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第38話 変化と再遭遇

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「昨日頼んだ予算会議の進行資料の件なんだけど」

 午後の業務に取り組んでいると、隣の席の奥村さんが椅子をこちらに回して切り出してきた。
 キーボードを叩く手を止めて向き直る。

「あ、それでしたらちょうど今、チャットでお送りしました」
「おっ、速い。確認するわね」
「ありがとうございます」

 作業に戻る。
 今日は調子が良く、キーボードを叩く指先に勢いがあった。

「望月くん」

 首だけ動かす。
 奥村さんが神妙な顔つきをしていた。
 僕はすぐさま身体を回し、やらかした際には絶大な効力を発揮する言葉を口にする。

「申し訳ございません」
「なんで謝るの」

 くすりと、奥村さんが口に手を当てる。

「なんかミスでもしたのかなーと」
「あら、そんな顔してた?」

 片手を顔の前に立てて「ごめんねっ」と冗談交じりに笑う奥村さん。
   僕は少しだけ気を緩めて、奥村さんの次の言葉を待った。

「資料自体は良くできていたわ。ただ」

 ディスプレイに資料を表示させ、こちらに向けてくる。

「なんか、いつもとレイアウトが違うように見えるのだけど、なにか変えた?」
「あー……はい、変えました」
「やっぱり。どうして?」
「その方が見やすいかなーと」
「ふうん」

 奥村さんは腕を組んで、ディスプレイを見つめた。
 背筋がピンとなるような緊張感があった。

「こことここは一つに纏めた方が良いかな。後この部分は関数で計算式入れた方が、数値を入力する度にいちいち計算しなくていいからもっと効率が良くなると思う」
「あっ、確かに。仰る通りです」

 流暢な声の一言一句に耳を傾けながら、いそいそとフィードバックを書き留める。
   『お叱りフォルダ』と題されたメモ帳はそろそろ1万文字に達しようとしており、随分と溜まったなぁと我ながら感慨深く思った。

「望月くん」

 顔を上げる。
 奥村さんは、テストで100点をとった息子に向けるような笑顔を浮かべていた。

「とても見やすかったわ」

 身体がふわっと浮くような感覚がした。
 褒められるとは思っていなくて、言葉がワンテンポ遅れてしまう。

「……ありがとうございます」

 なんだか居心地が悪くて後ろ手で頭を掻く。
 奥村さんは上機嫌だった。

「あっ、でも」

 奥村さんがピンと人差し指を立てる。

「なにか変更を加えた際には、補足説明を添えておいた方がいいと思うわ」
「確かに。説明を入れておかないと、今回のようにコミュニケーションコストがプラスされて時間を取らせてしまうことになりますね」
「そっち? えっと、それもそうなんだけど……」

 困ったような笑みを浮かべたあと、奥村さんは両拳を胸の前で握って言った。
   
「こういう素敵な気遣いは、周りにもっと見せていかなきゃ」

 気遣い。
 言われて、胸の奥がむず痒くなった。

「あの、このくらいは別に見せるまでもない気がするのですが」
「でも、見せてくれなきゃそもそも何も言いようが無いじゃない?」
「それは確かに、そうですが」
「とりあえずアピールしてみて! それがよかったら褒める、よくなかったら指摘をする。何も言わない、見せないのは、成長のチャンスを無駄にしてしまう事に繋がるわ」

 言って、奥村さんはにっこりと笑った。
 
「確かに、仰る通りです。以後、そうします」
「うん、お願いね」

 満足そうに頷いてそのまま、奥村さんが明後日の話題を放つ。

「そういえば、お隣ちゃんとは順調?」
「えっ、あー……はい。今のところは」

 寝起きにバスケットボールをパスされたような気持ちになりながら、曖昧な返答を口にする。

「ふふっ、だと思った」
「どうしてわかるんです?」
「んー」

 資料が表示されたディスプレイを見やった後、奥村さんは悪戯っぽく笑って言った。

「女の勘?」

 よくわからなかった。


◇◇◇
 

 今日はテンポよく仕事を終えたため、いつもより早く上がることができた。
 時間に余裕ができたので、帰りに寄り道をしようと思う。

 改札を出た後、まずはスーパーへ。
 ひんやりとした匂いを感じながら2リットルの緑茶と甘味品を購入。

 そのままの流れで書店に寄る。
 最近はすっかり読書の時間が減ってしまい、読みきるまでの時間が長くなっているため、今日は久しぶりの来店だった。
 紙とインクの匂いに懐かしさを覚えつつ、お馴染みの文庫本コーナーに移動する。

 今日は何を買おうか。
 一気に買うと彼女から小言を頂戴するので2冊くらいに留めておこう。
 なんてことを考えていると、どこか既視感のあるパンダのリュックを視界に収めた。

「あ」

 頭の中でいくつかの要素が繋がって、思わず声を漏らしてしまう。

 文庫本を物色していた先客が僕に気づく。
 ぱつんと切った栗色の前髪を揺らし、首をこちらに向けた少女の瞳はとても眠たそうだった。

「久しぶり、ですねー」
 
 ふわふわとした、のんびり気な声色。
 聞き覚えのある声だった。

「えっと……」

 まごついていると、少女は文庫本を本棚に戻し、トコトコと側までやってきた。
 ブレザー制服を着た随分と背の低い少女に、下から見上げられる。

「忘れちゃいました? 私のこと」

 小首をかくんと傾げて、半開きの目をじっと向けてくる少女。
 
 僕は首を振った。
 覚えている。
 忘れたわけではない。
 ただ、頭に浮かんだポップな呼称を、現状の関係値で放っていいものかどうか迷っただけだ。

「本名、知らない」

 そう端的に言うと、少女は柔らかい笑みを浮かべた。

「ゆーみん、でいいですのにー」

 少女──彼女の親友さんは言うが、その言葉には甘えなかった。
 人を本名で呼ぶことすらままならない僕が、ニックネームを口にするのはもっと憚られた。

「本、好きなの?」

 ふと、気になって尋ねる。
 親友さんは人差し指を頰に突き刺して、むーと考え事をするポーズ。
 
「読むのも好きですけど、雰囲気のほうが好きですかねー」
「雰囲気?」
「ですです、本屋さんの」
「ああ」

 その気持ちはわからないでもない。
 妙なシンパシーを感じていると、親友さんが口角をあげたまま尋ねてきた。

「望月さんもここ、よく来ますよね?」

 言われて、僕の中にあった予感が膨らむ。
 以前、映画館で初めて親友さんと遭遇した時、どこかで見たことあるなーと引っ掛かりを覚えたパンダのリュック。

「僕を視認したことがあるの?」
「視認って」

 くすくすと、親友さんが控えめに笑う。
 笑う要素、あっただろうか。

「ひよりんの言った通り、面白い人ですねー」

 一体どんなことを吹き込まれたのだろう。
 変な印象を持たれてないといいけど。

「望月さんが私に気づいたことはないと思いますー。私はよく見かけてましたけど」

 やはり親友さんとは、何度かこの書店で空間を共有していたらしい。
 そういえば、前回来店した際も視線を受けた覚えがあった。
 時間帯も、ちょうどこのくらいだった気がする。

「今日は、何を買いに来たのですー?」

 合点がいってするりとした気持ちに浸っていると、親友さんが覗き込むようにして訊いてきた。

「まだ決めてない」
「そうですかー。じゃあ、気にせずごゆっくり」

 言うと、親友さんは身体を僕の前から一歩退けた。
 退けただけで、その場から立ち去りはしなかった。

「えっ」
「私のことは気にせず、ご満喫くださいー」

 親友さんが冗談を言っているようには感じなかった。
 仕方がなく、僕は本棚と向き合う。

 じ~。

 あらかじめ目星をつけておいた文庫本を何冊か手にとる。

 じ~~。

 あらすじや序盤の数ページに視線を走らせながら、今の自分の気分にあった物語を選定……。

 じ~~~~~~~~~。

「あの、選びづらい」
「あっ、ごめんなさい。つい見入っちゃってて」
「視覚を楽しませるコンテンツになった覚えはないんだけど」

 言うと、親友さんは口を押さえ身体を震わせた。
 さっきからなににツボっているのだろう。

「ごめんなさい、私、ユニークな表現とかに弱くて」
「狙ってやっているつもりはない」
「ありゃ、それはさらにごめんなさいー」

 ぺこりとお辞儀をする親友さん。
 
「じゃあ、私は後ろ向いてるんで、のびのびと」
「いや、そういう問題ではなく」
「ふむん?」

 不思議そうに、親友さんは小首を傾げた。

 なんだろうこの、どこぞのお隣さんと被る感じ。
 別の方向ではあるけど、親友さんも相当なマイペース家らしい。
 だから彼女と馬が合うのだろうと、勝手に納得する。

「望月さんとは趣味が合いそうですねー」

 僕が手にとった本を見やりながら、親友さんが嬉しそうに言う。

「ミステリー、好きなの?」
「好きですよー。西野先生とか井坂先生とか、有名どころは一通り抑えてますー」
「そのあたりは鉄板だね。というか、『先生』呼びなんだ」
「そりゃあ、私たちの日常にワクワクと感動を与えてくれる方たちですから。たくさん尊敬してます」
「なるほど」

 ささやかながら、僕は親友さんに好感を持った。
 その点に関しては同じ考えだったし、見えない相手に対してもちゃんと敬意を払う人なんだと思った。

「その言葉、どっかの誰かさんにも聞かせてあげたいよ」
「ひよりんにです?」
「うん。でも彼女、そもそも本読まないからなあ」
「そんなことも、ないと思いますよ?」
「え?」

 同意を得られると思っていたので、親友さんの返答は意外だった。

 どう言う意味?
 僕が尋ねる前に、親友さんはスマホを取り出し「あっ、もうこんな時間」と声をあげた。

「私、このあと予定がありましてー」

 親友さんが申し訳なさそうに眉をへの字にする。

「あ、いや、別に呼び止めているわけじゃないから」

 というか、むしろそっちから絡んでこなかったっけ。

「お邪魔してごめんなさいです。私は退散しますので、あとはごゆっくりとー」
 
 ぺこりと頭を下げたあと、親友さんはくるりと回って背中を見せた。
 そしてこちらに首を回し、くすりと笑う。
 
「また機会がありましたら、ゆっくりお話ししましょうー」

 そう言い残し、親友さんは栗色の髪を揺らして足早に去って行った。

 一人取り残された僕は、しばらく親友さんの言葉の意味を考えた。

 よくわからなかった。
 
 まあいいかと考えを頭の外へ追いやって、本を選定する作業に戻る。

 今日は購入に至るまで、いつもより時間を費やしてしまった。
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