不実な紳士の甘美な愛し方

藤谷藍

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愛しい恋人 2

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「異動の話だけどな、マレーシア工場のプロジェクトらしいぞ」

中西の突然の言葉に、口へ運ぶ途中だった葵のフォークが空中で止った。
営業帰りの昼。
葵たちは食品メーカーが展開しているレストランチェーンに、ランチを取りに来ていた。

「え? それはーーですが、今年になって……」
「そうだ。石田がしくじって、送り返されたやつだ」

あからさまな内情を上司は明らかにしないが、社員の間では石田の昇進が見送られた理由は噂になっている。そしてこの皮肉とも言える思いがけない情報に、葵の眉が心なし寄った。もちろん、心の中はショックで、危うく思考が停止しかけた……が、とっさに持ち直し平静を装い会話を続ける。ものの、さすがに複雑な胸中は顔に出てしまったかもしれない。

「なあ、この地中海風ソースってどう思う? うちでなら、もっとまろやかな調合を提案できるよな?」

中西はあごに手を当て、おどけながらいかにも評論家のように述べてくる。
落ち着こう。ここはとりあえず話に乗らなくては。
ーーいつもより足を伸ばした今日の昼休憩は、どうやら次のターゲット視察も兼ねていたらしい。新顧客の獲得を虎視淡々と狙っているその営業魂に、葵は感心すると同時に見習わなければとも思う。

「ーーそうですね。このままでも十分美味しいですが、地中海風味をもう少し前面に出しても……例えば、使われているパプリカやオールスパイス、クミンに加えてコリアンダパウダーなどを少し効かせて……」

ショックはひとまず飲み込んで、おすすめ料理を味わって思いついた発想を口にしてみる。

「……などうま味と同時に、この店の内装デザインで連想される地域のクセのあるスパイス調合を、コストカットとオプション提案して見てはどうでしょうか」
「ーーどういう舌してるんだよ、まったく。食べたらレシピ解析できるのな……」

わざとらしく「しまった。次に狙ってるとこに、植松さんなんか連れて来るんじゃなかった」と舌打ちをした中西は、腕を組んで「早速もう、俺よりイケそうな提案をされてしまったぞ」と苦笑いだ。これはきっと葵の受けたショックにワンクッションを置こうとする彼のさり気ない気配りだ。葵より先輩だから、今度の契約が成功すれば彼は順当に昇進するだろう。
そして葵には、プロジェクト異動の辞令が回ってくる可能性が大である。
ーー因縁ある石田の後任に、葵が据えられるかも知れない。それも国内ではなく、海外プロジェクト……
中西は掴んだ情報を、葵のためにわざわざ前もって教えてくれている。

「なあ、一度聞いときたかったんだが」

営業のベテランであり、試行錯誤の繰り返しで顧客との信頼関係を築いてきたという男は、前置きをしつつもずばり核心を衝いてきた。

「去年までの石田の成績。あれは本当に奴一人のお手柄なのか? 植松さんさあ、あいつに頼まれて営業にもついて行ったよな? 資料作りの参考とか何とか、あいつに請われて」
「……実際、参考になりました。私が今、一人前の仕事ができるのは、あの頃得た経験のおかげです」
「しかしなあ、石田は成果すべてを独り占めしたんだぞ。植松さんはデータ打ちを手伝っただけと鼻で笑って。なら、あいつが提出した企画も? プレゼンもか?」
「……本人がそう言っているのなら、私から付け足すことはないです」
「はあ~、そうか」

長いため息をついた中西は、面白そうに葵を見てくる。

「植松さんと組んだのは今回が初めてだけど。俺はなあ、植松さんを信頼できる人だと見ている」

だしぬけの言葉に葵はかすかに目をみはった。中西は腕を組んだままいかにも納得といった感じだ。

「どおりで……奴があんな自信満々で成果を豪語出来たわけだわ。わかった。さて、そろそろ出るか」
「……ごちそうさまです」

給料日だから奢るとここに連れてきたのは、このためでもあったらしい。中西には足りないことも色々教わっているし、彼と組めて本当によかった。

「ありがとうございます、中西さん。あれこれ気を使ってもらって」
「ん? 気にするなって。その代わりーー俺が出世したらサポート頼むわ。植松さん、頼りになるし」

「俺の次に有望な、出世株だからな」と売り込んでくる男に、葵は笑って頷いた。
その夜。すっかり習慣化したカフェでの夕食を伊織と共にしつつ、葵は今日仕入れたニュースを思い切って彼にも伝えることにした。

(大げさに言わない。あくまでさり気ない態度で……)

「ーーということで。異動になるとしたら、海外赴任かもなんですよ」
「マレーシア……の、どの辺りだい? クアラルンプール?」

あきらかに驚いた顔はだが、すぐ落ち着いた声で続きを促してきた。

「いえ、工場はシンガポールに近いジョホール州にあるんです。それに関連企業のオフィスがシンガポールにあるので、実質的にはシンガポール赴任ですね」

実際、石田がそうだった。

「なるほど、そうなのか……。葵の努力が認められるのは、とても喜ばしいね。ーー葵は? 嬉しいかい?」

ぎくり。
内心で大きく動揺したため、手に持った湯のみがわずかに揺れた。緑茶がこぼれそうになるのを一口飲んで際どく難を逃れる。
今日もごちそうさまでしたと手を合わせ、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「まだよく……分からないんですよ。契約が取れたら、異動になるって、仮定が多すぎて……」

スーと息を吸った葵を見て、伊織は「そうだね。じゃあーーそろそろ、上がろうか」とその手を取った。答えに迷う葵を急かして、無理に聞き出すつもりはないのだろう。
後片付けに訪れた榊に礼を述べると、厨房の朝比奈にもご馳走様と片手を振り、そのまま手を繋いで伊織の家に向かった。
葵のバッグには彼からもらった合鍵が入っている。ーーけど、いつも二人そろってカフェで夕食をとるから、使う機会はまだない。
会社から早く帰れる日は、葵は自宅のマンションに一旦戻るが、伊織がピアノを自宅に置いた時から自分のベッドで眠る事はなくなった。週末も月曜の朝まで、ずっと伊織の家に入り浸りだ。
ーー合鍵をもらった時は葵とて、こんなべったりな生活になると思っていたわけではない。実際、鍵をもらった夜は金曜だったから、週末はのんびりしたいだろうと夕食後は伊織のため遅くならないうちに帰るつもりだった。葵としては、気を回したつもりだったのだ。
けど、時計をチェックするたびに伊織が微妙な反応をするので、思い切っていつ帰って欲しいのかを聞いてみたら、『週末なんだし、別に帰らなくてもいいじゃないか』と拗ねられてしまい……帰してもらえない結果になった。
平日は、それこそ今日みたいに夕食を食べたらそのまま伊織の家に引っ張っていかれて、結局葵は自宅に帰らないまま翌朝出勤となる。

想定外の半同棲ーーいや、ほぼ同棲の生活なんて二人とも初めてで、最初は万事が手探りだったけど……
この一月ひとつきほどで妥協や譲り合いをくりかえし伊織との生活に徐々に慣れていった葵は、そのうち一緒にいることが自然に思えてきて、今はたいした言い争いもせず平穏に彼の家で過ごしていた。

その日も、カフェから上がって葵がちょっとした仕事でノートに向かっている間に、伊織が先に風呂を済ませた。その後、風呂に入った葵がタオルで身体を乾かしていると、弾き語りのようなピアノの調べが聞こえてくる。誘われるように廊下に出ると、長い指から繰り出される甘酸っぱい音色がより鮮明に葵の胸に響き渡った。
いつ聞いても心を動かされるその繊細なタッチは、初めてテーブルの下で彼の演奏を聞いた時と何一つ変わらない。聞き覚えのあるあの夜の甘く切ないメロディーが、葵の全身を撫であげ甘美に包み込んでいくーー
廊下にたたずんだ葵の胸が震え、弾き手を想ってさらに締め付けられた。
異動の話がついに現実的になってきた。それも……距離的に大きく隔てられる海外赴任だ。
ーー伊織と離れたくない。
本音はこれに尽きる。けど。だけどーー……
社会人としても、自分のこれからのためにも、葵の取るべき道は決まっている。

たった半年、長くて一年……

今でさえ彼が日帰り出張に出ると、離れがたく感じるのに……
何ヶ月も伊織に会うことが叶わなくなる。そんな日々に、耐えられるだろうか……?
ーーいや、ここは耐えなければ。別れる気など、それこそ微塵もないのだから。
ふいに、結婚……という文字が突然葵の頭をかすめた。だがかすめた瞬間、一体何を血迷ってと慌てて否定する。
考えるまでもない、却下、棄却だ。まだ知り合って数ヶ月。付き合ってなんてそれこそ。

(……たかが一ヶ月程度で、何を馬鹿なことをーー。もっと冷静にならなきゃ)

こんな片時も離れず一緒に過ごして、なおいっそう愛おしく想える相手なんて初めてだからのぼせ上がっている。自分も伊織もそんなことは望んでいない。
葵自身は結婚への約束と期待を丸ごと相手に裏切られる絶望感、あれは二度と味わいたくない。
要するに怖いのだ。
どれだけ伊織を信じていても、これはもう婚約へのアレルギー反応でどうしようもなかった。
それこそ、もし伊織が離れる前に婚約だけでもーーなどと話を切り出してきたら、その場から金切り声を上げて逃げ出してしまいそう。待て待てーーだいたい婚約なんてしても、異動で離れ離れになる事実は変わらない。
いやいや、あり得ない。そもそも伊織は結婚する気がない。

ーー頭に浮かんだ突拍子もない考えを振り切るように、ブンブンと頭を振ると葵はリビングに足を踏み入れた。速まった動悸を隠すようにそっとピアノに近づく。

「……その曲って、オリジナルは何と言う曲ですか?」

以前に確か、ギターとピアノでのメロディーを聞いた覚えがある。楽譜を持っていないらしい伊織の演奏は、ジャズのスタンダードでも毎回アドリブが入る。どうやら、聞いて覚えた曲を心のまま演奏しているらしい。

「タイトルを訳すと……”待ちわびて”とかになるかなーーいや、”待ち焦がれて”の方が、合うか……」
「”待ち焦がれて”……すごく素敵……」

初めて知ったその意訳があまりにも雰囲気にピッタリすぎて、泣きそうになる。
伊織は、自分が長い間待ち焦がれていた人ーーなのかも知れない。
もしも……。シンガポール行きが決まったら。自分も彼が訪ねてきてくれるのをこんな気持ちで待つのだろうか……?
いや多分、それより自分から会いに帰ってくる。

「ーー葵に初めて会った晩に、弾いた曲だよ」
「覚えています……」

泣き出しそうになるのを堪えて、こちらを愛おしそうに見つめてくる瞳をじっと見つめ返した。

「……いつになるんだい。もし、辞令を受け取るとしたら?」
「異動となると秋ーーですね。契約書はすでに仕上がって、顧客向こうに渡すことになっていますし……。来月には終結予定です」

声が震えていなかっただろうか……? 大丈夫、まだ大丈夫だ。
余裕で二ヶ月も先のこと。

「そうか……。じゃあ、僕もお祝いを考えておくよ」

思案する素振りを見せた伊織は、ピアノの蓋をそっと閉めた。心もとなさそうな葵の手を取ると、二人で手をついないだまま寝室に向かう。伊織は枕元のランプの明かりを極限まで絞ると「葵、こっちにおいで」と手を引いた。

これは伊織の今夜は抱きたいというサインだ。

はにかみつつも引かれるまま、葵は素直に従った。
伊織と抱き合うまで、自分は性欲が薄いのだと思っていた。が、実際はそうでもなかったらしい。
伊織は平日でもしょっちゅう求めてくるが、葵も喜んで応える。明日は仕事だからと断ったことがない。どころか、その優しくも焦ったい愛撫に張り合って葵から、「今度は私が……」と彼をあおることも珍しくなかった。
伊織の濡れた瞳が熱っぽく誘いかけてくるーー。
指先に軽くキスをされると、その優しい動作にたちまち心がとろけて、身体中甘い切なさでざわめいた。知らず知らず甘えるようにすり寄った葵を、伊織は両手で固く抱きしめゆっくりと押し倒していった。


首筋に熱い息がかかり、優しい調子のかすれた声が素肌を撫でる。

「ーー葵、いいかい……?」
「っぁ……き、て……お願、い……」

伊織から巧みに引き出された快楽に酔って半ば伏せられた葵の瞳は、トロンと蕩けて頬は桃色だ。
ぬちゅと濡れた音を立てて葵の身体に侵入しはじめた伊織は、快感に逆らうように目を眇めた。さらなる快楽の始まりを予感させるようにゆっくりとだが、なめらかに奥までつらぬく。

「ああぁっ、ふぅっん~~……」
「ーー何度聞いてもクる、その声……」

背中まで細く震えるような甘い愉悦が身体を駆け抜けていく。葵は伊織の引き締まった身体に手を回すと、離さないでとばかりギュとしがみついた。

「可愛い、僕の葵だ……」
「ん……伊織、さ…ん……」

突き入れられた屹立のかさが膣中なかで増して、ビクビクとうごめくのを感じる。

「……動くよ」
「ふあっ、あ、あ、ぁ……」

耳元で囁いた伊織が緩く腰を回すと、にちゅ、にちゅと淫らな水音が葵の耳朶に染み込んでくる。葵の膣中は柔らかくトロトロで、伊織は耳たぶをしゃぶりつつ秘めやかにささやいた。

「トロけて熱い、僕まで溶けそうだ」

その声の甘さにおのずと葵は伊織を締め付け、蜜を溢れさせる。

「ッ……そんなに、追い立てたら……持たない、よ……」

桜色に染まった耳たぶをなだめるように口に含んだまま、さらに甘やかすように浅い内壁に擦り付けてくる。
ゆらゆら二人溶け合うこの感覚ーー……
寄せては返すリズムで最奥を穿たれる悦楽は怖いほどで、押し寄せる快感のうねりに葵の身体中の産毛が逆立った。

「ひぁ、だっ、め……あーーぁ、ぁっ、あっ」

頃を見計らって、根元まで埋めた屹立で子宮口をぐいと突かれる。
葵を愛しみ、ゆるゆると攻め続けていた腰が、やがて急速に追い上げの動きになっていった。

「ぁっ、あぁっ、い……おり……ああっ、だ……めぇ……っ」
「っ……僕……も、これ……以上は……」

揺さぶられるリズムに伊織とはぐれまいと葵は夢中で手を伸ばした。それを捕まえた伊織は、指を絡ませ、葵の両手をシーツに縫い止める。

「あおい……葵っ……」

汗がにじむ手と手を、二人は決して離さない。名前を呼び続ける伊織の唸り声は葵の脳髄を甘く痺れさせ、きゅうんと心がいてビクビクっと身体が応えた。快感が身体を一気に駆け抜けた瞬間、極まって真っ白な世界に突然放り込まれる。

「……っ……」

熱い唇が性急に重なってきて、放った恍惚の叫びすべてが飲み込まれた。固く拘束された身体は柔らかくしなったまま震えが止まらない。
ドクッドクッ。
身体の奥で伊織の欲望が爆ぜたのを感じた。薄いゴム越しでもその激しさは伝わってくる。

(伊織さん……伊織さん……)

珍しくも全体重をかけてくる伊織に抱きしめられて、感極まった目尻から涙が次々と流れ落ちる。そして伊織はその夜、葵を抱きしめたままいつまでも抱擁を解かなかった。


翌日の早朝。珍しく隣から微かな寝息を聞き取った葵は満ち足りた気分で目覚めた。寝顔も麗しい恋人の黒髪に愛おしい気持ちを込めてそっとキスをする。
その時、ベッドの側にあるくずかごがふと目に入った。昨夜交わした愛の痕跡を思いがけなくそこに発見してしまい、葵の顔がたちまちかあっと熱くなる。
いつ装着するのかもわからない伊織の技巧は、ただただもうすごいーーとしかいいいようがない。
だけど。

(ーーつけなくていいのに……)

唐突に浮かんだその考えに、葵は慌てた。
いやいや、それはさすがにダメだろう。
生でしてと言うのは、あまりにも品がない。と言うかそれ以上に避妊しなくてどうする? 
ーー葵の理性の声はしっかり健在で、一瞬頭に浮かんだ己の非常識を堂々と避難してくる。のに。
どうしてこんな、未練がましい気持ちになる…………?

自分で自分の気持ちが整理できなくて、葵は心の中で大きなため息をついたのだった。
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