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「ついでに少し家寄ってくるね? 着替えとか取りに」

「うん」

 美咲の入浴中、薄々夏弥の頭にチラついてはいた。彼自身の下着問題である。

 何を隠そう下着の替えを持ってきていない。

 寝巻きは洋平のものを一度借りるにしても、下着はさすがに……という難点が、彼の頭のなかにはあった。

 そのことに気付いていた夏弥は、下着を取りに一旦家へ帰ろうと決めていた。

 それから、料理をする以上、調味料の状況を知っておく必要があり、「冷蔵庫の中確認するよ?」と声をかけてから、ちゃんと中を確認した。

 そんなタイミングで、洋平からのラインが届く。
 夏弥と同じ事に気付いたらしく。

『夏弥、今日下着どうする? さすがに履き替えたいんだけど』

 当然といえば当然の内容だった。
 夏弥も洋平も、下着まで共有する気はない。
 夏弥がそっちのアパートへ向かう旨を洋平に連絡すると、すぐに返事が返ってきた。

『わかった。とりあえず俺の下着適当に引っ張り出して持ってきてくれないか? 脱衣場のグレーの衣装ケースに入ってるから』

 その頼みに『了解』とだけ返信をして、夏弥は脱衣場へ向かった。

「あ」

 ガチャッと音を立ててドアを開け、脱衣室へ足を踏み入れる。

 そこで夏弥は、本日三回目の甘い桃のような香りを嗅いだ。

 玄関で美咲とすれ違った時と、ソファに腰を下ろした時。

 もうすでに二回も刺激され、すっかり覚えてしまったのだけれど、それがようやく美咲の使うシャンプーの匂いなんじゃないかと勘付けた。

 脱衣室は、その香りがしつこいくらい充満していて、同時に夏弥の胸の鼓動を速まらせた。

 ここまで充満していると、美咲に全身を包み込まれているかのようで。

(長居しないほうが良さそうだ。クラクラする……)

 衣装ケースには一段ずつメモがペタリと貼られていて、そこに「洋平」と「美咲 ※絶対あけるな!」と油性ペンで力強く書かれていた。

 夏弥は、そのメモを見る事で、ようやくちょっとした親近感を覚えられたような気がした。

 美少女と言って差し支えない女子と、モデルルームみたいな部屋で過ごすこと。それは、夏弥のこれまでの日常とはあまりにもかけ離れていたからだ。

 衣装ケース自体は素朴で特徴のないものだったけど、そこに手書きの字が添えられたことで、妙にほっと一息つけた気になっていた。

 それからすぐに「洋平」の段から彼のパンツを数枚取り出す。
 あまり気は進まないが、それらをバッグに詰めて早々と玄関へ向かった。

 友人のパンツを自分のバッグに詰める作業。
 この時の気持ちは言語化できないししたくない。

 夏弥はそんな事を思いながら、その201号室を後にしたのだった。


 外はすっかり暗くなっていた。
 柔らかいオレンジ色の街明かりが、視界のそこここに散らばって見える。

 夏弥が住んでいたアパートまでは歩いて十分ほどで、その道すがらにおあつらえ向きなスーパーやコンビニが立ち並んでいる。

 ただし買い物は帰り道でいい。
 ひとまずは、自分の衣類(※パンツ込み)をゲットする必要がある。
 そう判断した夏弥は、五月の夜の街を歩いていった。

◇ ◇ ◇


「ただいまー」

「おや? なつ兄どうしたん?」

 夏弥は、自分の家に帰ってきて初めて「なぜお前が帰ってきた」という意味の言葉を耳にした気がした。めったに聞くものではなく、釈然としない気持ちになる。

「お、夏弥おかー」

「あれ? 洋平と秋乃。だけ?」

 玄関からリビングへ進んでみると、意外にも洋平と秋乃は大人しく一緒にご飯を食べていた。

 陽キャイケメンと陰キャ女子の会合がそこにはあった。

 一見、象とありくらい大差のあるキャスティングだが、夏弥からすればどちらも小さい頃から知っている顔なので違和感がない。
 というか、ものさし次第でどちらも象にも蟻にもなりえそうである。

 それと、二人のご飯の内容自体は、夏弥の予想通りだった。
 二人とも既定路線のコンビニ弁当。コンビニ惣菜。それらを箸でつついている。

「さっきまで二年生の人いたよ? 二年生の女子」

「は、やっぱりな」

「さすがに明日も学校あるし泊まっていかないって~。夕飯前に帰るって話だったし」

「ふぅん。そうですか」

 それほど気にしていない風を装いつつも、夏弥には気掛かりな事があった。
 別に洋平がここへ女を連れ込もうと、それは気にしない。けれど、自分と美咲の淡泊なやり取りに比べてみると、こちらの方がずっと血が通っていて、温かみがあって。

 端的にいえば、楽しそうだと思ったのである。

「で? なつ兄どうしてうちに帰ってきたん?」

「ああ。着替えをちょっと取りにきたんだよ」

「え⁉ なに、ひょっとして早速汚しちゃうかもしれないの⁉」

「は? 普通に一日着たら洗濯するでしょうに」

「きゃあ~ん、夏弥くんてば不潔ぅ~!」と、洋平が裏声で悪ノリしてくる。

「洋平、お前のパンツ窓から投げ捨てていいか? いいよな」

「おい⁉ やめやめ! 冗談だっての!」

 洋平は冷や汗をかきつつ、夏弥をなだめた。
 さすがに頼んでいたパンツを人質に取られるとは、思ってもみなかったらしい。

「それにしても、コンビニ弁当ばっかりだと身体に悪いと思うよ。二人とも」

「そう言われてもね? 秋乃は料理できないんだろ?」

「しないんだよ。できないっていうかしないの! した事もないけど」

「した事もない」と洋平がジト目でリピートする。

「偏食は身体壊すから気をつけなよ?」

 そう言ってはみたものの、おそらく二人はしばらくこのままなんだろうな、と夏弥は予測していた。

 洋平のことも秋乃のことも、夏弥はよく知っている。
 その性格や考え方を、かなり理解しているつもりだ。

 そのせいか、夏弥は、今後の二人の暮らしぶりを簡単に見透かせてしまう気がした。

 下着を含めた私服、制服のシャツなどを数着見繕い、部屋にあった適当な紙袋にまとめる。

 持ってきたパンツを洋平に与える。

 無事にそれらのミッションを達成し、家を出ていこうとした時、夏弥は洋平にひっそりとこう言われた。

「女の子の件だけど、安心してくれ夏弥」

「え? 安心?」

「ここだけの話さ、俺、実は女の子と『そういう事』はもうしばらくできないと思うんだよ」

「そう、なのか……?」

 恋愛経験の乏しい夏弥にとっては、友達である洋平の言葉が羨ましいやら悲しいやら複雑だった。

「できない」という言葉は、そもそも「できる」機会に恵まれた者にしか使う事が許されていない単語だ。

「ああ。ちょっと色々あってさ。もう今は、女の子連れ込んでもソフレでいいやって思ってるんだ。いいやっていうか、むしろソフレがいい。この事は美咲にも言わないでくれよ」

「わかった、言わないわ。まぁそもそも、そんな下ネタたっぷりな会話してないし。俺、口堅いから安心していいよ。洋平と違って」

「よかった……え?」

「ぶはっ」

 夏弥は、なぜわざわざ洋平が自分にその事を教えてくれたのか、よく考えながらアパートを出ていったのだった。

 ソフレ。添い寝フレンド。添い寝するだけの関係でいいと。
 洋平はそう言ったけれど、夏弥にはいまいち理解できなかった。

 恋愛経験が豊富だからこそ、あまたの道を歩んだ上でその価値観に行き着いたのだろうか。

 それにしたって、洋平も夏弥と変わらない高校生である。
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