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第61話 彼女の異変

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 彼女と悪魔の契約を交わして3日が経った。
 交わしたと言っても未だに、彼女の口からお願いの詳細は聞けていない。
 もしかして忘れてるんじゃないかと思ったが、彼女に限ってそれは無いなと考え直す。

 おそらく、まだ決まってないんだろう。

 ほんの0.1%の確率で忘れているという可能性もあるので、自分から話をぶり返しはせず、優しい手つきでじわじわと首を絞められているような気分を味わいながら、木曜日を迎えた。

「ねえねえ、どこまで読んだ?」

 夕食後。
 彼女が高揚感のある声で尋ねてきた。
 期待に満ちた視線は僕の手元に注がれている。

 彼女の方を見ないまま、僕は返答する。

「今、ちょうどクライマックス」
「おおっ、さすが。早いねえ」
「まあ、漫画だからね」
「確かに」

 僕は今日、小説ではなく漫画を読んでいた。
 先日、彼女が僕に貸してくれた単行本だ。

「で、どうだった?」
「さっき、クライマックス読んでるって言わなかったっけ」
「あ、そっか。いやはー、気持ちが先行しちゃってるねぇ」

 笑いながら頭を掻いて、彼女はソファに戻って行った。
 はやる彼女の謎のプレッシャーを感じるが、それで流し読みするのは物語に失礼なので、逆にたっぷり時間をかけてクライマックスを堪能する。

 しばらくしてパタンと漫画を閉じると、それを合図に彼女が寄ってきた。

「どうだった!?」

 床に手をついて、ばっと身を近づけてくる彼女。
 キラキラと輝く端正な顔立ちが迫ってきて、思わず身を引く。

「近いんだけど」
「あ、ごめん」

 待てをされた犬のように身体を引く彼女を尻目に、考える。

 読書中に享受した高揚感と、読了後の余韻。
 物語の奥行き、何か心に残るものがあったか否か。
 僕が小説を読む際にチェックするポイントを加味し、その感想を一言に凝縮した。

「……面白かった」
「よかったあぁぁっ」

 彼女はまるで、ハッと起きたけど休みだった時みたいに、安堵の面差し浮かべた。

「そんな安心すること?」
「そりゃあするよー、さっきからずっと緊張しぱなしだったし」
「緊張していたのか、あれ」
「そりゃねー。望月くん、こういうの読まなさそうだからさ」

 彼女が貸してくれた一冊は、巷では有名な冒険ファンタジー作品。
 ネット広告でたまに見かけることもあったため、タイトルだけは知っていた。
 確かに、僕が普段読まないジャンルの作品ではある。

「ジャンルがどうあれ、面白いものは面白いから」
「それは確かにそうだねー」
「あと、ライトノベルではこういうの多いから、特に抵抗感はない」
「あー、なるほどっ。確かに前貸してくれた本、ファンタジーだったしね」
「どちらかというとVRMMOモノだけど」
「いろいろあるんだねえ。望月くん、いつもはミステリーとかSFとか読んでるイメージ」
「主食はその二つで相違ないね」
「嫌いなジャンルとかあるの?」
「嫌いというか……唯一、恋愛ジャンルだけは肌に合わなかった」
「あー……」

 彼女が絶妙に苦い顔をする。

「なにその反応」
「や、予想通りだなーと」
「まあ、恋をしたことないから、感情移入のポイントがわからないんだと思う」
「ふぅん……」

 今度は意味を読み取れない、不思議な表情を浮かべる彼女。

「……なに、その反応」
「ううんっ、なんでも。あ、私、少女漫画とかもそこそこ持ってるから、貸そうか?」
「遠慮しておく」
「ええーっ、なんでさ」
「絶対合わない自信があるから」

 少女漫画に対する僕のイメージは、メルヘンでファンシーなキラキラワールド。
 僕の趣向と掠る気配すらない。

 という説明を懇々とするも、彼女は不服げだった。

「そんなの読んでみないとわかんないじゃん。この漫画も、貸す前は微妙そうだったけど、いざ読んでみたら面白かったでしょ?」
「それは……そうだけど」
「なら、食わず嫌いせず読んでみたほうがいいって! 読まないより読んだほうが、なにかしら得られる可能性が高いじゃん」

 彼女は時たま、筋の通ったことを言う。
 考え、悩み、まあ確かに、彼女の理論は一理あるという結論に至り、答える。
 
「とりあえず、一冊だけ」
「そうこなくちゃ!」

 よしっ、と彼女は満足げに拳を握った。
 着々と彼女の趣向に染められている気がする。

 一方的なのは悔しいので、次貸す小説は尖りに尖ったミステリーものにしようと思った。
 腹のなかで企てを立てていると、彼女の怒涛の感想祭りが始まる。

「それよりこの漫画さ、クライマックスの盛り上がりすごくなかった!?」
「うん、序盤から中盤に張り巡らされた伏線が一気に回収されていく感じが良かったね」
「でしょ! キャラクターも皆魅力があってカッコよかったなー!」
「ひとりひとりのバックグラウンドにちゃんと意味があって、物語のテーマをわかりやすく伝えられてたね」

 しばらく語り合った。
 読み終わり直後という事もあってか、僕の声色にも力がこもる。

 コンテンツについて語り合う時間は、彼女と居て楽しいと思う瞬間のひとつだ。
 自分が面白いと思ったものを他者に共感してもらえると言うのは確かに、高揚感と中毒性がある。
 
「やっぱり、楽しいな」
 
 一通り話し終えると、満足げな彼女がポツリと溢した。
 
「漫画を読むことが?」
「違う違う。こうして、望月くんと語り合うのが」

 思いがけない言葉をかけられて、詰まる。

「漫画について語り合える友人とか、君にはいっぱいいるでしょ」

 それこそ親友さんとか。

「それはそうなんだけどねぇ」

 んー、と人差し指で顎をつついて、言う。

「望月くん、私の感想をすごく丁寧に解説してくれるじゃない? こういう部分が面白かった、凄かった、って言うのを、その理由はこうこうで~、って」
「……ああ、なるほど」

 なんとなく、理解した。

「私はそういう考え方、得意じゃないし、周りにもそういう観点で作品を見る人いないからさ。聞いていてすっごく楽しいの」
「そんな、大した事言ってるつもりはないんだけど……」
「私にとっては大したことなのっ。なんか、そういうの勉強したことがあるの?」
「そういうのって?」
「創作論? っていうのかな? 望月くんの解説、なんか勉強してないと絶対出てこないもん」

 一瞬逡巡して、答える。

「……小説家になりたいって思っていた時期が、一瞬あった」
「ええーー!? そうなんだ、すごい!!」

 新たな新事実! と、彼女はたいそう驚いた。
 そんな驚くことだろうか。

「なりたいって思っただけだから、別にすごくはないと思う」

 思っていたのも、小学生の頃とか。
 なりたい職業アンケートで、プロ野球選手と書くのと同じようなノリだったと思う。

「でも、ここまで解説できるくらいだから、けっこう勉強してたんだよね? それは凄いよ!」

 彼女は両拳を胸の前で握りしめて、僕に尊敬の眼差しを向けて来た。
 こんな反応をされるとは思っていなかったので、言葉に詰まる。
 むず痒い。

「今も目指してるの?」
「今は無いかな。調べたら、小説で生計を立てるのは現実的じゃなかったし、そもそも僕みたいな感受性に乏しい奴が書いた小説なんて、需要ないだろうから」
「そんなの書いてみないとわかんないじゃん」
「書かなくてもわかるよ」
「誰かにそう言われたの?」
「言われてないよ。そもそもこれ、君にしか話していないし」

 そう言うと、なぜか彼女は表情を凍らせた。
 不思議に思っていると、彼女がバシバシと肩を叩いて来た。

「痛いんだけど」

 痛くないけど、抗議の目を向ける。
 彼女は頬をほんのりと赤くし、唇を尖らせていた。

「不意打ちやめてよもー」
「なんの話」
「こっちの話ー。とにかく、書いてみようよ。もしかしたら、すごい才能を秘めてるかもしれないじゃん」
「でもなあ……」
「書いたら私が読むからさ!」

 言われて、僕がどんな表情を浮かべたのかは、彼女の次の言葉で想像がついた。
 
「嫌なの?」
「嫌ではないけど」

 恥ずかしいというかなんというか。

「じゃあ、決定!」

 僕に反論する隙も与えず、彼女がぱんっと手を叩いた。
 まるで、どうすれば僕が流されて行動に移してくれるか、全て把握しているかのような間合いだった。

 まさか、ね?

 彼女は「もっちづきくんの小説~」と、楽しみが増えたと言わんばかりにるんるんし始めた。
 僕はため息をつき、せめて予防線だけでも張っておこうと口を開く。

「クオリティは期待しないでくれると助かる」
「任せて!」

 彼女がぐっと親指を向けてきた。
 なにを任せたのだろう。

「さて、そうと決まれば私もたくさん読んで勉強しないとだね。なんかおすすめある?」

 ぷりーずと、彼女が両手を差し出してきた。
 お菓子をねだる子供みたいな、あどけない仕草。

「ちょっと待って」

 立ち上がって、部屋の隅へ移動する。

「今度は尖ったやつがいいー」

 彼女の要望を背中に受けつつ、綺麗に積み並べられた本を吟味する。

「本棚買わなきゃだねー」
「そうだね」
「でも、前に比べたらだいぶ片付いたことない?」

 彼女は家に来るたび、ちょくちょく部屋を片付けてくれていた。
 無造作に積み重ねられ今にも倒壊しそうだったブックタワーも、今では倒れないよう部屋の隅に一纏めにしてくれている。

「それは……ありがとうございます」
「ふふっ、よろしい!」

 弾みのある声を耳にしながら、個人的にかなり尖りのあるミステリー小説を発掘した。
 彼女の元に戻って、差し出す。

「これとか」
「出た、華々しき鼻血ぶー!」
「知ってるの?」
「前、初めて望月くんの部屋に来た時に気になったやつ」
「ああ……」

 そういえば、このタイトルを口にしてはしゃいでいたような。
 意識が朦朧としてたからあんまし覚えていないけども。

「絶対面白いと思ったんだ。私の目に狂いは無かった!」
「まあ、タイトルから尖りまくってるからね」
「確かに」

 彼女がからからと可笑しそうに笑う。

「これ、部屋に持って帰っていい?」
「いいよ」
「ありがと」
 
 テスト期間でも無いので、部屋でゆっくり読むそうだ。
 文庫本を大事そうに抱え、彼女は嬉しそうに頬を綻ばせた。

 ──その時、ソファに放り置かれていた彼女のスマホが、ぶるぶると震えた。

「スマホ、鳴ってる」
「ほんとだ、ありがとう」

 僕とは大違いで、彼女はそれなりの頻度で連絡を受ける。
 RINEやメールではない長さのバイブレーションだったので、おそらく電話だろう。

 しかしいつまで経っても彼女が電話を取る気配がない。

 彼女はディスプレイを眺めたまま、動作を停止させていた。
 
「出ないの?」

 ピッ。

 短い単音のあと、スマホの震えが止まる。
 彼女が、着信を切ったのだ。

 不審に思うも束の間、振り返った彼女の表情を目にして、ぎょっとする。

 彼女は、笑っていた。
 でもその笑顔には、今まで見たこともない、焦燥だとか寂寥だとか、おおよそ彼女にふさわしくない色が見て取れた。
 まるで、僕を心配させないよう無理やり作ったような、そんな顔だった。
 
 表情以外の異変にも気づく。
 スマホを握る白くて細い手が、微かに震えていた。

「ごめん、今日はもう帰るね」

 彼女の言葉で我に帰る。
 いつもの彼女にしては随分と早い帰宅時間だと思った。

「……了解」

 そのことに触れる事もできず、僕はただ同意して頷いた。

「ありがとう」

 なんの対しての礼だろう。

「また連絡するね」

 そう言い残し、彼女は部屋から出て行った。
 去り際、彼女の笑顔が崩れているのが見えた。

 見えて、しまった。

 ぽつんと一人残されて、思い返す。

 いつも笑顔を絶やさない彼女が見せた、胸を締め付けられるような表情。
 その姿はまるで、行き場所を失った幼子のようだった。

 一体、誰からの着信だったのだろうと、流れとして当然の疑問が浮かぶ。

 おおよその予想はついていた。

 たぶん……彼女の母親か、父親か。

 そのどちらかだろう。

 胸が、ざわつく。
 親の話題に触れた際に見せた彼女の挙動が、脳裏にフラッシュバックした。
 その挙動は、今しがた彼女が見せたそれと随分似通っていた。

 大丈夫、だろうか。

 彼女に対する憂慮の感情が芽生える。
 
 同時に後悔もした。
 悲痛の表情を浮かべて居た彼女になんの言葉もかけられなかったことに、自責の念を覚えた。

 そして、気づく。

 彼女が、先ほど貸した文庫本を忘れていっていることを。

 そのことが、僕の不安をより大きくさせた。
 
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