酒と焼肉、恋いろは。

志野まつこ

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4、ある日女は気がついた<下>

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「でも海まで行ったら飲めないんだよねー」
 本場の海の幸を堪能しようとすると車で二時間近くかかる。芹は嘆息した。

「俺はノンアルビールとかでもいいけど、どうせなら泊まりで行けばいいんじゃね? 地酒とか飲めそうじゃん」
「……タカヒロくん、さすが仕事が出来る男は違うね」
 天才か、という勢いで芹は唸った。
「なるほど、近場に泊まるか……交通費掛からない分、何かと贅沢出来そうだね。往復もラクだし」
 一瞬。
 ほんの一瞬の間がそこに挟まれる。
 泊まりとか。
 あっさり出たそれに発言した方も聞かされた方もお互い一瞬軽く気まずい思いをしたが、相手のまるで聞いていなかったかのようなごく泰然とした様子に「この年になって動揺するもんでもないか」とすんなり受け流した。
 そもそも、これまで二人は焼肉や焼き鳥といった色気とは程遠い選択が多かった。
 二人でカップルが行くような店には行く意味も必要性もなかったのだ。
 今さらその辺りを気にして動揺する自分を認めたくはない。

「サザエの旬っていつかな」
 芹は取り繕うように少しだけ慌てた様子で声を上げる。
「牡蠣が冬だからサザエも冬とか? あ、でも春から夏がいいって貝もいた気がするな」
「おお、博識だねぇ。でもまぁ確かに肉よりは海鮮って歳かもねぇ。あー本気で食べたくなって来た。トントンして食べたい」
「なんだそれ」
「サザエって火を通すと身が小さくなるじゃない? 貝の先の方を掌でトントンってしたら自動的に出てくるんだよ」
 サザエを持った体の右手を広げた左の掌に打ち付け、すごくない? と無邪気なまでにテンション高く説明する芹は会社ではあまり見られない表情だった。
 ただし寒川は難しい顔をする。

「……熱くね?」
「……確かに」
 貝自体が熱いだろうし、サザエ自身から出た沸騰した煮汁がひどい事になる事は容易に検討がついた。

「昔食べたのは冷めてたのか……とりあえずお昼食べますか」
 少なからず気落ちした芹だが、取り急ぎ体の欲求に素直に従う事にした。昼を挟んで学芸員と話し込んだ二人は、空腹感を訴えている。
「蕎麦食いてぇなぁ」
「え、私うどん派」

「蕎麦屋、うどんあるだろ」
「蕎麦屋でうどんを頼むなんて反抗的態度取れない」

「あるんだから頼んでいいと思うけど……」
「あ、じゃ丼物にするわ。お蕎麦屋さんでいいよ」

「蕎麦屋で丼物ならいいのかよ」
「えー、うどんよりはマシな気がしない?」

 芹は蕎麦屋でうどんをオーダーするのは宣戦布告だと認識していた。
 ここに来て根本的に合わない部分が発生したが、付き合いの長い二人だ。さしたる問題にはならなかった。

 ※ ※ ※

「じゃ、お疲れ。今日はありがとね」
 芹は右手をハンドルに掛けたままの寒川に礼を述べると助手席のドアノブに手を掛ける。
「おう」
 寒川は軽く応じた直後「あ」と思い出したような声を上げた。
「?」
 手を止めて振り返る芹を寒川は天に向けた人差し指でちょいちょいと呼ぶ。

「忘れモン」
 怪訝そうな表情を浮かべた芹に、寒川はごく自然な所作で口づけた。

「じゃ。おやすみ」
 突然の触れるだけのそれに目を見張る芹に寒川は悪びれるでなく、何事もなかったかのように笑む。

「あぁ、うん。おやすみ」
 事態を把握出来ず、一瞬返事は遅れた。
 前触れも、そんな気配さえも感じさせない完全に不意うちたるそれに瞼を下ろす事も出来なかった。
 そんなその行為自体にも驚いたが、その後目の当たりにした普段の職場や飲みでは見せないその柔らかな表情。
 そして穏やかに細められた目の奥で楽しそうな色を滲ませる瞳。それに妙に痛烈に男を感じさせられ戸惑う。

 あのまま帰したのではいつもの同期としての飲みと同じだ。
 ごく自然と『お疲れ』など言われ、それでは意味がなかろうと軽く仕掛けた寒川は、状況を把握出来ないといった様子で車を降りた芹の背を見送る。

 会社では気を張っているのがありありと見受けられる姿勢のよい芹だが、今夜の彼女は今にも首を傾げそうで思わず形のいい唇の片方が微かに上がる。
 単身者向けアパートの二階の廊下を歩く芹の姿を確認するため、寒川はハンドルの上に身を伏せるようにして見上げた。
 まだ車が残っている事に気付いた芹が軽く眉を顰めるのに対し、「はいれ」と大げさに口で示して犬でも追いやるような仕草で手を振る。
 寒川が室内に何事もなく入るのを確認しているのだと気付いた芹は「三十過ぎの女に何を気遣っているんだ」と思わず小さく鼻で笑い、酔っ払いの中年男性がするかのように手を上げて応じて見せる。
 寒川は彼女が鍵を開けて室内に入り、そこに明かりがつくのを確認してから車を出したのだった。

 ん?
 ……「お茶でも飲んでく?」的なベタな一言を言うべきだった、か……?

 ついいつものように「用も済んだし、じゃーまたねー」な流れになってしまったが、芹はふとそれに気付いて血の気が引く思いをした。
 家に上げるなど考えも及ばず、朝少しの時間があった際も片付けさえしなかった。

 まずい。
 女として完全に終わってる。
 芹は就寝前、とりあえず目につく物だけを片付けてみたのだった。
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