日和。
もうテンションが完全に、修学旅行先のホテルのそれだ。
まあ、ベッドと組み合わさったというだけで、日和あるあるなよく見る光景だけど。
「これ、絶対いい布団じゃん!」
「睡眠は質を良くしたいから、それなりのを、一応」
「いいなーー」
両手でばふばふ枕元を叩きながら羨望の声をあげる日和をスルーして、リビングから漫画を取ってくる。
ベッドに腰を下ろし、続きのページを開いた。
取り合っていたらキリが無いので、しばらく放置プレイをしてみようという試みである。
目論見通り、日和はしばらく布団の上でゴロゴロしていたが、じきに飽きたのか先ほど渡したライトノベルを寝転んだまま読み始めた。
やっと静かになったかと、僕も胸をなで下ろして漫画のページを捲る。
しかし、思ったように集中できない。
今まで自分の絶対的テリトリーであった寝室の、しかもベッドに、女の子が寝転んでいる。
それも、とんでもない美少女が。
その事象が案の定、落ち着かない。
努めて意識しないようにする。
なんとか徐々に慣れてきて、漫画に集中でき始めてた。
しばらくぺらぺらと、紙をめくる音が断続的に二人分、寝室の空気を揺らす。
……どれくらい時間が経っただろうか。
気がつくと、ページを捲る音が一人分に減っていた。
おや、と思うと同時に、後ろからくすくすと小さな笑い声が聞こえてくる。
振り向く。
ベッドに背中を預けた日和が、柔らかい笑みを浮かべスマホを眺めていた。
これも、よく見る光景だ。
典型的な現代っ子である日和はよくスマホを弄る。
大方、ツブヤキッターとかヨーチューブとか、そういう系のコンテンツを閲覧しているのだろう。
普段なら特に気に留めることもなかっただろう。
──でも、日和の表情が随分幸せそうというか、とても綻んでいるように見えて、一抹の興味を持った。
気がつくと、口を開いていた。
「癒しのもふもふ動画でも見つけたの?」
僕の声がけに、日和は意外そうな表情でおもてをあげた。
「どしたの?」
「う、ううん、なんでもない! どちらかというと、面白癒し系かな?」
「食事中の猫の背後にきゅうりを置く動画?」
「あ、それ知ってる。でも、どちらかというとわんちゃんかな」
「わんちゃん?」
「そー、そう、わんちゃん」
なぜか煮え切らない様子の日和に首を傾げつつも、追求するようなことはしない。
幾ばくか興味はあるけど、そこまでの気概はない。
だからこのくらいに留めておく。
「なんか、すごく幸せそうな顔してたね」
言うと、日和は僅かに目をまん丸くした後、ふわりと柔らかい笑顔を浮かべてこくりと頷いた。
「うん、それは合ってる」
幾ばくの興味が、結構な興味になった。
日和をこんな表情にさせるコンテンツとは、果たしてどんなシロモノなのだろうか。
──知りたい。
その欲求は、今までの僕だと絶対にしなかった質問を口にした。
「あのさ、何を見て……」
途中で言葉を切ったのは、日和の身体に異変が生じたから。
不意に日和の腕から力が抜け、スマホを表にしたまま布団に落ちた。
間髪入れず、まるで秋の日の釣瓶(つるべ)落としのように、日和の全身から力が抜ける。
ぱっちりとした双眸が、幕引きの速さで閉じていった。
直にすうすうと、日和は規則正しいリズムで寝息を奏で始めた。
「……このタイミングか」
力を使用した後の、恒例の寝落ち。
本当にいつも、唐突である。
「今回は、身体が接触してないだけマシか……」
前回も、前々回も、日和が寝落ちするタイミングは良くなかった。
主に、僕の精神的に。
そう考えると、ベッドで横になってもらったのはある意味、正解だったのかもしれない。
こうなった日和は一定の時間が経たないと起きないことを、僕は知っている。
今日はソファ睡眠かと小さく息をついた後、立ち上がる。
ひとまず日和を、下の層に移動させて布団とサンドウィッチしてあげなければならない。
掛け布団に手をかける。
ゆっくりと引こうとした時、日和の手に握られたままの、ディスプレイを上に向けたスマホが視界に入った。
瞬間、すべての動作が静止する。
心臓まで止まったんじゃないかと思った。
思わず目を逸らす。
脳裏に、日和との過去のやりとりがフラッシュバックした。
──僕を犬かなにかだと勘違いしてない?
──あっ、言われてみれば犬ぽいかも。
──途中からもう、一生懸命食べてたもんね、わんちゃんみたいに。
──誰がわんちゃんだ。
いや、まさか、と先ほど視界に収めた光景が見間違いであることを祈って、もう一度、スマホのディスプレイを見やる。
しかし、画面には先ほど視認したものと変わらないコンテンツ……いや、写真が表示されていた、
畳に頬をつけすやすやと眠る、僕の寝顔の写真が。
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