上 下
51 / 79

2-24

しおりを挟む
『夏休みだけど、直接会って話せる日ない?』

 まる一日考えた挙句、結局夏弥は最初に送ろうと思っていた内容をそのまま送ることにした。

 そのラインを送ったあと、カンカン照りの太陽から逃げるようにしていつもの201号室へ向かったのだった。



 夏弥がまだアパートに到着する前。

 201号室で、美咲とまど子は少しだけ親しくなっていた。

 まど子はスキニーパンツに落ちたオムレツのかけらをふき取ったあと、一呼吸置いてから美咲にこう切り出した。

「――――もし私が小説の子だったら、たぶんもう少し素直にならなきゃって思っちゃうかも」

「え。……素直に、ですか?」

「うん」

 美咲は少し意外そうな顔をした。
 さっきまで話していた内容にまど子がもう一度触れてくるとは思っていなかったからだ。

「幼馴染だったとか、昨日まで知らなかった人だとか。そういう事情って、これからその人と仲良くなろうとすることに関係ないと思うの。……だって、私も最近まで、藤堂くんや秋乃ちゃんとは話したこともなかったから……」

「そ、そうですよね」

「うん。……私には私のハードルがあるみたいに、その子にもハードルがあるんだよね。でも、きっと大丈夫だよ。きっとまた、二人は仲良くなれる……と思う。そのために、ちょっとだけ素直になれれば」

「……」

 まど子の言葉が美咲の頭のなかで反芻されていく。

 どんな風に素直になればいいのか、美咲はリアルな自分の姿をイメージしていた。そんなタイミングで、間が良いのか悪いのか玄関のドアが開けられる。

「ただいまー」

 無論、ドアを開けて入ってきたのは、買い物を終えた夏弥だった。

「あ、藤堂くん帰ってきた」

「あの……月浦さん、今の話はその……」 

「うん。大丈夫。…………藤堂くんには内緒ってことだよね?」

「え? はい。あ、ありがとうございます」

 美咲はまたしても意外そうな顔をする。
 まど子がそこまで気を遣ってくれるとは思っていなかったからだ。

 女子二人の会話はそこで終了した。

 帰ってきた夏弥は、卵やギョーザの皮など、必要な食材の入ったビニール袋をキッチンに置いてから、リビングへ足を運ぶ。

「あれっ。秋乃、体調良くなったんだ?」

「え? ……別にもとから体調悪くなんてないよ?」

「そ、そうか」

 ソファに座る美咲の姿を見て、夏弥は自分の取り越し苦労だったのかと安心した。

 ほっと一安心。
 ただ一方のまど子と美咲は、そんな夏弥の様子がちょっぴりおかしかったのか、お互い示し合わせたようにほくそ笑むのだった。

「え、何? 二人ともなんでクスクス笑ってんの?」

「いいでしょ。別になんでも!」

「気にしないで、藤堂くん。あ、それより、オムレツすごくおいしかったよ!」

「あ~、ほんと? よかった。正直不安だったんだよな。最近めっきり作ってなかったからさ」

 夏弥は照れくさそうにそう言って、リビングからキッチンの方へ移動する。
 そうして夏弥が二人から離れたすきに、まど子は美咲にこっそりと耳打ちをした。

「秋乃ちゃんも、料理教えてもらったらいいんじゃない? 私もだけど、一緒に教わろ?」

「そ、それ……いいですね」

 囁かれたその優しいお誘いに、美咲はちゃんと乗ることにした。

 素直になる。

 まど子が架空の小説に向けて言った言葉だったとしても、それはもちろん美咲にだって十分応用できる言葉だ。

「よし! 二人で頑張ろ!」

「月浦さん。次って何の料理ですか?」

「え? たぶん、またオムレツじゃない? 秋乃ちゃんもオムレツ作れるようになろうよ」

 まど子は、心機一転がんばろ! といった様子でソファから立ち上がり、キッチンへ向かった。

 美咲も、まど子の後に続いてキッチンへ向かう。
 そこには夏弥がすでに立っていて、絶賛卵を割っているところだった。

「ねぇ、藤堂くん。秋乃ちゃんが、話したいことあるんだって!」

「え……?」

 夏弥はまど子にそう話しかけられ、彼女の後ろからやってきた美咲に目を向ける。

 明るく茶色に染め上げられた三つ編みの毛先を指でいじりながら、美咲はほっぺを少し赤らめていた。

(なんだろう? 何か、言い出しにくそうだけど……?)

「あの、なつ兄……」

「な、なんでしょう」

「あたしにも、ちゃんと料理教えてほしいんだけど」

「え……ああ。そ、そうだな! 別にさっきのも、月浦さんにばっかり教えてるつもりはなかったんだけど。一つ目のオムレツを作ってる時の俺って、そんな感じだった……?」

「うん……」

 美咲は夏弥の目を見れずにいた。

「素直」とは無縁な生活を送ってきた、不慣れな美咲らしい様子だった。

 夏弥は夏弥で、美咲がこんな風に健気でいじらしい姿を見せることに、意表を突かれていた。

 自分が買い物に出掛けているあいだ、二人に何かがあったらしいのは確かなのだけれど、それはまだ理解できていない。

 無論、美咲から素直に「教えてほしい」と頼まれれば、それを断る理由はなかった。

(美咲が料理してくれるようになるなら、日常的にもちょっと手を借りたりできるしな。……まぁ、その道のりは果てしなく長い道のりになりそうだけど……。ていうか、もしかして美咲のやつ、仲間外れにされてるとかそういう事を感じてたのか……? いやいや。だとしたら、俺の恋愛を手伝うって話と矛盾してこない……?)

「と、とにかく、ちゃんと二人に料理教えるよ」


「うん。お願い。次はあたしの事も…………

「……~っ!」

 俯き加減だった美咲は、そのまま上目遣いで夏弥の目をじっと見つめていた。

 端正な顔立ち。明るい髪色のウィッグやネイビーカラーのメガネ。
 それらだってもちろん美咲を可愛らしく見せている要素なのだけれど、ただそれだけじゃないようだった。

 美咲がはにかみながら甘えてくるなんて。
 こんな美少女の不意打ちラブシーンを前にして、ほっぺや耳をかああっと苺色に染めない男子がいるだろうか。いやいない。

 今の美咲には、冷たさなんてこれっぽっちも感じられない。
 夏弥は、自分の胸のあたりがキュンキュンし始めていることに参ってしまっていた。

(なんなんだよ、急にしおらしくなったりして!)

 美咲のセリフと、まっすぐに見つめてくるその瞳。

 夏弥の鼓動が速まってしまうのも無理はなかった。

 そんな夏弥と美咲のやり取りを、まど子は聖母マリア様みたいな表情で横から眺めていた。聞こえない程度に「ふふん」なんて鼻を鳴らすのは、生まれついての優しい性格が由来しているのかもしれない。


「と、とりあえず、二つ目のオムレツだね。

「「うん」」

「……」

 女子二人は務めて、それはそれは冷静に料理に取りかかり始めた。

 恥ずかしさをごまかすために言った夏弥の「ゆくぞ」には誰もツッコまなかった。
 洋平がいないため、まぁそんなものである。

 夏弥は地味に精神的ダメージを受けながら、二つ目のオムレツをフライパンで作り始めた。放置されたボケは無念にも空中分解し、夏弥にさらなる恥辱を与えるだけだった。

 一方で、まど子は美咲に卵の割り方を教えていた。
 これがまた絶妙にしっくり来る陣形だった。

 夏弥はフライパンに広がる卵液を管理。
 高級なシルクの生地でも撫でるみたいにしてゴムベラを駆使していく。
 同時に、横に並ぶ女子二人の会話にも耳を大きくしていて。

「――秋乃ちゃん、卵割るの苦手なの?」

「そうなんです。力加減がいつもわからなくて……。それに何度も練習できないじゃないですか。卵がもったいないから」

「確かにねぇ……。一回失敗しちゃったらそれでおしまいだもんね。でもほら、こうやって――」

 まど子は美咲の前で、卵をたたいてみせる。

 卵を当てたのは、調理台の平らなところだ。

 ほどよい力加減で、しなやかに当てられる。
 当てたその卵を、まど子は美咲に見せてあげた。
 平面にぶつけられたことで卵には部分的にヒビが入っていた。

「え? こういう、シンクの淵とか角ばったところに当てるんじゃないんですか?」

「それ、本当は間違いみたいだよ? 私も前までずっとそうだと思ってたんだけど、平らなところに当てたほうがヒビを入れやすいの」

「へぇー。そうだったんですね!」

 美咲が「ふむふむ」とまど子の手元に目を注ぎ、関心していると、

「それ、諸説あるみたいだけどね。人によるってことじゃないか?」

 横から夏弥が助言のような小言のような何事かを言ってくる。

「なつ兄は黙っててください」

「……え。さっき私のこと見てって言ったよね? はて。あれは一体……?」

「~っ! 今は月浦センセーに見てもらってるんだから邪魔しないで? ていうかフライパンの方に集中してよ。焦がしたらそれ、なつ兄の分なんだから」

「……わかった。わかったけど、「焦がしたら」なのか? このオムレツは「焦がすことで」俺の分になるのか?」

「――フフッ」

 にやける美咲につられ、夏弥も少しだけにやけてしまった。

(いつもの美咲だ。うん。戻ってる)

 夏弥も美咲も、ここ最近で気が付いていた。

 攻撃力のない憎まれ口は、美咲が会話する時の常套手段であることを夏弥は理解している。

 気の毒に感じない自虐は、夏弥が会話する時の常套手段であることを美咲は理解している。


 こんな風にじゃれ合えるようになったこと。

 それは一緒に暮らし始めた時に比べて、お互いの心の距離が近づいたような、そんな錯覚を二人に覚えさせる。

 いや。
 これは錯覚じゃないのかもしれない。

 夏弥と美咲の二人は、お互いにそう感じていたのだった。

(……けど、さっきのストレートに甘えてくるような態度にはびっくりしたな。やっぱり俺が出掛けてるあいだに、何かあったんだよな……?)

 夏弥の抱えていたその疑問だけが、解消されないまま時間が過ぎていった。

 平和を取り戻したお料理教室。
 夏休みはまだ一日目だ。

 この長期休暇中に何回行なうのかは未定だけれど、三人ともこの一回きりで終わりにしようだなんて思うはずもなくて。

「こんなにオムレツとか作ってたら、お昼ごはん食べられなくなっちゃうね」

「え。月浦さん? 俺はもうこれがお昼ごはんになると思ってたんだけど……」

「ぷはっ。あたしもそう思ってたんだけど。……やっぱり月浦さんて、ちょっとおもしろい所あるよね」

「確かに。っあははは!」と、夏弥も思わず噴き出してしまった。

「い、今のは言い間違え! 言い間違いなの! 二人とも信じて⁉」

 さすがに苦しい言い訳である。どこをどう言い間違えたのだろう。

 まど子のおっちょこちょいな所に二人はクスクスと笑うのだけれど、鈴川家のアパートを平気で藤堂家だと偽るこちらの偽物兄妹も十分おかしかった。

 つまるところ、三人ともおかしい。

 この御三方には、ぜひ普通とはなんぞやという部分から学んでいただきたいものである。


 アパートの外に広がる街並みは、もうすっかり夏景色だった。
 アスファルトの路面からは陽炎が立ちのぼっているし、蝉もうるさい。
 はす向かいのタバコ屋のおばあちゃんは、店先で打ち水を行なっている。

 エアコンの効いた部屋で料理にチャレンジする三人は、まだ夏休みをどのように過ごすのか未定のままだった。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

幼馴染が昼食の誘いを断るので俺も一緒に登校するのを断ろうと思います

陸沢宝史
恋愛
高校生の風登は幼馴染の友之との登校を断り一人で歩きだしてしまう。友之はそれを必死に追いかけるのだが。

平凡大学生のハーレム(?)生活 ~バイトで培った【コミュ力】で、恋愛強者になります~

昼から山猫
恋愛
主人公・冴木カナメは、どこにでもいるような平凡な大学二年生。 しかしアルバイトや就活の準備など、多彩な経験で培ったコミュ力は妙に高い。 そんな彼が、なぜか毎回違う女性たちとの“熱い恋”を勝ち取ってしまうことに。 一見うまくいきそうな恋も、新たな局面で波乱含みとなり、笑いとドキドキが止まらない。 「まさか俺が、こんなにモテるなんて……!」 次の恋の行方は、いったいどうなるのか?

貞操観念逆転世界におけるニートの日常

猫丸
恋愛
男女比1:100。 女性の価値が著しく低下した世界へやってきた【大鳥奏】という一人の少年。 夢のような世界で彼が望んだのは、ラブコメでも、ハーレムでもなく、男の希少性を利用した引き籠り生活だった。 ネトゲは楽しいし、一人は気楽だし、学校行かなくてもいいとか最高だし。 しかし、男女の比率が大きく偏った逆転世界は、そんな彼を放っておくはずもなく…… 『カナデさんってもしかして男なんじゃ……?』 『ないでしょw』 『ないと思うけど……え、マジ?』 これは貞操観念逆転世界にやってきた大鳥奏という少年が世界との関わりを断ち自宅からほとんど出ない物語。 貞操観念逆転世界のハーレム主人公を拒んだ一人のネットゲーマーの引き籠り譚である。

冴えない俺と美少女な彼女たちとの関係、複雑につき――― ~助けた小学生の姉たちはどうやらシスコンで、いつの間にかハーレム形成してました~

メディカルト
恋愛
「え……あの小学生のお姉さん……たち?」 俺、九十九恋は特筆して何か言えることもない普通の男子高校生だ。 学校からの帰り道、俺はスーパーの近くで泣く小学生の女の子を見つける。 その女の子は転んでしまったのか、怪我していた様子だったのですぐに応急処置を施したが、実は学校で有名な初風姉妹の末っ子とは知らずに―――。 少女への親切心がきっかけで始まる、コメディ系ハーレムストーリー。 ……どうやら彼は鈍感なようです。 ―――――――――――――――――――――――――――――― 【作者より】 九十九恋の『恋』が、恋愛の『恋』と間違える可能性があるので、彼のことを指すときは『レン』と表記しています。 また、R15は保険です。 毎朝20時投稿! 【3月14日 更新再開 詳細は近況ボードで】

悩んでいる娘を励ましたら、チアリーダーたちに愛されはじめた

上谷レイジ
恋愛
「他人は他人、自分は自分」を信条として生きている清水優汰は、幼なじみに振り回される日々を過ごしていた。 そんな時、クラスメートの頼みでチアリーディング部の高橋奈津美を励ましたことがきっかけとなり、優汰の毎日は今まで縁がなかったチアリーダーたちに愛される日々へと変わっていく。 ※執筆協力、独自設定考案など:九戸政景様  高橋奈津美のキャラクターデザイン原案:アカツキ様(twitterID:aktk511) ※小説家になろう、ノベルアップ+、ハーメルン、カクヨムでも公開しています。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

如月さんは なびかない。~クラスで一番の美少女に、何故か告白された件~

八木崎(やぎさき)
恋愛
「ねぇ……私と、付き合って」  ある日、クラスで一番可愛い女子生徒である如月心奏に唐突に告白をされ、彼女と付き合う事になった同じクラスの平凡な高校生男子、立花蓮。  蓮は初めて出来た彼女の存在に浮かれる―――なんて事は無く、心奏から思いも寄らない頼み事をされて、それを受ける事になるのであった。  これは不器用で未熟な2人が成長をしていく物語である。彼ら彼女らの歩む物語を是非ともご覧ください。  一緒にいたい、でも近づきたくない―――臆病で内向的な少年と、偏屈で変わり者な少女との恋愛模様を描く、そんな青春物語です。

僕が美少女になったせいで幼馴染が百合に目覚めた

楠富 つかさ
恋愛
ある朝、目覚めたら女の子になっていた主人公と主人公に恋をしていたが、女の子になって主人公を見て百合に目覚めたヒロインのドタバタした日常。 この作品はハーメルン様でも掲載しています。

処理中です...