真昼の月は燃え上がる

小槻みしろ

文字の大きさ
上 下
16 / 16
一章

十五話 露見◆

しおりを挟む
「お母さんはだまされたんだ。あさき、わかってくれるよな」

 父は言った。涙に埋もれた赤い目が、ぐらぐらと揺れていた。大きく見開かれた目は、にらんでいるのと大差なかった。
 あさきは、息も忘れてその顔を見ていた。忘れていることさえ、気づかなかった。

 あれからしばらくして、父は突き破るように病室に戻ってきた。あさきの腕をつかみ引いて、強引に立ち上がらせた。余りに強く握られたので、肘の関節が広がって、周辺の血が膨張する心地がした。
 父はあさきを見ず、医師と事務的に――ひどく冷淡に――会話を交わすと、あさきに向かって「行くぞ」と言った。あさきに向けた言葉であり、あさきの為ではなく、医師に対して、線を引くための言葉だった。
 そんな風な言い方をする父は、見たことはなかった。今日はずっと、初めてのことばかりだ。父の手の肉と骨が、肘のやわいところに食い込んで、痛かった。
 不意に父はあさきの腕を放した。血が肘からどっと流れるのを感じる。あさきは腕を揺すった。
 父は、ベッド脇にひざまずくと、そっと母の顔の輪郭を撫でた。羽が降りるような、かすかで優しげな動きだった。

「待っていてくれ。必ず迎えに来るから」

 優しい、優しい声だった。いつもの父の――あまりにいつもの――だからそれが今、とても異常に聞こえた。
 父はあさきの腕をつかみ直すと、病室を後にした。女性の看護師が、小さくあさきに会釈をした。あさきは、目でそれを返したが、父があまりに速く歩くので、看護師の姿は、壁の向こうへとすぐに消え去ってしまった。
 いつのまにか、四人の男たちはいなくなっていた。
 それから、家まで無言だった。玄関のドアを開けると、留守番をしていたはるひと空が、転がるように駆け寄ってきた。

「お母さんは!?」
「おかーさん」

 父はそれに応えず、通り過ぎて行ってしまった。ネクタイをゆるめ、ジャケットをたたくように脱ぎながら。二人はついて行こうとしたが、いつも温厚な父のただならぬ気配に、足がすくんでしまったようだった。二人はその場に立ち尽くした。

「おねえちゃん」

 はるひがあさきを呼んだ。頼りない――迷子の子供があたりを見渡すような声だった。あさきは靴を脱ぐと、玄関にあがり、ひざまずいて二人を強く抱きしめた。

「大丈夫」

 二人は、せきを切ったように泣き出した。
 あさきは、その声に、不思議と心が落ち着くのを感じていた。小さな妹、弟の体はやわらかく、あたたかかった。ようやく、自分がどこにいたか、わかった気がしたのだった。二人は胸を膨らませ、体をはねさせて泣いた。あさきは、二人をなだめながら、なぜか玄関のフローリングの溝を眺めていた。息をつめてずっと。
 ――かわいそうに。
 向けた言葉は、二人へのものか、誰へのものか――全くわからなかった。
 二人が泣いて、泣いて、ずっと泣いて、疲れて泣きやむまで、あさきはずっと玄関にひざまずいて、二人を抱きしめていた。
 父はそれからもずっと黙って、自室にこもっていた。父はいつでも、自分たちと、母のもとにいてくれたので、部屋などあってないような人だった。その分、はるひと空の不安も大きかった。
 あさきはひとまず飯を炊いた。真夏の温い水が、やけに生々しく、あさきの手にからみついた。心の中のざわつきを流すように、あさきは米をとぎ、水を捨てた。
 全部流れろ。
 ふと、そう思った。何をともわからない無意識の叫びだった。
 炊飯のスイッチを押すと、何か仕事をしたような気になった。しかしそれも一瞬のことで、また、焦りに似た不安が、あさきの胸を、皮膚の内側をかきむしった。
 その分、あさきは、はるひと空にかまった。二人を慰めていれば、自分の心は、真ん中にいれくれる気がした。
 何も考えられなかった。いや、何も考えたくなかったのかもしれない。
 父は一時間ほど後に、部屋から出てきた。あさきを一瞥すると苦しそうに目をそらした。それから冷蔵庫を開けて、取り出した缶ビールをあおった。
 あまり勢い込んだので、あふれ、口を伝いのどを伝い、シャツをぬらした。父の手はひどくふるえていた。それでも飲むことは止めなかった。
 父は、キッチンの流しの縁に、缶ビールの底を叩きつけた。はるひと空は、気を取り直して、父に駆け寄ろうとしていた足を止めた。しんとあたりが静かになる。家電の電子音が、モスキート音のように耳の奥に響いた。
 父は振り返った。目を伏せ、口を引き結んだその顔は、どう形容しようもなかった。悲しみでも怒りでもない、何かもっと重く暗い――おおよそ人間の表情ではなかった。
 あさきの胸に恐れと不安が走った。
 父は、一足一足ぎこちなく、まるで足が荷物になったかのように歩いてきた。そうしてあさきの前を通り過ぎると、くずおれるように、はるひと空を抱きしめた。かたくかたく抱きしめて、体をふるわせた。
 あさきは、父の手から広がる、はるひと空の服の強いしわを見た。

「お母さんは、すぐ、かえって……」

 それきり、形にならなかった。どうにか絞り出した、というような声は、これ以上ない痛ましさだった。父は、はるひと空を抱き、泣いていた。血の色が肌の全てから浮き上がり、父は赤黒くなっていた。
 はるひと空は、常にない父の様子に怯えたが、父の腕をそっとさすった。顔を不安にくもらせ、涙にゆがませながら、父の肩や腕を撫でた。

「いたいの? おとうさん」
「だいじょうぶだよ」

 泣きながら、二人は父をなぐさめた。父は頷き、ずっとずっと泣いていた。
 あさきは一人、少し離れて、それをずっと見ていた。
 泣きたい。泣きたかった。
 なのに涙は頬骨を痛めるばかりで、胸骨を広げ、背骨をきしませるばかりで、ちっとも出てきてはくれなかった。
 あさきも、父の背をさすりたかった。輪に入りたかった。けれど、一歩が出なかった。私は――なぜ、どこにいるべきなの? そんな疑問がしらじらと浮かんだのだ。
 あさきは三人が抱き合い、慰め合うのを、ずっと見ていた。
 それからどうにか、はるひと空が眠って、あさきは父と二人きりになった。
 父は、キッチンのテーブルのいつもの席に座って、斜め上の天井を見ていた。父の隣の席が、誰も座っていないのが、ひどく際だっていた。
 あさきは、父と視線が合わないのが、不安だった。しかし、自分から声をかけるのも、ためらわれた。口をつぐんで黙っていると、父が、あさきの方に向き直った。
 先までうつろだった目が、らんらんと開かれていた。

「あさき」

 あさきはそっとつばを飲み込んだ。意識的に、ゆっくりと。膝の上に置いた手が冷たい。
 父の目に映る自分は、怯えてはいないだろうか――心のどこかでそんなことを気にしていた。

「お母さんはだまされたんだ」

 強く、太い声だった。返答の余地を作りながら、その実それを許していない、そんな強い独白に近い話し方だった。あさきは意図をつかみかねて、次の言葉を待った。

「同級生の碓井さんは知っているな」

 父は冷静に話そうとしているようだった。声音は表面はぞっとするほど固いのに、中が不安定にふるえていた。そして、あさきからまた目線を外した。

「うん」

 あさきは頷いた。柳のように細くやわらかな印象のクラスメートの姿が浮かぶ。
 しかし、それがどうして今?
 疑問に思いながら、あさきは胸の奥が鉄のように重く冷たく、血のにおいがし出すのを感じていた。自分からおりた陰が重い。

「その子の父親と、母さんが……」

 父の目が、またうつろになった。また目線がうろりと天井へと向かう。頬が微細にふるえている。父はあさきを見なかった。見ないように、努めているように感じた。
 沈黙がおりる。あさきは、お腹の底が冷たく、足に力が入らなくなってきていた。
 ――まさか……。あさきの中に一つの予想が生まれる。
 父は、あさきの動揺を知ってか知らずか、視線を戻した。目はまた強い光を宿していた。

「あの男のせいだ」

 父はそう言った。はっきりとした声だった。こんなに怖い声を、あさきは今まで聞いたことはなかった。

「あいつは、妻が病気だからと、お母さんの優しさにつけこんで――そして、お母さんを」

 それ以上は言葉にならなかった。悲しみからではないのが、すぐにわかった。テーブルの上で握られた父の拳が、真っ白になっていた。テーブルがふるえる。

「どういうこと?」

 この言葉を言うのには、相当な努力が必要だった。必要な問いなのに、父の心を荒立てるのが、わかっていたからだ。けれど、一度口にすれば、あさきも黙っていられなかった。

「お母さん、その人とどうなったの?」

 言いながら、あさきは吐き気がしていた。
 ――あさき。お母さん、今、恋をしてるの。
 心の中で、もう問いの答えは浮かんでいたからだ。けれど、はっきりと確かめずにはいられなかった。

「お母さん――浮気したの?」

 覚悟を持って問うたはずだった。しかし、あさきは自分の声が、軽々しくいっそ笑っているようだとさえ思った。答えはあった。けれど、空虚だった。覚悟もなかった。
 だって、あまりにも現実感がない……浮気だって? お母さんが……もしかして、自分は今、笑ったりなんてしているだろうか?
 しかし、父は、その言葉に、目を、顔を、全身を――真っ赤にして膨らませた。

「あいつが七緒を狂わせたんだ!」

 父はすごい目であさきを見て、叫ぶなりテーブルを叩いた。テーブルがはねて揺れる。叩くなんて音ではなかった。テーブルと床が殴り合う音について、バネのような金属音が、わんわんと反響した。
 あさきは目を見開いて硬直した。何も言えなかった。ただ、自分の言葉が、父をひどく傷つけてしまったことだけはわかった。しかし、父はあさきに何を求めてもいなかった。

「母さんはずっとお前たちを愛していた! 僕を愛してくれていた! 僕だけをずっと見ていたんだ――それをあの男が、全部、あの男が!」

 たたきつけた拳はわなわなとふるえテーブルを押しやった。テーブルがゆらゆらと揺れていた。
 父はうめいた。もはや泣き声ではない、何かもっと強い感情をのせたうめきだった。あさきは、黙り込んでいた。聞きたいことはまだあった。けれど、一番必要なことは知ってしまった。
 父は息を長く吐くと、ゆらりと顔を上げた。真っ赤に充血した目を見開き、唇からはこぼれでるように歯をくいしばっていた。

「お母さんはだまされたんだ」

 一音一音、刃物のような息とともに吐き出された。赤く濡れた目が、あさきを映している。

「あさき、わかってくれるよな」

 幾分やわらかに響いた苦悶の声は、哀願の余韻を残し、あさきの喉元にからみついた。
 その問い――確認に、あさきは頷いたか、頷かなかったのかは、わからない。
 ただ、一人のような心地で、その時を過ごした。父はそれきり何も言わず、あさきを見なかった。あさきはそれに、心許なさとわずかな安堵を覚え、席を立った。時間ももう遅いから、といいわけをした。
 あさきはそれから風呂に入った。事務的な日常の行為をこなして、部屋に入った。父の背はずっと、キッチンのテーブルにあった。かけよって抱きしめたい衝動にかられたが、どうしてもそれができなかった。
 ベッドに入り、布団に頭までくるまった。クーラーをつけていないから、すぐに汗だくになった。なのに、体は氷のように冷たかった。あさきは自分の手がふるえているのに、そこでようやく気づいた。
 気づいた瞬間に、せきを切ったように、心が体を圧迫した。あさきは頭を抱え、口を開いた。叫んだはずの声は、のどがふさがって、音にならなかった。
 うそだ
 あさきは髪を引っ張った。手が濡れて、ドライヤーをかけ忘れていたことに気づいた。
 うそだ、うそだ、うそだ
 あさきは心の中で何度も何度も叫んだ。心の中の全てを、その言葉で埋め尽くそうとした。
――あさき、待っていてね――
 しかし、頭がもう一つあるみたいに、必ずあの日の母の声が、あさきの頭を浸食した。あさきは細い金切り声を上げた。黒板を釘でひっかいたような、不快な声だった。
 母さんどうして?
 否定し尽くして、母に埋め尽くされて、疲弊したあさきの頭に浮かんだのは、その一言だった。
 どうして、どうして?
 わからなかった。目を閉じれば、母の笑顔がよみがえる。「お母さん」と駆けていけば、いつも、笑って受け止めてくれた。手の、腕の温かさをはっきりと思い浮かべられる。優しく、無邪気で、あたたかな母の笑顔。ずっと生まれたときからそこにあって、続いていたもの。
 ――大好き。みんな、私の宝物よ――
 母さん、どうして、どうして――

『お母さんはだまされたんだ。あさき、わかってくれるよな』

 父の言葉がよみがえる。
 わからない。お父さん、わからないよ。
 どうしてもわからなかった。
 だから、うそだ、とあさきはまた繰り返す。
 そうして、また、母の笑顔を――
 夜が明け、脳が限界を迎え気絶するまで、あさきはずっとずっと繰り返していた。
 
しおりを挟む
感想 1

この作品の感想を投稿する

みんなの感想(1件)

花雨
2021.08.11 花雨

お気に入り登録しときますね(^^)

小槻みしろ
2021.08.11 小槻みしろ

花雨さん
コメントありがとうございます!お気に入り登録をして頂き、すごく嬉しいです。これからも頑張ります(*^^*)

解除

あなたにおすすめの小説

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

桟田譲児とその家族

ミダ ワタル
現代文学
「孤独を愛し淫することがないように」それが少年に母親が遺した言葉だった。 幸福の記憶に捉われ少年は少女への情念に迷いだす。 全7話完結。

身分差婚~あなたの妻になれないはずだった~

椿蛍
恋愛
「息子と別れていただけないかしら?」 私を脅して、別れを決断させた彼の両親。 彼は高級住宅地『都久山』で王子様と呼ばれる存在。 私とは住む世界が違った…… 別れを命じられ、私の恋が終わった。 叶わない身分差の恋だったはずが―― ※R-15くらいなので※マークはありません。 ※視点切り替えあり。 ※2日間は1日3回更新、3日目から1日2回更新となります。

スルドの声(嚶鳴2) terceira homenagem

桜のはなびら
現代文学
何かを諦めて。 代わりに得たもの。 色部誉にとってそれは、『サンバ』という音楽で使用する打楽器、『スルド』だった。 大学進学を機に入ったサンバチーム『ソール・エ・エストレーラ』で、入会早々に大きな企画を成功させた誉。 かつて、心血を注ぎ、寝食を忘れて取り組んでいたバレエの世界では、一度たりとも届くことのなかった栄光。 どれだけの人に支えられていても。 コンクールの舞台上ではひとり。 ひとりで戦い、他者を押し退け、限られた席に座る。 そのような世界には適性のなかった誉は、サンバの世界で知ることになる。 誉は多くの人に支えられていることを。 多くの人が、誉のやろうとしている企画を助けに来てくれた。 成功を収めた企画の発起人という栄誉を手に入れた誉。 誉の周りには、新たに人が集まってくる。 それは、誉の世界を広げるはずだ。 広がる世界が、良いか悪いかはともかくとして。

辿り着けない世界

和之
現代文学
地方から出て来た二人が知り合って複雑な我が家をとにかくどうするか、と云うサスペンス風でもありファンタジー風でもある恋愛現代ドラマです。

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。