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◇ ◇ ◇

 七月の下旬。午前九時十分前。
 日差しが雲すら貫いて街の気温を容赦なく爆上げさせていたのは、夏休み初日らしいといえば初日らしい。

 昨日、終業式を無事に終え、夏弥は高校生にして二度目の夏休みを迎えていた。

 外気温はすでに記録的なものだったので、201号室は朝からエアコンの鬼稼働。ガンガンに冷やしていた。

 夏弥はキッチンに立ち、本日の朝食、フレンチトーストで使用した皿を洗っていた。

 今日は夏弥と美咲の同居するこの201号室に、まど子がお邪魔してくる予定の日である。

 夏弥が食器を洗い終える頃、ガラッと音を立てて美咲が自室から出てくる。

 その手には何やら細い紙のテープらしきものが握られていた。数十センチのそれをヒラヒラとはためかせ、美咲はリビングからキッチンスペースへ移動する。

 そのままキッチンに立つ夏弥の後ろを無言で通りすぎ、美咲は玄関のほうへと向かっていった。

「ん? 美咲これから出るの?」

「出ない。今日、月浦さん来るから表札変えないとじゃん」

 そう応える美咲は、すでに戸島芽衣のウィッグアレンジ、三つ編みヘアを頭にセットしていた。無論、メガネも装着済みで、朝のうちから粛々と支度したものだった。

「表札? ……あ、名前か」

 夏弥はそんな変装済みの美咲に言われ、そこでようやく気が付いた。

 この201号室の表札は現在「鈴川」となっているわけで、まど子が見たら怪しまれること間違いなしである。

 そのことに夏弥より先に気が付いていた美咲は、「藤堂」と書かれた紙きれを、あたかも以前から掲示してあったかのように貼り出そうとしていたわけで。

「抜かりないな美咲。関心した」

「それはどうも」

 さっきまで夏弥の作った朝食、フレンチトーストに舌鼓を打っていたというのに、反応は寄る辺も無しという冷ややかさだった。

「ひとまず表札は上から「藤堂」にしておいたから」

「ありがとう」

 お互い落ち着いたトーンの会話だった。

 しかしながら二人とも、これからやってくる月浦まど子という異分子の受け入れに、いささかの不安も無しかといえば決してそんな事はなくて。

「おい美咲。なんかこのリビング汚くない? 大丈夫かな……」

「え。……大丈夫だと思うけど。ていうか観葉植物、もうちょっとソファから離したほうが良くない?」

「オッケー。……あ、待って。この部屋、桃クサくね?」

「それシャンプーのせいだから仕方ないよ? てか制汗剤撒けばいいと思う」

「うん……。うわ、これ制汗剤カラじゃん。もういいや。こっちの新しいヤツ開けるか!」

「いやそっちの制汗剤、匂いキツイからやめて?」

「え。じゃあなんで買ってあるの?」

「安かったからテスターも見ずに買ったの。そしたら、まぁ、うん。だからそれなら今のままの方がまだいいと思う」

「美咲の鼻、麻痺してない? 無駄にこの辺甘い香りするし、ちょっとミント系の香りで中和だ中和」

「これから料理するのに匂いのキツイ制汗剤撒くのは悪手過ぎでしょ。味とかわからなくなっちゃうって」

「確かに……あ、そうだ洗濯物取り込んでない! 昨日干したままだわ」

「あ。あたし、部屋の掃除がまだじゃん」

「そっちの部屋の掃除は……ってあれ? そもそも月浦さんそっちの部屋行かなくね?」

「念には念だから。不安の芽は摘んでおいたほうがいいでしょ」

 夏弥と美咲は、まど子が遊びに来るとあっててんやわんやだった。
 部屋のインテリアや家具のお掃除に始まり、キッチンなどの水回り。トイレも使う可能性があるだろうという事で、無駄にトイレットペーパーを芸術点高めに配備。

 小さな玄関の土間スペースで散らかる靴も、こんな時だけ幾何学的に整理整頓。
 これでいい? いや悪い? と神経質や強迫症もかくやという具合だった。

 悲しいかなこれが友達を呼び慣れていない者達の末路である。

 こんなタイプは、いざ予定していた時刻になると、直前でこのようなドタバタ劇場を上演してしまいがちで。

 嵐のような。祭りのような。そんな比喩も生温い騒動が201号室では起こっていた。

 壁掛け時計のモノクロウサギが、この二人をややあざ笑っているようにさえ見える。

 そう。時間とはかくも残酷に、着実に過ぎていくものだ。
 そんなことを証明するように、お告げの鐘が鳴った。

 ――ピンポーンッ。

「あ、たぶん月浦さんだ。もう来ちゃったか……」

「ちょ、夏弥さんインターホン出て? あたしまだ部屋の掃除終わってないから」

 美咲は自分の部屋の戸から顔を出してそんな事を言っている。

「おま……わかったわ。俺が出よう」

(美咲の部屋はたぶん使わないと思うけどなぁ……)

 夏弥は急いで玄関へ向かった。
 扉を開けると、そこにはもちろん月浦まど子が立っていた。

 普段、三條高校二年一組で夏弥の隣に座っている女子。なのだけれど、今日は私服で、髪型もいつもと少し違う。

「こんにちは…………藤堂くん」

「あ、えっと……いらっしゃい。月浦さん」

 本日は三つ編みではなく、その黒髪をただのソフトな二つ結びにして、耳の後ろあたりからサラリと下げているだけだった。

 黒縁メガネはそのままだけれど、着ている服のせいか全体的に新鮮なビジュアルだ。
 モノクロボーダーのTシャツ。その袖から伸びる白い腕は、教室で見るものとは別物のように見える。しかも、いつもはスカートで見えていなかった細い足が、今日は無難な青色のスキニーパンツのおかげでその細さがはっきりとしていた。

「暑かったよね。入って入って。エアコンも点いてるから」

「きょ、今日はお世話になります……」

「あれ? 結構荷物ある……? 食材はうちの使うって話だったよね……?」

「あ、これはエプロンとかそういうの!」

「なるほど。そういうのね」

 まど子を玄関からキッチンスペースまで案内する。

(改めて考えてみるとなんだかすごい状況……。洋平の家に月浦さんを呼んで、しかも同居してる美咲がなぜか秋乃という設定なんだよな。……なんかまた頭が痛くなってくる)

 驚くことに、キッチンには美咲が立っていた。
 どうやら部屋の掃除は諦めたらしいのだと夏弥は悟った。

 まど子は、そこにいた美咲と目が合うなりすぐに口を開く。

「秋乃ちゃん、おじゃまします!」

「月浦さん、こんにちはー」

 美咲はやはり淡々としていて、先ほどまでのてんやわんやな様子も面白いくらい一転していた。

(美咲の百面相には驚かされるな。やっぱり俺と二人で居る時とは微妙に違う表情だ。うんうん、取り繕ってる。洋平よりずっと役者ですね)

「月浦さん、とりあえず冷蔵庫のなか見る? 入ってる食材はなんでも使っていいから、そこから作りたいの絞ろう」

「そうね。……あ、藤堂くん、ごめんなさい。今になってこんな話も良くないと思うんだけど、一応私のほうでも、教えてほしい料理をリストアップしてみたの。よかったらコレ、読んでくれる?」

 そう言って、まど子は夏弥に小さなメモ帳を開いてみせた。
 まど子はとてもマメな性格なのか、罫線の入っていないそのメモ帳でもキレイに文字が並んでいた。

「え。リストアップしてくれてたんだ……!」

(うわ。なんだかすごく嬉しい。……月浦さん、今日遊びに来るの楽しみにしてくれてたのかな……)

 夏弥はメモ帳を受け取り、とても嬉しく思っていた。
 まど子の純粋な気持ちを肌で実感していたのである。

 その嬉しさが顔に出ていたらしく、

「……」

 夏弥のTシャツの裾を、なぜか美咲は小さくつまんで引っ張っていた。

「ん? 美、秋乃どうした?」

「や…………別に……なんでもない」

 夏弥の声にハッとしたのか、美咲はすぐにつまんでいた裾を離した。

「なんて書いてあるの? 月浦さんのリクエスト」

「あ、ああ。えっと…………オムレツ、ロールキャベツ。それとギョーザ、茶わん蒸し、だな。うん、結構クセが強いっていうか、難しいポイントがある料理だね」

「本当にそれ! 藤堂くんでもやっぱり難しいって思うんだね」

「え? あはは! 月浦さん、それは買い被りすぎだから。俺にだって難しいって思う料理はいっぱいあるよ」

「そうなんだね。なんだかそれ聞いて、ちょっとホッとしちゃった……」

「フフッ」

「……」

 夏弥とまど子が仲良く話す一方、美咲は二人の輪に入れずにいた。
 空気に馴染めない。
 その表情は「面白くない」というセリフがとてもよく似合いそうだ。

 ただこれは仕方のないことでもある。

 美咲とまど子は、同じように料理ができないと言っても「同じレベルで料理ができない」というわけじゃない。

 とても残念なことに、美咲の料理音痴はまど子の比ではないのだ。

「じゃあまず何から作る? このリストの中で食材の買い足しが必要なのは、ギョーザくらいなんだけど。月浦さんはどれから作りたい?」

 夏弥はまど子にそう問いかけながら、自前のグレーのエプロンをかける。
 このエプロンは無論、衣類と一緒に以前洋平から受け取っていたものだ。

「じゃ、じゃあオムレツから! お願いします……」

「わかった。オムレツね」

「なつ兄ってオムレツ作れたんだね」

「え? ああ。YouTubeで作り方調べながら作ったことがあるんだ。まぁ、久しぶりだから、そんなに綺麗に作れないかもだけど」

「あ、そっか。確かに料理の作り方とかは、本より動画のほうが理解しやすいかも……」とまど子が夏弥の言葉に応える。

 三人でそんなことを話しながら、夏弥は自然とオムレツの下準備を初めていった。

 藤堂夏弥のクッキングタイム、開幕である。

 フライパンやボウル。ゴムベラ、泡だて器など一通り必要な道具を用意する。
 それから夏弥は手際よく、ボウルに卵を三つほど割って出した。

「藤堂くん、卵割るのうまいね⁉」

「え? そう……?」

「あ、あたしだってこれくらい……できないけど」と美咲。

「ぷふっ」

「なつ兄、今笑ったでしょ」

「何のことかなー? さーて、料理料理」

 続く泡立て器もお手の物だ。
 夏弥はボウルのなかの卵液を軽快に解きほぐしていく。
 あまりここで空気を入れてしまうと仕上がりに影響が出る。

 そのことを思い出しつつ、夏弥は手加減しながら卵液をザルでこす段階へ進んだ。

 コンロにセットしたフライパンを中火にかけ、バターを伸ばし、卵液の受け入れ態勢を作る。

 次第に、フライパンの上でバターの良い香りが漂いだす。

「良いにおい……」とまど子が嗅覚を反応させていた。

「よし、じゃあ卵液流すぞ」

 ジュジュウゥ、と音を立てて、熱したフライパンの上に卵液を流し込んでいく。

 夏弥がフライパンの正面に立つと、脇からまど子も美咲も少し歩み寄ってくる。

 もちろん、近くに来なければフライパンの中がよく観察できないからだ。

「卵液を流したらゴムベラで混ぜるんだけど、ゆっくり、丁寧に混ぜるんだ。フライパン自体を軽くゆすってあげて、ヘラも止めずに動かしてあげる」

「ポイントとかある? 私、この辺なんとなくでやっちゃうんだけど……」

「ポイントかー……。強いて言うと、あんまり一か所に卵を集めておかないことかな。一か所に集まるとそこが大きく固まっちゃって、その後の巻く作業で苦労するから」

 夏弥はフライパンの上でゴムベラを動かしつつ、まど子の質問に答えた。

 美咲は、じっと夏弥の目を見続けている。

 何か思うところがあるのだ。
 ただそれは、決して料理についてじゃない。

 目の前で、夏弥が他の女の子とごく普通に会話しているだけなのだけれど、それでも美咲の胸のうちは、ズキンと音を上げそうなくらい切なくなっていた。

「卵液が半熟くらいまで進んだら、あとは――

「そっか! ここでもうコンロから外しちゃうのね。――

「うん。もうこれ以上熱しておくのは良くないから――


 藤堂夏弥と月浦まど子。
 この二人の会話は、美咲にとって耐えられそうにないものだった。

 二人と自分のあいだが、見えない壁で隔たれているような、そんな気がしてならなかった。

 確かに二人は自分の目の前に居るのに。
 別に二人におかしなところは何もなくて、ただ当たり前のように会話をして、料理をして。時々笑ったりなんかしているのに。

「そういえば月浦さん、器用そうなのにオムレツ苦手なんだね。ふっ」

「あ、ひどい! 藤堂くんて、いじわるな人だったの?」

「あははっ。ごめんごめん、そうじゃなくてさ」

「もう!」

「…………」

 夏弥の笑う顔を見ていると、美咲の胸は切なくて、たまらなくなっていった。
 どうしてこんな気持ちになるのかわからない。
 目の前で起きていることを素直に受け止めるだけの強さが、今の自分にはない。

 美咲はそう感じていた。

 心臓のあたりが冷たくなっていくみたいで苦しい。

 そんな彼女は、やっとの思いで口を開く。

 その声が、見えない壁のせいで彼らに届かないような気さえしたけれど、それでも勇気を振り絞って美咲は声をあげたのだった。

「なつ兄。…………あたし、部屋にいるから」

「え? ああ。わかった。……?」

 美咲は二人に背を向けると、すぐに自分の部屋へ向かっていった。

 顔を見られたくない。

 今は話し掛けてほしくない。

 気持ちに余裕がないことを、二人には知られたくなかった。


(どうしたんだ、美咲のやつ。体調でも悪かったのかな。……部屋に戻っちゃったら俺の恋愛に協力するとか、そういう話じゃなくなるような気がするけど……)

 美咲の気持ちなんてまるで知らない夏弥は、ただ彼女が体調不良などの理由で計画を放棄しただけのように思えてならなかった。

 確かに体調不良の一種かもしれない。
 今の美咲は「感情不良」なんて言葉が適しているのかもしれない。

 美咲は自分のなかに芽生えていた気持ちが何なのか、大体の見当がついていた。
 でもこれほど明確に、ズキズキと胸が痛み出したことは今までになかった。

 初めての痛みだ。
 文字通り逃げ出したい感情に駆られていた。

 部屋に戻った美咲は、そのまま倒れ込むようにベッドへ横たわる。

 ばふんっと音を立て、一度は枕に顔を埋もれさせ。
 そこから顔をあげ、スマホをポケットから取り出す。

 そのスマホで、ゆっくりと文字をフリック入力して、「」なんて検索してみる。

 当たり前のような検索結果が、彼女の目に映る。


『やきもち 意味:好きな人が、自分以外の人と仲良くすることを嫌がる気持ち』


 その文章に目を向けて数秒後。美咲はすぐにスマホの画面を伏せた。

 さらにため息をついてから、ゆっくりと声を漏らす。


「…………なんなの。もう」
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