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閑話
恋慕は時を止める
しおりを挟む俺はカイリが三十歳の時に生まれた。
獣人の成長は、カイリの成長速度よりもうんと早い。
種族によっては生後半年で初めての発情期を迎えるものもいる。
斯く言う俺も五歳の頃にはカイリの背を追い抜いていたし、十歳で
初めての発情を迎えた。当時、獣人はカイリが十八から二十五歳までで
産んだ五人だけだったが、その子の一人が龍種の父と番い兄が生ま
れた。父は兄の母とは別に精霊を伴侶にしていて、それが俺の母親だっ
たが、俺は獣人の子として精霊には受け入れられず、父、兄の元で育て
られた。当時は、番や伴侶と言っても子を成すためだけに幾月か閨を
共にするだけで、生活を伴う事はなかったため、私はカイリと出会う事
無く十五歳までを父、兄、義母と野山で暮らした。
四十五歳で帝位を得たカイリは、より子孫を増やす事を王配の
テュルケットに強要され、側妃を迎える事となるがその白羽の矢が
立ったのが、繁殖力の強い龍種の兄だった。
兄は複数の育成帯を持ち妊娠期間の長いカイリに代わり百人近い子供を
産んだ。彼等の子供は各地に散って、番い、子を儲けてどんどん獣人を
増やしていき、たったの五十年で現在の獣人種族の原形を作り上げる
事となる。
初めて皇城に上がったのは兄とカイリの婚姻の儀の時だった。
俺はまだあの時の事を今も鮮明に覚えている。
黒豹の毛皮で出来た床を覆う程長いローブに、鰐皮のアーマーベスト、
魚人の鱗で出来たタイトパンツに、妖精族の紡ぐ糸で織り上げられた
総レースのホーズ。そして、細い身体に何故かピッタリと吸い付く様に
寄り添う太めのロングソードを帯刀し、威風堂々たる姿に俺は震える
心を抑えられなかった。
「貴方が、フェルファイヤの弟のジジ君ですね?初めまして。君の祖母で、君の義兄になる…カイリ•タイレーンだ。君の家族を私のテュルケットの我儘に振り回して申し訳ないと思っているよ。だけど、大切にするから、心配ない。私はこの世界も愛しているからね…」
優しく微笑む彼は早朝の涼やかで、瑞々しい空気そのものだった。
心が、意識が、本能がこの方に全てを捧げろと叫ぶのが、幼い俺にも
分かる程に魅了されていた。
「兄様、兄様‼︎ 兄様もカイリ様に取られちゃったの?」
バクバクと煩い心臓を抑えながら、兄の足元で俺は羽をバタつかせて
聞いた、「心を奪われたのか」と。
「…そうか、お前もか?俺もだよ。あの方は祖母にあたるが、私の初恋で、妻では無く最愛の夫となった。お前も、いつかカイリ様と結ばれるといいな。」
兄の幸せに満ちた笑顔に、俺も『いつか』そう思っていた。
兄が死んだのは、俺が三十を過ぎた頃だった。テュルケット神と
カイリの性格は元々合わなかったが、彼がテュルケットに逆らう事は
無かった。そんなカイリが一度、テュルケットの命令を無視した事が
ある。
『城にいる間は日が変わるまでに部屋に戻って居る事』
カイリは、兄の子が欲しいという願いを叶える為に兄の部屋で過ごし
たが、部屋に戻らず朝まで睦み合っていたという。それがテュルケット
神の逆鱗に触れた。
王配のテュルケット神の嫉妬が苛烈なのは誰もが知る所だったが、
その日のテュルケット神はカイリが兄の元に向かう事を、決して許さな
かった。カイリも、後々の面倒事を忌避してか正式な面会要請が無け
れば会わずに、手紙のやり取りで兄の体調などを気遣った。
そして兄も、その気の強さからかテュルケット神からの嫌がらせを
カイリに知らせる事は無く、ゆっくりと窮地に立たされてゆく。
「卑しくも、カイリの子をまだ孕みたいか?」
「この世界は始まりを終えた。もうカイリの子を孕む必要はない」
「死ぬか、城を出るか。どちらかだ」
兄を脅すテュルケット神は、神ではなく嫉妬に狂う一人の男の顔を
していたと、兄と仲の良かった側妃の一人が泣きながら言っていた。
そして、カイリが賊の討伐へ向かったその日、退去を拒んだ兄は
カイリの寵を独占し、後宮の秩序を乱したとして神罰が下され
殺された。
討伐遠征から帰投したカイリは、兄の死を聞くと泣き崩れ、いく日も
部屋から出てこなかったと言う。そして、狂ったように戦を仕掛けては
反乱分子を掃討し、帝国統一をたった一ヶ月で成し遂げた。
それから半年後、兄の埋葬の時見たカイリの姿は見るに耐えない物
だった。兄の死後、カイリは側妃を娶る事も、閨を共にする事もテュル
ケット神との関わりを避け、主神としてテュルケットを祀ると決めると
王配と側妃達を排した。
テュルケット神もカイリの側に妃を置かぬならと、カイリの要求を呑み
神殿へと居住を移す事となる。
それから俺は側仕えとしてカイリより召し上げられ、側には俺だけと
なり、カイリの慰めとして侍従となり側に在り続けた。
カイリからは加護や権能など、兄に出来なかった寵愛を与えられたが、
決して俺を受け入れてはくれなかった。
「ジジ、私が死んだらこれを私と供に燃やしておくれ。決して埋葬はするんじゃないよ?」
カイリは百二十歳を過ぎ、髪は白く、顔には深い皺が刻まれ金の瞳は
黄土色にくすみ、我々では考えられぬ程に老いていた。
カイリは懐から出したボロボロの小さな香袋を俺に渡すと、決して
テュルケットには渡すなと念を押した。
「カイリ様、俺は決して貴方を死なせませぬ。永遠にお側に…」
カイリの皺だらけの手は、いつだって暖かく優しかった。その手が
俺の頭を撫で、抱き寄せた。
「私はね、もう帰りたいんだ。唯一還りたい場所へ…」
「それ…は…どこですか?私がお連れします。」
眉を下げ、困った顔をしながらカイリは教えてくれた。
「私が還りたいのは天に座す夫の元だ。彼の元に還りたい。そして還りたくもない…分からぬな…」
「…天に…伴侶がいらっしゃるので?」
「あぁ、彼の枷になりたくなくて…それに、彼の執着から逃げたくもあった。穢れた身で側には…天界には居られなかった。何処に居ても人の子は調和を乱す。だから、私は神としての私を殺したテュルケットと供に下界へ降るしか無かったんだ。でも、いつだって…夫の元へ戻りたいと…自殺をすれば天界へは還れない。だから、殺され赦される日をずっと待ち侘びていた…けれど誰も殺してはくれない…その代わりに大切な物が奪われ続けた。フェルファイヤは良き友で、戦友で、心の支えだったよ…私の天帝への想いをいつも慰め愛してくれた。最後にこの世界で一度として言うつもりのなかった言葉を伝えたいと思ったのは…ジジ、君の兄フェルファイヤだけだったな…。」
「なんと…伝えたかったのですか?」
「……この世界で、愛したのはお前だけだったと。供に夫に仕えて欲しいと。」
遠く地平線を見つめる瞳に私は映らない…兄を羨み、何故私を見ないの
かとカイリに縋りつきたい想いを殺すのに、どうしようも無くて俺は
小指を一つ駄目にした。
「何をしているんだジジ‼︎」
ボキリ、グチャリという音に振り返ったカイリは、俺のちぎれた小指を
拾って見上げていた。
「貴方を愛したのは兄だけではない、俺も…百年近くもの間、貴方だけを愛してきた…。孫でも義弟でも侍従でもなく、一人の男として愛してきた。報われなくても良い、側に居れるならそれで良いと思ってきた。」
「こんなに苦しい思い、指をちぎっても癒えない…どうすれば良いのです…全ての指を切り落としても、身体を傷付けても癒える筈が無いんだ、貴方でしか癒せないのだから。」
泣き崩れる俺をカイリは抱きしめ『すまない』と太陽が沈むまで囁き、
涙を拭ってくれた。
彼が亡くなったのは、冬の終わりだった。
窓を開け放ち、衣服を脱ぎ捨てベットで横たわる彼は真っ白な魔粒子に
包まれ、キラキラと輝いていた。眠っているのだと思って声を掛けたが
その安らかな顔に、彼が俺を置いて旅立った事を知る。
そして、その固く握った手にはただ一つ俺の小指があった。
その手に握られている小指にすら嫉妬して、泣き叫び身体を傷付け
続け、俺は魔粒子核を自分で潰すが死ねなかった。
『カイリの側に侍る事は今世も来世も無いと思え』
牢で目を覚ました俺にテュルケット神は言い捨て嗤う。
俺の気持ちを知っていたテュルケット神は呪いを掛けて牢に繋ぎ、
死ぬ事を許さなかったのだ。けれど、彼の願いを叶えられるのは俺
だけだと持てる力の全てを使う事にした。
カイリの埋葬の日、彼の願いを叶える為に俺は夜中に獣体化し、
抜け出し一人彼の棺に香袋を隠し、彼の魔粒子核と一房の髪を奪うと
燃やして逃げた。
彼からの加護と権能のお陰でこの世界にまだ俺は生きていて、いつも
待っている。それは彼が握った小指を彼からの約束だと信じている
から…だから、俺は絶望した。
折角戻ってきた魂が俺を覚えていない事に。
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