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南東の島国4

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「あれ?男の子か。細いから一瞬女の子かと思っちゃったよ。怪我はない?」

 深い海色の瞳だ。濃い茶色の髪は前に見た時より少し伸びている。

「スペンサーさん…」

「あれ?僕、君と会ったことあったっけ?最近忘れっぽくて嫌になるね。怪我はないかい?」

 スペンサーさんは子供にするように俺の背中を軽く叩いた後、体を離して後頭部をさわさわと撫でてくれた。

「ハバトに触れるな!」

 全てを憎んでいるかのような怒声が周囲に響いた。俺は案の定、その場で飛び上がってもおかしくないほどに驚いて、大きく肩を跳ねさせた。

「大きな声を出すな、バルダッローダ。子供も怯えてるだろう」

「スペンサー、お前に言っている。手を離せ。今すぐだ」

 店内から店外へ、ゆっくりこちらに歩いてくるセブさんは、視線だけで人を殺せそうだ。ただ、それを一番に向けられているスペンサーさんはけろりとしたもので、おどけたように両手を自身の肩の上まで上げた。
 腕の中から開放された俺は、セブさんとスペンサーさんに交互に目を配りながら、それぞれと距離を取る。人通りのある道だが、目立つ容姿の二人が言い争っている為、店前だけ人の足が遠巻きになっている。

「あー、はいはい。この子がハバトちゃんだったか。こうも見た目が変わるとさっぱりわからないものだな。女の子の時と違って幼く見えるけど大丈夫か?本当は未成年だとか言わないよな?」

「次の夏で19だ。子供ではない」

「そうかい。だからって無体を働くなよ。腰なんて下手したら女より細いぞ。お前みたいに馬鹿デカい男に本気を出されたら命に関わるだろう」

 ハハハ、と磊落に笑うスペンサーさんを、セブさんが強く睨みつけると不自然に笑い声が止まった。スペンサーさんが、手振りだけでセブさんに文句を言っている。どうやら、セブさんが何かの魔法でスペンサーさんの口を塞いだらしい。
 そんなスペンサーさんを放置して、セブさんは俺の方へ真っ直ぐ向かってこようとしたが、その暗藍色のマントをスペンサーさんが不満げに掴んだ。たぶん、魔法を解いてから行け、と言いたいのだろう。そりゃそうだ。

 俺は険悪な様子で睨み合う二人に背を向けると、すぐさま人混みに紛れて走り出した。背後から俺の名を呼ぶ、地を揺るがすような怒声が聞こえた。肝が冷えて、まだ走り出したばかりなのに疲れ切った後のように体から力が抜けてしまいそうになる。俺はまだ湿り気の残る目元を手の甲で擦りながら、ただただ足を動かし続けた。

 ひと月足らず住んでいる街だが、知っている場所はさほど多くない。大通りの人を掻き分け、道が途切れないことを祈りながら見知らぬ小路を抜け、がむしゃらに走るうちに民家のまばらな道の先、海沿いの小山が見えてきた。その頃には、息が上がって足も重く、まさに這々の体だった。貧弱な体が恨めしい。
 幸いなことに、周囲にセブさんたちの気配どころか、人影ひとつ見当たらない。なんとか撒けたようだ。
 ふらつきながら空を見上げる。初夏の空は高く、青が濃い。海の碧と木々の蒼が美しい。俺は特に考えがあるわけでもなく、時折転げそうになりつつ小山に続く細い道をよろよろと進んだ。
 
 小山に一歩踏み込むと、下草が長く歩きづらいが、よく茂った木々が日を遮ってくれるためかとても涼やかだった。少し進むと小高い岩壁近くに、苔むしてはいるが座るにちょうどいい岩がいくつか転がっていた。自分の汗や草木の汁で全身湿っている俺は、特に汚れを気にする必要もないのでそこに躊躇いなく腰掛けた。足を休めたらなし崩し的に全身の力が抜けてしまって、しばらく立ち上がれる気がしない。俺はただの深呼吸というにはあまりに重過ぎる息を吐いた。

 これからどうしよう。脱力した体を背後の岩肌に預けた。仰ぎ見た先には、木漏れ日がキラキラと揺れている。
 今も最も気になるのは、彼は俺を捕らえた後どうするつもりなのかということだ。彼は苦労をして俺をここまで追い掛けてきていて、どう考えても俺を罵るだけでは割に合わないだろう。
 スペンサーさんまで伴っているから、罪に問うために魔獣のジョスリーンで早急にバルデスに連れ戻すつもりなのだろうか。金銭が絡まないと詐欺罪にはならないと聞いたことがあるが、もしかしたら金銭要求などしなくても、平民が貴族を騙した時点で厳罰に処されるのかもしれない。

 本当に、俺は最初の最初から間違えていたとつくづく思い知らされる。思い返せば、俺は彼に出会った最初の日から彼に心惹かれていた。一目惚れも同然だ。例えあの日からやり直したとしても、俺はいつかはきっとセブさんに恋をするし、きっと結局は同じことを繰り返してしまうだろう。



 葉擦れの音を聞きながら、ぼんやりと木々の枝葉振りを数えていたら、不意に左足の脛辺りが妙に熱を持っていることに気付いた。視線を下向かせた俺は、左脛に張り付いた異様に大きなヤマビルに驚いて、「ひい!」と間抜けな声を出して岩から転げ落ちた。
 低木で切ったかのか、着古したズボンの膝下が裂けていて、そこに人の腕ほどのあり得ない太さのヤマビルがしっとりと噛み付いていた。あまりのおぞましさに生きた心地がしなくて、俺は息を止めて右足の靴底で何度もこそぐようにヤマビルを蹴って地面に落とした。
 しばらくうねうねと伸縮していたが、まるで俺のことが見えているように口のある先端をこちらにもたげたので、俺はまた「ひん!」と情けない声を出してしまった。

 さすがにこんな非常識な大きさの虫がいるわけがない。当然、魔獣の類なのだろうとすぐ理解する。見た目こそ酷いが、どうやらのそのそ近付いて静かに血を吸うだけの比較的無害な区分のようだ。
 どれくらい血を飲んだんだろう。魔獣にとって、魔力は根源的に求めるものだ。その魔力を含んだ血を、もし多分に飲んでいたら、産卵なり分裂なりしたとしてもおかしくはない。どちらもあまり喜べるものではないが、その間なら逃げやすいだろうか。
 この場から離れようと立ち上がった時、俺はヤマビルの魔獣のささやかな異変に気付いてしまった。
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