69 / 125
第68話 日和は僕に
しおりを挟む夕食後、再びソファに召集された。
流れは昼間と同じ。
日和の隣に、僕は黙って腰掛けた。
そのまましばらく何も話さず、日和の貸してくれた漫画に目を走らせていたが、ふと気になって尋ねる。
「あのさ」
「んぅ?」
「前に日和、言ってたよね。母親が料理できなくなって、代わりにしてたって」
日和が我が家にご飯を作りに来始めた頃、ポツリと漏らした言葉。
少しでも、日和のバックグラウンドを知っておきたいという気持ちが、それを思い起こさせた。
「うん、そうだよ」
日和は笑って肯定した。
天井を見上げ、記憶の断片を掘り起こすようにして言う。
「お父さんが死んじゃってからお母さん、料理するのが厳しくなっちゃったから、代わりに私がするようになったの」
「……なるほど」
とても重い話のはずなのに、日和の声には弾みがあった。
「お母さん、私の作った料理を食べてる時は、すっごい笑顔になるの。美味しい、ありがとうって。それがすごく嬉しくて、もっと喜んでもらいたいたくて……けっこう研究したなー」
……つまり、日和の料理の腕前は、母親を思う気持ちの賜物だったということか。
それがわかると、胸のあたりにピリリと痛みが走った。
思わず、こんなことを口にする。
「……凄いね、日和は」
僕の唐突な賛辞に、日和がきょとんとする。
「どうしたのいきなり? ドッキリの前兆?」
「違うよ」
おどけたように言う日和に冷静なツッコミを入れる。
シリアスな空気を感じ取ったのか、日和が口を噤む。
「父親を失って、母親も、変わってしまって……それでも、母親の笑顔が見たくて、頑張ったんだよね。……それはとても、凄いことだと思う」
ぎこちない、けど伝える。
昨日初めて知った、日和の過去の話。
聞いてからずっと、胸の中でモヤモヤしている部分があった。
何か言ってやれることはないか、できることはないかと考えた末、たどり着いたひとつの手段。
「いつも、美味しい料理をありがとう」
純粋な、感謝の気持ちを伝える。
それくらいしか、今の僕にはできない。
でもそれで、少しでも日和の気持ちがプラスに向いてくれるのなら、はっきり言おうと思った。
僕の言葉に、日和は一瞬ぽかんとしたが、すぐに柔らかく微笑んだ。
澄んだ瞳が僅かに潤んだかと思うと、日和はぽつりと、言葉を溢した。
「……お礼を言うのは、私のほうだよ」
言ってから日和は、僕に身を寄せてきた
覚えのある体温。
鼻腔をくすぐる甘い匂い
ほうっと落ち着かせるような吐息が聞こえてから、日和が切り出す。
「今朝起きたら、不安だった」
心細そうな声。
「昨晩、治くんが言ってくれたこと、頭を撫でてくれたこと、抱き締めてくれたこと……全部夢だったんじゃないかって。そう思うと、なんだか怖くなって……気づいたら、治くんの部屋の前にいた」
日和が今日、随分と早く訪問してきた理由を知る。
「でも、夢じゃなかった。私の事情も、心のうちも、全部受け入れてくれた治くんが、ちゃんとここにいた」
普段ならドギマギしているシチュエーションのはずなのに、不思議と僕の心は冷静だった。
日和の言葉に、耳を傾けていた。
「すごく嬉しかった。そしたらなんかもう、いろいろ抑えられなくなって……」
日和が、僕の腕に身体を擦り寄せてくる。
まるで、僕の存在を確かめるように。
「こんな私を受け入れてくれて、ありがとうね」
心の底から紡がれた、感謝の言葉。
日和が僕を隣に座らせた理由を、ようやく理解した。
日和は、甘えてくれていたのだ。
それがわかった途端、僕の心の中で温かい感情が芽生える。
その感情には、覚えがあった。
嬉しい。
日和に甘えられて、僕は嬉しいと思っていた。
そして、もう一段階上の欲求も芽生えた。
──もっと甘やかしたい。
マズローの五段欲求にさえ記されていないその欲求は、僕の手を動かす。
日和の小さな頭に、手のひらを乗せていた。
「んぅ?」
日和がこてりと小首を傾げ、不思議そうに見上げてくる。
「……ごめん、またやった」
「といいつつ、手は離さないんだね」
「ごめん」
離そうとすると、日和がひしっと手首を掴んできた。
ふるふると、日和の頭が横に震える。
手入れの行き届いた艶やかな黒髪が揺れて、くらくらしそうな香りが漂ってきた。
「……頭撫でるくらい、いつでもするって、昨日言った」
綺麗に切り揃えられた前髪から、上目遣い気味の瞳で見つめられる。
まさかおねだりされるとは思ってなくて、よくわからない精神状態のまま、日和の望んでいるであろう行動をとった。
解放された手をそのまま、下に滑らせた。
柔らかい。
まるで天鵞絨(びろうど)みたいな手触りだ。
気持ちよさそうに頬を緩ませる日和。
無防備で、無警戒で、あどけない。
「んぅ……」
形の良い眉尻がふにゃふにゃと下がっていく。
次第に日和は、もっと撫でて欲しいと言わんばかりに自分から頭を擦り寄せてきた。
その様子はまるで、人懐っこい子猫のよう。
いつもは明るく快活な日和が見せる、甘えたな一面。
そのギャップにやられた理性が、体温をぐんぐんと上昇させる。
このまま撫で続けるのは、よくない作用を誘発しそうな予感がした。
「治くんがいてくれて、本当に良かった」
寒い外から、ぬくぬくの部屋に帰ってきた時みたいな声。
手を止めて、小さく呟く。
「僕は別に、特別なことはしていない」
「それは自己評価が低すぎ。治くんは私のこと、凄いって言ってくれたけど、私も治くんの事、凄いと思ってるよ?」
頭から手を離す。
「買い被りすぎだよ。僕は、日和の思うような大層な人間じゃない」
「そんなことない。治くんはたくさんいいところがある。私が、それを知ってる」
日和はじっと、僕の瞳を見つめていた。
いつになく、真面目な表情。
思わず生唾を飲むと、日和はふっと口元を柔らげ、優しい声色で言った。
「治くんは優しくて、かっこよくて、私にないものをたくさん持ってる、凄い人だよ」
顔が沸騰して破裂するかと思った。
聴覚を通じて脳に直撃した言語情報は、僕が受け入れられるキャパをゆうに超えていた。
初めてだった。
他人から、こんな褒められ方をしたのは。
だから僕は、どう反応すればいいかわからなかった。
ただ、目の前の少女に自己を肯定されたという事実が、僕の照れとか羞恥とかいった感情を一気に増幅させた。
堪らず、日和に背を向ける。
「こーらー、何恥ずかしがってんのー」
ぺちぺちと背中を叩かれる。
全然痛くないのに、心が痒くて仕方がなかった。
「いきなり変なこと言わないでよ」
「全然変じゃないよ、治くんは凄い人なんだから、もっと自信持って!」
背中に激励を浴びせられる。
躍動感のあるその声には、推進力を伴った力強いエネルギーが込もっていた。
「大丈夫、私が保証するから!」
「大丈夫」と言われると、本当に大丈夫な気にさせてくれるのは、日和の凄いところの一つだと思う。
ほんの少しだけ、パワーをもらえた気がした。
ずっと背を向けるわけにもいかないので、わずかに前向きになった思考のように、身体の向きを戻す。
「あ、こっちむいた」
飛行機雲を見つけたみたいに言う日和に、短く答える。
「善処する」
僕の言葉に、日和は大きく頷いた。
それから満面に笑みを湛えて、こちらに手を伸ばしてくる。
……え?
「よしよし、えらいえらい」
頭に、手のひらの感触。
さらさらと髪が擦れる音。
日和が僕の頭を、子供をあやすように撫でてきた。
美少女に至近距離から頭を撫でられる、なんて初めての経験は、僕に驚きと羞恥をもたらした。
なんだ、これ。
「あっ……」
日和自身も無意識の行動だったのだろうか。
料理中につい、ぽかミスしてしまった時みたいに表情をハッとさせた後、かあっと頬を赤く染めた。
「ごめんっ、なんか、つい」
つい、って。
「……別に、気にする必要はない。なんなら僕のほうが、先に撫でたし」
言ってから、余計に恥ずかしくなった。
日和もその余波を食らったらしく、表情を隠すように俯いた。
「……漫画、読むわ」
「……私も、本読むね」
それぞれが貸しあったコンテンツを手に取る。
何とも言えない空気になりつつも、互いの距離はゼロのままだった。
右腕に日和の体温を感じながら、夜がふけていく。
漫画の内容は一ページも頭に入ってこなかった。
0
お気に入りに追加
43
あなたにおすすめの小説
司書ですが、何か?
みつまめ つぼみ
ファンタジー
16歳の小さな司書ヴィルマが、王侯貴族が通う王立魔導学院付属図書館で仲間と一緒に仕事を頑張るお話です。
ほのぼの日常系と思わせつつ、ちょこちょこドラマティックなことも起こります。ロマンスはふんわり。
彼の愛は不透明◆◆若頭からの愛は深く、底が見えない…沼愛◆◆ 【完結】
まぁ
恋愛
【1分先の未来を生きる言葉を口にしろ】
天野玖未(あまのくみ)飲食店勤務
玖の字が表す‘黒色の美しい石’の通りの容姿ではあるが、未来を見据えてはいない。言葉足らずで少々諦め癖のある23歳
須藤悠仁(すどうゆうじん) 東日本最大極道 須藤組若頭
暗闇にも光る黒い宝を見つけ、垂涎三尺…狙い始める
心に深い傷を持つ彼女が、信じられるものを手に入れるまでの……波乱の軌跡
そこには彼の底なしの愛があった…
作中の人名団体名等、全て架空のフィクションです
また本作は違法行為等を推奨するものではありません
『Goodbye Happiness』
設樂理沙
ライト文芸
2024.1.25 再公開いたします。
2023.6.30 加筆修正版 再公開しました。[初回公開日時2021.04.19]
諸事情で7.20頃再度非公開とします。
幸せだった結婚生活は脆くも崩れ去ってしまった。
過ちを犯した私は、彼女と私、両方と繋がる夫の元を去った。
もう、彼の元には戻らないつもりで・・。
❦イラストはAI生成画像自作になります。
【完結】さようなら、婚約者様。私を騙していたあなたの顔など二度と見たくありません
ゆうき@初書籍化作品発売中
恋愛
婚約者とその家族に虐げられる日々を送っていたアイリーンは、赤ん坊の頃に森に捨てられていたところを、貧乏なのに拾って育ててくれた家族のために、つらい毎日を耐える日々を送っていた。
そんなアイリーンには、密かな夢があった。それは、世界的に有名な魔法学園に入学して勉強をし、宮廷魔術師になり、両親を楽させてあげたいというものだった。
婚約を結ぶ際に、両親を支援する約束をしていたアイリーンだったが、夢自体は諦めきれずに過ごしていたある日、別の女性と恋に落ちていた婚約者は、アイリーンなど体のいい使用人程度にしか思っておらず、支援も行っていないことを知る。
どういうことか問い詰めると、お前とは婚約破棄をすると言われてしまったアイリーンは、ついに我慢の限界に達し、婚約者に別れを告げてから婚約者の家を飛び出した。
実家に帰ってきたアイリーンは、唯一の知人で特別な男性であるエルヴィンから、とあることを提案される。
それは、特待生として魔法学園の編入試験を受けてみないかというものだった。
これは一人の少女が、夢を掴むために奮闘し、時には婚約者達の妨害に立ち向かいながら、幸せを手に入れる物語。
☆すでに最終話まで執筆、予約投稿済みの作品となっております☆
夫に惚れた友人がよく遊びに来るんだが、夫に「不倫するつもりはない」と言われて来なくなった。
ほったげな
恋愛
夫のカジミールはイケメンでモテる。友人のドーリスがカジミールに惚れてしまったようで、よくうちに遊びに来て「食事に行きませんか?」と夫を誘う。しかし、夫に「迷惑だ」「不倫するつもりはない」と言われてから来なくなった。
若返り薬を使ってあなたを手に入れたい
若葉結実(わかば ゆいみ)
ライト文芸
ある日、畑中 誠は、ある女性に付き合って欲しいと告白されるが、自分の気持ちが分からず、断ってしまう。
その女性は振られてしまったが、誠に対して強い想いがあるようで、諦められず大胆な行動を起こす。
その大胆な行動に、誠の育ての親である沙織は巻き込まれる事になる。
更にある女性の知り合いで、誠に気がある楓。
誠の友人で、楓に気がある石田が加わり、話はより複雑となっていく。
果たして沙織達は、どうなってしまうのか?
妖しく、切ない恋愛ストーリーがいま、始まろうとしている。
滅亡世界の魔装設計士 ~五体不満足で転生した設計士は、魔装を設計し最強へと成り上がる~
高美濃 四間
ファンタジー
凶霧と呼ばれる瘴気が蔓延し、人類滅亡に瀕した異世界。
現代で設計士をしていた『柊吾』は、目覚めると少年に生まれ変わっていた。
それも両腕両足を魔物に喰われた状態で。
彼は絶望の中でひたすら魔術や鍛冶を学び、前世の知識をもってある設計図を完成させる。
十年かけて素材を集め、それを完成させたシュウゴは圧倒的な力を発揮し、凶暴な魔物たちへ挑んでいく。
やがて、新たな仲間を増やしながら最強のハンターとして成り上がっていき、誰もが認める英雄へと至る。
討伐と設計を繰り返し成長する、ハイスピードハンティングアクション!
※小説家になろう様、エブリスタ様、ノベルアップ+様、カクヨム様、たいあっぷ様にも連載しております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる