上 下
4 / 20

首飾りと指輪

しおりを挟む
咲夜が目を覚ますと、トーストの焼けるいい匂いが階下のキッチンから流れてきた。
両親が亡くなってから、ずっと一人暮らしだった咲夜は、なんだか懐かしい習慣に自然に笑みが溢れる。
パジャマから着替えてキッチンに入って行くと、すっかり馴染んでいる太郎が朝ごはんを食べながらノートパソコンでニュースを見ていた。
「おはよう。」
「お早うございます。朝ごはんできてますよ。コーヒーもよかったらありますけど。」
「ありがとう。太郎の今日の予定は?」
「僕は朝、大学に行って、夕方からバイトです。桐ヶ谷さんはお仕事昼からですか?」
「桐ヶ谷って言いにくいでしょう、’咲夜さん’でいいわよ。そう、今日も昼からのシフトだから帰りは昨日と同じぐらいになるわ。」
「了解です。そういえば昨日の夜、訪ねてきた方は咲夜さんの彼氏ですか?あの、僕、お邪魔ならその辺散歩でもしてきますけど。」
無邪気な太郎の言葉に、咲夜は真っ赤になって慌てて言った、
「違うわよ、彼は初めて出会った仲間というか、同志というか。えっ、太郎どうして訪ねて来た人が男性だとわかったの?」
「最初に玄関で声が聞こえましたし、というか咲夜さんは感じなかったんですか? 彼氏、凄く強い方ですよね。僕なんか家の中にいても体が震えるくらいの力を感じましたよ。僕、彼氏の前に出たら怖くて萎縮しちゃいそうですよ。すぐにお二人の気配がなくなったので、どこかに行かれたのかと思ったのですが。咲夜さんからも、同じような力を感じられるのでお似合いですね。」
と無邪気に言ってくる。そういえば、彼に会った時、また香りが溢れて来たので少し強めの結界を二人の周りに巡らした事を思い出した。
確かに光陽からは強い力を感じたが、怖いと感じたことはない。むしろその溢れる力は咲夜にとって心地の良いものだった。
「太郎、もしかして、吸血鬼化するからそんなに力に敏感になるんじゃない? 普通の人間モードでいたら何も感じないかもよ。」
と助言すると、太郎はポンと手を叩いて頷いた。
「そうか、その手があったか。今度試して見ますね。」

その夜、太郎の作ってくれた夜食をありがたく食べ終わり、お風呂を終えてさっぱりした咲夜は、パジャマを着ずに長袖ワンピースに着替えた。
流石に若い男性に会うのにパジャマは駄目だと思ったのだ。
(なんだか、待ち合わせって久しぶりだわ。夜中にこんな待ちどうしい気分になるのも。)
そして月明かりの下、縁側で庭の花々を眺めながら彼を待っていると、間も無く彼が門を開けて入ってきた。
彼の金と緑の瞳が咲夜の姿を縁側に認めると、微笑を浮かべながら咲夜に近づいてくる。
その優雅な動きに今更ながら、彼が稀にみる美青年であることを痛感して、彼の独特の存在感に咲夜の胸は高鳴った。
「こんばんは、お待たせしてしまいましたか?」
彼が低いバリトンで挨拶すると、咲夜の身体は敏感に反応し花の香りが溢れてくる。
暖かくなるネックレスの上に無意識に手を置きながら咲夜はまた二重結界を二人の周りに巡らした。よし、これでプライバシーは守れるはずだ。
咲夜が笑って彼を見上げると、彼は一瞬足を止めて咲夜を眺め、また歩き出して咲夜の横に座った。
そして咲夜に尋ねる。
「今日はその、貴女の花の香りについてお伺いしてもいいですか?」
「これ?もちろんよ。母が香りについては教えてくれたわ。何が知りたいの?」
彼は少し考え、こう言った。
「まずは貴女が知ってることを全部教えて頂けますか?僕は女性のダンピールの香りについては、適齢期に放たれる、としか知らないのです。」
「貴女の言う通り、この花の香りは女性特有のものらしいわ。ただし男性にも同じ現象が起こるとも聞いたけど。それについては貴方の方が詳しいでしょうから、女性に関することだけを話すわね。この現象は女性が伴侶を迎える準備が出来たと言う兆しのフェロモンだそうよ。そして同時に女性の能力が開花される兆しでもある。そしてその血はいわゆる極上の味がして、飲むとなんと言うか回復剤?パワードリンクみたいなものなんですって。だから魔物に美味しい餌として狙われる、と母は言っていたわ。」
「貴女は抑えが効かなくなると昨日の晩言っていましたね。香りは女性の意思で抑えることができるのですか?」
「私は出来ないけど、母は言っていたわ。伴侶に出会ってその人にしか欲情しなくなると、香りは時を刻むにつれ、だんだんと微量になり、十分媒体を通して押さえることが出来ると。」
「媒体?」
「えっと、ほらこんな力のある宝石よ。」
咲夜はそう言って、首にかけていた母譲りのルビーの首飾りを取り出した。
「ちょっと見せてもらってもいいですか?」
彼が尋ねると、もちろんどうぞ、と言って首飾りを外して彼に渡す。
「これは母の物だったの。母にはもう必要ないからって12歳の誕生日にくれたの。これのおかげで今まで香りは抑えていられたのに、今年に入って効力が切れかけなのか、抑えきれなくなる時が増えちゃって、おかげで魔物退治の腕が上がったわ。」
ちょっぴり得意そうに語る咲夜に、彼はルビーを手に持ち、鋭い眼差しで吟味しながら、
「確かにとても力のある宝石です。効力が切れているのではなくて、貴女の力が上がって宝石の力のキャパシティを超えてしまったんじゃないでしょうか。それにこういう物は相性も大事です。他の宝石を試してみましたか?」
咲夜はその言葉にビックリして、
「もちろんないわよ、こういう宝石ってとても高価なのでしょう?それにこの宝石以上、力のある宝石を私みたことないわ。」
と言うと、彼は苦笑いして。
「これは失言でした。確かにこのルビーは最上級の物で、力も最高峰のものでしょう。」
「母は’フレイヤの首飾り’と呼んでいたわ。」
これには彼が驚いて、目を見開いた。
「なるほど、’フレイヤの首飾り’ですか、どうりて力があるはずです。そうだ、良かったらこの指輪を試しに嵌めてみてください。」
彼の長い男らしい指から不思議な色の宝石の指輪を抜き、咲夜に渡した。咲夜が指輪を受け取ると、手の中で宝石が青、緑、青緑と色を変え最後に紫から赤に変わると仄かに光り指輪の大きさが小さくなった。
ビックリした咲夜が恐る恐る中指にはめてみると、指輪は少しきつく入らない。
右手を全部試してもピッタリせず、左手で試すと、何と薬指にハマった途端ピクリとも動かなくなった。咲夜が困って彼を見つめると彼は笑って頷いた。
「どうやら指輪は貴女が気に入ったみたいですね。それはアレキサンドライトと呼ばれる宝石で、この指輪は、’ドラゴン・アイ’、つまり’竜の眼’と呼ばれる指輪です。珍しい宝石で、ほら目のような模様が宝石に入っているでしょう? 持ち主を選ぶので、気難しい気性なのですが、あなたは気に入られたのですね。」
確かに咲夜がひっぱっても指輪はうんともすんとも動かず、薬指から外れない。
「あの~、指輪が外せないんだけど。」
「ああ、その指輪が持ち主を選んだのですから、それはあなたのものですよ。多分、’フレイヤの首飾り’、よりあなたとの相性がいいのでしょう。貴女の良いパートナーとなるに違いない。」
彼が言うとまた指輪が、当たり前だ、と言う様に仄かに光った。
(不思議な指輪ね、指にぴったりはまって、なんだか懐かしい感じがする。)
「ありがとう。でも、それじゃあ貴方の媒体がなくなってしまうわ・・・」
「もし良かったら貴女の首飾りを僕に頂けませんか。」
「ああ、そうね、それならそう、交換しましょう!」
彼が首飾りを首にかけると、ルビーも仄かに光った。今まで首飾りをかけていて、そんな現象を見た事のなかった咲夜は驚き、そんな咲夜に彼は笑いかける。
「どうやら、僕も気に入ってもらえた様です。」
その案外無邪気な彼の笑顔に、咲夜が(可愛い)とドキッとすると、また花の香りが漂う。
しかし、その香りは、これまでの甘ったるい感じではなく、爽やかな夏の花の様な香りに変わっている。
「先ほどと香りが違う。とてもいい匂いですね。僕はこちらの香りの方が好きです。」
彼はこの新しい香りが気に入った様だ。大きく深呼吸をして仄かな香りを楽しんでいる。
咲夜は、これまた、自分の香りが変わるという現象も初めてで、新しい発見に戸惑う。
「こんな良い香りを魔物に嗅ぎつけられるからと言って力で消してしまうのは、なんだか残念ですね。僕だけでもこの香りを楽しむことが出来ればいいんですが。」
彼が残念そうに言うと、咲夜の指に嵌った指輪が分かった、と言う風にまた仄かに光り、香りがそこから広がるのがぴたりと止んだ。
「あれ?香りが消えた?」
「えっ、でも私は止められないし、まだ香りは漂っているわ。」
二人して声をあげ、お互いに顔をかしげた。
指輪は知らぬ存ぜぬと沈黙している。
彼はなんと言っていいかわからないと、言う様子で、
「持ち主の意思に反することはしないはずなんですが・・」
と言って指輪に顔を近づけると、ピタッと動きを止めた。そしてもう一度遠ざかり、また顔を近づけてくる。
「貴女に近づくと花の香りがします。どうやら匂いを消したのではなく、貴女の張った二重結界の一つの形を変え、貴女の身体の周りに巡らせて香りが結界を越えて漏れないように調節しているようです。ということは・・・貴女の意思で結界の形を変えることができますか?例えば僕と貴女の周りの空間全域ではなく、僕と貴女の身体の形に沿ってその周りにだけ結界を巡らせると言った感じに。」
咲夜はますます困惑した。
「そんなこと出来るの?結界は固定した空間、つまり界域を自在に操る術だと教わったのだけど。」
「概念は一緒ですよ。ただ、結界を維持する為には非常に制御が難しくなり、かなりの力を消費する筈です。なにせ動く物体に合わせて界域が常に移動するのですから。」
「うーん、ちょっと待って、やって見るから。」 
そして、あーでもない、こーでもないと、結界の形を意思で操ることに集中する。
「あーまた失敗。私の周りに巡らすのはコツを掴めば簡単なんだけど。ほら・・・一回展開させてしまえば、あとは放っておいても大丈夫、全自動よ。力の消費も全然感じられないわ。だけど、貴方の周りに巡らすのが、なかなか照準が定まらないというか。集中しないと、ほら、貴方が動くとすぐバーストしちゃうわ。何か貴方に固定して動く、こう印みたいな物があれば・・・」
彼はそれを聞くと少し考えてこう言った。
「つまり、ミサイルの誘導方式のように、何か、的の印のようなものを貴女が僕につければ良いわけですね。」
「そう!そうよ。ホーミングディバイスみたいなはっきりしたマークがあれば常にそれを追うようにイメージを込めた力を投げればできると思うわ。」
「なるほど、それなら・・・」
彼はそう言って、ゆっくり咲夜に近づき腰を抱いたかと思うと片手を咲夜の頭の後ろに回した。
彼の突然の接近に咲夜は戸惑い、だんだん近づいてくる彼の金緑の瞳に吸い込まれるように魅入っているといつの間に彼に口づけされていた。
「んっ・・」
最初はビクッとした咲夜も、唇から広がる甘い痺れにも似た感覚に、やがてうっとり目を閉じる。
(ああ、すごくドキドキする。よく知っているような、知らないような不思議な感じ。)
彼は咲夜が抵抗せず受け入るように目を閉じたことを確かめると、角度を変えさらに深く咲夜に口づける。
唇を合わせたままゆっくり咲夜の唇を味わうように舌でなぞると、誘われるように咲夜が口を開く。
彼の熱い舌がゆっくり侵入して来て咲夜の舌に絡まった。
甘い唾液の交換に咲夜の身体が熱を伴って震え、いつの間にか夢中で彼の膝の上に乗り上げ、逞しい身体に手を回し、咲夜も熱く舌を絡める。
彼の咲夜の腰を抱く手に力がこもり、シルクのような髪を愛しむよう髪の下に手を這わせ、咲夜を抱き込むようにして何度も何度も口付けを繰り返す。
すると、咲夜に唾液を通じて彼の力が温かくゆっくり流れ込んできた。口付ける毎に、彼にも咲夜の力が流れ込んでいき、二人の口の中でそれは甘く温かく混じりあう。
溢れた甘い唾液が二人の口の端から溢れ滴り落ちるが、二人はお互いに夢中で、気にもとめずに永遠と舌を絡め合い、唾液を啜り、舌を甘噛みし、時間を忘れて口づけあった。
(気持ちいい・・・)
甘い口づけを交わしながら、互いの存在を愛しく思う感情が止まらず、二人の身体が熱を帯びて行く。
これ以上は不味い、と二人共、同時に感じ取り、引き返せるギリギリでゆっくりお互い唇を離す。
しかし二人ともすぐに相手の身体を離すことができず、未だ抱き合いながら、額をくっつけハアハアと荒い息を整えていった。
銀糸が二人の近い距離を繋いでいたが、やがて重みで切れる頃、ようやく顔を離し、二人で幸せそうに笑い合った。
「ふふふ、こんなに気持ちのいいキスは初めて。」
「貴女は本当に甘い味がするのですね。僕も年甲斐もなく夢中になってしまった。」
彼の両手は咲夜の背を支え、しばらくお互い体の温もりを楽しんでいたが、ふと咲夜は彼の膝にまたがって座り込んでいる己のあられもない格好に気づいた。
真っ赤になりながら、スカートをひるがえして彼の膝から降りていく。
「私ったら夢中になって、こんなはしたない格好を・・」
咲夜の恥ずかしそうな様子に、彼は笑って、悪戯っぽく言った。
「僕には、最高に誘惑的な格好ですが。貴女がとるどんなポーズも、はしたなくありませんよ。僕にとっては挑発でしかありませんから。」
彼の明らかな称賛がこもる目に、咲夜は益々顔に血が上って真っ赤になり、
「あ、あの、もう一回、結界試していい?」
と強引に話題を変え、彼が笑って頷くと、大きく深呼吸し、呼吸を整える。
先ほどの、彼との甘い力の交換で、彼の中に流れ込んでいった咲夜の力の流れを感覚で辿ると、彼の存在がはっきりと感じらる。
咲夜の力で彼の周りを包むよう念じると、エイっと力を彼に投擲してみる。
すると彼の周りを包み込むように咲夜の力が展開し、結界が張られた。
「やったわ、出来た!少しづつ動いてみて。」
彼にお願いすると、彼は縁側から立ち上がり、少しずつ咲夜から離れていく。彼の身体が咲夜から離れていっても、彼の存在は常に感じられ任意の結界は展開されたままだ。
よし、と今度はそこに咲夜の香りを彼にだけに届く様、条件付けで香りをそこ以外漏らさない様念じてみる。
すると彼が大きく深呼吸し、にっこり笑って、
「貴女の香りがする。」と咲夜に告げた。
その言葉に咲夜も思わずほほえみ返したが、ふと、だけど、本当に他には香りは漏れていないのだろうか?と心配になる。
ルビーの首飾りをつけていた時と違って、全ての匂いを遮断するのではなく、花の香りを気に入っている彼には咲夜の存在を感じて欲しくて、自分と彼の周りに張ってある結界の中だけは自然体のままにしてある。
初めての試みに、結界の完成度を確かめたくなった咲夜は、少し考えた末に、彼に、「ちょっとそのまま待っててもらえる?」と言って、今度は太郎に念話を送る。
(太郎、ちょっと縁側に出てきて。
(えっ、咲夜さん?今どこにいるんですか?)
そうか、まだもう一つプライバシー結界は自分と彼を囲んで固定したまま展開してあるんだった、と結界を解くと、
(げっ、あの~、その、やっぱり行かなくちゃダメで・・・ああ、今向かってます。だけど、そのおっそろしいパワー、何とかなりませんか)
ガラッと中からガラス戸が開き、恐る恐る太郎が顔を出す。
「太郎、紹介するわね。こちら春日光陽さん。春日さん、こちらは今、私の家に居候している、太郎こと保科太一郎君。」
「こ、こんばんわ。保科と言います。よろしく」
「ああ、君だったんだね、家の中の気配は。こんばんは、春日です、どうぞよろしく。」
太郎はいまだに緊張気味に咲夜に問う。
「あの、それで咲夜さん、ご用件は?」
「あっそうそう。太郎、そこから何か花のような匂いを感じる?」
「? 何も匂いませんが?」
よし、太郎と咲夜の距離は1メートル程だ。
「じゃあ、ちょっと縁側から降りて春日さんの手前まで行ってもらえる?」
「か、勘弁してください。力のオーラみたいなのが彼から吹き出てるじゃないですか、萎縮しちゃって、足が動きませんよ。」
そうか、吸血鬼化した太郎には、彼の正統な力が相当負荷に感じるようだ。
かといって、吸血鬼化を解いてしまえば、彼は人間の嗅覚に戻ってしまう。
「春日さん、力を抑えることは出来ますか?、太郎が怖がって近づけないみたいなので。」
「ああ、そういえば、指輪を外したな。フレイヤ、出来るか?」
もちろん、と言うようにルビーが仄かに光る。すると彼の溢れ出す力が縮小したのが感じられた。
「どう?太郎動ける?」
「まだちょっと怖いですが、先ほどとは比べ物になりませんよ。よし、男は度胸。」
おそる、おそる太郎が彼に近づいていく。1メートルほど手前で止まる。
「咲夜さん、これでいいですか?」
「よし上出来、太郎そこから何か花の匂いを感じる?」
「はい、門の手前のしだれ桜、いい匂いですね~、あとは庭の花もいい匂いです。」
「それ以外は?私から花の匂いはする?」
「咲夜さんからは、すごい力しか感じませんよ。自分の主人だから平気ですが、でなければ裸足で逃げ出してますよ。ほんと。」
「えっ、私もなの?ちょっと指輪君、なんとかならない?」
指輪が仄かに光り、咲夜の背後の大きな影のようなものがみるみる縮小して等身大ぐらいになる。
「どう、太郎?」
「はい、力は感じますが、先ほどとは比べ物になりません。それ以外は何も感じませんね。」
「よし、じゃあ春日さんの手をとって顔を近づけてみて。」
太郎に言うと同時に、光陽に展開している結界を彼から20センチぐらいに広げてみた。
太郎は恐る恐る彼に近づき、手が届くギリギリで止まると、光陽の手を取ろうと近づいたが、20センチぐらいまで近づくと、とっさに顔を離し遠くに飛びのく。
「どうしたの?」
「何か、彼からいい匂いがして、えーと、間違いをおかしそうになったので、ちょっと距離を取りました。」
間違い? なんの間違いだろう、と咲夜は思いながら太郎にもう一度お願いする。
「じゃあ、吸血鬼化を解いて、彼に近づいてもう一度試してみてくれる?」
「えー、ちょっと待ってください、自制心を呼び戻しますので。彼は男、彼は男と・・・」
何か不思議な呪文を唱えながら、太郎は彼に近づいていき、太郎の呪文を聞いて笑い出しそうな光陽の手をとり、顔を近づけるとすぐに離し、
「何か香水のような匂いは微妙にしますが、さっき感じた衝動は感じません。あれっ、彼氏、凄いイケメンですね。ちょっと近寄りがたいぐらい雰囲気があってかっこいい・・・」
と見惚れた後ホッとしたように言う。
(そうか、普通の人は香水のように感じるんだ。)高校を卒業してから首飾りを付けっぱなしだったので、今初めて知った真実。
(じゃあ、ずっとこのままでも他の人の迷惑にはならないわけだ。満員電車とか人混みの多いところに行く時だけ距離を1センチぐらいに縮めれば問題なしよね。)
太郎は咲夜に近づき、その顔を見て今更また驚いている。
「えっ、咲夜さん? 凄い美人だったんですね、いや、顔は認識していましたけど、力に押されて気がつかなかったです。」
表情がくるくる変わる素直な太郎に、咲夜も笑い出して、
「ありがとう、君も可愛い顔してるわよ。」
というと真っ赤になって、
「あの、それじゃあ僕、もう行っていいですか?」
と咲夜に聞いてきた。咲夜が頷くと、バタバタと家の中に帰っていく。

咲夜は彼とのプライバシー結界を張り直すと、歩いてくる彼に嬉しそうに言った。
「出来たわ!これで魔物からの襲撃は減るはずよ。貴方と指輪のお陰ね、ありがとう。指輪君もお疲れ様。」
彼が咲夜の側に立って笑って頷き、指輪が光ると、咲夜は少し気恥ずかしそうに、聞いてみた。
「貴方の注文通り、貴方にしか香りを届かないようにもできるわ。貴方は私の香りに惑わされないし、香りも気に入ってくれているから、私としては貴方にこのままこの香りを楽しんで欲しいのだけれど、貴方はどうしたい?」
彼は、愛でるように目を細めて咲夜を見つめ、長い手で腰を引き寄せた。
「僕としては貴女が他の男にこの香りを使わない、というのであれば異存は無い。但し一つ注文がある。」
「なあに?」
不思議そうな咲夜の耳元に唇を寄せ甘くバリトンで囁く。
「僕を春日さん、ではなく、’光陽’、と呼ぶこと。」
彼のこの言葉に、一層親しさを感じて、咲夜は嬉しくなった。
「わかったわ。じゃあ、光陽、私も貴女ではなく、’咲夜’、と呼んで。」
 咲夜の心臓がどきどきと鳴り、彼のお気に入りの香りが二人の周りに匂い立つ。彼が咲夜の耳に低く囁いた。
「咲夜・・・」
「んっ、・・・」
彼の囁きが咲夜の身体を甘い痺れのように駆け抜け、身体の力がふっと抜ける。
この瞬間、二人の中で、お互いが大事な人、という思いが重なる。
光陽は咲夜の腰と頭に手を回してしっかり咲夜を支えると唇に甘い口づけをもう一度落とした。
甘い香りに包まれながら、ゆっくり身体を離し、咲夜はまだ名残惜しかったが、彼はもう遅いからと言って、咲夜の手の甲にそっとキスをして帰って行った。

その夜、咲夜はなかなか眠れなかった。
光陽に最初出会った時、高貴な宝石のようなその姿と、圧倒的な力に反応した自分の身体にビックリして逃げ出してしまった。
類い稀な容姿に憧れのような感情を抱き、感傷的にもなった。
昨日、光陽と初めて言葉を交わして、丁寧な物腰の中にも、咲夜に対する気遣いも感じられ、嬉しく思った。
光陽には最初から好意を抱いていたが、彼との会話が増えるにつけ、光陽の凛とした大人っぽい雰囲気の中に、どこか悪戯っ子のような茶目っ気も感じられ、彼を知るほど彼に惹かれていく。
光陽が咲夜の名前を呼んだ時、咲夜の心にはっきりと、彼をもっと知りたい、もっと一緒にいたいという強い欲求が生まれた。
そして、彼にも同じぐらい咲夜を知って、欲しがって欲しくなった。
彼が咲夜に好意を抱いているのは態度でわかったが、咲夜は好意以上のものが欲しくなったのだ。
自分の容姿が悪くないのはわかっている。身長が高いため、告白してくる強者は滅多にいなかったが、時々誘われて、デートも何回かしてみた。でも何故か2回目のデートに続いた試しはない。
咲夜の容姿につられて遠巻きに咲夜を眺める、彼らのような好意を咲夜は彼に抱いて欲しくなかった。
咲夜は光陽の隣にいつも一緒にいて、あの宝石の様な瞳で見つめられ、甘いバリトンで、咲夜にだけ愛を囁いて欲しかった。
これまで、淡い憧れを異性に抱いたことはあっても、これほど強い独占欲や心の欲求を感じたことはない。
それに彼と交わした口づけはこれまで咲夜が経験したどのキスとも違っていた。
彼の力も感じられたそれは、甘いだけでなく、咲夜の心に安心感や開放感、陶酔感をも齎(もた)らし、咲夜を夢中にさせた。
彼が咲夜を気遣って、もう遅いからと帰って行った時は、彼と離れると思うだけで悲しくなった。
時々、彼の態度は、彼が見かけの年齢よりかなり上だ、と思わせる分別と包容力があった。
それは、どこか咲夜を安心させる一方で、自分はもしかしたら、彼から見ればまだ小娘なのかも知れない、とも思ってしまう。
けど、咲夜は光陽を年齢の違いで諦めるつもりはなかった。
咲夜の母はダンピールで、いつまでも、若々しく、父共にまだ20代のように見えた為、咲夜が高校生になると、姉妹、兄妹と間違えられることもしばしばだった。
咲夜は両親に彼らの歳がいくつか何度か訪ねたが、二人とも数えるのをやめた、といって教えてくれなかった。
(でも多分、二人共、本気で気にしてなかったわ。)
今更ながら、両親の幸せそうな顔を思い出し、例え光陽がいくつでも自分には些細なことだ、と気づき、両親の数えるのをやめた、といった意味がようやくわかったような気がした。

しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

エリート警察官の溺愛は甘く切ない

日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。 両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉

秘事

詩織
恋愛
妻が何か隠し事をしている感じがし、調べるようになった。 そしてその結果は...

偽装夫婦

詩織
恋愛
付き合って5年になる彼は後輩に横取りされた。 会社も一緒だし行く気がない。 けど、横取りされたからって会社辞めるってアホすぎません?

淫らな蜜に狂わされ

歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。 全体的に性的表現・性行為あり。 他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。 全3話完結済みです。

ダブル シークレットベビー ~御曹司の献身~

菱沼あゆ
恋愛
念願のランプのショップを開いた鞠宮あかり。 だが、開店早々、植え込みに猫とおばあさんを避けた車が突っ込んでくる。 車に乗っていたイケメン、木南青葉はインテリアや雑貨などを輸入している会社の社長で、あかりの店に出入りするようになるが。 あかりには実は、年の離れた弟ということになっている息子がいて――。

処理中です...