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二人を繋ぐ誓約 5 & エピローグ
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「まあぁっ、あの魔法はっ! もしかして古代魔導語での……」
「初めて見ましたわっ、緻密な魔法陣ですわねぇ」
今や使い手など稀有な古代魔法。
言語が変わり、効率重視の風潮が高まって略式魔法が普及した今は魔導王国カラートでも実践できる魔導士はほぼいない。
虹色に輝く魔法陣を目にした人々は、驚きの声を上げた。二人を見守る王女たちも例外ではない。
「この魔法式はっ……誓約魔法かしらっ?」
「そのように見えますがーーにしては、微妙に魔法陣が……」
興奮した憶測が飛び交う中、王女の問いにファリラも目を凝らしている。カリッサ皇女は首を傾げた。
「古代魔法の誓約魔法陣に違いないが、さらに何か……いや待て……あの方式はごく最近どこかで……?」
皇女だけではない。大勢の令嬢たちが既視感を覚えて、こんな複雑な魔法陣をどこで見た?と記憶を探りはじめた。
好奇な視線が集まる中、イザベルは呆然と立っていた。
頭上で光る虹色の魔法陣はイグナスが唱えた呪文で現れた。そう、忘れもしない。
ーーこれって、初めて結ばれた夜に誓ってくれた魔法の……
「”我が心を捧げし愛しのイザベル”……覚えているか? この魔法は二人で誓い合えば完成形にもなる。その可愛らしい唇で誓ってくれるか。私のすべてはベルのものだと」
「っ……!」
ーーって、今? 今ここでなのーーっ?
跪いたイグナスに手を握られたイザベルの頭は真っ白になった。
なんという強引さ。おまけにデリカシーがないにも程があるっ!
古代魔法が廃れた理由の一つが、その成功率の低さだ。オマケにこの誓約魔法は失敗すると試みた両人の関係が微妙になりかねないから、ごくプライベートな儀式とされていたはず。
まさか王城の大広間のど真ん中で、それもこんな大勢に囲まれたこの状況で、やらかすはめになるとは思ってもみなかった。
「……ベル? どうした。覚えているだろう? 私の正式名と、それに魔導呪文だ」
覚えている。覚えているのに。頭はフリーズしたまま働かない。
「あ、あの……もちろん覚えていま……すわ……」
だって気になって後で古文書をひっくり返して調べた。だから互いに誓う意味もわかっているつもりだ。
珍しく言葉を失ったイザベルに、跪いた姿勢からイグナスはスクッと立ち上がった。
すると人々の輪にどよめきが広がる。男が女に跪いて乞うなどその目的は明らかなのに、真紅の令嬢は一向に言葉を発しない。まさか古代魔法の誓約魔法を使ってまで誠意を示す帝国騎士の求婚を断るつもりかーー?
人々の懸念が膨らんだ次の瞬間、誰もが早とちりだと思い知った。
「っイグナス様⁉︎」
「大人しくしろ。こう言えばよい」
掬い上げた身体に唇を寄せ、イグナスはその耳にそっと囁いた。
それはかつて神聖視された古き魔法の呪文。単に魔力を操る略式魔法と違ってその誓いは術者の魂に刻まれるゆえに縛りが強く、一生解けないシロモノだ。
だからこそ、重婚や離縁が珍しくない昨今においては古代魔法の誓約は廃れてしまった。
虹色の輝きを特徴とする魔法の物珍しさに、庭園からも賓客がぞろぞろと詰めかけてくる。
ーーああ、もうダメだわ。
ここまで来たら後戻りなどできない。イザベルは覚悟を決め、すうと息を吸い込んだ。
「”わ、我が魂を捧げしイグナス……愛しい人。我が言葉は言霊、心と魂と共に未来永劫この命が果てるまで、この誓いを違えることはない。与えられたこの身のすべてを以て、イグナス・アルトゥス・ビストルジュを我がものとする”」
震える声でイザベルが唱え終わった途端、今度はその頭上に新たな魔法陣が現れた。眩い光を放ちイグナスの魔法陣と重なり融合して、光の粒が二人へと降り注ぐ。
ワアーと人々から歓声が上がった。
「成功だな」
美麗な顔の口端が上がり綺麗な弧を描く。イグナスはまさにしてやったりとばかりだ。
一方で、イザベルは見えない鎖でイグナスとがっしり繋がれた感覚をひしひしと感じていた。
ーー何なのこの、お互いの生殺与奪権を握ったかのような感覚は……?
隷属魔法の鎖でさえ、こんなアブない感じはしなかった。
死が二人を分つまでどころか、死を二人で分かちあう誓約を交わした実感にゾクっとする。
人々は目を輝かせ拍手喝采だ。特に妙齢の令嬢たちの反応が顕著で、「勇者が」どうとか小さな叫びがあちこちで上がっている。貴婦人方でさえ興奮したように何かを熱心に囁きあい、それは王女たちも例外でなかった。
「そうっ、これは『天空の勇者と麗しき聖女』ですわっ」
……カラート王女が口にしたのは、巷で密かに人気のヒストリカルロマンスのタイトルだった。
「っ! どうりで見覚えがあると思ったが、そうだ挿絵に描かれた魔法陣か……」
シルタニア皇女もすかさず大きく頷いた。ファリラとレティシアも光の粒になって消えてゆく魔法陣に憧れの眼差しを向け頬を染めて両手を取り合っている。
「……結魂の儀を交わしたのですね……」
「これはぜったいにーー婚姻よりも素晴らしい約束ですわ!」
貴族の結婚は家同士の都合で結ばれる。生まれ持った義務から逃れられない令嬢たちは、愛し合って結ばれる恋愛結婚に憧れるが、それは王女や皇女も例外ではない。
古代魔導呪文は、そんなヒストリカルロマンスによく登場する魔法だった。一度誓えば、死を持ってでしかその誓約は破れない。一生涯破れない約束と深い献身が要求されるこの魔法は時代に埋もれつつあっても、観劇や小説という文化で絶滅を逃れている。
「魂を所有し合う……相手のすべてを自分のものにできる契約魔法ですわね。二人の無条件の愛が発動条件なために、成功事例はほとんどなし。魔力や生命力さえ相互交換が可能な誓約なんて命を捧げるも同然ですもの」
「自分の命を縮めるかもしれないのだぞ。いくら愛があっても普通は同意できまい……イグナスめ、思い切ったな」
興奮気味な皇女は、古代魔法がもたらす思いっきりヘビーな契約に目を曇らせた。
「メローズ嬢は大丈夫だろうか。意味も知らされずに唆されたのでなければよいが……」
「イザベルは古代魔法にも長けております。それに、納得いかないことに頷きはしませんわ。この誓いは彼女の意思で受け入れたとみて間違いありません。でなければ魔法は発動しませんもの。私が保証いたしますわ」
ファリラの自信を裏付けるように、イグナスがイザベルを抱き上げたまま近づいてきた。
二人はしかしどうやら、言い争っているらしい。
「心臓に悪いですわ。こんなところでいきなり執り行う必要があったのですか?」
「いいではないか。どこであろうとも」
「ともかく、下ろしてくださいな」
「必要ない」
「普通に歩けますわ」
先ほどは驚いてしてしまって、身体が言うことを聞いてくれなかった。失態を恥じるイザベルはショックを乗り越え平静に戻っていた。
イグナスもさすがにカリッサや王女の前まで来ると歩みを止めた。その隙にイザベルはさっと足を下ろす。
「なんだ、もう終わりか? 存外見れるものであったな」
カリッサ皇女の軽口をものともせず、イグナスはにっこり笑った。
「お目汚しでなければ、続けたいのはやまやまですか。そろそろ引き下がろうかと」
「また”唐変木”などと罵られはしないかと気を揉んだぞ。古代魔法まで引き出しおって。話題を攫ったことは否めないが、少々強引ではないか?」
「うまくいったのですから、万事よしとしましょう」
ご機嫌なイグナスには悪いけれど、結婚の承諾をした覚えはない。誤解されたままではマズイと、イザベルは思い切って事実を告げることにした。
「恐れながら、殿下、発言をお許し願います」
「うむ、許す」
「例の申し込みに関しましては、返事はまだ保留とさせていただいております」
イザベルの思いがけない言葉に一同は目を見張った。
「っ⁉︎」
「イグナス、これはどういうことだ?」
笑顔のまま、イグナスもイザベルに向き直った。
「イザベル嬢。私と交わしたばかりの神聖な契約を、さっそくもう破られるおつもりか?」
麗しい笑顔はだが、目がまったく笑っていない。
命が惜しくないのか。さっさとイエスを言え。そう圧をかけるマリンブルーの瞳にもイザベルは怯まなかった。そんな脅しはもうイザベルには通じない。彼の本心を知っている今は。
「婚姻については、まだ同意しておりませんわ」
簡潔に事実だけを述べた。
「私とて、イタズラに返事をはぐらかせているわけではござません。結魂の儀も交わしたのですから、閣下の意に沿うつもりはございます。ですが…もう少し時間をいただきたいのです」
「……まあアレだ、私の側近の以前の振る舞いや、先程の強引さを顧みれば……令嬢の心情も分からぬではない」
寛大な皇女の賛同はとてもありがたい。だって本来なら許されない我儘だ。イザベルはかしこまり黙って目で礼を告げた。
……多分、イグナスが大蛇だった頃の思い出がなければ、とっくに承諾していた。
どういう経緯にしろ、これは個人の感情で左右されるべき婚姻ではない。
けれども。彼の優しさや人柄を心から愛してしまったからこそ「はい分かりました」と受け入れるのは言いようのない不安がある。ーーまた何かが起こって、自分には何も知らされないまま守ってもらうだけの事態は繰り返したくない。
イグナスの気持ちは分かっているけど、この縁組は国を跨ぐ政略結婚でもある。養子縁組で埋める身分差など、突貫工事による不安要素もあって予想もつかない思惑で自分たちの婚姻などあっさりひっくり返るのではないか。
顔には出てないはずなのに、その不安を感じ取ったようにイグナスはイザベルの腰に手を回しそっと側に引き寄せた。
「分かった」
思いがけず優しい声音に驚いて、思わずじっとイグナスを見つめ返した。
「ならば私たちは、このまま失礼して退席させていただきます」
辞去の挨拶を述べるイグナスに、カリッサは片眉を上げた。
「そんなに急くとも、まだ夜は長いぞ。夜会もたけなわではないか」
「だからこそです。今ここで退去すれば、色々と噂が立つのでは?」
「……小賢しいが、的を得ておるな……」
ふうと息を吹き出した皇女に、セシリアとファリラがおかしそうに笑って同意した。
「ふふ。あとはお任せください。イザベルお姉様の英雄譚を心置きなく語らって見せますわ」
「そうですわね。先ほどから、お二人の馴れ初めを聞きだそうと待ち構えている方々がたくさんいらっしゃいますし」
たくさんの視線が、不躾にならない程度にこちらを伺っている。
この場には自国の王女やシルタニア帝国の皇女、王女付きの侍女や侯爵、伯爵令嬢まで揃った高貴な身分が集まっているから、チラチラと見るだけで入ってこようとはしないが。
「……馴れ初めだなんて、大したものではありませんわ。たまたま偶然が重なっただけで」
どうとでも取れるように、イザベルは言葉を濁す。イグナスとの出会いは、とてもじゃないが説明できない。
「ご謙遜を。お二人が力を合わせた魔法戦で、ロンサールの屋敷が跡形もなく消えたのは誰でも知っている事実ですわ」
……そういえばそっちだった、皆が信じている馴れ初めは……。けれどこの際とても都合がいいので、そのまま否定も肯定もしない。
なんとなく楽しくなったイザベルがひっそり笑うと、周りからホウとため息のようなものが聞こえた。
ーー潮時だわ。
イザベルは退席の挨拶を済まし、イグナスと腕を組んで大広間を出る。
視線を感じてふと後ろを振り返ると、人々の顔に浮かんでいるのは嫉妬や羨望というより、理解し難いといった感情だった。囁き声が風に乗って聞こえてくる。
「信じられないわ! あんな情熱的なアプローチをされて、返事をまだ保留だなんて……」
「あの麗しの貴公子様とよ……さすが魔女と呼ばれる魔導士ですわね」
イグナスの求愛は誰の目にも明らかである。片時もそばから離れず、イザベルを崇拝してやまない態度はそれはもう献身的で見ているこちらが赤くなるほどだ。
けれども、婚約発表こそしなかったが、派手に披露した古代魔法で二人の間には誰も割り込めない。この事実は王国中の貴族が見ていたし、諸国の代表も土産話とばかり本国に報告をするだろう。
「ーーイグナス様、たくさん踊ったので疲れましたわ」
「ああ、愛しい人。邸まで送ろう」
イグナスはそっと真紅の髪を一房手に取って唇をつけた。
こんな甘やかなイグナスに慣れていないから、イザベルはくすぐったいような逃げ出したいような気持ちになる。
ーーでも、案外悪くないわ。令嬢扱いも、こんな瞳で見つめられるのも……
”赤い魔女”と呼ばれる男運ゼロの子爵令嬢がシルタニア帝国へ嫁ぐのだ。
嫁ぎ先は信じられないことに帝国軍ナンバー2の地位にいるこの美貌の貴公子である。帝国の公爵家の令息でもあるイグナスの横に並び立つには、まだまだ苦難が待ち受けているに違いない。
ーーでも、一緒にいるために、すべてを乗り越えてみせるわ。
そう思ってしまう自分がイグナスの求婚にイエスと言える日もそう遠くない気がして。イザベルは珍しくクスっと含み笑いをまた漏らす。
そんなイザベルをイグナスのマリンブルーの瞳は愛おしそうに見つめた。
~~エピローグ~~舞踏会を終えて
大ぶりの枝がくねるように夜空に向かって伸びている。
不気味だが目を奪われるその巨木は、別名「悪魔の木」とも呼ばれる。
ほの白く光る魔樹は満月の光を惜しみなく浴びて、幻想的な美しさを誇るメローズ邸の庭園でもひときわ目立つその姿を見せつけるように満開の薄いピンクの花を披露している。
「おつなものだな。夜の花見に月見酒というのも……」
「こんな素敵な用意をしてくれたセバスには、心から感謝ですわ」
夜会から帰ってきたイザベルたちは、執事に勧められるまま年に一度だけの花見を楽しんでいた。
魔樹の異様に膨らんでいる根元には、ちょうど何人かが楽に手足を伸ばしてくつろげる空間がある。厚い敷物やクッションが当てられて、肌寒くなった夜にはありがたい毛布までが用意されている。
シワだらけに見えるゴツゴツした巨根は地中からうねって、地表に張り出し、それこそ大蛇のようだ。
果物に手を伸ばしたイザベルの横を、夜目にも派手なイモリがちょろちょろと根を伝い這っていった。その尻尾をひょいとつまんだイザベルは悲鳴もあげず、硬い鱗に覆われた爬虫類を邪魔にならない幹へと移動させる。
……こういうのは令嬢らしくないのだろうけど、イグナスの前でも自分を偽るつもりはない。
淡々とワインを口にしたそのほっそりした姿に、隣でグラスを仰いだマリンブルーの目元がわずかに緩んだ。実はこんなイザベルの令嬢らしくないところが、イグナスは気に入っている。
ほろよい気分のイザベルはくつろぎきっていて、幼い頃からしていたようにそのまま上半身を倒し敷物の上で寝転んだ。
大木を見上げるその瞳が楽しそうに輝く。
「イグナス様、星が降るように見えましてよ。銀穂の花もピンクに光って、なんて綺麗なんでしょう」
はしゃいだ声で夜空に向かって片手を伸ばしたら、ためらいもせずイグナスもその横にゴロンとなった。
「本当だ。星の河がはっきり見えるな。この手で掴めそうだ」
同じく手を伸ばしたイグナスの手は、そっとイザベルの手を掴んだ。
「ベル……ストライキはまだ続くのか?」
そのまま手を引き寄せ、そっと唇に当てたイグナスの声にイザベルの心臓はドキッと跳ねる。
ーー流されてはだめ、自分で決めたのだから。
「続きますわ。その……」
「今夜がゆっくりできる最後の夜なのだぞ?」
語気を荒めたイグナスだが、それでも揺らがない紺碧の瞳をそこに認めると珍しく口の端を下げた。その周りに魔法陣が現れ次の瞬間には、なんとその姿は懐かしい大蛇姿へと変化した。
「え? あの……」
目をぱちくりさせたイザベルへ大蛇はふんと鼻息を吐く。
「しょうがないだろう。人の姿だとどうしても欲しくなる。手を出すなというなら、こうでもするしかあるまい」
恨めしそうな低い声に、思わずイザベルの口元が緩んだ。
「そんなに拗ねられましても……大蛇の姿もたいへん可愛いらしい、いえ素敵ですわ」
「心にもないことを言うな」
鼻息の荒いイグナスはイザベルに拒まれて、どうやら本格的に拗ねてしまったようだ。
ーーどうしよう。でも、イグナス様が可愛すぎるわ!
「大蛇でも人でも、私にとってイグナス様に変わりありませんわ」
いつもはあえて出さない感情の赴くまま、ぽっと頬を染めたイザベルはその滑らかな蛇皮をそっと指でなぞった。
認めるのも恥ずかしいけど、本音は告げたほうがいいだろう。
「イグナス様に触られると……気持ち悦くなり過ぎてしまって。思考が鈍って、他のことは何も考えられなくなってしまいますの……」
頬が熱いのが自分でもわかる
「私はきちんとお話がしたいのです。だって、イグナス様のことをほとんど知らないのですもの」
ずっと抱えていた気持ちをやっと吐き出せた。気恥ずかしくて視線はずらしてしまったけれど。
「……私の話などつまらないと思うが。何を知りたいのだ?」
大蛇の姿になってもまったく変わらないイザベルに、どうやらイグナスは機嫌を治したらしい。
「たくさんありますわ。例えば……ご家族やご兄弟は? お住まいはどこですの? 普段はどんなことをしていらっしゃるの? シルタニアは一夫多妻だと聞いておりますが、私は唯一の妻としてどんな役割を邸ですればよろしいのでしょう?」
次から次に質問が湧いてくる。
「それにそれに……そうだわ、魔導士の仕事って、あちらではどんな感じなのでしょうか?」
「まてまてまて、そんな慌てずとも機会があれば話してやる。そうだな、何なら道々知っていけばいいではないか」
「それはまさかーー明後日に出発しろとおっしゃっているのですか⁉︎」
「言っただろう。皇女を帝都までお送りする。その後は反乱軍を制圧しに行く。少なく見積もって、半年はかかる任務だ。せっかくベルを迎えにきたのにまた離れるなど論外だ」
「そんな……いくらなんでも無理ですわ、明後日に発つなど……」
し~~~~んーーーー……
二人の間に流れる静寂。これを破るのには勇気がいる。
でもそんなこと言ってられない。二人で話し合って、信頼を深めて、妥協点を探らなければ。
「ベル。どうして……私を助けた? こんな姿にされた私の呪いは、絶対に解けないはずだった」
意外にも、今回も沈黙を破ったのは大蛇の姿のイグナスだった。イザベルは嬉しくて無表情を取り繕うのも忘れた。
「っ……そうしたいと思ったから、ですわ」
「初めはともかく、途中で私の正体に薄々気づいていただろう。敵国になるかもしれない、しかも見ず知らずの男だぞ?」
「私はーーそう、正しい魔導士ではなく、善き魔導士でありたいのです」
真っ直ぐにマリンブルーの双眸を見つめると、イグナスも疑問を湛えた瞳でこちらを見つめ返してくる。イザベルのしたことは、カラートの宮廷魔導士としては正しくない。本来ならば、上司や王宮に報告を上げ王国として対応すべきだった。
「……時に悲劇は、善き人々が何も行動しないからこそ起こりえる。そう思うのですわ」
静かに告げたイザベルに、大蛇はハッとした。
「私は魔導士として、力を正しいことより善いことに使いたい」
「善いことに、か……ーーはぁ、だからこんなに頑固なのに命をかけて守りたいほど愛おしい……ベル、一緒に来てくれ。私にはベルが必要だ」
きっと、ここでイエスと答えるのが正しい。それにイザベルだって本音を言えば、片時もイグナスと離れたくない。このまま身を任せイグナスについて行っても誰も咎めはしない。
でもでも、イザベルの心はそれではいけないと言っている。
これから先も、ずっとずっと先も、イグナスと共に笑い合いたい。そのためにはどう動けばいい……?
争いは好きではない。これは本当だ。けど、たいして身も守れないこのままの自分ではイグナスに無理をさせる。
……ーーそうだわ、私も変わらないとダメなのね。
イグナスの信頼を得るには彼に求めるだけでなく、イザベルからも歩み寄らないとフェアじゃない。互いに歩み寄る。そうしないと何も変わらない。
今まで習得する機会はあっても身を入れず、避けてきた魔法を身に付けたらイグナスは安心して心を預けてくれるだろうか。何といっても、彼の立場は常に危険を伴うのだから。ここはその努力をしてみるべきだ。
そうしたら、きっと……守ってもらうだけのお荷物から卒業できる。
「イグナス様……やっぱり今回は、一緒には行きませんわ」
「どうしても、か」
イグナスだって本当は分かっているだろう。だって着の身着のままついて来いなど横暴すぎる。
明後日に一緒に出発はしない。そう答えると悲壮な瞳をしたイグナスの大蛇の頬に、イザベルはそっと手を添えた。
「お約束しますわ。今回だけです。次からはどこへでもご一緒できるように、もう少しだけ私に……時間をいただけませんか?」
その言葉はよほど予想外だったのだろう。大蛇の瞳孔がコレでもかというほど開いた。
そしてその姿はたちまち魔法を解き、麗しい顔が見つめ返してくる。
「約束してくれるか。必ず私の元に来ると」
「準備ができたら……心の準備ができたら、すぐに会いに行きますわ」
「ーーそれはどれくらいの期間だ? 半年か? 一年か?」
「……分かりません。でも、それほどかからないとお約束いたしますわ」
瞳を逸らさず断言したら。イグナスはしてやったとばかり不敵に笑うではないか。両腕を開いて硬く抱きしめてくる。
「いいだろう。返事はイエスだな。その言葉を違えることは許さない」
っ! ……何だろう……嬉しいのに。急に胸がモヤモヤしてきて素直に喜べない。ちょっと甘い顔をすれば、相変わらずのこの不遜な態度。
ーー愛しているけれど、ちょっとくらい仕返しをしたってばちは当たらないと思うわ。
腕をつっぱって温かな胸から抜け出したイザベルは、ツンと横を向いた。
「まあ、何をおっしゃいますの。乙女心は繊細で変わりやすいのです。イグナス様こそ、すでにしでかしてくださったのをお忘れですか? 以前のように、音信不通で放っておくようなら2度目はないと思い知る結果になりましてよ」
そんな簡単に、イエスと頷いてやるものか。
「約束は致しますが、あくまでイグナス様の態度が誠実であればこそです。不履行にされるような真似はなさらないことですわ」
言いたいことを言ってしまうと胸がすっきり。ふんと鼻で息をしたイザベルは、伸びてきた骨ばった大きな手に「こっちを向け」と顔を戻された。
「私は筆不精だ」
「知ったことではありませんわ」
言い訳には、まったく取り合わない。
「……一ヶ月に、一筆……で、どうだ?」
「一週間に一通で、ギリギリ及第点ですわ」
「無茶を言うな。三週間に一筆だ」
「イグナス様こそ、それでも男ですか。気概を見せて下さいませ。二週間に一通の手紙。これ以上は譲れませんわ」
口を一文字に結んだイザベルを見て、イグナスは苦笑した。
「わかった。善処する」
自分の瞳と同じマリンブルーの額飾りを着けたイザベルをじっと見つめる。
「必ず、手に入れる。待っていろ」
夜空と同じ紺碧の色をした瞳に映る星に惹かれるように、イグナスはその赤い唇に神聖な約束のキスを落とした。
そして、イザベルを優しく抱き寄せ、その身体の温もりに浸るようにいつまでも抱きしめて離さなかった。
ーー完ーー
「初めて見ましたわっ、緻密な魔法陣ですわねぇ」
今や使い手など稀有な古代魔法。
言語が変わり、効率重視の風潮が高まって略式魔法が普及した今は魔導王国カラートでも実践できる魔導士はほぼいない。
虹色に輝く魔法陣を目にした人々は、驚きの声を上げた。二人を見守る王女たちも例外ではない。
「この魔法式はっ……誓約魔法かしらっ?」
「そのように見えますがーーにしては、微妙に魔法陣が……」
興奮した憶測が飛び交う中、王女の問いにファリラも目を凝らしている。カリッサ皇女は首を傾げた。
「古代魔法の誓約魔法陣に違いないが、さらに何か……いや待て……あの方式はごく最近どこかで……?」
皇女だけではない。大勢の令嬢たちが既視感を覚えて、こんな複雑な魔法陣をどこで見た?と記憶を探りはじめた。
好奇な視線が集まる中、イザベルは呆然と立っていた。
頭上で光る虹色の魔法陣はイグナスが唱えた呪文で現れた。そう、忘れもしない。
ーーこれって、初めて結ばれた夜に誓ってくれた魔法の……
「”我が心を捧げし愛しのイザベル”……覚えているか? この魔法は二人で誓い合えば完成形にもなる。その可愛らしい唇で誓ってくれるか。私のすべてはベルのものだと」
「っ……!」
ーーって、今? 今ここでなのーーっ?
跪いたイグナスに手を握られたイザベルの頭は真っ白になった。
なんという強引さ。おまけにデリカシーがないにも程があるっ!
古代魔法が廃れた理由の一つが、その成功率の低さだ。オマケにこの誓約魔法は失敗すると試みた両人の関係が微妙になりかねないから、ごくプライベートな儀式とされていたはず。
まさか王城の大広間のど真ん中で、それもこんな大勢に囲まれたこの状況で、やらかすはめになるとは思ってもみなかった。
「……ベル? どうした。覚えているだろう? 私の正式名と、それに魔導呪文だ」
覚えている。覚えているのに。頭はフリーズしたまま働かない。
「あ、あの……もちろん覚えていま……すわ……」
だって気になって後で古文書をひっくり返して調べた。だから互いに誓う意味もわかっているつもりだ。
珍しく言葉を失ったイザベルに、跪いた姿勢からイグナスはスクッと立ち上がった。
すると人々の輪にどよめきが広がる。男が女に跪いて乞うなどその目的は明らかなのに、真紅の令嬢は一向に言葉を発しない。まさか古代魔法の誓約魔法を使ってまで誠意を示す帝国騎士の求婚を断るつもりかーー?
人々の懸念が膨らんだ次の瞬間、誰もが早とちりだと思い知った。
「っイグナス様⁉︎」
「大人しくしろ。こう言えばよい」
掬い上げた身体に唇を寄せ、イグナスはその耳にそっと囁いた。
それはかつて神聖視された古き魔法の呪文。単に魔力を操る略式魔法と違ってその誓いは術者の魂に刻まれるゆえに縛りが強く、一生解けないシロモノだ。
だからこそ、重婚や離縁が珍しくない昨今においては古代魔法の誓約は廃れてしまった。
虹色の輝きを特徴とする魔法の物珍しさに、庭園からも賓客がぞろぞろと詰めかけてくる。
ーーああ、もうダメだわ。
ここまで来たら後戻りなどできない。イザベルは覚悟を決め、すうと息を吸い込んだ。
「”わ、我が魂を捧げしイグナス……愛しい人。我が言葉は言霊、心と魂と共に未来永劫この命が果てるまで、この誓いを違えることはない。与えられたこの身のすべてを以て、イグナス・アルトゥス・ビストルジュを我がものとする”」
震える声でイザベルが唱え終わった途端、今度はその頭上に新たな魔法陣が現れた。眩い光を放ちイグナスの魔法陣と重なり融合して、光の粒が二人へと降り注ぐ。
ワアーと人々から歓声が上がった。
「成功だな」
美麗な顔の口端が上がり綺麗な弧を描く。イグナスはまさにしてやったりとばかりだ。
一方で、イザベルは見えない鎖でイグナスとがっしり繋がれた感覚をひしひしと感じていた。
ーー何なのこの、お互いの生殺与奪権を握ったかのような感覚は……?
隷属魔法の鎖でさえ、こんなアブない感じはしなかった。
死が二人を分つまでどころか、死を二人で分かちあう誓約を交わした実感にゾクっとする。
人々は目を輝かせ拍手喝采だ。特に妙齢の令嬢たちの反応が顕著で、「勇者が」どうとか小さな叫びがあちこちで上がっている。貴婦人方でさえ興奮したように何かを熱心に囁きあい、それは王女たちも例外でなかった。
「そうっ、これは『天空の勇者と麗しき聖女』ですわっ」
……カラート王女が口にしたのは、巷で密かに人気のヒストリカルロマンスのタイトルだった。
「っ! どうりで見覚えがあると思ったが、そうだ挿絵に描かれた魔法陣か……」
シルタニア皇女もすかさず大きく頷いた。ファリラとレティシアも光の粒になって消えてゆく魔法陣に憧れの眼差しを向け頬を染めて両手を取り合っている。
「……結魂の儀を交わしたのですね……」
「これはぜったいにーー婚姻よりも素晴らしい約束ですわ!」
貴族の結婚は家同士の都合で結ばれる。生まれ持った義務から逃れられない令嬢たちは、愛し合って結ばれる恋愛結婚に憧れるが、それは王女や皇女も例外ではない。
古代魔導呪文は、そんなヒストリカルロマンスによく登場する魔法だった。一度誓えば、死を持ってでしかその誓約は破れない。一生涯破れない約束と深い献身が要求されるこの魔法は時代に埋もれつつあっても、観劇や小説という文化で絶滅を逃れている。
「魂を所有し合う……相手のすべてを自分のものにできる契約魔法ですわね。二人の無条件の愛が発動条件なために、成功事例はほとんどなし。魔力や生命力さえ相互交換が可能な誓約なんて命を捧げるも同然ですもの」
「自分の命を縮めるかもしれないのだぞ。いくら愛があっても普通は同意できまい……イグナスめ、思い切ったな」
興奮気味な皇女は、古代魔法がもたらす思いっきりヘビーな契約に目を曇らせた。
「メローズ嬢は大丈夫だろうか。意味も知らされずに唆されたのでなければよいが……」
「イザベルは古代魔法にも長けております。それに、納得いかないことに頷きはしませんわ。この誓いは彼女の意思で受け入れたとみて間違いありません。でなければ魔法は発動しませんもの。私が保証いたしますわ」
ファリラの自信を裏付けるように、イグナスがイザベルを抱き上げたまま近づいてきた。
二人はしかしどうやら、言い争っているらしい。
「心臓に悪いですわ。こんなところでいきなり執り行う必要があったのですか?」
「いいではないか。どこであろうとも」
「ともかく、下ろしてくださいな」
「必要ない」
「普通に歩けますわ」
先ほどは驚いてしてしまって、身体が言うことを聞いてくれなかった。失態を恥じるイザベルはショックを乗り越え平静に戻っていた。
イグナスもさすがにカリッサや王女の前まで来ると歩みを止めた。その隙にイザベルはさっと足を下ろす。
「なんだ、もう終わりか? 存外見れるものであったな」
カリッサ皇女の軽口をものともせず、イグナスはにっこり笑った。
「お目汚しでなければ、続けたいのはやまやまですか。そろそろ引き下がろうかと」
「また”唐変木”などと罵られはしないかと気を揉んだぞ。古代魔法まで引き出しおって。話題を攫ったことは否めないが、少々強引ではないか?」
「うまくいったのですから、万事よしとしましょう」
ご機嫌なイグナスには悪いけれど、結婚の承諾をした覚えはない。誤解されたままではマズイと、イザベルは思い切って事実を告げることにした。
「恐れながら、殿下、発言をお許し願います」
「うむ、許す」
「例の申し込みに関しましては、返事はまだ保留とさせていただいております」
イザベルの思いがけない言葉に一同は目を見張った。
「っ⁉︎」
「イグナス、これはどういうことだ?」
笑顔のまま、イグナスもイザベルに向き直った。
「イザベル嬢。私と交わしたばかりの神聖な契約を、さっそくもう破られるおつもりか?」
麗しい笑顔はだが、目がまったく笑っていない。
命が惜しくないのか。さっさとイエスを言え。そう圧をかけるマリンブルーの瞳にもイザベルは怯まなかった。そんな脅しはもうイザベルには通じない。彼の本心を知っている今は。
「婚姻については、まだ同意しておりませんわ」
簡潔に事実だけを述べた。
「私とて、イタズラに返事をはぐらかせているわけではござません。結魂の儀も交わしたのですから、閣下の意に沿うつもりはございます。ですが…もう少し時間をいただきたいのです」
「……まあアレだ、私の側近の以前の振る舞いや、先程の強引さを顧みれば……令嬢の心情も分からぬではない」
寛大な皇女の賛同はとてもありがたい。だって本来なら許されない我儘だ。イザベルはかしこまり黙って目で礼を告げた。
……多分、イグナスが大蛇だった頃の思い出がなければ、とっくに承諾していた。
どういう経緯にしろ、これは個人の感情で左右されるべき婚姻ではない。
けれども。彼の優しさや人柄を心から愛してしまったからこそ「はい分かりました」と受け入れるのは言いようのない不安がある。ーーまた何かが起こって、自分には何も知らされないまま守ってもらうだけの事態は繰り返したくない。
イグナスの気持ちは分かっているけど、この縁組は国を跨ぐ政略結婚でもある。養子縁組で埋める身分差など、突貫工事による不安要素もあって予想もつかない思惑で自分たちの婚姻などあっさりひっくり返るのではないか。
顔には出てないはずなのに、その不安を感じ取ったようにイグナスはイザベルの腰に手を回しそっと側に引き寄せた。
「分かった」
思いがけず優しい声音に驚いて、思わずじっとイグナスを見つめ返した。
「ならば私たちは、このまま失礼して退席させていただきます」
辞去の挨拶を述べるイグナスに、カリッサは片眉を上げた。
「そんなに急くとも、まだ夜は長いぞ。夜会もたけなわではないか」
「だからこそです。今ここで退去すれば、色々と噂が立つのでは?」
「……小賢しいが、的を得ておるな……」
ふうと息を吹き出した皇女に、セシリアとファリラがおかしそうに笑って同意した。
「ふふ。あとはお任せください。イザベルお姉様の英雄譚を心置きなく語らって見せますわ」
「そうですわね。先ほどから、お二人の馴れ初めを聞きだそうと待ち構えている方々がたくさんいらっしゃいますし」
たくさんの視線が、不躾にならない程度にこちらを伺っている。
この場には自国の王女やシルタニア帝国の皇女、王女付きの侍女や侯爵、伯爵令嬢まで揃った高貴な身分が集まっているから、チラチラと見るだけで入ってこようとはしないが。
「……馴れ初めだなんて、大したものではありませんわ。たまたま偶然が重なっただけで」
どうとでも取れるように、イザベルは言葉を濁す。イグナスとの出会いは、とてもじゃないが説明できない。
「ご謙遜を。お二人が力を合わせた魔法戦で、ロンサールの屋敷が跡形もなく消えたのは誰でも知っている事実ですわ」
……そういえばそっちだった、皆が信じている馴れ初めは……。けれどこの際とても都合がいいので、そのまま否定も肯定もしない。
なんとなく楽しくなったイザベルがひっそり笑うと、周りからホウとため息のようなものが聞こえた。
ーー潮時だわ。
イザベルは退席の挨拶を済まし、イグナスと腕を組んで大広間を出る。
視線を感じてふと後ろを振り返ると、人々の顔に浮かんでいるのは嫉妬や羨望というより、理解し難いといった感情だった。囁き声が風に乗って聞こえてくる。
「信じられないわ! あんな情熱的なアプローチをされて、返事をまだ保留だなんて……」
「あの麗しの貴公子様とよ……さすが魔女と呼ばれる魔導士ですわね」
イグナスの求愛は誰の目にも明らかである。片時もそばから離れず、イザベルを崇拝してやまない態度はそれはもう献身的で見ているこちらが赤くなるほどだ。
けれども、婚約発表こそしなかったが、派手に披露した古代魔法で二人の間には誰も割り込めない。この事実は王国中の貴族が見ていたし、諸国の代表も土産話とばかり本国に報告をするだろう。
「ーーイグナス様、たくさん踊ったので疲れましたわ」
「ああ、愛しい人。邸まで送ろう」
イグナスはそっと真紅の髪を一房手に取って唇をつけた。
こんな甘やかなイグナスに慣れていないから、イザベルはくすぐったいような逃げ出したいような気持ちになる。
ーーでも、案外悪くないわ。令嬢扱いも、こんな瞳で見つめられるのも……
”赤い魔女”と呼ばれる男運ゼロの子爵令嬢がシルタニア帝国へ嫁ぐのだ。
嫁ぎ先は信じられないことに帝国軍ナンバー2の地位にいるこの美貌の貴公子である。帝国の公爵家の令息でもあるイグナスの横に並び立つには、まだまだ苦難が待ち受けているに違いない。
ーーでも、一緒にいるために、すべてを乗り越えてみせるわ。
そう思ってしまう自分がイグナスの求婚にイエスと言える日もそう遠くない気がして。イザベルは珍しくクスっと含み笑いをまた漏らす。
そんなイザベルをイグナスのマリンブルーの瞳は愛おしそうに見つめた。
~~エピローグ~~舞踏会を終えて
大ぶりの枝がくねるように夜空に向かって伸びている。
不気味だが目を奪われるその巨木は、別名「悪魔の木」とも呼ばれる。
ほの白く光る魔樹は満月の光を惜しみなく浴びて、幻想的な美しさを誇るメローズ邸の庭園でもひときわ目立つその姿を見せつけるように満開の薄いピンクの花を披露している。
「おつなものだな。夜の花見に月見酒というのも……」
「こんな素敵な用意をしてくれたセバスには、心から感謝ですわ」
夜会から帰ってきたイザベルたちは、執事に勧められるまま年に一度だけの花見を楽しんでいた。
魔樹の異様に膨らんでいる根元には、ちょうど何人かが楽に手足を伸ばしてくつろげる空間がある。厚い敷物やクッションが当てられて、肌寒くなった夜にはありがたい毛布までが用意されている。
シワだらけに見えるゴツゴツした巨根は地中からうねって、地表に張り出し、それこそ大蛇のようだ。
果物に手を伸ばしたイザベルの横を、夜目にも派手なイモリがちょろちょろと根を伝い這っていった。その尻尾をひょいとつまんだイザベルは悲鳴もあげず、硬い鱗に覆われた爬虫類を邪魔にならない幹へと移動させる。
……こういうのは令嬢らしくないのだろうけど、イグナスの前でも自分を偽るつもりはない。
淡々とワインを口にしたそのほっそりした姿に、隣でグラスを仰いだマリンブルーの目元がわずかに緩んだ。実はこんなイザベルの令嬢らしくないところが、イグナスは気に入っている。
ほろよい気分のイザベルはくつろぎきっていて、幼い頃からしていたようにそのまま上半身を倒し敷物の上で寝転んだ。
大木を見上げるその瞳が楽しそうに輝く。
「イグナス様、星が降るように見えましてよ。銀穂の花もピンクに光って、なんて綺麗なんでしょう」
はしゃいだ声で夜空に向かって片手を伸ばしたら、ためらいもせずイグナスもその横にゴロンとなった。
「本当だ。星の河がはっきり見えるな。この手で掴めそうだ」
同じく手を伸ばしたイグナスの手は、そっとイザベルの手を掴んだ。
「ベル……ストライキはまだ続くのか?」
そのまま手を引き寄せ、そっと唇に当てたイグナスの声にイザベルの心臓はドキッと跳ねる。
ーー流されてはだめ、自分で決めたのだから。
「続きますわ。その……」
「今夜がゆっくりできる最後の夜なのだぞ?」
語気を荒めたイグナスだが、それでも揺らがない紺碧の瞳をそこに認めると珍しく口の端を下げた。その周りに魔法陣が現れ次の瞬間には、なんとその姿は懐かしい大蛇姿へと変化した。
「え? あの……」
目をぱちくりさせたイザベルへ大蛇はふんと鼻息を吐く。
「しょうがないだろう。人の姿だとどうしても欲しくなる。手を出すなというなら、こうでもするしかあるまい」
恨めしそうな低い声に、思わずイザベルの口元が緩んだ。
「そんなに拗ねられましても……大蛇の姿もたいへん可愛いらしい、いえ素敵ですわ」
「心にもないことを言うな」
鼻息の荒いイグナスはイザベルに拒まれて、どうやら本格的に拗ねてしまったようだ。
ーーどうしよう。でも、イグナス様が可愛すぎるわ!
「大蛇でも人でも、私にとってイグナス様に変わりありませんわ」
いつもはあえて出さない感情の赴くまま、ぽっと頬を染めたイザベルはその滑らかな蛇皮をそっと指でなぞった。
認めるのも恥ずかしいけど、本音は告げたほうがいいだろう。
「イグナス様に触られると……気持ち悦くなり過ぎてしまって。思考が鈍って、他のことは何も考えられなくなってしまいますの……」
頬が熱いのが自分でもわかる
「私はきちんとお話がしたいのです。だって、イグナス様のことをほとんど知らないのですもの」
ずっと抱えていた気持ちをやっと吐き出せた。気恥ずかしくて視線はずらしてしまったけれど。
「……私の話などつまらないと思うが。何を知りたいのだ?」
大蛇の姿になってもまったく変わらないイザベルに、どうやらイグナスは機嫌を治したらしい。
「たくさんありますわ。例えば……ご家族やご兄弟は? お住まいはどこですの? 普段はどんなことをしていらっしゃるの? シルタニアは一夫多妻だと聞いておりますが、私は唯一の妻としてどんな役割を邸ですればよろしいのでしょう?」
次から次に質問が湧いてくる。
「それにそれに……そうだわ、魔導士の仕事って、あちらではどんな感じなのでしょうか?」
「まてまてまて、そんな慌てずとも機会があれば話してやる。そうだな、何なら道々知っていけばいいではないか」
「それはまさかーー明後日に出発しろとおっしゃっているのですか⁉︎」
「言っただろう。皇女を帝都までお送りする。その後は反乱軍を制圧しに行く。少なく見積もって、半年はかかる任務だ。せっかくベルを迎えにきたのにまた離れるなど論外だ」
「そんな……いくらなんでも無理ですわ、明後日に発つなど……」
し~~~~んーーーー……
二人の間に流れる静寂。これを破るのには勇気がいる。
でもそんなこと言ってられない。二人で話し合って、信頼を深めて、妥協点を探らなければ。
「ベル。どうして……私を助けた? こんな姿にされた私の呪いは、絶対に解けないはずだった」
意外にも、今回も沈黙を破ったのは大蛇の姿のイグナスだった。イザベルは嬉しくて無表情を取り繕うのも忘れた。
「っ……そうしたいと思ったから、ですわ」
「初めはともかく、途中で私の正体に薄々気づいていただろう。敵国になるかもしれない、しかも見ず知らずの男だぞ?」
「私はーーそう、正しい魔導士ではなく、善き魔導士でありたいのです」
真っ直ぐにマリンブルーの双眸を見つめると、イグナスも疑問を湛えた瞳でこちらを見つめ返してくる。イザベルのしたことは、カラートの宮廷魔導士としては正しくない。本来ならば、上司や王宮に報告を上げ王国として対応すべきだった。
「……時に悲劇は、善き人々が何も行動しないからこそ起こりえる。そう思うのですわ」
静かに告げたイザベルに、大蛇はハッとした。
「私は魔導士として、力を正しいことより善いことに使いたい」
「善いことに、か……ーーはぁ、だからこんなに頑固なのに命をかけて守りたいほど愛おしい……ベル、一緒に来てくれ。私にはベルが必要だ」
きっと、ここでイエスと答えるのが正しい。それにイザベルだって本音を言えば、片時もイグナスと離れたくない。このまま身を任せイグナスについて行っても誰も咎めはしない。
でもでも、イザベルの心はそれではいけないと言っている。
これから先も、ずっとずっと先も、イグナスと共に笑い合いたい。そのためにはどう動けばいい……?
争いは好きではない。これは本当だ。けど、たいして身も守れないこのままの自分ではイグナスに無理をさせる。
……ーーそうだわ、私も変わらないとダメなのね。
イグナスの信頼を得るには彼に求めるだけでなく、イザベルからも歩み寄らないとフェアじゃない。互いに歩み寄る。そうしないと何も変わらない。
今まで習得する機会はあっても身を入れず、避けてきた魔法を身に付けたらイグナスは安心して心を預けてくれるだろうか。何といっても、彼の立場は常に危険を伴うのだから。ここはその努力をしてみるべきだ。
そうしたら、きっと……守ってもらうだけのお荷物から卒業できる。
「イグナス様……やっぱり今回は、一緒には行きませんわ」
「どうしても、か」
イグナスだって本当は分かっているだろう。だって着の身着のままついて来いなど横暴すぎる。
明後日に一緒に出発はしない。そう答えると悲壮な瞳をしたイグナスの大蛇の頬に、イザベルはそっと手を添えた。
「お約束しますわ。今回だけです。次からはどこへでもご一緒できるように、もう少しだけ私に……時間をいただけませんか?」
その言葉はよほど予想外だったのだろう。大蛇の瞳孔がコレでもかというほど開いた。
そしてその姿はたちまち魔法を解き、麗しい顔が見つめ返してくる。
「約束してくれるか。必ず私の元に来ると」
「準備ができたら……心の準備ができたら、すぐに会いに行きますわ」
「ーーそれはどれくらいの期間だ? 半年か? 一年か?」
「……分かりません。でも、それほどかからないとお約束いたしますわ」
瞳を逸らさず断言したら。イグナスはしてやったとばかり不敵に笑うではないか。両腕を開いて硬く抱きしめてくる。
「いいだろう。返事はイエスだな。その言葉を違えることは許さない」
っ! ……何だろう……嬉しいのに。急に胸がモヤモヤしてきて素直に喜べない。ちょっと甘い顔をすれば、相変わらずのこの不遜な態度。
ーー愛しているけれど、ちょっとくらい仕返しをしたってばちは当たらないと思うわ。
腕をつっぱって温かな胸から抜け出したイザベルは、ツンと横を向いた。
「まあ、何をおっしゃいますの。乙女心は繊細で変わりやすいのです。イグナス様こそ、すでにしでかしてくださったのをお忘れですか? 以前のように、音信不通で放っておくようなら2度目はないと思い知る結果になりましてよ」
そんな簡単に、イエスと頷いてやるものか。
「約束は致しますが、あくまでイグナス様の態度が誠実であればこそです。不履行にされるような真似はなさらないことですわ」
言いたいことを言ってしまうと胸がすっきり。ふんと鼻で息をしたイザベルは、伸びてきた骨ばった大きな手に「こっちを向け」と顔を戻された。
「私は筆不精だ」
「知ったことではありませんわ」
言い訳には、まったく取り合わない。
「……一ヶ月に、一筆……で、どうだ?」
「一週間に一通で、ギリギリ及第点ですわ」
「無茶を言うな。三週間に一筆だ」
「イグナス様こそ、それでも男ですか。気概を見せて下さいませ。二週間に一通の手紙。これ以上は譲れませんわ」
口を一文字に結んだイザベルを見て、イグナスは苦笑した。
「わかった。善処する」
自分の瞳と同じマリンブルーの額飾りを着けたイザベルをじっと見つめる。
「必ず、手に入れる。待っていろ」
夜空と同じ紺碧の色をした瞳に映る星に惹かれるように、イグナスはその赤い唇に神聖な約束のキスを落とした。
そして、イザベルを優しく抱き寄せ、その身体の温もりに浸るようにいつまでも抱きしめて離さなかった。
ーー完ーー
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