不実な紳士の甘美な愛し方

藤谷藍

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恋じゃない、この気持ちは……2

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足と足とが絡まる感覚に葵の意識がふっと浮上した。

「……おはよう、気分はどうだい?」
「おはようございます……」

寝起きでぼう~としてはいたが、聞き慣れた声に安心して反射的に答えていた。
でも……何か違和感を感じる。素足に絡みつく逞しい足がこそばゆい……そのせい?

「体調はーーいたって平気……です……」

おかしい……寝る前は確か、伊織が履いていたリネンの感触があったはず。
そう感じた葵は足を無意識にそおっと動かしていた。そしたら、逞しい足がさらにすり寄ってくる。

「ん~、もう一声ひとこえ……かな」
「ーー何をです……?」

意外な掛け合いに気が取られ不思議に思って問いかけると、伊織はにっこり笑い返してきた。

「おはようのキスもつけて欲しいな」

落ちてきた眩しすぎる笑顔と予想外の甘い言葉に、心の中でよろめきそうになる。

「っそれって、必要ですか?」

当然だと頷きかえされ困って眉を寄せた顔へ、笑いかけた伊織は目を閉じて待っている。
ここまでされてはしょうがない。
身体を起こした葵は、横たわったまま待機するその頬に軽く唇を当てた。
たったそれだけなのに真っ赤に照れてしまって、急いで身を引こうとしたら身体に長い腕が回ってくる。

「はは、まあ最初はこんなものかな? じゃあ、お返し」

くるり。抱きしめられたままあっさり体勢を入れ替えられた。今度は伊織が葵に覆いかぶさり、遠慮なしの唇が優しく重なった。

「あ、んっ……ふっ……」

おはようの挨拶にしては濃厚すぎる口づけに、目が一気に覚めた。

「……何を笑っているんです……?」

唇をつけたまま、クククとおかしそうに笑う失礼な男に葵は文句を言う。

「いや、ずいぶん気を許してくれるようになった……と思って」
「……伊織さんは、紳士だと思ってたんですけど……」
「僕は普通の男だよ。けど、うん。そのまま流されてくれると嬉しいな」

笑いながらそんなことを告げてくる男を、うろん気な眼差しで見てしまう。

「君の嫌がることは絶対にしないから。ーーもう少し、いいかい?」

腰を抱いていた手がふいに動き、胸に優しく触れた。身体がピクと敏感に反応する。

(あれ⁉︎ ブラジャーはーー?)

寝る前にはつけていたはずの下着の感触がまったくない。布越しに彼の指の動きが直接伝わってきて、葵は慌てて起き上がった。

「そこはまだですっ」
「残念…………」

笑った顔は少しも残念そうでない。どころか、「けど、……ってことは……」と嬉しそうだ。
とっさに投げた枕を伊織は軽くかわし、「分かったわかった」と葵の頭を軽く撫ぜる。

「先にシャワーを使わせてもらうよ」

バサっとシーツを払い除けベッドから立ち上がったそのスラっとした足に、一瞬見惚れた葵は悪戯っぽく言い放った彼の状態にすぐ気づいて真っ赤になった。

「ず、ズボンはどうしたんですっ?」
「ああ……熱かったから脱いだよ」

あっさり告げると、シャツだけを着たボクサーパンツ姿が壁向こうにあるらしいバスルームに消える。
彼の言葉でもしかして……と思い当たった葵がベッドから床を見下ろすと、見覚えのある物体が二つ見事に重なって床に転がっていた。
白木の床に敷かれたブラウンの厚いカーペットの上で、白いレースと男物のリネンパンツが朝日に照らされている。

(きゃあぁぁーー)

己の失態に心の中で雄叫びを上げた葵は、急ぎ屈んで白いブラジャーだけを床から取り上げた。
ーー普段はブラをつけたまま寝ることなんてない。だからきっと、夜中に寝苦しくて知らず知らず外してしまったのだろう……
シャワーの音が聞こえてくると、どうしても意識しないではいられない。
伊織のことは嫌いじゃない。……むしろこの頃ハッキリ自覚しはじめた親しみ以上の好意ゆえに、今だってボーダーラインを越える行為だと分かっていても許してしまった。
大人の男性だと思っていた意識が、いつのまにか好ましい男性に変わりつつある……
葵は深々とため息をついた。
お湯の止まる音がしてしばらくすると、伊織が声をかけてきた。

「バスルームくから、入ってきていいよ」

そっと伺うように足を踏み入れた葵に、タオルの場所を示し予備の歯ブラシなどを渡す。

「じゃ、朝食作ってくる。葵は目玉焼きとスクランブルエッグ、どっちがいい?」
「す、スクランブルでお願いします」
「ベーコンもつける?」
「つけます。……もしかして今日は、めんどくさくない日……なんですか?」
「はは、葵がいるからね」

なんと返事をすればいいのやら。
迷っているうちに、伊織は上機嫌でバスルームを出ていった。
しばらくして身支度を整え終わると、階下へ続く階段の手前で葵の足がふと止まる。

(あ、好きかもーー、この感じ……)

朝になって吹き抜けから見下ろす階下は、まるで船上から海を見下ろす景色のようだ。海色のカーペットに配置してあるソファーが島に見える。
つかのま見とれた葵の耳が、フライパンの立てたジュウと美味しそうな音を捉える。と、ベーコンの焼ける匂いも漂ってきた。
知らず知らず微笑んだ葵は、カーテン越しに見える小雨に眉を寄せるでもなく、和んだ気持ちのまま階段を降りていった。


 ✦ ✧ ✦
 

営業の仕事で街を巡っていると、時々、ここは一体どこなのーー?と思ってしまう非日常な場所に出会う時がある。その日。伊織に連れて来られた『TOKYO STATES CLUB』と示された敷地は、まさにそんなところであった。
都心のど真ん中に、大きな噴水を囲った広々とした車寄せのある建物。しかも近づいてきたドアマンは、英語で話しかけてきた!
当たり前のように短い会話を交わした伊織は、困惑気味の葵を建物の中へとエスコートしていく。にこやかに挨拶をしてくる受付も、もちろん英語オンリーだ。
……きっとここが伊織の話していたクラブなのだろう。だがまさか、敷地内での会話すべてが英語だとは思いもしなかった……
二人がいるのは東京なのに、海外に来たような錯覚さえ起こしそうになる。
伊織は葵をゲストとして登録すると、広い建物の中を迷わずレストランへと向かった。

「ここってーーホテルじゃない……ですよね?」

周りに人影が見えなくなると、隣をゆったり歩く姿に小声で聞いてみた。

「ここは会員制の社交倶楽部だよ。ああ、違う違う。そのクラブじゃあない」

以前、伊織から水商売の女性とも交流があると聞いたから、とっさに頭に浮かんだ夜の接客店をおかしそうに否定された。

「純粋に友好と親睦を目的とした倶楽部だから。在日アメリカ人たちの手で戦後に設立されたんだ。会員にはアメリカ人やその家族をはじめ、それ以外の国の人はもちろん、日本人もいるんだよ」
「……そうだったんですか。いやまあ、こんな明るい建物だから違うだろう、とは思ったんですけどね」

どうりで、日本なのに日本じゃない雰囲気があるわけだ。そばを通り過ぎた子供たちも会話がすべて英語だ。と言うか、全員髪の色が違う。雰囲気も建物も国際色豊かなことこの上ない……

接客クラブそんなところに、君を連れてくるわけないだろう?」
「あ~、前にですねえ、そちらの方々とも親しいと……」

葵のちょっぴり斜めな視線を見た伊織は、キッパリ言い切る。

「仕事上の付き合いで連れていかれるだけだから。僕一人では行かないよ」
「……大変よろしい心がけですね」

棒読みで言ったら、手を強く握りしめられた。

「ここに大事な恋人がいるんだから、そんなところに行く必要は、それこそないだろう?」
「は? え、えっとーー、分かりましたから」

黒い瞳が真摯に訴えてくるから、思わず言葉につまった。本当に納得したのかと瞳を覗き込まれ、気恥ずかしくて無言のまま手を握り返したら、肩で安堵の息をついている。

「言い忘れてたけど、ここでの会話は基本英語のみなんだ。大丈夫かい?」
「ーー聞き取りは得意です。会話は……気合いでガンバリますので……」

怖じ気づいている場合ではない。
伊織は仕事で来ているのだし、葵も仕事上不可欠なスキルなのだからと、精一杯背筋を伸ばした。

『お、今日も植松さんと一緒なんだ。ウェルカム! ミズ・ウエマツ』

レストランに入っていくと、聞き覚えのある声に迎えられる。

『こんにちは、木村さん』

伊織の同僚が手を振るテーブルへと進んだ先で、ブラウンの髪の男性と金髪の女性がにこやかに笑いかけてきた。顧客らしい二人に葵は早速紹介される。

『コリンズ夫妻、僕のパートナーの葵です』
『はじめまして、葵です。どうぞよろしく』
「アオイサン、ヨロシク」

葵が英語で挨拶すると、夫妻は片言の日本語で挨拶をしてきた。ニッコリ笑って握手を交わす二人は、夫婦そろって投資家だそうだ。

『へえ。植松さんって、葵って言う名前なんだ』

木村がからかい調子で笑うと、すかさず伊織が忠告を発する。

『お前は名前呼び禁止だ。ミズ・ウエマツと呼べ』
『えらい、差別だな』

大袈裟に肩を竦めた木村へ向かって、今度は日本人らしき女性が近づいてきた。
柔らかな焦げ茶色の肩までの髪、同色の大きな瞳。小さなピアスがキラリと光ったその姿は、なかなか理知的な美人だ。

(あれ、この女性ーーどこか見覚えが……?)

どうしてだろう? わずかに目を見開き真っ直ぐこちらに向かってくる女性とは初対面のはず。
なのに既視感を覚えた葵は、内心で首を傾げた。

『あ、きたきた。植松さん、これ俺の妻の美沙。美沙、この人は鳳条のパートナーの植松葵さんだよ』
『……こんなところで会えるなんて。やっぱりあの時、懐かしい感じがしたのは勘違いじゃなかったのね』

そう言って挨拶の握手をした美沙は、そのままいきなり葵を柔らかく抱きしめてきた。

『植松さん? その節はお世話になりました。あなたの言った通り、やっぱり彼が運命の人だったわ。背中を押してくれて本当にどうもありがとう。おかげで無事、結婚できました』

(運命の人… 結婚……って、あーーもしかして……?)

美沙の親しみのこもった大袈裟なほどのジェスチャーにびっくりしたものの、覚えのあるフレーズで一気に思い出した。

『あの、何年か前に自由が丘で……お話ししたことが、ありますか?』
『思い出してくださったのね。お久しぶりです』

なんと彼女は、いつぞや葵が駅のベンチで電車を待っていると、「10年越しの彼と結婚するべきか?」と相談を持ちかけてきた女性だった! 
あの時は確か……彼女は海外から戻ってきたばかりで、長年付き合っている彼が自分の運命の人かどうかが分からなくなってしまったと言っていたのだ。

『美沙? 一体何の話をしているんだ? 植松さんと知り合いだったのかい?』

妻の不可解な言動に、木村は目を見開いた。
美沙と葵以外は、皆不思議そうな顔をしている。

『以前にね、ちょっとお話したことがあるのよ。そうだわ。あなたと鳳条さんは、コリンズ氏と商談があるのでしょう? なら私たちはコリンズ夫人と、そこらでお茶でもしてくるわ』

そう言って、美沙は女性陣をカフェに誘った。そしてさっそく、美沙の結婚話で盛り上がる。

『ロマンチックですねえ、十年越しの結婚ですか。私と夫は、職場結婚なんですよ』

懐かしそうに目を細めるコリンズ夫人は、同じ銀行に勤めていたコリンズ氏と席が偶然隣だったそうだ。ある日職場に忘れ物を取りにいったら、物差しをマイクがわりにロックを大声で歌っているコリンズ氏と鉢合わせした。それがきっかけで、二人でロックコンサートに出かけたのだとコリンズ夫人は笑う。

『葵さんとミスター鳳条のきっかけは、なんですか?』

きっかけ……。そうだ、彼と初めて出会ったきっかけはーー
いまさらながら、とんでもない出会いを思い出した葵の頬がさっとピンクに染まる。

『えっとですね……私が失恋した時に、たまたま慰めてくれたのが彼でしてーー』

……嘘は言っていない。婚約者に二股かけられたショックは、聞こえてきた彼のピアノで癒され……その後続いたキスシーンで吹き飛んだのだから。
タイムリーな出会いだったんですねと愉快そうにコメントされて、葵は『そうですね』と笑うしかなかった。何がきっかけになるなんて、ほんと分からないものだ。

『楽しそうだね……待たせたかな?』

からかうような声が近づいてきた。
ーー出会ったあの夜は、こんな関係になるとは思いもしなかった人……
振り返ると、幼い子供をそれぞれ肩車した伊織と木村、そのうしろからコリンズ氏が一人で歩いてくる。

『あらまあ、プレイタイムが終わったのね』
『ああ。私が寝違いで肩車ができないと言ったら、お二人がボランティアを申し出てくださったんだよ』

コリンズ氏はニコ二コと妻の腕を取った。
その横で妙に違和感なく子供をあやす伊織の姿に、葵の胸がキュンとする。この人はホント何をしてもさまになる……
伊織に肩車してもらっている3歳ぐらいの男の子は大人しいが、木村が肩に乗せている少し年上の子は、その前髪をくしゃくしゃにして遊んでいる。

『こら、前が見えないだろ』
『おじさんがヨロヨロしてるから、怖いんだもん。こっちのイケメンの人なんか、全然平気そうじゃんか』
『鳳条と比べてくれるなよ。おじさんはその分、頭がいいからいいんだよ』

伊織より体格が劣る木村は、やれやれと言った感じで子供をヨイショと下ろした。幼い二人は地面に足がつくと、コリンズ夫人に抱きついている。

『ありがとうございます。ほら、二人とも遊んでもらったんだからお礼を言うのよ』

母親に促された子供たちはニコニコ顔で『ありがとう』を言ってくる。

(か、可愛い~!)

伊織にブラコンだと指摘された葵は、心の中でその幼い姿にデロデロだ。
子供たちが、今日は何をして遊んだとはしゃぐのを聞きつつ、一団は和やかな雰囲気で喋り出した。ーーがそこへ突然。

「鳳条さん! こちらだったんですね。ようやく会えた」

若い女性の声が割って入った。
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