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 ――気が付けば時刻はもう午後六時前。

 すっかり夕暮れ時になっていて、赤とオレンジの中間色の光が窓から入り込んできていた。

 授業を終えたのが午後四時半なので、夏弥とまど子は一時間半くらい一緒に勉強していたことになる。

 そのあいだ、二人の会話内容はずっと数学についてのものだった。

「っふー。だいぶ三角関数わかってきたと思う。ありがとう、月浦さん」

「ううん。私も今日勉強できてよかった」

「そう? あ、もうこんな時間じゃん。そろそろ帰る?」

「あ、ほんと。夢中になっちゃったね、ふふっ」

 区切りの良いところだったので、二人はそこで引き上げることにした。
 二階図書室から一階の生徒玄関まで歩く途中、夏弥は勉強中に言おうと思っていたことを口にした。

「月浦さん、あのさ、今日はすごく助かったんだけど……」

「……?」

 夏弥の言葉に、まど子は不思議そうな顔をする。

「やっぱり、俺ばっかり教えてもらってて悪いよ。予想通りそれを痛感したというか……」

「え。そ、そんな事ないよ? 私だって勉強になったよ! べ、勉強って、人に教えるのも理解が深まるから良いんだってこの前ネットニュースで見たよ……? だから、そんなに気にしないで……?」

「……」

(月浦さんはそう言ってくれるけど、さすがにマジで授業料払いたいくらいだったしなぁ、今日……)

 同級生でもまど子は学年順位をいつも一桁にキープ。
 反対に、夏弥の順位は中央値のやや下の辺りをキープ。
 ここでも冴えない夏弥らしさ全開だった。そんな二人が一緒に勉強するということ自体、すでにステージが違うというもので……。

(ずっと何かを貰いっぱなしって感覚もイヤだけど、そもそも月浦さんにメリットが無さ過ぎる。俺に時間を使ったところで、彼女に一体どんな見返りがあるんだろう……。戸島じゃないけど、こういう「打算的な視点」で物を考えてみると、本当に申し訳なくなる)

「あの……月浦さん」

「なに?」

 まど子は夏弥のほうに顔を向けて尋ねる。
 三つ編みのおさげ髪が動きにあわせてふっと揺れる。もうそれだけで女の子らしいような気がした夏弥だったけれど、さすがにそれは気の迷いだと我に返った。

「さ、最近、何か困ってることある?」

「困ってること?」

「そう。俺が何か手伝えそうな、というか、力になってあげられそうなこと。べ、勉強以外で……」

 夏弥は、洋平の言葉を思い出していた。女子に尽くすこと。心掛けることこそ、大事なのだとあのモテる稀代のイケメン君は言っていた。

 それに今日は元々、放課後は美咲の力になってあげる予定だった。
 放課後のその予定をキャンセルしてしまった事で、夏弥のなかにも少しだけ罪の意識があった。だからこれは、自分の気を紛らわせるための、夏弥の身勝手な罪滅ぼしでもあったのかもしれない。

「藤堂くんに手伝ってもらいたいこと……」

「ああ。できることなら、勉強を見てもらった事の恩返しをそういう形でしたいんだけど」

「あ、だからそれは――
「いや、いいんだ。これは俺がしたくてやる事なんだ」

「そう……?」

 夏弥の提案に、まど子はしばし黙り込んでいた。
 気が付けば、二人はもう生徒玄関まで来てしまっている。他の生徒は誰もいなかった。

 部活に入っていない帰宅組と、まだ校舎に残っている部活組。そのどちらも訪れない、ちょうどぽっかりと空いた無人タイムの玄関に二人はやってきたらしい。

「あ……もう玄関着いちゃったな」

「あ、ごめんなさい! ちょ、ちょっと考えすぎちゃって」

「いや、いいよ。それより、月浦さんて電車通学だっけ?」

「うん。だから裏門のほうから出なきゃ」

 三條高校には正門と裏門があり、夏弥や洋平が暮らしているアパートは正門側。電車やバスで通学するような生徒は、裏門側から帰るケースがほとんどだった。

「そ、そっか。じゃあ今日はここまでだね」

「うん。あの、明日までに考えておくね!」

「わかった。……今日はありがとう。月浦さんのおかげで学力かなり上がった」

「そんなにすぐ上がっちゃう? ふふっ。私も……今日はありがと……。また明日ね」

「ああ、また明日」

 玄関を出てすぐのところで、夏弥とまど子は手を振り合って別れた。

 別れて五秒後、まど子はこっそりと振り返る。

 その目に映るのは、もちろんたった今別れたばかりの男の子の背中だった。
 白いワイシャツの背中が、ゆっくり小さくなっていく。

 特に意味深なことなどなくて、まど子はただただ今日あった出来事を振り返りながら、心のなかでもう一度「また明日ね」とつぶやいてみたくなったのだった。


 月浦まど子は、今日まで夏弥の隣に座っていながら、一度も話したことがなかった女の子だ。しゃべらなければ、妹の秋乃に近いような陰キャっぽい空気すら夏弥は感じてしまうのに、話してみればその印象は秋乃とまったく違う。

 人を見た目だけで判断するのはよくないな。と、夏弥はそんな月並みな道徳を肌で感じながら下校したのだった。


 帰り道の途中で、ミネラルウォーターと明日の朝食用の買い物をスーパーで済ませる。

 夏弥がスーパーを出る頃、辺りはもう薄暗くなり始めていた。

◇ ◇ ◇


「えっ――」

 いつもの鈴川家のアパート201号室に帰宅した夏弥は、キッチンスペースを見て驚いた。驚きのあまり、その場にスクールバッグと買い物のビニール袋を落としてしまうくらいだ。

 急いでキッチンへ駆け寄る。

「お、俺の買っておいたが――⁉」

 調理台の上に敷かれたまな板の上に、どういうわけかサバが一尾置かれていた。

 それはつい最近夏弥が買ったものなのだけれど、なぜかその綺麗な青い身体は傷だらけになっていた。しかも包丁の刃はサバの腹部に入ったままだ。

 が腹を裂いている途中で止めたらしい。(※ほぼ美咲)

「なんだよこれ……ん? あ、これ味噌か⁉」

 惨殺死体のようになってしまっているサバのそばに、皿が一枚置かれている。

 その上に、かき氷かと思うほどてんこ盛りにされている味噌の山が存在感を放っていた。しかもその味噌の山に、野菜スティックが斬新な角度でもって突き刺さっている。

「俺の買っておいた味噌が……」

 脇の二口(ふたくち)コンロには、フライパンと鍋がある。こちらもこちらでひどい。

 まずフライパンのほうには、焼きすぎて丸焦げになったダークマター(※たぶん豚肉)が、古代遺跡のように、長い年月を感じさせん姿でそこに鎮座していた。

「ぶ、豚バラ肉……」

 鍋のほうは、乳白色に濁る謎の液体がたぷたぷに入っていて、おたまを入れたらそれだけで溢れそうなくらいだった。

 地獄絵図。
 夏弥の脳内に、その的確な四文字が浮かぶも、そこに美咲の姿はなかった。

「どう、え……? …………え、まず何があったんだ……?」

 目の前の混沌とした惨状に、思考が追い付かない。

 そんな夏弥だったが、しばらくして脱衣室の方からドライヤーの音が聞こえてきたことにハッとする。

(見掛けないと思ったら、美咲のやつ、部屋じゃなくてお風呂に入ってたのか……?)

 夏弥は脱衣室のドアに視線を向けてから、すぐに手元のカオスへ目を向ける。
 やはり、まあまあ認識したくないリアルがそこに広がっている。

(うん……色々美咲に訊いてから、ここを片付けるなりしたいけど。とりあえずサバから包丁を抜くくらいいいよな?)

 通り魔にでもあったかのようなサバの身から包丁の刃を引き抜き、夏弥は少なくない嫌悪感を覚えた。

(食べ物で遊ぶなって小さいころ親に怒られなかったのか……? ていうか、俺のサバ……まぁまだ豚バラみたいに丸焦げじゃないから良いけど……それにしたってこれはあんまりだ)

 脇をみればフライパンの上に古代遺跡。
 いやもうアレは新発売のかり〇とうか何かだ。そんな風情がある。

 そんなことを考えつつ、夏弥があれこれ片付け始めていると、「カチャ」とドアの開く音がした。

 脱衣室から、美咲が現れたのである。
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