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第35話 ぬくもり

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「寝る前に少し、抱擁をしませんか」

 月明かりぼんやりと照らす薄暗い部屋の空気を、ヒストリカの声が揺らす。

「ほう……よう……?」

 ごそごそと毛布が擦れる音。
 ヒストリカの方を向いて、エリクが初めて聞いた言葉みたいに言った。
 
「昨日したやつですよ」

 エリクの方を向いてヒストリが言う。

「それはわかるけど……どうして急に?」
「抱擁の効果は昨日話した通りです。今日一日仕事をしていて精神的な疲労が溜まっていると思うので、抱擁で少しでも緩和できればなと……あと、エリク様はまだ、交感神経と副交感神経の切り替えが完治していないでしょうから、スムーズに眠りに入るためにもした方が良いと考えます」
「な、なるほど……あくまでも身体のため、ってことね」
「第一の優先は身体のため、ではありますが……」

 そこでヒストリカは言葉を切って、しばらく沈黙した後。

「なんと言いますか……私がしたくなったといいますか……」

 小砂利のように淡白ないつものとは違う、ほんのりと感情を乗せた声。
 含まれている感情は、恥じらい、戸惑い。

 ヒストリカ自身、なぜそんな欲求を抱いたのかわかっていない口ぶりだった。

 沈黙。
 なんとも言えない空気が漂う。

「……変なことを言いました、申し訳ございません。嫌とかですよね、忘れてください。先ほど欠伸をしてらっしゃいましたし、抱擁しなくても自然に眠れるとは思いま……」
「ううん」

 衣擦れの音と共に、エリクが動いた。
 ヒストリカに身体を寄せて、腕を伸ばす。

「嫌じゃないよ」

 ぎゅっと、その小さな身体を抱き寄せた。

「……ほんとう、ですか?」

 伺うようにヒストリカが尋ねる。

「本当だよ。らしくない理由だったから、ちょっとびっくりしたけど……僕も、ヒストリカとこうしたかった、と思う……」

 ヒストリカと違って、分かりやすく恥じらいを滲ませるエリク。

「そう、ですか……」

 おずおずとエリクに身を寄せ、自分よりも大きな身体に腕を回すヒストリカ。

「それなら、良かったです……」

 安心したように言ってから目を閉じ、ヒストリカは深く息をつく。

 エリクのぬくもり、存在を感じる事によって、胸がじんわりと温かくなる。
 心なしか速い心音が鼓膜を震わせ、エリクから漂うほのかに甘い香りが鼻腔をくすぐる度に、精神がどんどん落ち着いていった

 昨日は治療目的という事もあって余裕を感じる暇がなかったが、誰かに抱き締められるという状態は守られている感じがして落ち着くというか、言葉に言い表せない安らぎをもたらしてくれた。

 今までずっと、一人だった。
 両親から与えられたのは、愛の名を借りただけの攻撃的な感情で、安らぎを感じる暇はなかった。

 だからこそ、はっきりとした実感を伴って身を包み込むぬくもりに、ヒストリカは大きな安心感を覚えた。

 今になって、気づく。

 なぜ自分が先ほど、エリクに『私が抱擁をしたくなった』と願い出たのか。

(温もりが……欲しかったのかも、しれませんね)

 人間味が少ないとよく言われる自分が月並みな欲求を残していた事に、ヒストリカは一抹の驚きを覚えるのであった。
 
 優しくて、ゆっくりとした時間が流れる。

 抱擁には絶大なリラックス効果があるようで、今日一日の疲労がじわじわと溶けいく感覚をヒストリカは感じ取っていた。

「今日も一日、お疲れ様でした」
「ううん、ヒストリカも……本当に、色々ありがとうね」

 労わるようにかけられた声が、ヒストリカの胸を温かくする。

「こんなにも気を遣ってくれるのは、久しぶりでさ……凄く、嬉しかったよ」
「お気になさらず。妻として当たり前のことをしたまでで……」

 そっ……と、エリクがヒストリカの頭に触れた。
 ヒストリカの肩がぴくんと震えるも構わず、大きな手がゆっくりと髪を撫でる。

「それでも、感謝してる」

 エリクの声が、頭をじんじんと揺らす。

(なんでしょう、これは……)

 色々と、凄い。
 触れるか触れないかの力加減で優しく撫でられる度に、全身の力という力が抜けていく。

 こんな感覚は、初めてだった。

「……大丈夫? 嫌じゃない?」
「嫌じゃない、です……むしろ……」

 エリクの手に、頭を擦り寄せて言う。

「良い感じかもしれません……」
「ふふ、そっか」

 そう言うエリクはどこか嬉しそうだった。

 普段はどこか頼り無さげなエリクだが、よりにもよってこんな時に男らしさを出してきている。
 そのギャップに、ヒストリカの思考は見事に乱された。

 先ほども言った通り、昨日の治療行為を除くとヒストリカの男性経験は手を繋いだ事くらい。
 強い精神を持ち感情の起伏は少ないヒストリカだが、人並みに恥じらいはある。

 異性に抱き締められて頭を撫でられるというこの状態は、端的にいうとヒストリカには刺激が強すぎた。

 自分の意思とは関係なく顔が熱くなっていく。
 不整脈を疑うような奇妙な鼓動を心臓が刻んでいる。

 このような感情を抱いた事が乏しいヒストリカは、動揺した。
 おおいに、戸惑った。

 しかし同時に、心地よい疲労と、エリクに撫でられていく度に増えていく安寧が、ヒストリカに眠気をもたらした。

 動揺と、安心。
 その二つがせめぎ合った結果、僅差で後者が先頭に躍り出た。

「……ヒストリカ?」

 エリクの声が遠くに感じる。

 微かに口は開くも、そこまでだった。
 思考がぼんやりしていて、言葉が頭に浮かばない。

 今日一日の疲労と、エリクがもたらしてくれた睡眠欲に抗えず、ヒストリカは意識をゆっくりと手放した。
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