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第68話 日和は僕に

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 夕食後、再びソファに召集された。

 流れは昼間と同じ。
 日和の隣に、僕は黙って腰掛けた。

 そのまましばらく何も話さず、日和の貸してくれた漫画に目を走らせていたが、ふと気になって尋ねる。

「あのさ」
「んぅ?」
「前に日和、言ってたよね。母親が料理できなくなって、代わりにしてたって」

 日和が我が家にご飯を作りに来始めた頃、ポツリと漏らした言葉。
 少しでも、日和のバックグラウンドを知っておきたいという気持ちが、それを思い起こさせた。

「うん、そうだよ」

 日和は笑って肯定した。
 天井を見上げ、記憶の断片を掘り起こすようにして言う。

「お父さんが死んじゃってからお母さん、料理するのが厳しくなっちゃったから、代わりに私がするようになったの」
「……なるほど」
 
 とても重い話のはずなのに、日和の声には弾みがあった。

「お母さん、私の作った料理を食べてる時は、すっごい笑顔になるの。美味しい、ありがとうって。それがすごく嬉しくて、もっと喜んでもらいたいたくて……けっこう研究したなー」

 ……つまり、日和の料理の腕前は、母親を思う気持ちの賜物だったということか。

 それがわかると、胸のあたりにピリリと痛みが走った。

 思わず、こんなことを口にする。

「……凄いね、日和は」

 僕の唐突な賛辞に、日和がきょとんとする。

「どうしたのいきなり? ドッキリの前兆?」
「違うよ」

 おどけたように言う日和に冷静なツッコミを入れる。
 シリアスな空気を感じ取ったのか、日和が口を噤む。

「父親を失って、母親も、変わってしまって……それでも、母親の笑顔が見たくて、頑張ったんだよね。……それはとても、凄いことだと思う」

 ぎこちない、けど伝える。

 昨日初めて知った、日和の過去の話。
 聞いてからずっと、胸の中でモヤモヤしている部分があった。
 
 何か言ってやれることはないか、できることはないかと考えた末、たどり着いたひとつの手段。
 
「いつも、美味しい料理をありがとう」

 純粋な、感謝の気持ちを伝える。
 それくらいしか、今の僕にはできない。
 でもそれで、少しでも日和の気持ちがプラスに向いてくれるのなら、はっきり言おうと思った。

 僕の言葉に、日和は一瞬ぽかんとしたが、すぐに柔らかく微笑んだ。
 澄んだ瞳が僅かに潤んだかと思うと、日和はぽつりと、言葉を溢した。

「……お礼を言うのは、私のほうだよ」
 
 言ってから日和は、僕に身を寄せてきた

 覚えのある体温。
 鼻腔をくすぐる甘い匂い

 ほうっと落ち着かせるような吐息が聞こえてから、日和が切り出す。
 
「今朝起きたら、不安だった」

 心細そうな声。

「昨晩、治くんが言ってくれたこと、頭を撫でてくれたこと、抱き締めてくれたこと……全部夢だったんじゃないかって。そう思うと、なんだか怖くなって……気づいたら、治くんの部屋の前にいた」

 日和が今日、随分と早く訪問してきた理由を知る。

「でも、夢じゃなかった。私の事情も、心のうちも、全部受け入れてくれた治くんが、ちゃんとここにいた」

 普段ならドギマギしているシチュエーションのはずなのに、不思議と僕の心は冷静だった。

 日和の言葉に、耳を傾けていた。

「すごく嬉しかった。そしたらなんかもう、いろいろ抑えられなくなって……」

 日和が、僕の腕に身体を擦り寄せてくる。
 まるで、僕の存在を確かめるように。

「こんな私を受け入れてくれて、ありがとうね」

 心の底から紡がれた、感謝の言葉。

 日和が僕を隣に座らせた理由を、ようやく理解した。

 日和は、甘えてくれていたのだ。

 それがわかった途端、僕の心の中で温かい感情が芽生える。

 その感情には、覚えがあった。

 嬉しい。
 
 日和に甘えられて、僕は嬉しいと思っていた。
 そして、もう一段階上の欲求も芽生えた。

 ──もっと甘やかしたい。

 マズローの五段欲求にさえ記されていないその欲求は、僕の手を動かす。

 日和の小さな頭に、手のひらを乗せていた。

「んぅ?」

 日和がこてりと小首を傾げ、不思議そうに見上げてくる。

「……ごめん、またやった」
「といいつつ、手は離さないんだね」
「ごめん」

 離そうとすると、日和がひしっと手首を掴んできた。

 ふるふると、日和の頭が横に震える。
 手入れの行き届いた艶やかな黒髪が揺れて、くらくらしそうな香りが漂ってきた。

「……頭撫でるくらい、いつでもするって、昨日言った」

 綺麗に切り揃えられた前髪から、上目遣い気味の瞳で見つめられる。
 まさかおねだりされるとは思ってなくて、よくわからない精神状態のまま、日和の望んでいるであろう行動をとった。

 解放された手をそのまま、下に滑らせた。

 柔らかい。
 まるで天鵞絨(びろうど)みたいな手触りだ。

 気持ちよさそうに頬を緩ませる日和。
 無防備で、無警戒で、あどけない。

「んぅ……」

 形の良い眉尻がふにゃふにゃと下がっていく。
 次第に日和は、もっと撫でて欲しいと言わんばかりに自分から頭を擦り寄せてきた。

 その様子はまるで、人懐っこい子猫のよう。
 
 いつもは明るく快活な日和が見せる、甘えたな一面。
 そのギャップにやられた理性が、体温をぐんぐんと上昇させる。
 このまま撫で続けるのは、よくない作用を誘発しそうな予感がした。
 
「治くんがいてくれて、本当に良かった」

 寒い外から、ぬくぬくの部屋に帰ってきた時みたいな声。

 手を止めて、小さく呟く。

「僕は別に、特別なことはしていない」
「それは自己評価が低すぎ。治くんは私のこと、凄いって言ってくれたけど、私も治くんの事、凄いと思ってるよ?」

 頭から手を離す。

「買い被りすぎだよ。僕は、日和の思うような大層な人間じゃない」
「そんなことない。治くんはたくさんいいところがある。私が、それを知ってる」

 日和はじっと、僕の瞳を見つめていた。
 いつになく、真面目な表情。

 思わず生唾を飲むと、日和はふっと口元を柔らげ、優しい声色で言った。

「治くんは優しくて、かっこよくて、私にないものをたくさん持ってる、凄い人だよ」

 顔が沸騰して破裂するかと思った。
 聴覚を通じて脳に直撃した言語情報は、僕が受け入れられるキャパをゆうに超えていた。

 初めてだった。
 他人から、こんな褒められ方をしたのは。
 だから僕は、どう反応すればいいかわからなかった。

 ただ、目の前の少女に自己を肯定されたという事実が、僕の照れとか羞恥とかいった感情を一気に増幅させた。

 堪らず、日和に背を向ける。

「こーらー、何恥ずかしがってんのー」

 ぺちぺちと背中を叩かれる。
 全然痛くないのに、心が痒くて仕方がなかった。
 
「いきなり変なこと言わないでよ」
「全然変じゃないよ、治くんは凄い人なんだから、もっと自信持って!」

 背中に激励を浴びせられる。
 躍動感のあるその声には、推進力を伴った力強いエネルギーが込もっていた。

「大丈夫、私が保証するから!」

 「大丈夫」と言われると、本当に大丈夫な気にさせてくれるのは、日和の凄いところの一つだと思う。
 ほんの少しだけ、パワーをもらえた気がした。

 ずっと背を向けるわけにもいかないので、わずかに前向きになった思考のように、身体の向きを戻す。

「あ、こっちむいた」

 飛行機雲を見つけたみたいに言う日和に、短く答える。

「善処する」

 僕の言葉に、日和は大きく頷いた。
 それから満面に笑みを湛えて、こちらに手を伸ばしてくる。

 ……え?

「よしよし、えらいえらい」

 頭に、手のひらの感触。
 さらさらと髪が擦れる音。

 日和が僕の頭を、子供をあやすように撫でてきた。
 美少女に至近距離から頭を撫でられる、なんて初めての経験は、僕に驚きと羞恥をもたらした。

 なんだ、これ。

「あっ……」

 日和自身も無意識の行動だったのだろうか。
 料理中につい、ぽかミスしてしまった時みたいに表情をハッとさせた後、かあっと頬を赤く染めた。

「ごめんっ、なんか、つい」

 つい、って。

「……別に、気にする必要はない。なんなら僕のほうが、先に撫でたし」

 言ってから、余計に恥ずかしくなった。
 日和もその余波を食らったらしく、表情を隠すように俯いた。

「……漫画、読むわ」
「……私も、本読むね」

 それぞれが貸しあったコンテンツを手に取る。

 何とも言えない空気になりつつも、互いの距離はゼロのままだった。

 右腕に日和の体温を感じながら、夜がふけていく。

 漫画の内容は一ページも頭に入ってこなかった。
 
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