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第54話 湯上りの彼女と、ヒザマクラの提案

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 温泉を出て時計を見ると、約束の時間まであと僅かだった。
 普段の入浴時間はカラスの行水並みだが、温泉が極楽すぎてつい長風呂を決め込んでいたらしい。

 いそいそと衣服を着用して、大広間へ。
 一面に畳が敷かれた大広間はかなり広く、等間隔にテーブルが設置されている。
 
 きょろきょろと見回すも、彼女の姿はない。
 まだ出ていないようだった。

 広間の隅に積み置かれていた座布団を二枚取ってきて、テーブルのひとつを陣取る。
 座布団に腰掛け、熱を帯びた身体が少しずつ冷めていく感覚を堪能していると、視界にコーヒー牛乳を配るおばちゃんを捉えた。
 
 そういえば、今日無料で配ってるんだっけ。

 立ち上がり、おばちゃんの元へ。
 同行者がいることを伝えると、おばちゃんは気持ちの良い笑顔とともにコーヒー牛乳を二本、手渡してくれた。

 戦利品をテーブルに置いてから、彼女を待つ。

 どうせ読む暇はないだろうと思って本は今日、家に置いて来た。
 スキマ時間ができるなら持ってくればよかったなと思った。

 やることもないので、広間の奥に設置されたテレビをぼーっと眺める。

 芸能人の不倫報道や最新のスポーツ情報といった、全く興味の湧かないニュースは聞き流す。
 天気予報は自分に関わることなので耳を傾けた。

 来週の頭から東京の天気はスッキリしないらしく、傘が必要になるとのこと。
 今日のうちに洗濯回しておけばよかったと、ひとつまみの後悔を覚える。

 約束の時間が過ぎた。
 未だに、彼女は姿を現さない。
 彼女のことだから、はしゃいで足を滑らせ頭でも打ったのかもしれない。

 少しだけ心配していると、生命力に満ち溢れた声が僕を振り向かせた。
 
「ごめん、おまたせ!」

 言葉とは裏腹に、彼女は普段にも増して眩しい笑顔を浮かべていた。
 思わず、視線が吸い込まれる。

 わずかに汗ばんだ端正な顔立ちに、しっとりと湿り気を帯びた長い黒髪。
 より一層輝きを増した肌は、指を添えると滑ってしまいそうだ。

 湯上りの美少女という異様な破壊力を持つ姿に、せっかく冷めてきた身体が再び熱を帯びた。

「そんなに待ってない」

 ぶっきらぼうに告げて、テレビに視線を避難させる。
 間が悪く、画面には冬のもつ鍋特集が放映されていて、余計暑くなった。

「ならよかったー」

 彼女が対面の座布団に腰を下ろすのが、鼻唄と衣擦れの音でわかる。

「座布団、ありがとね」

 礼を言われて応えないというのも人としてアレなので向き直った。
 彼女はニマニマとご機嫌な笑顔を浮かべている。

「別に。あと、これ」

 先ほどおばちゃんから獲得した戦利品を一本、差し出す。

「コーヒー牛乳! 取って来てくれたんだ」

 びっくり箱みたいに迫って来る彼女
 やけに甘ったるい匂いが漂ってきて。僕は思わず身を後ろに引いた。

 そんな僕に構わず、彼女はにへらっと表情を緩め、嬉しそうに言った。
 
「ありがとうねー」
「べつに」

 手渡すと、彼女は早速フタをきゅぽんと開けた。
 すくりと立ち上がり、腰に手を当てゴクゴクと良い飲みっぷりを披露する。

「ぷはぁっ、美味しい!」
「ベタなことするね」
「そりゃあ、定番でしょー。望月くんもやろうよ」
「生憎、僕はステレオタイプじゃないんだ」
「すてれお? 随分と古いもの買うね」
「買ってないよ。固定観念には縛られないってこと」
「君は言葉に縛られすぎだよ。もっと他の表現を習得するべきだと思うな」
「例えば?」

 参考程度の期待も抱かず尋ねると、彼女はにっこりと笑い、僕に見せつけるように表情を近づけてきた。

「僕にはハードルが高すぎる」
「下くぐればいいじゃん」
「とんち利かせばいいって問題じゃないから」
 
 僕のツッコミを右から左に聞き流した彼女が、空になった瓶を不思議そうに眺める。

「そもそも、なんでコーヒー牛乳飲む時って腰に手を当てるんだろうね」
「諸説あるらしいよ。文化だからとか、飲み口が大きいから、バランスを崩さないように腰に手を当て始めたとか」
「すごーい! 物知り!」

 瞳をきらきらと輝かせる彼女。
 自分の持つ知識を讃えてくれるのは悪い気分ではないが、どう反応すれば良いか分からないので困りものだ。

 そのまま無言で蓋を開け、瓶に口をつける。
 シロップの甘さとコーヒーのほろ苦さが喉を潤し、長風呂で水分を失っていた身体に心地よい感覚をもたらしてくれた。

 コーヒー牛乳なんて、いつぶりだろう。

「そうそう聞いて聞いて!」

 半分くらい飲んだあたりで、子供が親に良い点数を取った事を報告するようなテンションで、彼女が切り出した。
 飲みかけの瓶を置いて、視線だけで先を促す。

「本、読み終わったよ!」

 その言葉は、これから彼女のロングレビューが開始される合図だった。

「どうだった?」
「面白かった!」
「その様子だと、相当面白かったんだね」
「うん、すっごく! 特にラストの、キリタがアスミを守るために世界に抗うシーンが……」

 そこからは、前回の映画鑑賞後の光景とほぼ同じである。
 彼女は本の感想を終始興奮した様子で語って、僕はその都度意見を返した。
 次から次へと出て来る彼女の感想に対し、僕は珍しく饒舌に口を動かした。

 不思議な感覚だった。

 これまで、自分の趣味について誰かと語り合うなんて経験は一度もなかったから、余計に。

 時間が経つごとに、僕の中で得も言われぬ高揚感が芽生えていった。

「いやー、語った語った」

 一通り語り終えた彼女が、満足そうに息をつく。

「ここまでハマってる人は初めて見た」
「ほんと? えへへ、なんか嬉しいな」
「まあ、本の話をした人間は君だけというオチだけど」
「なんだよそれぇー」

 ガクッと彼女が肩を落とす。
 彼女は苦い笑みを浮かべていた。
 そして、思い出したように言った。

「それにしても、よく内容覚えてるね」
「ん?」
「だってあの本、高校の時に読んだんでしょ?」
「ああ、いや」

 言うか言うまいか逡巡して、言った。

「再読したんだ。君が読んでる間」
「ふぇ?」

 間の抜けた声。

「まあ、なんか、どうせ読んでくれるんだったら、こっちも読んでおいて話が弾む方が、双方にとって幸福度高いかなー……と?」
 
 事実を淡々と述べているだけのはずなのに彼女の顔が徐々に俯くもんだから、僕は思わず語尾に疑問符をつけた。

「それ、狙ってやってる?」

 彼女が俯いたまま、一滴目の雨みたいに、ポツリとこぼす。

「どういう意味?」

 本当にわからなかったので説明を求めると、彼女が顔をバッとあげた。
 うお、と驚くも束の間、彼女の頰がほのかに色を帯びていることに気づき、息を呑んだ。

「なに……」
「なんでもありませんー」

 ぷいっと彼女が顔を逸らす。
 なんかまた変なこと言っただろうか不安がよぎる。

 しかしよく見ると、彼女の口元がわずかに緩んでいて余計に僕を混乱させた。

「さて、今度はわたしの番だねっ」
「へ?」

 一転、スイッチの切り替わった彼女が自分のターンだと宣言するもんだから、今度は僕が間の抜けた声を落とした。
 
「忘れたの? 漫画貸すって言ったじゃん」
「ああ、言ってたね」

 忘れてたんじゃなくて、頭がついて行ってなかっただけだ。
 
「今晩、部屋から持って来るね」
「まあ、いいけど」

 何事もなかったかのように言う彼女に、期待も嫌気もない平坦なリアクションを返しておく。
 
「よし!」

 彼女は満足げに頷いた。

 その後は二人でまったりした。
 
 駄弁ったり、テレビ番組をネタに駄弁ったり、駄弁ったり。
 毎度のごとく会話の主導は彼女で、僕は終始受け答えに徹した。

 身体の大きさはそこまで変わらないはずなのに、このべしゃりの保有量の差はなんなんだろうか。

 しばらくすると、不意に瞼が重くなってきた。
 坂道を登ってきた疲労と、湯上りの心地よさが合わさったのだろうか。

「ふあ……」

 思わずあくびをしてしまった僕を、彼女は見逃さなかった。

「あや、なんか疲れてる?」
「ちょっとだけ」
「お仕事頑張ってるもんね。荷物は見ておいてあげるから、寝てていいよ」

 彼女らしからぬ、優しい声。

「でも」
「私のことは気にしないで。スマホもテレビもあるし」

 言って、自身のスマホを見せてくる。
 その言葉に甘えたいと思うくらいには、眠かった。

「……30分経っても起きなかったら、起こして」
「おっけー! あ、なんなら私が膝枕してあげよっか」

 悪戯っぽい笑みを浮かべ、冗談だとすぐわかる提案をしてくる彼女。

「いらない」
「あらざんねん。女子高生の膝枕なんてなかなか無いチャンスだと思うのになー」
「こんな大衆の前で異性の膝を借りるとか、僕からすると地獄でしかない」
「人のいないところだったらいいの?」

 いっそう笑みを深めて、意地悪な問いを吹っかけてくる。

「どういうつもりで言ってるの、それ」
「べつにい? 深い意味はないよ。それで、どうなの?」

 言う割には、問いを取り下げる気はないようだ。

「……あくまで推測だけど、異性に免疫のない僕が、女の子の膝を借りるとかえって寝れなくなる」
「あら、可愛い」

 くすくすと、彼女が朗らかに笑う。

 そもそも、そんな仲じゃないだろう、という胸に湧いた意見はしまっておいた。
 なんとなく、口に出さないほうが良い気がした。
 
 会話を中断させる意図で、僕さっさと上半身を倒す。
 頭の下に座布団を敷いて横になると、畳の匂いが濃くなった。
 子供の頃、祖母の家に帰省していた時のような懐かしさを覚えた。

 目を閉じ、30分で起きるぞと念を入れる。

「おやすみ~」
 
 彼女の呑気な声を最後に、意識を微睡みの中に沈めていった。

 夢は見なかった。
 
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