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南東の島国5

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 ヤマビルの黒光りする濃茶色の表皮に、規則的なしわ模様とは別の、白っぽい鱗のようなものが見えたのだ。なぜかそれが妙に気になって、走り出そうとした足が止まった。
 見間違いだと思えたらよかったのに、見えている鱗は俺が瞬きをするたびに倍々に増えた。鱗は新たに表皮に生えてきているのではなく、破けた表皮の下から覗いたものだった。つまり脱皮だ。見たことはなかったが、虫の類だし脱皮くらいするんだろう。でも、その下から出てきたものは、明らかに虫ではなかった。

 ぬらりとした質感はそのままだが、体色は白を帯びた黄色で、細かな鱗がついている。顔らしきもののなかったつるりとした頭から外皮が落ちると、そこにはぎょろりと動くまぶたのない目と、上顎と下顎に分かれた大きな口があった。その時点で酷く驚いたのに、更に、先程より体が倍以上太く、長くなっていて慄く。
 閉じられたままの大きな口の真ん中から、細く長い舌がちろちろと伸ばされ、すぐに吸い込まれて消えた。

 蛇だ。
 俺の身長を遥かに超えた体長の、巨大な蛇だった。たぶん、俺一人くらいなら軽くひと飲みに出来るだろう。

 蛇の魔獣は高く持ち上げていた頭を俺の方へ伸ばし、何度か舌をちらつかせた。正確には、俺本体、というより俺の脛から流れ続ける血に反応しているような気がする。急激に距離を詰めてきた蛇の舌が、俺の足に触れそうになって俺はまた情けなく「うわあ」と悲鳴を上げて尻餅をついた。蛇の頭は、目的のものを一瞬見失ったようだが、すぐに地面に滴っていた小さな血の滴をその細い舌で舐め取り始めた。

 やはり、魔力を求めているらしい。以前、ジョスリーンが俺の変装魔法に執着したように、この蛇も俺の魔力を含んだ血がいいエサに見えてるんだろう。
 みんな人をおやつみたいに食えると思いやがって。
 俺は疲労の残る足に鞭打って走り出した。こんなところで食われてたまるか。ここで死ぬくらいなら、セブさんに殺される方が断然いい。

 噛まれた左足の出血は全く止まる気配がなくて、履いているサンダルの中に血が流れて足裏が滑る。振り向く余裕などなく正確な距離などわからないが、背後から聞こえる草木をなぎ倒す音が一向に遠ざからない。蛇の足が意外と速いことなんて、こんな状況で知りたくなかった。
 止まってしまいそうな足を一際強く踏み抜いた瞬間、ずるり、と左足からサンダルが滑り抜ける。「あっ」と声を出した時にはすでに遅くて、俺は前のめりに転び、その場に両手と両膝をついた。落ちていた石枝が手のひらを刺す痛みを感じた直後、背中にドンと大きな衝撃があり、頭の中が一瞬真っ白になる。蛇にのしかかられたのだとわかったのは、その巨大な目に顔を覗き込まれた後だった。
 恐怖で筋肉が痺れて、心臓が早鐘を打つ。どうやら蛇は俺を絞め殺してから食べたいらしい。必死にもがく俺をものともせず、ゆっくりゆっくりと器用に胴体を巻き付けていく。ひんやりした鱗の感触が気持ち悪くて背が泡立つ。
 死ぬかもしれない。そう思うと後悔ばかりが頭の中をぐるぐる回る。その後悔全てがセブさんのことなんだから、俺も本当に大概だ。

 俺も迫撃魔法の一つでも使えたらよかった。俺が得意な生活魔法ばかりで、今この瞬間にはなんの役にも立たない。

 でも、一矢報いる方法がないわけではない。
 “バルデスの魔女は悪童を魔獣に変える”という子供への啓蒙のような民俗伝承は事実じゃないが、根も葉もない虚構というわけでもない。
 
 俺は恐怖と緊張と疲労で、カラカラに乾いてしまった喉から無理やり声を出す。間違えてしまわぬように、俺はゆっくりと“呪い”の言葉を吐いた。魔法ではなく、呪いだ。でも呪う先は魔獣じゃない。俺自身だ。
 魔女が魔獣に変えるのは、自分自身だ。


 魔獣化の呪いに与えるのは対象者の魔力だ。だからあの民族伝承のように、魔力が少ない子供にはこの呪いはかけることすら出来ない、はず。
 呪いを解くのはやったことがあっても、呪いをかけるのは初めてだから、全てばあばから聞いた知識だけの話だ。


 出来るだけ大きな魔獣にならなければ。ジョスリーン程でなくてもいい。何か強くて大きな動物を思い浮かべなきゃいけない。
 狼?熊?獅子?
 濃石の森の狼は滅多に人前に出てこないからどんなものかよくわからない。熊なんて出くわしたら死んじゃうからちゃんと見たことなんてない。獅子に至っては、どこに住んでるのかさえ知らない。
 あれ?俺が知ってる強い動物ってなんだ?どうしよう。何も思い浮かばない。
 くそぉ。もう最初から俺がセブさんくらい強かったらよかったのに。そしたらこんな目なんて合ってないだろう。どうせ、セブさんからしたら俺なんて雑魚で、だから「手乗りリス」なんだろ。

 ごぽりと体の中の血が逆流するような不快感と、骨を嵌めかえられるような痛みに襲われる。しまった、と思ったけどもう遅くて、自分の体の形が変わっていくのがわかる。奥歯が割れそうなほど噛み締めたそのわずかな隙間から、俺は断続的に呻き声を上げ続けた。

 変体の時間はたぶんさほど長くなかった。体をよじって跳ねると、巻き付いていた蛇の体からするりと簡単に抜け出せた。振り向くと、蛇は急に消えたエサに戸惑っているらしく、不思議そうに中身のなくなった俺の服に向かってその細い舌を伸ばしている。


 嫌な予感がしつつ、自分の手足をまじまじと見る。短い毛が生え、鋭い爪を備えた獣の手足だ。でも、とても小さい気がする。
 白くふかふかの腹。長い毛でふわふわに膨らんだ尻尾。ごしごしと捏ねるように触ると、顔も小さく丸い。たぶんだけど、今の俺には頬袋とやらもあるんだろう。
 どう見てもリスだ。濃石の森によくいるアカリスだ。確かに普通のアカリスよりはちょっとでかいかもしれないけど、どこにも強そうな要素のないアカリスだった。「なんてこった」と呟いたつもりだったが、俺の口から出たのは「チチチ」だか「キキキ」だかの、高くて可愛いまごうことなき小動物の声だった。
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