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◇ ◇ ◇
その日の晩ごはんの後、またしても美咲が先に入浴した。
夏弥は、食器を洗ったり、リビングで学校の宿題に手を付けたりしていた。
時間を効率良く使えているような気がして、夏弥の気分はずっとずっと良かった。
時間というパズルに宿題というピースをハメていく作業。
これはアナログチックなゲーム感覚に近いかもしれない。
いや、彼の気分の良さは、美咲と長く会話できたことによる奇妙な満足感から得られたものかもしれない。
冷淡に思えていた美咲の態度の印象が、夏弥の中で微妙にゆれ動いていたのだ。
夕食中の会話のおかげで「実は冷たいわけでもないんじゃね?」と一縷の望みを夏弥はそこに見出していた。
頭の片隅でそんな事を思いつつ、現代文の宿題をしていたその時。
夏弥のスマホに洋平からラインが送られてきた。
帰宅してすぐに夏弥が送った、衣類についての返信だ。
『俺の服なぁ~。なんか夏弥のほうでテキトーに持ってきてくんない? センスまかせた☆』
清々しいくらいの無茶ぶりラインだった。
ただこれは、裏を返せば、この家にある洋平のどんな服をチョイスしてもある程度問題ないという事だ。なんという自信。
『じゃあ適当に持っていくけど、俺のチョイスに文句言わんでな?』
『文句とかないわ。けど間違えて美咲の服とか持ってくるなよ? さすがに着れないしww』
『フリか? それはそれで見てみたいな』
『きみ変態やな。そりゃモテませんわ』
『言い分はわかった。よし。服、持ってくのやめていい?』
『夏弥様! やだなぁ冗談じゃないっすかぁ! なにとぞ、どうぞよしなに!』
『はいよ、了解した』
洋平とのラインのやり取りはそこで終わった。
それから夏弥は、リビングでふたたび現代文の宿題に取りかかった。
昨日と同じように、脱衣室からは美咲の使うドライヤーの音が聞こえてくる。
しばらく宿題を進めてそのまま終わろうというタイミングで、ショートボブの茶髪をしっかりと乾かした美咲が脱衣室から現れた。
昨日も今日も、美咲は端正で隙のない顔立ちだった。
そのすっぴんは、化粧という歴史ある文化にピリオドを打つ勢いで整っている。
脱衣室からキッチンスペース、リビングをすたすたと通り抜け、美咲はそのまま自分の部屋まで一直線に向かった。
「……はぁ」
夏弥に何か話し掛けるというわけじゃない。
ため息だけを置いて、言葉を交わすことはなかった。
素通りする美咲と入れ替わるようにして、夏弥もお風呂に入る。
無論、またしてもしつこい桃の香りを全身に浴びたけれど、なんてことはない。彼はもうこういうもんだというマインドセットができている。
もうこれは、美咲と暮らす以上、受け入れざるをえないものなのだろう。
今日学校で洋平あたりから「なんか夏弥、桃クサくね? 授業中に桃食べた?」といじられなかっただけ、夏弥は運が良かったのかもしれない。
そんな、感想と疑惑を抱き合わせたようなセリフを述べられても、夏弥はどう答えていいのかわからないだろう。
「お前の妹と同じにおいなんだよ!」と言い返すのは、あまりにもデリカシーに欠けるし、様々な誤解を生む。生んじゃう。
夏弥は入浴を終え、昨日と同じスウェットを着た。
脱衣室を出てみると、誰もいないキッチンスペースとリビングがそこにあるだけだった。
美咲は自室にこもっているようだけれど、話し声一つ聞こえない。
今日はすでに芽衣とたくさんおしゃべりしたからなのか、電話でのガールズトークもお休みしているらしかった。
(別に毎晩するわけじゃないんだな……へぇ)
冷たくて男を毛嫌いしているとばかり思っていた友達の妹、鈴川美咲。
彼女と同居するようになってから、少しずつ夏弥の中で、彼女に対する認識が変わりつつあった。
それはもちろん、今日の夕食の時に交わした会話のせいだ。
美咲は、一般的に悪いとされる行為でも、人前じゃなかったら問題ないという考えで行動している。
それをピシッと正してしまいたくなる夏弥の気持ちは、別におかしなことでもなんでもない。
それなのに、夏弥はその気持ちを彼女にうまく説明できず、もどかしいままでいた。
(美咲はあれを「難しいでしょ」って一刀両断だったしなぁ……。所詮、俺が言ってることは綺麗事なのかもしれないけど。抹茶ラテを捨てるときに、戸島さんの顔がチラついたりしないもんなのかな……)
夏弥は、リビングのソファに座りながら、しばし考えていた。
ソファのすぐ脇に立っていた観葉植物をそれとなく見つめていると、美咲の部屋の戸がいきなり開けられる。
「……」
戸を開けた美咲と、一瞬だけ目が合った。
控えめながらに透きとおる、キズのないガラス玉みたいな目をしていた。
彼女は無言で脱衣室の横のトイレに向かい、そのドアの前で立ち止まった。
「トイレ入るから、あんまりこっち来ないで。あと、あたしが出たあとすぐ入らないで」
「あ、わかった」
美咲がこれから一体何をするのか、彼女のセリフで夏弥は思わず想像してしまいそうになった。
その想像が、モクモクと頭の中に浮かんできそうになったけれど、間一髪、便座のフタを上げる美咲の姿までで思いとどまった。その非道な妄想をかき消した夏弥は、世界的に讃えてもいいレベルで紳士である。
トイレを済ませて出てきた美咲は、ドアの前で一つ大きな溜め息をついた。
それから、すぐに自分の部屋へ行くのかと思いきや。
「あたしもここに居ていい?」
「え?」
美咲は、リビングのローテーブルの横にあったクッションに腰をおろした。
今の言葉だけ切り取ってみると、いかにも夏弥に甘える可愛い妹みたいだけれど……。
「なんで?」
「……夏弥さん、信用できないから」
「信用できないって……何が?」
「ト、トイレッ」
珍しく、美咲の頬が恥ずかしさでほんのり赤く染まっていた。
彼女の両手の握りこぶしは、ぎゅっと音が聞こえてきそうなくらい力が込められていた。
「あ……わかった」
一体どこからどこまでを「わかった」と括って答えたのか、夏弥自身もその言葉に乗せた意味の全てを把握できていない。
美咲は、ジト目で夏弥の顔を見続けていた。
(美咲みたいな綺麗な顔の人のジト目って、これはこれでイケない刺激に満ちてるから困るんだよな……)
自分でも気持ち悪い感想だと自覚していた夏弥は、そんなよこしまな想いを散らすために新しい話題を切り出した。
「そういえば美咲、抹茶ラテみたいなことって他に何かしてる?」
「抹茶ラテみたいなこと……?」
「あ、抹茶ラテみたいっていうか……そういう、人の気持ちを台無しにするような……?」
夏弥なりに言葉を選んで言ってみたのだけれど、何しろ言いたい事に対してのボキャブラリーが貧困すぎた。
これではとんでもなく人聞きが悪い。それこそ台無しである。
「気持ちを台無しって……確かにそうだけど。ふ。夏弥さん、結構キツいこと言う」
「いや、ごめん。ちょっと違ったわ。……えーっと、そうじゃなくて、人前だとしないけど、誰も見てなかったらするようなことっていうか」
「……それなら、あるけど」
夏弥の冴えないワードセンスから意味を汲み取って、美咲は冷静に答える。
「あたし、まだ入学して一か月なのにそこそこラブレターとか男子からもらうんだけどさ」
「そうだろうね」
「うん……。ラブレターもらうんだけど、そういうラブレターとかは中を読まずにゴミ箱に捨てたりとかしてるし」
「いや、せめて中は読んであげたら……? どんな気持ちで書いたのかとか……。それって、捨てるときに相手のことがチラついたりしないのか?」
自分のなかで当たり前だと思っていた考えを、夏弥は美咲に訊いてみる。
(やっぱり抹茶ラテの目撃があってから、美咲がよく話すようになった気がする。吹っ切れたとか、そういうことかな……?)
「別にチラついたりしないけど? してたのは一番最初くらい」
「一番最初……?」
「うん。一番最初。中一の夏頃。はじめてのラブレターだった。相手はあんまり話したことないクラスの男子だったんだけど」
そう答える美咲は、それまでよりもいくらか大人びて見えた。
それはミントグリーンのシャツを下から押し上げている、彼女のその胸のせいかもしれない。
その日の晩ごはんの後、またしても美咲が先に入浴した。
夏弥は、食器を洗ったり、リビングで学校の宿題に手を付けたりしていた。
時間を効率良く使えているような気がして、夏弥の気分はずっとずっと良かった。
時間というパズルに宿題というピースをハメていく作業。
これはアナログチックなゲーム感覚に近いかもしれない。
いや、彼の気分の良さは、美咲と長く会話できたことによる奇妙な満足感から得られたものかもしれない。
冷淡に思えていた美咲の態度の印象が、夏弥の中で微妙にゆれ動いていたのだ。
夕食中の会話のおかげで「実は冷たいわけでもないんじゃね?」と一縷の望みを夏弥はそこに見出していた。
頭の片隅でそんな事を思いつつ、現代文の宿題をしていたその時。
夏弥のスマホに洋平からラインが送られてきた。
帰宅してすぐに夏弥が送った、衣類についての返信だ。
『俺の服なぁ~。なんか夏弥のほうでテキトーに持ってきてくんない? センスまかせた☆』
清々しいくらいの無茶ぶりラインだった。
ただこれは、裏を返せば、この家にある洋平のどんな服をチョイスしてもある程度問題ないという事だ。なんという自信。
『じゃあ適当に持っていくけど、俺のチョイスに文句言わんでな?』
『文句とかないわ。けど間違えて美咲の服とか持ってくるなよ? さすがに着れないしww』
『フリか? それはそれで見てみたいな』
『きみ変態やな。そりゃモテませんわ』
『言い分はわかった。よし。服、持ってくのやめていい?』
『夏弥様! やだなぁ冗談じゃないっすかぁ! なにとぞ、どうぞよしなに!』
『はいよ、了解した』
洋平とのラインのやり取りはそこで終わった。
それから夏弥は、リビングでふたたび現代文の宿題に取りかかった。
昨日と同じように、脱衣室からは美咲の使うドライヤーの音が聞こえてくる。
しばらく宿題を進めてそのまま終わろうというタイミングで、ショートボブの茶髪をしっかりと乾かした美咲が脱衣室から現れた。
昨日も今日も、美咲は端正で隙のない顔立ちだった。
そのすっぴんは、化粧という歴史ある文化にピリオドを打つ勢いで整っている。
脱衣室からキッチンスペース、リビングをすたすたと通り抜け、美咲はそのまま自分の部屋まで一直線に向かった。
「……はぁ」
夏弥に何か話し掛けるというわけじゃない。
ため息だけを置いて、言葉を交わすことはなかった。
素通りする美咲と入れ替わるようにして、夏弥もお風呂に入る。
無論、またしてもしつこい桃の香りを全身に浴びたけれど、なんてことはない。彼はもうこういうもんだというマインドセットができている。
もうこれは、美咲と暮らす以上、受け入れざるをえないものなのだろう。
今日学校で洋平あたりから「なんか夏弥、桃クサくね? 授業中に桃食べた?」といじられなかっただけ、夏弥は運が良かったのかもしれない。
そんな、感想と疑惑を抱き合わせたようなセリフを述べられても、夏弥はどう答えていいのかわからないだろう。
「お前の妹と同じにおいなんだよ!」と言い返すのは、あまりにもデリカシーに欠けるし、様々な誤解を生む。生んじゃう。
夏弥は入浴を終え、昨日と同じスウェットを着た。
脱衣室を出てみると、誰もいないキッチンスペースとリビングがそこにあるだけだった。
美咲は自室にこもっているようだけれど、話し声一つ聞こえない。
今日はすでに芽衣とたくさんおしゃべりしたからなのか、電話でのガールズトークもお休みしているらしかった。
(別に毎晩するわけじゃないんだな……へぇ)
冷たくて男を毛嫌いしているとばかり思っていた友達の妹、鈴川美咲。
彼女と同居するようになってから、少しずつ夏弥の中で、彼女に対する認識が変わりつつあった。
それはもちろん、今日の夕食の時に交わした会話のせいだ。
美咲は、一般的に悪いとされる行為でも、人前じゃなかったら問題ないという考えで行動している。
それをピシッと正してしまいたくなる夏弥の気持ちは、別におかしなことでもなんでもない。
それなのに、夏弥はその気持ちを彼女にうまく説明できず、もどかしいままでいた。
(美咲はあれを「難しいでしょ」って一刀両断だったしなぁ……。所詮、俺が言ってることは綺麗事なのかもしれないけど。抹茶ラテを捨てるときに、戸島さんの顔がチラついたりしないもんなのかな……)
夏弥は、リビングのソファに座りながら、しばし考えていた。
ソファのすぐ脇に立っていた観葉植物をそれとなく見つめていると、美咲の部屋の戸がいきなり開けられる。
「……」
戸を開けた美咲と、一瞬だけ目が合った。
控えめながらに透きとおる、キズのないガラス玉みたいな目をしていた。
彼女は無言で脱衣室の横のトイレに向かい、そのドアの前で立ち止まった。
「トイレ入るから、あんまりこっち来ないで。あと、あたしが出たあとすぐ入らないで」
「あ、わかった」
美咲がこれから一体何をするのか、彼女のセリフで夏弥は思わず想像してしまいそうになった。
その想像が、モクモクと頭の中に浮かんできそうになったけれど、間一髪、便座のフタを上げる美咲の姿までで思いとどまった。その非道な妄想をかき消した夏弥は、世界的に讃えてもいいレベルで紳士である。
トイレを済ませて出てきた美咲は、ドアの前で一つ大きな溜め息をついた。
それから、すぐに自分の部屋へ行くのかと思いきや。
「あたしもここに居ていい?」
「え?」
美咲は、リビングのローテーブルの横にあったクッションに腰をおろした。
今の言葉だけ切り取ってみると、いかにも夏弥に甘える可愛い妹みたいだけれど……。
「なんで?」
「……夏弥さん、信用できないから」
「信用できないって……何が?」
「ト、トイレッ」
珍しく、美咲の頬が恥ずかしさでほんのり赤く染まっていた。
彼女の両手の握りこぶしは、ぎゅっと音が聞こえてきそうなくらい力が込められていた。
「あ……わかった」
一体どこからどこまでを「わかった」と括って答えたのか、夏弥自身もその言葉に乗せた意味の全てを把握できていない。
美咲は、ジト目で夏弥の顔を見続けていた。
(美咲みたいな綺麗な顔の人のジト目って、これはこれでイケない刺激に満ちてるから困るんだよな……)
自分でも気持ち悪い感想だと自覚していた夏弥は、そんなよこしまな想いを散らすために新しい話題を切り出した。
「そういえば美咲、抹茶ラテみたいなことって他に何かしてる?」
「抹茶ラテみたいなこと……?」
「あ、抹茶ラテみたいっていうか……そういう、人の気持ちを台無しにするような……?」
夏弥なりに言葉を選んで言ってみたのだけれど、何しろ言いたい事に対してのボキャブラリーが貧困すぎた。
これではとんでもなく人聞きが悪い。それこそ台無しである。
「気持ちを台無しって……確かにそうだけど。ふ。夏弥さん、結構キツいこと言う」
「いや、ごめん。ちょっと違ったわ。……えーっと、そうじゃなくて、人前だとしないけど、誰も見てなかったらするようなことっていうか」
「……それなら、あるけど」
夏弥の冴えないワードセンスから意味を汲み取って、美咲は冷静に答える。
「あたし、まだ入学して一か月なのにそこそこラブレターとか男子からもらうんだけどさ」
「そうだろうね」
「うん……。ラブレターもらうんだけど、そういうラブレターとかは中を読まずにゴミ箱に捨てたりとかしてるし」
「いや、せめて中は読んであげたら……? どんな気持ちで書いたのかとか……。それって、捨てるときに相手のことがチラついたりしないのか?」
自分のなかで当たり前だと思っていた考えを、夏弥は美咲に訊いてみる。
(やっぱり抹茶ラテの目撃があってから、美咲がよく話すようになった気がする。吹っ切れたとか、そういうことかな……?)
「別にチラついたりしないけど? してたのは一番最初くらい」
「一番最初……?」
「うん。一番最初。中一の夏頃。はじめてのラブレターだった。相手はあんまり話したことないクラスの男子だったんだけど」
そう答える美咲は、それまでよりもいくらか大人びて見えた。
それはミントグリーンのシャツを下から押し上げている、彼女のその胸のせいかもしれない。
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