22 / 42
21 宰相のたくらみ
しおりを挟む
グラスエイト女伯爵と呼ばれるようになったのは、四年ほど前のことだ。背は大人ほどあったけれど、やはり子供だったのだなぁと目の前にいる男性を前にアラーナは思った。
「貴女に似合うと思って」
両手一杯に抱えられた薄紅色の花は、丁寧に育てられたのだろう、美しくてとても綺麗だった。この人が花をお土産にもってきてくれた日は、それを見ようと沢山の人が屋敷に集まってくる。そして一日と言わず頬を染めて繰り返し話が盛り上がるというイベントのようになっていた。
「ありがとうございます、宰相閣下。でも毎回・・・・・・」
「いえ、美しいレディに空手でお逢いできるほど枯れてはおりませんよ」
わざとらしく咳ばらいをした宰相、カシュー・ソダイにアラーナは曖昧に微笑んだ。レディ・アラーナと呼ばれることにも慣れたけれど、この人に言われるとくすぐったい。
「こんなところまで来ていただかなくても」
「いえ、年に一度の訪問くらいは許していただきたい。そうでないと貴女の伯爵位が保てませんからね」
窓の外を見ると、麗らかな日差しが照り注いでいる。
本来なら一年に一度、王城に伺候するのが貴族の最低限の務めなのだ。そして毎年同じような書面に署名して、それと引き換えるように貴族位にあっただけのお金が支払わるのだ。
アラーナは、アルベルトの元を辞してから一度も王城に足を踏み入れてはいない。本来あるべき伯爵位を与えられる授与式も、一年に一度のご機嫌伺いも全て特例として宰相立ち合いの元簡略化されている。その代わりにカシュー・ソダイが書面をもってアラーナの元を訪れるのが毎年のこの時期の恒例となっていた。
「そのことですが、私には伯爵位は手にあまるものです。陛下のお気持ちは有難く、ゆっくりと過ごした四年の歳月が心を癒してくれました。陛下や皆さまのお心遣いは有難く思っておりますが、もう、終わりにしたいのです――」
今年アラーナは、二十歳を迎えた。
「何故ですか?」
「伯爵位を持っていると沢山の男性が求婚に訪れるのです。結婚するつもりはないと言っても、伯爵位を継ぐ跡継ぎを作るのが貴族の義務だとかなんだとかで・・・・・・、正直疲れました」
このグラスエイトは、馬の産地でもある。貴族位についてくる国から支払われるお金を少しでもここで暮らす人々のために使おうと思って、アラーナはシエラと相談を重ねて沢山の事業を起こしてきた。
姉が改革したという救護院の身体の不自由な人々にも働き口を作った。宰相カシュー・ソダイの提案を受けて、孤児たちに働く場所を与え、馬だけだったこの地も随分活性化してきた。
その仕事の合間にやってくる誰々の紹介とかいう貴族の子弟である男たちをあしらうのは、正直アラーナには大変だった。去年までは、それでも国王陛下のことが忘れられないのでとごまかしてきたものの、そろそろ男たちも本腰を入れてきているような気がした。
傷心で王城を去ったアラーナについていくために、シエラは女官を辞めた。元々レイモンド・エンディスとの仲が元通りとまではいかないでも復活したから時期をみて辞めることになるだろうと思っていた。アラーナが女伯爵となり、領地となったグラスエイトに来ることにしたのはシエラがついてきてくれると言ったからだ。護衛ではなく、レイモンド・エンディスはアラーナの後見としてグラスエイトにやってきた。そのあたりは全てこの宰相カシュー・ソダイが決めたことだろう。
伯爵位を受けることを拒否したアラーナに、グラスエイトを治めることでアルベルトの力になってほしいと願ったカシュー・ソダイは、アラーナの弱点を本当によく知っていた。
アラーナはカシュー・ソダイに約束を取り付けて、渋々グラスエイト伯爵を受け取った。
グラスエイトを盾に王城への召喚はしないでほしい。
伯爵になれば、それこそ社交も仕事、結婚も仕事となるだろうけれど、貴族の栄華も誇りも義務だって、何一つ欲しくはないのだとアラーナは告げた。
アルベルト様が望んでも?
カシュー・ソダイはアラーナの最大の弱点であるアルベルトの名前をだしたけれど、アルベルトがアラーナを望むことなどないと知っているから、迷いなく頷くことが出来た。
「そういえば、サランドの王子様がいらしているそうですね」
思い出したようにカシュー・ソダイが訊ねた。
「ええ、フィリップ様がいらっしゃってます。グラスエイトの馬は優秀ですから」
アラーナは嬉しそうに言った。
フィリップはサランドの第三王子で確か十四歳だったなとカシュー・ソダイは系図を思い浮かべた。
「サランドといえば、マリーナ様はお元気でしょうか」
「ええ、産後の肥立ちもよくお元気ですわ。一月前に訪問した際には、産まれた王子殿下もとても愛らしくて。お祝いを、ア・・・・・・国王陛下から贈って頂いたと喜んでおりました。ありがとうございます」
もう長いことアルベルト様と呼んでいないなと寂しく思いながら、アラーナはお礼を言った。
「それはようございました。マリーナ様が嫁がれたことで、レジエン王国とサランド王国の発展の礎となられるでしょう」
アラーナは、振られてしまったアルベルトの従兄弟であるリシェール・バルサムを思って、「そうだといいですわ」と曖昧に濁した。
リシェール・バルサムが、アラーナのことを告げにアルベルトの元に来た時、恋敵としてマリーナの側にいたのがサランドの王太子だったとは思いもしなかったが、あの瞬間を狙って二人は駆け落ちしたのだ。
アルベルトの妃になるための試練だと嘘を吐いていたことをマリーナは気付いていたし、アラーナをアルベルトの元に置いてきたことを知ってリシェール・バルサムに見切りをつけたのだ。
マリーナが結婚したと知らせてくれた時、てっきりリシェール・バルサムとだと思っていた家族は、皆サランド王国からの使者に驚いた。お忍びの旅先で怪我をした彼を助けたのがマリーナだったそうだ。王太子エルシオンはマリーナだけには身分を偽らずに誠実にマリーナに愛を請い、マリーナを手に入れた。サランド王国に戻ったエルシオンとマリーナは、さっさと神殿で誓いをかわし、一緒になったのだという。
元々尊敬していた姉だったが、その行動力にアラーナは驚いて素晴らしい人だと確信した。気持ちを持て余して身を引くことしか思いつかなかった自分とは大違いだと羨ましくも思う。
誠実でなかったリシェール・バルサムには、同情の余地もないが、それでも彼の身分は公爵家の跡取りなのだ。馬鹿にしたことになるだろうと両親は言っていた。とはいえ、アラーナもアラーナのことがあって領地に戻ったアレント伯爵夫妻も社交界からは遠ざかって等しいので、噂話を耳にするくらいで、特に困ったことはなかった。
アラーナが思いふけって黙りこむと、カシュー・ソダイは出されたお茶を飲み、一年の間にさらに美しくなったアラーナを伺い見た。
求婚者が増えるのも無理はない。容姿は、社交界でも有名だったマリーナの妹だけあって凛とした美しさを持っていたし、瞳は男が守ってあげたいと思わせるような思慮深さが表れている。引き締まった身体とその割によく育った胸は首まで襟のあるドレスの奥で暴かれるのを待っているかのようだ。
もちろん、伯爵位も彼女を飾る宝石の一つではあるだろう。
「アラーナ!」
突然開いた扉から入ってきたのは、件の王子様だろうとカシュー・ソダイは検討をつけた。
「まぁ、フィリップ! お客様がいらっしゃるのに、勝手に入ってきては駄目でしょう」
王城では、常に皆の妹のような存在であったアラーナのそんな言葉に微笑ましく思っていると、王子様は随分と訝しげにカシュー・ソダイを睨み付けた。
「また求婚者か。おっさんじゃないか。さっさと帰れ。アラーナは俺と結婚するんだ」
おやおやと瞼が軽く震えるくらいに笑いそうになったが本人は本気なのだろう。まだ青年の域にまでは達していないが、少年というには大人びている。カシュー・ソダイは、落ち着いた瞳でフィリップを下から上までそれと分かるように眺めた。
「ほお・・・・・・。アラーナ様、子供に手を出てはいけませんよ」
「出してません」
「俺は子供じゃない!」
ノックの音と共にシエラが入ってきて、フィリップの耳をつかんで引っ張る。
「お久しぶりです、先生。フィリップ殿下、子供じゃないのなら、来客中と分かっている部屋に断りなくはいってはいけませんよ」
「シエラ、俺の耳を引っ張るな!」
王子とも思えない扱いだが、シエラにすればただのガキなのだろう。
「シエラ、もう先生ではないだろう?」
シエラはカシュー・ソダイについてアルベルトと共に学んでいたせいもあって『先生』と呼ぶ癖がある。王城では気を付けていたようだが、すっかり気も緩んでいるのだろう。
「先生でいいじゃないですか。面倒なので。フィリップ殿下、お話しの途中のようですから、もう少しお待ちいただけますわね? 子供じゃないんでしょう?」
嫌味のように言いくるめるシエラは、もう既に子供を産んで母になっているというのに、全く変わっていないようでカシュー・ソダイは安心した。
「子供でいい・・・・・・。子供だったら、アラーナ、一緒に温泉に行こう」
「馬鹿ですか。貴婦人は、子供とはいえ異性と一緒にお風呂に入ったりしないんですよ。もう、いい加減にしてください。縛りますよ」
シエラの本気の目が見えたのだろうフィリップは、大人しく引き連れられて出て行った。最後にカシュー・ソダイに舌を出すのを忘れずに。
「申し訳ありません」
アラーナは、本当にすまなさそうに頭を下げた。
「フィリップと呼んでいるのですか」
カシュー・ソダイが思わず漏らした声に責めるような響きがあったわけではないのに、アラーナはなぜか「すみません」と謝った。隣の国の王子を呼び捨てにしては国際問題になるのかと思ったせいもある。
「いえ、義姉弟になるのですから……」
きっとアルベルトはショックを受けるだろうと思ったのだ。何度言ってもアラーナがアルベルトを様を付けずに呼ぶことがなかったと知っているから。
四年というのは、短いようで長い期間なのだなとカシュー・ソダイは嘆息した。
「先ほどおっしゃってた伯爵位のことですが・・・・・・。返還されるとおっしゃるのなら、王城にて陛下にお願いしてください。私の一存ではどうもすることもできません」
「ですが、授与もそのあとの継続も宰相閣下だけで大丈夫だったではありませんか」
「授与は陛下の命令あってこそです。もちろん継続も特別の処置です」
アラーナは、困ったようにカップの先を見つめた。
「その特例ということで、返還させていただけませんか?」
自分への授与にどんな思惑があったのかアラーナは知らない。アラーナの幸せな結婚を望んだアルベルトのささやかな贈り物だったのだが、アラーナは結婚を望んでいないという。口にしないだけで、やはりアルベルトとのことはショックだったのだろう。
「なぜ貴女が求婚されるのかわかりますか?」
カシュー・ソダイは、アラーナの困惑した顔を眺めながら、頭の中でどうするべきか考えていた。
「私が伯爵位を頂いたからですわ。返還しても私はアレント伯爵の娘ですから、求婚者がいなくなるとは限りませんが・・・・・・」
マリーナが隣国へ嫁いだこともあって、アレント伯爵家の相続人となるだろうアラーナには価値がある。
「貴女が、沢山の男性に求婚されて困っているということはわかりました。ですが、そのままアレント伯爵令嬢に戻られても状況は変わらないでしょう。というより、伯爵位を返上し、レイモンド・エンディスの後見もなくなれば、国王の庇護がなくなったと思われて余計に今よりも酷い方法をとって、貴女を自分のものにするかもしれません」
アラーナの顔が青醒めた。想像がついたのだろう。レイモンド・エンディスの報告には何度かアラーナが襲われかけていたとあった。レイモンド・エンディスがつけた護衛が優秀だったことと彼が国王の名の元アラーナを後見していると公言していることで、なんとか今の状態を保っているのだ。
「貴女が貴族の妻として価値がある限り、狙われるということです」
貴族の妻・・・・・・とアラーナは呟く。
「それは・・・・・・」
「ええ。貴族の妻として、その処女性を保つ限り、貴女は狙われるのだと思います」
家を継ぐ後継者を産む正室には、処女性が求められるのは当然のことだろう。子供を産んだ後に遊ぶことは別段恥ずかしいことだとは思われていないが、その分嫁ぐまでは貞淑さを求められる。
アラーナが貞淑な貴婦人でないとわかれば、幾人かは確実に減るだろう。
「私が、その・・・・・・殿方と、そういうことをすれば・・・・・・」
「ええ」
カシュー・ソダイは、アラーナのことを諦めてはいなかった。その辺の馬の骨にアラーナを取られることを思えば、嘘など簡単につくことが出来た。たとえ、その嘘でアラーナが傷つくことになっても、国のためだと納得できた。
「王城にて陛下に伯爵位の返上を願いなさい。その時に陛下に奪ってもらえばいいのです。まだ、陛下のことが好きなのでしょう? 陛下は、貴女のお願いを無下にはしませんよ」
真っ赤になったアラーナが、手を握りしめているのを見て、カシュー・ソダイはホッとした。
「陛下は・・・・・・」
「アラーナ様、お待ちしております。来月の国王陛下の誕生会にある舞踏会に、私がエスコートさせていただきます。大丈夫、きっとうまくいきますよ」
とっておきの微笑を浮かべて、カシュー・ソダイは迷い揺れるアラーナの手を取って、その甲に忠誠を誓うべく、口づけを落としたのだった。
「貴女に似合うと思って」
両手一杯に抱えられた薄紅色の花は、丁寧に育てられたのだろう、美しくてとても綺麗だった。この人が花をお土産にもってきてくれた日は、それを見ようと沢山の人が屋敷に集まってくる。そして一日と言わず頬を染めて繰り返し話が盛り上がるというイベントのようになっていた。
「ありがとうございます、宰相閣下。でも毎回・・・・・・」
「いえ、美しいレディに空手でお逢いできるほど枯れてはおりませんよ」
わざとらしく咳ばらいをした宰相、カシュー・ソダイにアラーナは曖昧に微笑んだ。レディ・アラーナと呼ばれることにも慣れたけれど、この人に言われるとくすぐったい。
「こんなところまで来ていただかなくても」
「いえ、年に一度の訪問くらいは許していただきたい。そうでないと貴女の伯爵位が保てませんからね」
窓の外を見ると、麗らかな日差しが照り注いでいる。
本来なら一年に一度、王城に伺候するのが貴族の最低限の務めなのだ。そして毎年同じような書面に署名して、それと引き換えるように貴族位にあっただけのお金が支払わるのだ。
アラーナは、アルベルトの元を辞してから一度も王城に足を踏み入れてはいない。本来あるべき伯爵位を与えられる授与式も、一年に一度のご機嫌伺いも全て特例として宰相立ち合いの元簡略化されている。その代わりにカシュー・ソダイが書面をもってアラーナの元を訪れるのが毎年のこの時期の恒例となっていた。
「そのことですが、私には伯爵位は手にあまるものです。陛下のお気持ちは有難く、ゆっくりと過ごした四年の歳月が心を癒してくれました。陛下や皆さまのお心遣いは有難く思っておりますが、もう、終わりにしたいのです――」
今年アラーナは、二十歳を迎えた。
「何故ですか?」
「伯爵位を持っていると沢山の男性が求婚に訪れるのです。結婚するつもりはないと言っても、伯爵位を継ぐ跡継ぎを作るのが貴族の義務だとかなんだとかで・・・・・・、正直疲れました」
このグラスエイトは、馬の産地でもある。貴族位についてくる国から支払われるお金を少しでもここで暮らす人々のために使おうと思って、アラーナはシエラと相談を重ねて沢山の事業を起こしてきた。
姉が改革したという救護院の身体の不自由な人々にも働き口を作った。宰相カシュー・ソダイの提案を受けて、孤児たちに働く場所を与え、馬だけだったこの地も随分活性化してきた。
その仕事の合間にやってくる誰々の紹介とかいう貴族の子弟である男たちをあしらうのは、正直アラーナには大変だった。去年までは、それでも国王陛下のことが忘れられないのでとごまかしてきたものの、そろそろ男たちも本腰を入れてきているような気がした。
傷心で王城を去ったアラーナについていくために、シエラは女官を辞めた。元々レイモンド・エンディスとの仲が元通りとまではいかないでも復活したから時期をみて辞めることになるだろうと思っていた。アラーナが女伯爵となり、領地となったグラスエイトに来ることにしたのはシエラがついてきてくれると言ったからだ。護衛ではなく、レイモンド・エンディスはアラーナの後見としてグラスエイトにやってきた。そのあたりは全てこの宰相カシュー・ソダイが決めたことだろう。
伯爵位を受けることを拒否したアラーナに、グラスエイトを治めることでアルベルトの力になってほしいと願ったカシュー・ソダイは、アラーナの弱点を本当によく知っていた。
アラーナはカシュー・ソダイに約束を取り付けて、渋々グラスエイト伯爵を受け取った。
グラスエイトを盾に王城への召喚はしないでほしい。
伯爵になれば、それこそ社交も仕事、結婚も仕事となるだろうけれど、貴族の栄華も誇りも義務だって、何一つ欲しくはないのだとアラーナは告げた。
アルベルト様が望んでも?
カシュー・ソダイはアラーナの最大の弱点であるアルベルトの名前をだしたけれど、アルベルトがアラーナを望むことなどないと知っているから、迷いなく頷くことが出来た。
「そういえば、サランドの王子様がいらしているそうですね」
思い出したようにカシュー・ソダイが訊ねた。
「ええ、フィリップ様がいらっしゃってます。グラスエイトの馬は優秀ですから」
アラーナは嬉しそうに言った。
フィリップはサランドの第三王子で確か十四歳だったなとカシュー・ソダイは系図を思い浮かべた。
「サランドといえば、マリーナ様はお元気でしょうか」
「ええ、産後の肥立ちもよくお元気ですわ。一月前に訪問した際には、産まれた王子殿下もとても愛らしくて。お祝いを、ア・・・・・・国王陛下から贈って頂いたと喜んでおりました。ありがとうございます」
もう長いことアルベルト様と呼んでいないなと寂しく思いながら、アラーナはお礼を言った。
「それはようございました。マリーナ様が嫁がれたことで、レジエン王国とサランド王国の発展の礎となられるでしょう」
アラーナは、振られてしまったアルベルトの従兄弟であるリシェール・バルサムを思って、「そうだといいですわ」と曖昧に濁した。
リシェール・バルサムが、アラーナのことを告げにアルベルトの元に来た時、恋敵としてマリーナの側にいたのがサランドの王太子だったとは思いもしなかったが、あの瞬間を狙って二人は駆け落ちしたのだ。
アルベルトの妃になるための試練だと嘘を吐いていたことをマリーナは気付いていたし、アラーナをアルベルトの元に置いてきたことを知ってリシェール・バルサムに見切りをつけたのだ。
マリーナが結婚したと知らせてくれた時、てっきりリシェール・バルサムとだと思っていた家族は、皆サランド王国からの使者に驚いた。お忍びの旅先で怪我をした彼を助けたのがマリーナだったそうだ。王太子エルシオンはマリーナだけには身分を偽らずに誠実にマリーナに愛を請い、マリーナを手に入れた。サランド王国に戻ったエルシオンとマリーナは、さっさと神殿で誓いをかわし、一緒になったのだという。
元々尊敬していた姉だったが、その行動力にアラーナは驚いて素晴らしい人だと確信した。気持ちを持て余して身を引くことしか思いつかなかった自分とは大違いだと羨ましくも思う。
誠実でなかったリシェール・バルサムには、同情の余地もないが、それでも彼の身分は公爵家の跡取りなのだ。馬鹿にしたことになるだろうと両親は言っていた。とはいえ、アラーナもアラーナのことがあって領地に戻ったアレント伯爵夫妻も社交界からは遠ざかって等しいので、噂話を耳にするくらいで、特に困ったことはなかった。
アラーナが思いふけって黙りこむと、カシュー・ソダイは出されたお茶を飲み、一年の間にさらに美しくなったアラーナを伺い見た。
求婚者が増えるのも無理はない。容姿は、社交界でも有名だったマリーナの妹だけあって凛とした美しさを持っていたし、瞳は男が守ってあげたいと思わせるような思慮深さが表れている。引き締まった身体とその割によく育った胸は首まで襟のあるドレスの奥で暴かれるのを待っているかのようだ。
もちろん、伯爵位も彼女を飾る宝石の一つではあるだろう。
「アラーナ!」
突然開いた扉から入ってきたのは、件の王子様だろうとカシュー・ソダイは検討をつけた。
「まぁ、フィリップ! お客様がいらっしゃるのに、勝手に入ってきては駄目でしょう」
王城では、常に皆の妹のような存在であったアラーナのそんな言葉に微笑ましく思っていると、王子様は随分と訝しげにカシュー・ソダイを睨み付けた。
「また求婚者か。おっさんじゃないか。さっさと帰れ。アラーナは俺と結婚するんだ」
おやおやと瞼が軽く震えるくらいに笑いそうになったが本人は本気なのだろう。まだ青年の域にまでは達していないが、少年というには大人びている。カシュー・ソダイは、落ち着いた瞳でフィリップを下から上までそれと分かるように眺めた。
「ほお・・・・・・。アラーナ様、子供に手を出てはいけませんよ」
「出してません」
「俺は子供じゃない!」
ノックの音と共にシエラが入ってきて、フィリップの耳をつかんで引っ張る。
「お久しぶりです、先生。フィリップ殿下、子供じゃないのなら、来客中と分かっている部屋に断りなくはいってはいけませんよ」
「シエラ、俺の耳を引っ張るな!」
王子とも思えない扱いだが、シエラにすればただのガキなのだろう。
「シエラ、もう先生ではないだろう?」
シエラはカシュー・ソダイについてアルベルトと共に学んでいたせいもあって『先生』と呼ぶ癖がある。王城では気を付けていたようだが、すっかり気も緩んでいるのだろう。
「先生でいいじゃないですか。面倒なので。フィリップ殿下、お話しの途中のようですから、もう少しお待ちいただけますわね? 子供じゃないんでしょう?」
嫌味のように言いくるめるシエラは、もう既に子供を産んで母になっているというのに、全く変わっていないようでカシュー・ソダイは安心した。
「子供でいい・・・・・・。子供だったら、アラーナ、一緒に温泉に行こう」
「馬鹿ですか。貴婦人は、子供とはいえ異性と一緒にお風呂に入ったりしないんですよ。もう、いい加減にしてください。縛りますよ」
シエラの本気の目が見えたのだろうフィリップは、大人しく引き連れられて出て行った。最後にカシュー・ソダイに舌を出すのを忘れずに。
「申し訳ありません」
アラーナは、本当にすまなさそうに頭を下げた。
「フィリップと呼んでいるのですか」
カシュー・ソダイが思わず漏らした声に責めるような響きがあったわけではないのに、アラーナはなぜか「すみません」と謝った。隣の国の王子を呼び捨てにしては国際問題になるのかと思ったせいもある。
「いえ、義姉弟になるのですから……」
きっとアルベルトはショックを受けるだろうと思ったのだ。何度言ってもアラーナがアルベルトを様を付けずに呼ぶことがなかったと知っているから。
四年というのは、短いようで長い期間なのだなとカシュー・ソダイは嘆息した。
「先ほどおっしゃってた伯爵位のことですが・・・・・・。返還されるとおっしゃるのなら、王城にて陛下にお願いしてください。私の一存ではどうもすることもできません」
「ですが、授与もそのあとの継続も宰相閣下だけで大丈夫だったではありませんか」
「授与は陛下の命令あってこそです。もちろん継続も特別の処置です」
アラーナは、困ったようにカップの先を見つめた。
「その特例ということで、返還させていただけませんか?」
自分への授与にどんな思惑があったのかアラーナは知らない。アラーナの幸せな結婚を望んだアルベルトのささやかな贈り物だったのだが、アラーナは結婚を望んでいないという。口にしないだけで、やはりアルベルトとのことはショックだったのだろう。
「なぜ貴女が求婚されるのかわかりますか?」
カシュー・ソダイは、アラーナの困惑した顔を眺めながら、頭の中でどうするべきか考えていた。
「私が伯爵位を頂いたからですわ。返還しても私はアレント伯爵の娘ですから、求婚者がいなくなるとは限りませんが・・・・・・」
マリーナが隣国へ嫁いだこともあって、アレント伯爵家の相続人となるだろうアラーナには価値がある。
「貴女が、沢山の男性に求婚されて困っているということはわかりました。ですが、そのままアレント伯爵令嬢に戻られても状況は変わらないでしょう。というより、伯爵位を返上し、レイモンド・エンディスの後見もなくなれば、国王の庇護がなくなったと思われて余計に今よりも酷い方法をとって、貴女を自分のものにするかもしれません」
アラーナの顔が青醒めた。想像がついたのだろう。レイモンド・エンディスの報告には何度かアラーナが襲われかけていたとあった。レイモンド・エンディスがつけた護衛が優秀だったことと彼が国王の名の元アラーナを後見していると公言していることで、なんとか今の状態を保っているのだ。
「貴女が貴族の妻として価値がある限り、狙われるということです」
貴族の妻・・・・・・とアラーナは呟く。
「それは・・・・・・」
「ええ。貴族の妻として、その処女性を保つ限り、貴女は狙われるのだと思います」
家を継ぐ後継者を産む正室には、処女性が求められるのは当然のことだろう。子供を産んだ後に遊ぶことは別段恥ずかしいことだとは思われていないが、その分嫁ぐまでは貞淑さを求められる。
アラーナが貞淑な貴婦人でないとわかれば、幾人かは確実に減るだろう。
「私が、その・・・・・・殿方と、そういうことをすれば・・・・・・」
「ええ」
カシュー・ソダイは、アラーナのことを諦めてはいなかった。その辺の馬の骨にアラーナを取られることを思えば、嘘など簡単につくことが出来た。たとえ、その嘘でアラーナが傷つくことになっても、国のためだと納得できた。
「王城にて陛下に伯爵位の返上を願いなさい。その時に陛下に奪ってもらえばいいのです。まだ、陛下のことが好きなのでしょう? 陛下は、貴女のお願いを無下にはしませんよ」
真っ赤になったアラーナが、手を握りしめているのを見て、カシュー・ソダイはホッとした。
「陛下は・・・・・・」
「アラーナ様、お待ちしております。来月の国王陛下の誕生会にある舞踏会に、私がエスコートさせていただきます。大丈夫、きっとうまくいきますよ」
とっておきの微笑を浮かべて、カシュー・ソダイは迷い揺れるアラーナの手を取って、その甲に忠誠を誓うべく、口づけを落としたのだった。
0
お気に入りに追加
208
あなたにおすすめの小説
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
淫らな蜜に狂わされ
歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。
全体的に性的表現・性行為あり。
他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。
全3話完結済みです。
この度、皆さんの予想通り婚約者候補から外れることになりました。ですが、すぐに結婚することになりました。
鶯埜 餡
恋愛
ある事件のせいでいろいろ言われながらも国王夫妻の働きかけで王太子の婚約者候補となったシャルロッテ。
しかし当の王太子ルドウィックはアリアナという男爵令嬢にべったり。噂好きな貴族たちはシャルロッテに婚約者候補から外れるのではないかと言っていたが
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
果たされなかった約束
家紋武範
恋愛
子爵家の次男と伯爵の妾の娘の恋。貴族の血筋と言えども不遇な二人は将来を誓い合う。
しかし、ヒロインの妹は伯爵の正妻の子であり、伯爵のご令嗣さま。その妹は優しき主人公に密かに心奪われており、結婚したいと思っていた。
このままでは結婚させられてしまうと主人公はヒロインに他領に逃げようと言うのだが、ヒロインは妹を裏切れないから妹と結婚して欲しいと身を引く。
怒った主人公は、この姉妹に復讐を誓うのであった。
※サディスティックな内容が含まれます。苦手なかたはご注意ください。
【掌編集】今までお世話になりました旦那様もお元気で〜妻の残していった離婚受理証明書を握りしめイケメン公爵は涙と鼻水を垂らす
まほりろ
恋愛
新婚初夜に「君を愛してないし、これからも愛するつもりはない」と言ってしまった公爵。
彼は今まで、天才、美男子、完璧な貴公子、ポーカーフェイスが似合う氷の公爵などと言われもてはやされてきた。
しかし新婚初夜に暴言を吐いた女性が、初恋の人で、命の恩人で、伝説の聖女で、妖精の愛し子であったことを知り意気消沈している。
彼の手には元妻が置いていった「離婚受理証明書」が握られていた……。
他掌編七作品収録。
※無断転載を禁止します。
※朗読動画の無断配信も禁止します
「Copyright(C)2023-まほりろ/若松咲良」
某小説サイトに投稿した掌編八作品をこちらに転載しました。
【収録作品】
①「今までお世話になりました旦那様もお元気で〜ポーカーフェイスの似合う天才貴公子と称された公爵は、妻の残していった離婚受理証明書を握りしめ涙と鼻水を垂らす」
②「何をされてもやり返せない臆病な公爵令嬢は、王太子に竜の生贄にされ壊れる。能ある鷹と天才美少女は爪を隠す」
③「運命的な出会いからの即日プロポーズ。婚約破棄された天才錬金術師は新しい恋に生きる!」
④「4月1日10時30分喫茶店ルナ、婚約者は遅れてやってきた〜新聞は星座占いを見る為だけにある訳ではない」
⑤「『お姉様はズルい!』が口癖の双子の弟が現世の婚約者! 前世では弟を立てる事を親に強要され馬鹿の振りをしていましたが、現世では奴とは他人なので天才として実力を充分に発揮したいと思います!」
⑥「婚約破棄をしたいと彼は言った。契約書とおふだにご用心」
⑦「伯爵家に半世紀仕えた老メイドは伯爵親子の罠にハマり無一文で追放される。老メイドを助けたのはポーカーフェイスの美女でした」
⑧「お客様の中に褒め褒めの感想を書ける方はいらっしゃいませんか? 天才美文感想書きVS普通の少女がえんぴつで書いた感想!」
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる